第1話 猫又には話せないことがある ①
とある城下町の裏通りに、ひっそりと、あやかしさん達が店を営む場所はあるそうです。
あれから船とバスと鉄道を乗り継ぎ、夜蓋さんの住処の最寄り駅に着いたのは、午後四時になろうかという頃でした。
冬の日差しはすでにそこそこ傾いています。
しかし、それを考慮しても僕の影は太陽の角度を超えて明らかに長く、そして異様に黒く地面に伸びていました。
人通りの多い表通りを抜けたところで、
「このあたりだ」
僕の影から、ずるりと夜蓋さんが出てきます。
影を貸してくれる人がいるならば、こうして移動する方が楽だし、何より通行人の迷惑にならない、とのことでした。
「ついておいで」
その言葉に従い、僕は裏通りへと足を踏み入れます。
並んだ外灯にはランタンを模した飾りが施され、その支柱には『灯火通り』と刻まれていました。全長二百メートル程度の通りに、業種も店構えも様々な店が並ぶ商店街です。
僕は歩きながらきょろきょろと周囲を見ずにいられませんでした。
洋菓子店。写真店。化粧品店。洋裁店。薬店。
意外と人間の街に近い店構えを眺めていき、やがて最奥の行き止まりにたどり着きます。『化生屋』の看板を掲げた店はそこにありました。
白壁に黒い窓の、ややレトロ感がある三階建ての建物です。大窓のある一階は喫茶店のような外観でした。玄関を飾る花壇には白百合が咲いていますが、季節外れのそれは造花でした。
その花の前で、黒猫が一匹、丸くなって眠っています。
夜蓋さんはドアに提げられたCLOSEの札をひっくり返してOPENに変えます。
寝ていた猫が耳を震わせ、顔を上げました。体格からしておそらく雄猫な彼が伸びをします。上げられたお尻に揺れる尾は半端に短く、二本。
「猫又?」
「それ以外の何かに見えるかよ?」
猫は普通に人語で答えました。
喋り方は反抗期の高校生みたいですが、声は幼稚園児くらいの子供の高さです。軽く開いただけの三角形の口から、僕であれば一度唇を閉じなければ発音できないマ行の音はしっかりと出ています。舌や声帯で喋っているわけではなさそうです。
「マヌケな感じの兄ちゃんだなぁ。あんたも化生屋のお客かい? 順番待ちになっちまうかな」
「いえ。僕は助手なので。それに僕はもう化けさせてもらっていますよ」
「お?」
興味が湧いたのか、猫さんは短い二尾をぴこぴこ揺らして僕の足元に近づいてきました。そのまま後ろへ回ったと思ったら。
「わっ?」
ジャンプして肩に飛び乗られました。
驚いた僕が身体を跳ねさせてても、流石のバランス感覚で落っこちることはなく、猫さんは僕のうなじのにおいを嗅ぎ、頭や頬をてしてしと肉球で叩きます。鼻先をかすめる猫毛は埃っぽく、同時に妙に甘い香りもしました。洋菓子店の前で昼寝でもしていたのでしょうか。
「んー? どこをどう化けてんだ?」
耳元で話されると、息遣いと発声の不整合が一段と明らかです。
僕はまたマフラーとハイネックを引き下げて鱗を見せました。
「ここです。この、鱗」
「お。ホントだ。何だってそんな変身したんだか知らねぇが、人間の首に、きれいにくっ付いてるもんだな」
感心したように言って、猫さんは僕の肩から跳び下ります。何とも自由気ままでいらっしゃる。
「そんで、そっちの骨の兄さんが、化生屋のご店主ってことで良いんだよな?」
「あぁ」
頷いた夜蓋さんが店のドアを開けます。
「ようこそ、お客様」
来客を告げるベルがカランと鳴りました。
それは、僕の初仕事が始まる合図でもありました。
* * *
やはり元は喫茶店のようで、室内にはカウンターバーとテーブル席が三セットありました。そのうち中央の一セットは、下手側だけ椅子が置かれず、不自然に空いています。そこが夜蓋さんの定位置なのでしょう。
猫さんは室内を見渡すと、テーブルの上にひょいと飛び乗ります。夜蓋さんは僕を先に通してから長い身体を室内に収め、ドアの下部の、おそらく後付された金具に尾骨をひっかけてそれを閉めました。
店主がお客様に訊ねます。
「君は、茶は飲めるだろうか?」
「飲めねぇなぁ」
「では猫向けの菓子を」
「いいよ、いいよ。野良猫に餌付けするもんじゃねぇぜ。それより商売の話を進めてくれよ」
お客様はせっかちなようです。夜蓋さんは「そうか」と頷き、猫さんの正面に移動します。
「私のことはどこで知った?」
「前に三毛猫商店の姐さんからチラッと聞いた。詳しいことは知らねぇけどな」
「であれば、まずは店の決まりごとを説明しよう。重要な点は三つだ」
そして夜蓋さんはひとつ、ふたつ、みっつと指を立てながら説明しました。
一.化生屋は客を変ずる。
二.対価として客自身の一部を貰い受ける。
具体的に何が対価となるかは、変化の内容による。
三.灯火通りの店主には、客を守る責務がある。
故に変化が解けるまで化生屋は客に付き添う。
ただし、付き添いを拒む事情があれば、この限りではない。
「ここまで、何か聞きたいことはあるか?」
「ん。今のところない」
「では、お客様」
化生屋さんが問いかけます。
「君はどのような君を望むのか」
問われたお客様は答えました。
「人間の子供だ」
おや?
猫又といったら、くるんと宙返りして人間に化けられるものだと思っていたのですが、それは僕の勝手なイメージだったようです。もしくは、猫又にも個体差があるとか?
そう考えると、猫又のトレードマークとも言える彼の二尾が、半端に短いことが気に掛かりました。元から短尾の日本猫とはまた異なる、途中で切り落とされたような尾です。
夜蓋さんはお客様へ向けて更に問います。
「それはどんな願いのために?」
「大したことじゃねぇさ。ちょっと、チョコレートってヤツを食べたくてな」
猫さんはどこかわざとらしく軽い口調で答えました。
「俺の舌じゃあ『甘い』って味はよく分からんし、チョコなんざ食っても心臓バクバクの頭ぐるぐるで吐いちまうばっかだけどよ、人間にはそりゃあ美味しいもんなんだろ?」
後半の質問は僕に向けられていました。はい。
「おそらくは」
「なんだよ、その微妙な答え」
「食べた記憶がありませんので。家庭の事情で」
チョコレートは、由希が嫌いなのですよねぇ。
匂いすら嫌がるので、我が家にチョコレート菓子の類は持ち込まれたこともありません。さすがにこの年になったら一人で島外に出て食べ歩きくらいできますけれど、わざわざ買うこともありませんでした。美味しかったら、かえって困ってしまう気がして。
「………。おう。なんか、悪いな?」
猫さんはバツが悪そうにおっしゃいます。
「お気遣いありがとうございます。あなたも良い猫さんでいらっしゃいますね」
「ばか。やめろやめろ。犬じゃねーんだぞ、猫又には誉め言葉になんねぇよソレ」
不揃いな二本の尾がしっしっと言うように振られました。照れ隠しのようです。
「なぁ。もういいか? さっさと化けさせてくれよ」
せがむ猫さんに夜蓋さんが返したのは、是でも否でもなく、またも問いかけでした。
「何故食べたい?」
「なんでって、だから、美味いんだろ? 美味いものなら食べたいだろ。そんだけだよ」
「買うアテは?」
「買うっていうか、知り合いがくれる。アンタにタカったりはしねぇぜ?」
「そうか。変化の時間はどれほど必要だろうか」
「んー。べつに、チョコ貰って喰うだけだし、三十分もあれば十分だろ」
「成程。では、リッカ。そちらの棚から箱を取って来てくれるか。茶色に金の箔押しの箱だ」
もちろん、こういった雑務も僕の仕事です。
僕は助手らしく「はい」と答えて、夜蓋さんが示した棚から言われた通りの箱を取ってきました。手のひらサイズで厚さは三センチほどの軽い箱です。
猫さんが訊ねました。
「なんだそれ」
「猫でも食べられるチョコレート」
答えた夜蓋さんが箱を開きます。そこには金箔で上品に飾られたチョコレートが三つ、きちんと並んでいました。
「正確には、特殊加工したゼラチンにチョコレートの幻覚を被せたものだ。カカオ、砂糖、その他添加物不使用で動物の腹にも優しい」
「あ?」
猫さんは呆れたように、もしくは苛立ったように呟きます。
……はて? この流れで、チョコレートを食べたい猫さんに不都合があるでしょうか。
「何だってそんなもん持ってんだよ」
「仕事柄、この店には様々な種族の客が来る。接客用の菓子は食べられる者が多いほど良い。といったセールストークで洋菓子店から売り込まれた。胃のない私には食べられないが、パティシエールの評判は保証しよう」
夜蓋さんはチョコレートの箱を猫さんへと差し出します。
「どうぞ。これは無料のもてなしだ」
「いいのかよ? それじゃあ、アンタに何の得も無ぇだろ」
「まったく問題ないな。対価は性質的に避けようがないので受け取っているだけだ。このチョコレートで君が何ら代償を負わずに願いを遂げるなら、それこそ私の望むところ。故に、どうか遠慮なく」
「………」
お望みのはずのチョコ。タダで食べれるならラッキー。
の、はずですのに。
猫さんは、箱へ鼻も近付けずに黙り込みました。三角の耳がスッと後ろに伏せられます。
そんな猫さんの反応を夜蓋さんは意外がりもせず、チョコの箱を猫さんの前から自分の方へ引き戻します。
「美味しいだけのチョコレートでは、君の願いは叶わないらしい」
「あー、くそッ」
猫さんがやけっぱちに言いました。
「女神様みてぇなツラして嫌味なことしやがる。チョコ食いたいだけとか、嘘なのバレバレだったかよ?」
「嫌味のつもりではないが」
「ぁん?」
「このチョコを食べて君が満足するのなら、それで構わないというのは私の本心だ」
「……え。オレ、今の、自爆したか?」
「疑念があったことも否定はしない。猫の肝臓ではテオブロミンの代謝が遅く中毒症状を引き起こすことを、君は知っていると言った」
「いやテオ何とかは知らねーけど」
「カカオに含まれる物質で、強心、利尿などの作用がある。変化した時に食べたものは変化が解けた時に本性へ帰されるものだ。飲食の予定があって消化について訊ねてこない客は珍しい」
あぁ。それは、確かに。
僕の変化が解けたらまた窒息するかも知れないというくらいなのです。チョコレートを食べた化け猫だって中毒症状を起こすかも知れません。
「なおテオブロミンの半減期は人間の大人でおよそ六時間。子供に化けて三十分ではまるで足りない。もし毛色の変わった服毒自殺のつもりなら、今からそれはそれは執拗に説得される覚悟をしてくれ」
「ヤダよ。ていうか普通にそんな気ねぇよ」
「それは良かった」
夜蓋さんは役目のなくなったチョコの箱を閉じました。
彼の安堵の言葉はやはり簡素でしたが、服毒の可能性を本気で憂いていたのを、箱の上に置かれた手に何となく察します。
猫さんは気まずいのを隠すように耳をぴるっと振りました。
「ホントのこと話さねぇと、やっぱダメか?」
「私は客の嘘を咎めない。無暗に隠し事を暴くこともしない。しかし、客の願望だけは明らかにすると決めている」
「要はアンタが納得して仕事できるくらいの事情は話せってことか? あー……」
諦めなのか気合いなのか、彼は急に猫語で「ンニャァ」と呟いて。
「分かったよ。けどなぁ、チョコが欲しいってのも丸っきりの嘘じゃないんだぜ? 面倒だから話を端折っただけでさ。ちゃーんと話すなら、オレはチョコレートが好きな子供に化けてぇんだよ」
妙な表現でした。
だからこそ真実らしくも感じられます。
夜蓋さんが問いました。
「それは、どういう意味だろうか」
「はははっ。いいぜ。話すから、よく聞いてくれよ」
そうして化け猫は、本当のことを語り始めるのでした。