第2話 竜は本心を隠している ①
ぬるめに出したシャワーのお湯を、頭からたっぷり浴びます。心地の良さに、ふぅ、と息が漏れました。
僕が夜蓋さんのもとに身を寄せてから、三度目の夜です。
化生屋のバスルームは人間規準で普通の広さでした。身体が入りきらない夜蓋さんはいつも屋上の洗い場で身を清めています。代謝はしていないそうなので、骨についた土汚れを落としているだけらしいですが。
僕は十分に髪をゆすいでお湯を止めます。
顔を手で拭い、備え付けの棚を見ました。
そこには新品のボディソープやシャンプーに混じって、手のひらサイズの小さなボトルが置いてあります。薄紫の液体が入ったボトルです。肌身離さず持ち歩くよう夜蓋さんから厳命されたので、こうしてお風呂にまで持ち込みました。
液体の正体は声を奪う毒です。
言い換えれば、声門の筋肉を弛緩させる薬でした。
鱗の変化が解ける気配はなく、僕の喉には相変わらず、鮮やかに紅い鱗があります。
* * *
「お風呂、いただきました」
「あぁ」
僕がリビングに出ていくと、夜蓋さんは見てくれていた僕のレポートを、端を揃えてテーブルに置きました。
通信制高校なので課題は基本は電子提出ですが、授業によっては手書きして郵送、評価を朱書きして返送、というパターンもあります。ちなみにこの灯火通り、ちゃんと住所はあるそうです。
僕の側まで這って来た夜蓋さんは例のごとく僕の髪に息を吹きかけ、水気は小魚となって洗面台の方へ泳いでいきます。
「喉に違和感は?」
「ありません」
人の肌より触感に鈍く温感に鋭い鱗ですが、その違いにも慣れてきました。言い換えれば、慣れてしまうくらい自然に癒着していて、剥がれ落ちる気配は全くありません。
「そうか……。今夜も変化は解けそうにないか……」
「変化の時間が長くなったら、対価にしてる僕の喉骨、全部なくなったりします?」
「そんな悪徳商法めいたことにはならない、はずだが」
夜蓋さんは、しばし考え込んでから、僕に訊ねました。
「リッカは、あやかしがどう生まれるか知っているか?」
「イメージ的には、動物とか骨董品が化ける感じです」
「それで概ね正しい。あやかしがあやかしの子を産む場合もあるが、大抵は誰かの感情や想像が依代に宿って生じている。そこで、だ。私は何の化け物だと思う?」
何の、って。
わざわざ謎かけのように言うことでしょうか。僕はちらりと彼の下半身を見ました。蛇。ただしおそらく正しくは、海蛇。
「人魚、ですよね? 八百比丘尼に食べられたものと、アンデルセンの魔女が合わさってる」
僕の答えに、夜蓋さんは頷きます。
「そう。薬の代わりに肉を、不変の代わりに変容を与える、人魚の混じり物だ」
やっぱりそうですか。
男性なのは不思議な感じですけれど。
と、疑問が顔に出てしまったのか、「性別のことか?」と訊かれます。無遠慮だろうと黙っていたのですが、伝わってしまったならしかたない。僕は首肯しました。
「精神的な性別としてはどちらとも言いがたいのだが、生まれた時は女の形をしていたよ。まぁ、色々あってな。人魚らしい姿に辟易して今の姿に落ち着いた」
彼は鳩尾のあたりを撫でました。
「話を戻そう。異形の姫には脚を得る代償と人魚に戻る道があったが、比丘尼に代償はなく、只人に戻る術もない。あるいは戻れないことそのものが代償だった。人間のリッカに対して私の肉は、単純に解けない呪いとなった、……のかも知れない」
断言を避けた語尾に、夜蓋さんの戸惑いが窺い知れました。
「僕以外の人間に食べさせたことはないんですか?」
「君の存在は貴重だと言ったろう?」
夜蓋さんは小指を見せつけるように左手をひらりと返します。
「八百比丘尼の伝説において、彼女は肉の正体を知らずに食べてしまうのが典型だ。人魚の肉だと知っている者は気味が悪くて食わなかったという。私が人間相手に契約を結ぼうとすれば、その異様さが怖れを呼んで食べてもらえない。しかし契約無しではあやかしだろうが人間だろうが泡を吹いて死ぬ。この肉をまともに喰えた人間は、リッカが初めてだよ」
夜蓋さんはふいに身を乗り出しました。
「何とも手放しがたい」
手が伸ばされ、その指先で鱗を撫でられます。絶対に苦しくはない程度の力で、なぞるように。もしかして彼には魔女だけでなく、人間を愛したお姫様も混じっているのでしょうか。
「リッカ」
「はい」
「こういう時は、怖くなくても逃げなさい」
「あなたが相手でも?」
「私が相手だからこそ」
その理屈はよく分かりませんが。
仮にも雇用主の言うことですから、僕は夜蓋さんの手首を掴んで、少し遠ざけました。夜蓋さんは満足そうに笑みます。
「まぁ、今の話はあくまで仮説だ。単に私が勢い余って変化を強くかけただけかも知れない。失声薬はそのまま持っていてくれ」
「分かりました」
僕はポケットに入れた薬に触れて、頷きました
オォォン、と、上空で大きな獣の吠えるような音がしたのは、その時です。
僕は窓の外へと目をやります。
「今のは?」
「知った声だ。リッカ、バルコニーに出てごらん。絢爛なものが来る」
僕はカーディガンに袖を通し、夜蓋さんの勧めに応じてバルコニーに出ました。「あちらだ」と指し示された空を見ます。
月の明るい夜でした。
空の高いところを飛ぶ何かが、月光を受けて金色に輝いていました。光の揺れに羽ばたきのリズムが見て取れます。距離があるので具体的な体長は分かりませんが、ずいぶんと大きな鳥でした。
悠々と飛ぶ彼、あるいは彼女は、上空を旋回しながら高度を落としていきます。表通りのビル影に消えては現れて、やがてその姿がはっきりと分かる距離まで降りてきました。
羽ばたくのは蝙蝠の羽。金に輝くのは蜥蜴の鱗。頭には角を、指には鉤爪を鋭く生やし、たぶん航空力学にはない何らかの力で飛んでいる、全長二十メートルはありそうな巨体。
すなわち。
「ドラゴンだ」
まさしくファンタジーの世界から出てきたような黄金竜の荘厳さに、はぁー、と感嘆の声が漏れます。東洋風の龍ならば会ったこともありますが、西洋風の竜は初めて見ました。
ドラゴンさんはあっという間に近づいて来て、恐竜のような顎から、オォーン、と再び声が響きます。
「ここへ降りて来るそうだ」
竜語を訳してくれた夜蓋さんが、バルコニーに置いていた椅子を隅へ避けました。
もしかしてここに着陸するんですか。
マジですか。
マジでした。
旋回を止めた竜が急降下をはじめます。同時にその身体は金の粒子をまき散らし、ぐんぐん縮んでいきました。僕の遠近感を見事に狂わせながら、ちょっとした航空機のような巨体から仔馬程度のサイズになり、最後は逆噴射のような羽ばたきで宙返りをして、バルコニーにミニドラゴンが降り立ちます。
直後、黄金の竜はその全身をどろりと溶かして姿を変えました。
現れたのは、金髪金眼、襟足が少し長いヘアスタイルで、民族は分かりませんが西洋の方らしき二十歳半ばくらいのお兄さんです。着ているスーツも一瞬は金色に見えましたが、すぐに落ち着いたブラウンに変わりました。角も翼も生えてはいません。
「こんばんは、夜蓋」
「おかえり、イニュア」
お二人が挨拶を交わします。
夜蓋さんは僕が来るまで独り暮らしだったそうですから、今の『おかえり』は地域単位の話でしょう。ドラゴンさんは灯火通りの住民のようです。
金色の眼が僕のほうを向きます。
化生屋さんが変化させるまでもなく、その瞳孔は縦に裂けた爬虫類の形から、人間と同じ円形に変わっていました。
「先客がいらっしゃいましたか。これは、ご無礼をいたしました」
「あ、いえ。違います」
寝間着姿で申し訳ありませんが、またも単なる客と勘違いされてしまった僕は、せめて助手らしくお客様に挨拶をします。
「はじめましてドラゴンさん。夜蓋さんの助手で、リッカと申します。二日前に溺死しそうなところを夜蓋さんに助けてもらった人間です」
僕が一気に自己紹介すると、見開かれた竜の眼で瞳孔が収縮し、その勢いのまま縦にぱっくり裂けて爬虫類の眼に戻りました。
「…………………」
彼は無言で、しかし僕の言葉の真偽を問うていることがありありと分かる視線で、夜蓋さんを見ます。夜蓋さんは首肯だけで返事をしました。
「そうですか……、夜蓋に、人間のパートナーが……」
信じがたいという口調で呟いた後、金色のお客様はフッと表情を切り替えて、少々格好をつけた風に微笑みました。瞳孔もまた丸く戻ります。
「はじめまして、リッカさん。私はイニュリアス・ディア。だいたい二千歳のドラゴンです。夜蓋の友人で、撮りにくいものを撮る写真屋をしています」
「二千歳?」
「そうは見えませんか?」
「すみません。わかりません。ドラゴンの年齢には疎いもので」
「ふふ。いえ、構いませんよ。私の姿はずっと変わらず、錆びぬ黄金の若作りです。ドラゴンらしいでしょう?」
「それは、はい。夜蓋さんとは長年のご友人とかですか?」
「ここ十九年ほどの長い付き合いです」
竜の冗談のセンスはよく分かりませんでした。十六年しか生きていない僕にとって十九年はしっかり長いのですが、二千年と比べてはほんのひと時でしょう。
「リッカさんも、ご依頼があれば是非どうぞ」
イニュリアスさんは懐から名刺を取り出しました。溶岩の中に白い花が咲き乱れている写真に、『イニュリアス・ディア』の名前と『写真屋』という肩書が添えられています。
「ありがとうございます。ちなみに、写真屋さんの対価は?」
「主に現金です」
ファンタジー代表の口から、現実代表みたいな単語が。
意外だ、と感じた僕の気持ちを見抜いてか、イニュリアスさんは言葉を続けました。
「私は普段から人型で過ごしていますから。消耗品も嗜好品も、ほとんどは人間と同様なのですよ。あとは、趣味が古い書き物全般の鑑賞でして、対価として古文書や古記録を拝見したり、頂いたりすることもありますね」
化け物界隈はご商売もなかなか柔軟なご様子。イニュリアスさんが楽しく働いていらっしゃるようで何よりです。
「それで、イニュア。私のところへ来たのは、客としての依頼のためか?」
初対面な僕とイニュリアスさんの交流がひととおり済んだタイミングで、夜蓋さんが本題を持ち出しました。
「はい。今日のところは、アポイントだけですが」
「私は客の望みを叶える。君はどのような君を望む」
知り合いらしい気安さで、三箇条の説明をすっ飛ばして口上を述べた夜蓋さんに、
「明日の一晩、黒色の私を」
イニュリアスさんも簡潔に答えると、促されるまでもなく事情を語り始めます。
「此度の依頼で幽霊の写真を撮るのですが、その幽霊というのが古い書に憑いた御方でして、」
そこで、彼は言葉を切りました。
竜は顎に手を添えて何事かを思案すると、僕に訊ねます。
「リッカさんも、夜蓋と一緒に、付き添いとしていらっしゃいますか?」
「はい。助手ですから」
責任感を持って頷きます。
「……明日の晩、と言ったか。あまり夜更かしはさせたくないのだが」
店主には渋られてしまいました。
「夜蓋。それは真っ当な指導ですが、この年頃の少年に夜更かしするなと言うのも、締め付けが厳しすぎるのではありませんか」
「ていうか、たぶん留守番させられても夜蓋さん帰ってくるか限界超えて寝落ちするまで寝ないですよ、僕」
「そうか。ならば伴おう」
このあやかしさん、実はチョロいのでは。
「夜蓋は何かと話が早いヤツですよ」
イニュリアスさんが茶目っぽく肩をすくめました。
「話の続きですが、リッカさん。私からあなたに課題を出してもよろしいでしょうか?」
「課題、ですか?」
「ええ。あなたを試そうというのではありませんよ? 歓迎すべき新人さんに、私のことを知っていただきたいのです。懇親のレクリエーションとして、謎解きならば愉しめるものかと存じます。いかがでしょう?」
ドラゴンさんからの挑戦状というわけですか。それはまた、なんともファンタジックで興味のそそられる話でした。
「是非、お受けします」
答えると、イニュリアスさんは「良い意気でいらっしゃいますね」と言ってから、まずは夜蓋さんへ僕の知らない言語で何かを話しました。事情説明の続きでしょう。夜蓋さんも同じ響きの言葉で答え、頷き合い、商談は無事成立したようです。
「では、リッカさんに出題です」
イニュリアスさんが僕の前に進み出ました。
わずかに腰を折って視線を合わせ、今度はゆっくりと、人間の眼が爬虫類の眼に戻っていきます。虹彩が揺らめいて炎のようです。
……いや、顔、近すぎでは。
僕はパーソナルスペースの概念が死んでいるので不快感はありませんが、これほど近いと眼の焦点を合わせるのが辛い。仰け反りたいところを、お客様に対して距離を取るのも失礼かと我慢します。その態度をお気に召してか、イニュリアスさんは嬉しそうな顔で、自分の唇の前に人差し指を立てて問いました。
「『イニュリアス・ディアは何故、この黄金色を隠すのか?』」
言い終えた彼の背にばさりと翼が生えます。シャツと上着にスリットでも入っているのでしょうか。
「では。撮影の後に、答えを聞かせてくださいね」
そう告げたイニュリアスさんはバルコニーから躍り出て、夜の灯火通りへと滑り出ていきました。




