番外編 猫と人魚の後日談
※軽度の猫虐待あり
※暴力描写あり
——今度こそ、猫を殺したい。
深夜、午前二時。
俺はパーカーのフードを目深に被り、家の外へ出た。
ポケットの中には一振りのナイフ。日中は通学バッグに忍ばせているそれを、恍惚として握り締める。
二ヶ月ぶりの『狩り』に、胸が躍った。
ナイフを買ったのは、もとは学校生活に辟易としていたからだった。
発端は高校受験の時に運悪く風邪を引いたことだ。実力を出せなかった俺は、貴重な三年間を本来より低レベルな環境に甘んじることになった。
同級生も教師も、馬鹿ばかりで嫌になる。天才肌なところのある俺にとって、その学校生活は苦痛に他ならなかった。
そう。ストレス解消が必要だったのだ。
最初は、ナイフを学校へ持っていくだけだった。へらへら笑う同級生の顔や非論理な教師の言葉も、俺が何を持っているかも知らないでと思えば滑稽だった。
とはいえ実際に奴らを刺すわけではない。そんなことで人生を棒に振るなどそれこそ馬鹿馬鹿しい。
その代わり俺は、夜中に出掛けて、公園や神社の花壇を荒らすようになった。花の根本に繰り返しナイフを突き刺すと、ザクザクと小気味の良い感触が手に伝わった。
しかし、それにもすぐ飽きた。
やはり刺すなら生き物がいい。
そこで目をつけたのが野良猫だった。
あまりにもベタだが、俺はそこらの中二病のように自分の悪事をひけらかしたいわけではない。『ネタ被り』を気にする必要などないだろう。
二ヶ月前の晩。俺はついに、通販で買った捕獲器を寂れた公園の隅に仕掛けた。
成果は……、成功であり、失敗でもあった。
罠にかかったのは小柄な三毛猫だった。その首を掴んで捕獲器から引きずり出し、さっそく刃を刺そうとした時、黒猫に飛びかかられて邪魔されたのだ。
だが俺もタダでやられたわけではない。振るった刃は黒猫の尻尾を切り裂いた。皮を引き裂く手応えも、ギャッと鳴いた声も、実に心地よいものだった。
その意味では、俺は十分成果を出したと言えるだろう。
ただ、問題も起きた。
どうやらあの後の数日間、黒猫は千切れかけの尾を引きずって、近所を徘徊したらしい。
猫同士の喧嘩や事故にしては不自然な怪我に、人による虐待ではないかと噂が立った。
地方の長閑な住宅街では、十分すぎるほどセンセーショナルな話題だ。町内会の暇なジジイどもは意気揚々と警察に働きかけて、パトロール強化の報せが公園の掲示板に張り出された。
……俺がもしサイコパス気取りの馬鹿だったら、我慢できずに狩りに出て、あっさり捕まるところだったろうな。
もちろん俺はそんなヘマはしない。
約二ヶ月。猫虐待の話がすっかり過去のものになり、掲示板の報せが剥がされるまで、俺は待った。
いや、正確には、もう一ヵ月ほど慎重に待つつもりだったが……。
にゃあ、にゃあ、と鳴く猫の声が耳に付く。
発情期でも来ているのか、ここ数日は夕暮れ時からずっと、あちこちで猫が鳴いている。
我慢も限界ってものだ。
今夜、二時間ほど前に俺は再び罠を仕掛けていた。潜伏中にじっくり選んだ場所は人気のない空き地で、交番からも遠い、絶好のポイントだ。
茂みを掻き分けて、奥に隠した捕獲器を確認する。月が思ったよりも明るくて、スマホのライト無しでもその影は見えた。
——かかっている。
俺の口元に、ニヤリと笑みが浮かぶ。
罠の中にいたのは黒い猫だった。しかも、尾が、半端に短い。もしかするとあの時の黒猫かもしれない。
気分が高揚するのを感じながら、俺は捕獲器に手をかける。
「こんばんは」
背後から声をかけられたのは、その時だった。
「……!」
バクッと心臓が跳ねた。俺は勢いよく振り返る。
そこに居たのは。
居たのは……。
……なんというか、珍妙な、美女だった。
顔が整っているのは間違いない。人形のような、というのはこういう容姿を言うんだろう。小さな頭に寸分の狂いもないバランスで眼や口のパーツが並んでいる。
しかし、問題はそいつのセンスだった。
まず髪型。前髪も襟足も無茶苦茶に切り刻まれて、イジメにでもあったのかというズタボロ具合だ。
そして服装。『ブラコン』とデカデカ書かれた長袖Tシャツに、レースたっぷりの膨らんだゴスロリスカートという、酷い組み合わせ。
そして、極めつけに靴。奇をてらったつもりなのか、左右でまったく違うものを履いている。
赤いスニーカーと……、変に歪んだデザインのロングブーツ。
『素材の味を全力で殺しました』みたいな格好をしたその女が、困惑する俺に向けてまた口を開く。
「猫を虐めるのは、悪いことだよ」
声のトーンに違和感を覚える。
俺は目を凝らした。そいつの首には痣があり、喉仏が、少し尖っているのが見える。
女じゃない。
きれいな、男だ。
ますます変人だと確信しながら、俺は、いったん白を切ることにした。
「なんのことですか? 俺は、ウチから逃げた猫を捕まえようとしていただけですよ」
「ふーん。言っても駄目なら、君はどうしたら止めてくれるかな」
俺の話を一考もせずに聞き流して、男は突然、パン、と手を打ち鳴らした。
「そうだ。俺を切らせてあげるよ」
ナイスアイデアと言わんばかりに喋る、男の咥内が、夜の中で黒々と紅い。
「切る……?」
「死なない程度にだけどね。それでも、きっと君の人生に俺以上の獲物なんて現れないよ。だから、君の一生分の加害と、俺の傷ひとつを交換しよう」
無茶苦茶な言い分だった。
無茶苦茶な言い分に――、俺の喉が、ごくりと鳴った。
男はシャツの袖を捲り上げる。晒された腕は滑らかに白い。
あぁ、たしかに。
猫の尾よりも、ずっと、上等だ。
この腕に消えない傷を刻みつける。そんな特別な夜を体験する高校生は、きっと全国どこを探しても俺だけだろう。
俺はポケットからナイフを取り出した。
興奮で息が荒くなる。
男に近付き、その腕を、切り付ける。
手応えは気の抜けるほど軽い。薄そうな肌が、ぱっくりと裂けた。一瞬遅れて傷口から血が溢れ出す。
独特の鉄臭いにおいがした。
男は痛みに眉をしかめる。その顔がたまらなくて、俺はナイフを握り直した。
もう一撃、と、唇を舐める。
だが男は「駄目だよ」と腕を引っ込めた。
「傷は『ひとつ』って言ったでしょ。これでおしまい。これ以上は、君にはもったいない」
からかうような、上から目線の言葉。
カッと俺の全身が熱を持った。
衝動的に男の腹を蹴りつける。もろに喰らった男が押し倒されて地面に転がる。膨らんでいたゴスロリスカートが空き地の地面に押し潰された。
馬鹿にしやがって
馬鹿にしやがって
馬鹿にしやがって
脳裏に浮かんでは消える学校の低能共の顔。それを蹴散らすように脚を振り抜く。つま先がめりこむたびに、げほ、げほ、と男の綺麗な顔が歪んで、唾液混じりに咳き込んだ。
いい気味だ。
だんだん気分が良くなってくる。
俺は繰り返し、そのふざけたTシャツの腹を蹴った。
蹴って、蹴って。
――げほげほ、……けほっ。
咳の音が、妙に抜けて聞こえた。
――けほ……、ふふ、……っ。
今度ははっきり分かった。
男が、笑っている。
俺は渾身の力を込めて男を蹴ろうとした。だが、ごろりと向こうへ転がって避けられる。
男は地面に手をついて体を起こした。
「あー。やっぱり、リッカ以外に逆らわれてもムカつくだけだなぁ」
苛立ちを表す言葉とは裏腹に、その眼はニヤニヤと細められていた。俺に話しかけたわけではなく、独り言のような台詞だった。リッカ。誰だ。ブラコンと書かれたシャツ……兄弟の名前か?
「でも、ここまでだね」
「あ?」
「ほら。もう来てるよ」
男が俺の後ろを指さす。
振り返ると同時に「何をしている!」という怒号が飛んできた。俺の目に映ったのは、慌ただしくチャリを乗り捨て、こちらに駆けて来る警察官の姿だった。
やばい。
逃げなきゃ。
咄嗟に走り出そうとした足首に衝撃が走る。体勢を崩して転んでしまう。取り落としたナイフが地面に跳ねた。
何が起きたのかと見回して、男の、軽く片足を上げた体勢に、赤いブーツで足払いをかけられたのだと気付く。
「この……!」
怒りに任せてナイフに手を伸ばす。だが、その手が届くより前に、警官に押さえつけられた。
ちくしょう。
裏切られた。騙された。このキレイな男は、俺と取引する気なんて端から無かったのだ。
「通報してたのかよ!」
叫ぶ俺に、男は「うん」と悪びれもせず答えた。
「更生は更生のプロに任せたほうが良いに決まってるでしょ。俺は君の人生なんか背負えないもん」
言いながら、男は捕獲器に近付き、猫を外へ出した。
黒猫は伸びをしてナァーオと鳴く。
その声が「ザマァみろ」とでも言ったように聞こえた。
* * *
「馬鹿なんですか」
それが、事の顛末を聞き終えた僕の第一声でした。
由希は、口を開け、頬に手を当て、まさに「がーん」とオノマトペでも付くような表情をします。
「褒められると思ったのに!」
「馬鹿なんですね」
感動の別れから二週間と経たず。
クソすぎる土産話を携えて戻ってきやがった兄に、僕は心底呆れました。奇抜な進化を遂げたそのファッション――わざと魅力を減衰させるような服装――には、あえて言及しません。
しかし、語られた報告の方は、看過いたしかねます。
良い子になると決めた由希が、猫又たちの『虐待犯おびき寄せ作戦』に協力することになったことは聞いていました。ただしそれは、単なる通報役としてです。
で、結果がこれ。
「病院には行ったんでしょうね?」
「その場で救急車呼ばれたよ。十針縫った。腹はアザだけで内蔵は無事。全治一ヶ月だってさ」
「そうですか」
では、と、僕は外を指差します。
「さっさと薬屋に行って切り傷と打撲用の薬を買ってきなさい」
「え。一緒に行ってくれないの」
「ははははは。付き添いなんかして味を占められても嫌ですからね。一人で行け」
「つめたいー。さびしいー」
駄々をこねる二十一歳児にも、僕は頑として座ったまま、薬屋を示す指先を譲りません。
「はやく行きなさい。一番良い薬なら傷跡も残らないから」
「……はーい」
ようやく根負けして、由希が渋々と立ち上がりました。カランコロンとドアベルだけは相変わらず軽やかに鳴ります。
夜蓋さんが、二階から降りて来ました。
「心配している、とは言ってやらないのか?」
「それこそ癖になったら困ります」
「しかし……」
彼は少し言いづらそうにしてから、話しました。
「おそらく、そうして怒るほうが、喜ばれているぞ」
あのクソ兄貴、と、僕は頭を抱えました。




