第1話 猫又には話せないことがある ③
黒猫少年の案内で、夜蓋さんを影に潜めた僕は、ご婦人の住む家へと向かいました。
猫さん自身は数時間かけて歩いていらしたという距離をバスで移動し、停留所から少し歩いて入り込んだのは、変哲もなさそうな住宅地です。歴史は古いのか、時代感の違う一軒家やアパートが雑多に並び、合間に小規模な畑や神社も見られます。偏見ですが野良猫さんには住みやすそうな地域でした。
やがて、ある建物の前で猫さんは脚を止めます。
「到着!」
その宣言に、僕は大きな表札を見ました。
ななつはシルバーホーム、と書かれていました。
戸惑う僕を置いてけぼりにして、猫さんは意気揚々と玄関へ歩いてゆき、五本指になった手でチャイムを押します。
『はーい』
スピーカーから女性の声がしました。
「こんにちは! チョコもらいに来ました!」
黒猫少年は子供らしく先走った勢いで言います。
『え? キミ、どこの子? おじいちゃんかおばあちゃんに会いに来たの?』
「失礼いたしました」
慌てて追いかけた僕は『弟』の頭に手を置き、カメラに向かって会釈しました。
「黒崎と申します。突然すみません。この子がこちらの方にお世話になったそうで、ご挨拶させていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
『あぁ、そうなんですか。あなたはその子のお兄さん?」
「はい。申し訳ないのですが両親は病気療養中でして、僕が保護者です」
『分かりました、確認してまいりますので相手の方のお名前を……』
そこで、女性は何かに思い至ったのでしょう。小さなスピーカー越しでも息を呑む気配を感じ取れました。
『もしかして、お相手は、森谷さんですか?』
「なまえ知らない。チョコくれる婆ちゃんだよ」
『目が不自由なおばあさん?』
「うん。目ぇ見えないって言ってた」
『少々お待ちください』
言われた通りに少々待ちます。
建物の中から誰かが歩いてくる気配がして、玄関の引き戸がガラガラと開きました。ドアに取り付けられた機械から軽やかな音楽が流れ、ドアが閉められると音楽も止みます。開けっ放しの防止でしょう。
「こんにちは」
出てきた女性は三十代くらいで、動きやすそうな紺色の服を着ていました。手にはノートとペン、それから写真を持っています。
彼女は僕の異様に長い影にぎょっとして、一瞬後にはぎょっとしたことも忘れてしまい、幼児向けの柔和な表情を浮かべて黒猫少年の前にしゃがみます。
「おばあちゃんって、この人のことかな?」
差し出された写真は、何かお祝いごとの席を写した一枚でした。老婦人がチョコレートケーキを前にピースサインをきめています。少し目線は合っていませんが、ふくふくとした顔に浮かぶのは満面の笑みです。
猫又さんは頷きました。
「うん」
「そうだったの……」
女性が、動揺を抑え込む様子で言います。
「ごめんなさい。このおばあちゃんは、少し前にお引越ししたの」
「え」
僕はうっかり、保護者らしくもない声を出してしまいました。
女性が顔を上げて僕を見ました。立ち上がり、ぺこりと一礼されます。
「個人情報の都合で、連絡先を教えて差し上げることもできなくて」
「そう、ですか」
「それと、お手数ですが、こちらに来客記録をご記入いただけますか?」
女性は持っていたノートとペンを差し出します。ノートが妙にそうっと開かれると、日時と名前が書かれたリストの上に付箋が一枚貼られていました。
「……………」
そこに書かれた乱れた字を、僕は読みました。おそらくは、影の中から視界を共有できるという夜蓋さんも、一緒に。
「分かりました」
僕は女性に頷いて見せます。借りたペンで、リストの一番下に黒崎双葉と書き入れて返しました。
「ねー。ばーちゃん、会えねーの?」
「その……」
「会いたいんだけど!」
猫さんがどうしようもなく駄々をこねる声を上げます。
条件反射なのか女性は再び中腰になり、子供に手を伸ばしました。けれど彼女に頭を撫でられる前に、その慰めを避けるようにして弟は兄に抱きつきます。
「……ごめんなさいね」
行き場をなくした女性の手はノートだけを抱え直しました。
その眼には間違いなく、チョコ好きな子供が映っています。
こうして、黒猫の望みは叶えられたのでした。
* * *
冬の陽はするすると落ち、すっかり夕焼け色に染まった道を、二本足の猫がてくてく歩きます。
僕と、僕の影から出てきた夜蓋さんは、何にも聞かずに彼の後を付いて行きました。
「驚いたか?」
前を向いたまま、化け猫は唐突に言いました。
「はい」
短すぎる僕の答えは棒読みで、いささか間抜けに響いてしまいました。この気分をどうやって喉に乗せたら良いのか分からないのです。
僕はノートに張り付けられた付箋を思い出します。
『三日前にお亡くなりです』という、乱れた字を。
「ははは。化かし屋を化かしてやったぜ」
猫さんは軽薄そうな声音で言いました。
演技だと思います。
演技でもしなければ、とても口など利いていられないのでしょう。
どうして彼女の死を隠していたんですかと問いかけるのを、僕は止めました。代わりに、ふと勝手な想像が頭をよぎります。猫さんの荒れた毛並み。肩に跳び乗られた時に感じた甘い匂い。そして「頭ぐるぐるで吐いちまう」いう表現。その言い回しは妙に体感的でした。例えば僕は砒素が毒であることを知っていますが、飲んだら具体的にどう苦しいかなんて分かりません。
彼が中毒症状をあのように表現できたのは、何故か。
……お婆さんから貰ったチョコレートの包装は、猫の爪と牙でも破けるのでしょうね。
「けどよぉ」
彼はやっぱりこちらを振り返りもせずに言います。
「骨の兄さんはあんま驚いてねぇよな? 顔に出ねぇだけか?」
「いいや。驚いていない」
「なんでだよ」
「亡くなったかまでは分からないが、ご婦人に会えない状況であることは予想できた。君は、舌と喉がどう化けたかを私にさして問いつめなかっただろう」
「うん? 別にチョコ食うのが目的じゃねぇんだからそんなのどうでも……」
「食事ではなく声のことだ」
子供の歩みが止まりました。
「猫又と人間では喋り方が異なる。幻覚性の発声では自分にも相手にも聞こえる声はほぼ同じとされるが、音波性の発声では骨伝導の影響で自分に聞こえる声と相手に聞こえる声が違う。私は君の声を、他者から聞いて元通りに再現するよう化けさせた。君が自分の声に違和感を覚えたのはそのせいだ」
あいうえお。
化けた直後の猫又少年が、発声を確かめていた姿を思い出します。
「そりゃ、たしかに、ちょっと違って聞こえたけどよ。俺もバカじゃねーぞ。自分の耳が変わったせいだろってくらい、想像ついてたさ」
「もし彼女に会えるのなら、その『想像』程度で安心できたか?」
「………」
「録音による確認くらいは求めたのではないか。ご婦人に会うのなら、その声だけは絶対に、妥協できないのだから」
「……あー」
ほっそりとした子供の肩が、深く息を吐いていきます。
肺の大きさもずいぶん変わったことでしょう。ようやく吐き切った息を今度は大きく吸って、彼は振り返りました。
きっと夜蓋さんは、腕の良い『化生屋』なのです。
作られたばかりの少年の顔は、何の不自然さもなく、泣きたがるみたいな微笑を浮かべていました。
「なぁ化生屋さん。また店に寄るからさ、そん時はあのチョコレート、食べさせてくれねぇか?」
「それは、どのような望みのためにだろうか」
「婆さんがオレにどんなオヤツをくれたのか、ちゃんと分からねぇのがもったいない気になったから、かな」
「承知した」
夜蓋さんはコートの内側を探って、チョコレートの箱を出しました。
そういえば棚に戻していませんでした。出掛ける時に持ち出していたのですか。
猫さんが「はは」と苦笑します。
「ホント、準備良いのな」
「チョコレートにも色々ある。ご婦人のチョコとまったく同じ味ではないが……」
「いいよ。本物のチョコだと消化終わるまで何時間も化けなきゃなんなくて、たぶん対価にもっと体を削らなきゃならねーだろ? 婆さんもオヤツは健康に悪くない程度で我慢してたしな」
「そうか」
夜蓋さんが小箱の蓋を開きます。
子供は三つのチョコの上で指を迷わせてから、どれにしようかな、と唱えて選んだひとつを口に入れました。
「………」
その目が、猫のように丸く開かれます。
数回噛んでから後は、じっくりと、舌の上で溶かしているようでした。それでもチョコは儚いもので、程なくして飲み下されます。
猫さんは、あぁ、と感嘆の声を零しました。
「こいつはずいぶん、浮かれた味だなァ」
その姿が揺らぎます。
猫から人間に化けた時と同じく、陽炎の中から戻ってきたのは白猫が一匹。そして、宙に浮く黒い金魚が一匹です。
金魚は夜蓋さんの傍へと泳いできます。近くで見たら口の形だけ猫でした。
夜蓋さんはそれを両手でそっと捕まえて、軽く顎を上げ、唇を開き。
そして『対価』をするりと飲み込みました。
あ。
夜蓋さんに、食べられるんだ。
こくりと嚥下する喉の動きが目に焼き付きます。縫い留められたみたいな視線を引きはがせないうちに、夜蓋さんと目が合いました。彼はハッと背骨を揺らして体を退かせます。猫さんを食べた分で補ったのか、僕が齧ってしまった小指が、爪まで綺麗に再生していました。
「すまない、気味が悪かったか」
「別に平気ですよ? 驚いてはいますけれど、怖くはないので」
そんな遠巻きにしなくても。という意味を込めて、ちょいちょいと手招きのジェスチャーをします。夜蓋さんは、彼の方こそ恐る恐るといった風情で元の位置まで戻っていらっしゃいました。
「んで、支払い完了ってことで良いのかい?」
黒猫あらため白猫さんが、前より高くなった声で言います。
「あぁ」
「じゃあ、これで仕舞いだな」
彼は、ぐっと身体を沈みこませてから勢い良く歩道を蹴りました。他所様の郵便受けに飛び乗り、もう一度ジャンプして近くの塀へと降り立ちます。
そのままあっさり別れると見せかけて、細い足場でくるりと半回転。夜蓋さんと僕を見て目を細め、
「骨の兄さんも、『お兄ちゃん』も、ありがとよ」
そう言い残すと、短い二尾を迷いなく立て、軽やかに、しなやかに、塀の向こうへ去っていきました。
「……僕までお礼を言われてしまいました」
「言われるに足る仕事はした。と思うが」
「それなら良いのですけれど」
何やら奇妙に落ち着かない気分になった僕に、夜蓋さんはチョコの箱を差し出します。
「食べてみるか」
「良いんですか?」
「もう封を切ったからな。他の客に出すわけにもいかないし、一度開封すれば本物のチョコよりずっと早く傷んでしまうものだ」
お早めにお召し上がりください、ということですか。
僕はふたつ残ったチョコレートを見つめます。脳裏に浮かんだ由希の顔を振り払い、右端のひとつを指に摘まんで口に含みました。
甘い。
でもちょっと苦い。
香りから想像した味よりも割と大人な風味です。体温で瞬く間に溶け出すそれを、溶け切る前に数度噛んで飲み込みました。独特で絶妙な歯触りの後、しっとりと濃い香りが喉奥に落ちていきます。
僕はすぐに、もうひとつのチョコも口に入れました。
「今度は本物を食べてみるといい」
化生屋さんは微笑んで空箱を閉じます。
溶けていく甘さを存分に感じながら僕は、明日には彼に食われるだろう僕の骨も、これくらい美味しければ良いのになと思いました。
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