第5話 人が歌うのは本当のこと ③
* * *
僕は化生屋へと駆けました。
酷く息が上がります。異様に長く感じた距離は実際には二百メートルに満たぬはずで、僕は見慣れたドアに帰り着きます。
「夜蓋さん!」
お客様を迎えるためのドアベルが荒々しく鳴りました。
夜蓋さんの姿は見当たらず、返事もありません。階段を駆け上がります。そこにも夜蓋さんは居ません。三階。いない。更に階段を上がって屋上へ。
ドアを開けた先にあるのはガラス張りのサンルームです。
そこに白い背骨は――相変わらず静かに、佇んでいました。
「……!」
膝から崩れ落ちそうになります。
僕には恐怖の感覚がありません。溺れた人間が身近にいたって海に飛び込める。
けれど、けして、感情のすべてが死んだわけでもないのです。
「夜蓋、さん」
息継ぎをしながら呼びかけると、彼はゆらりと振り返りました。白い顔に浮かんだ微笑みが、今は憎らしいです。
「返事くらい、してください、よ」
「すまない。あまりにも懸命に呼んでくれるものだから、つい」
背骨をさざめかせて夜蓋さんは僕へと近づいてきます。
サンルームには薄紫色の影がゆらめいていました。周囲には削ぎ落された夜蓋さんの肉が、いくつかの塊に分けて吊るされています。水晶にも似たそれらが陽の光を透かして、波のように影を落とすのです。
ここは肉の保管所であり、干場であり、対価を食べるたびに少し再生する夜蓋さん自身の解体所でした。
自らの血肉の合間を這って来た人魚は、相も変わらず穏やかな声で言いました。
「君の兄はセイレーンの混血児だな」
「セイレーンって、人魚……?」
「あぁ。元は女性の頭を持つ怪鳥で、後世には人魚となった、歌声で船乗りを惑わす魔性だ。彼は人の肉と魔性の肉が入り混じって、どうやら、自分の声を制御できないらしい。甘やかされて育つわけだ」
夜蓋さんの視線が僕の首元へと向きます。
「君が恐怖が欠いたことにも、合点がいった。喉を焼かれた時に、怖がってはならないとでも命じられたのではないか?」
その言葉に、かつての記憶が甦ります。
火の点いた薪を手に、怖がらないで、と微笑む幼い由希の姿が。
あるいは、それを聞いた途端に呆然と動かなくなった、僕自身の肉の感覚が。
それを覚えているから僕は、自分の欠落を蔑みはしても、恐怖を無くしたこと自体に疑問を持ったことがない。
夜蓋さんは言います。
「幼子はあやかしの影響を受けやすい。君には、その命令が焼き付いてしまったのだろう」
「本当にそれだけ、なんでしょうか……? 僕が薄弱だったから、ではなくて?」
「私を怖れないほど重度の解離性障害や感情鈍麻を患っているにしては、君の様子は不可思議だよ。火や暴力を忌避する気配すら見せず、誰かの苦痛に共感を示し、危険を前にすれば平気で身を挺す」
どうやら僕は思っていた以上に、彼に目をかけてもらっていたようです。
夜蓋さんのどこか枯れた声は、僕のために、確かな口調で話しました。
「君が自分の欠落をどう考えていたかまでを、推量で語る気はない。ただ、人魚のひとりとして伝えよう。君たちは化け物の血に翻弄されてしまっただけ。何も、誰かの罪ではなかったのだよ」
いったいどうしてこのあやかしは、こうも慈悲深い言葉を、彼の井戸から汲み上げられるのでしょう。
胸の内がじわりと熱を持ちます。ありがとうございます、と、僕はお礼を伝えようとしました。けれどそれが声になる前に、僕達のもとへ足音が届きます。カツカツと、大きな爪が床を叩く独特の音です。
「もう来たか。君を追うなら駆け足も苦ではないらしいな」
夜蓋さんは屋上の入口を見ます。
開きっぱなしのドアの奥。階段の手すりに掴まりながら、由希が姿を現しました。
顏がすっかり上気して、ぜぇ、はぁ、と肩で息をしています。サンルームに踏み込んだ彼は乱れた髪を鬱陶しそうに掻き上げ、まだ息が整わないうちから、僕に向けて言います。
「おいて行かないでよ」
子供の物言いでした。
あやかしとしての彼を認識できている今も、何も変わらずに。
「そう思うのであれば、もう、こんなことはしないでください」
またお説教です。由希は、夜蓋さんをちらりと見て、僕に視線を戻します。
「リッカは、そいつのこと、そんなに好き?」
「はい」
「そう」
打たれた相槌は意外なくらい素直でした。はぁー、と、深呼吸と溜め息が一緒くたになって由希の口から吐かれます。
「なら、生きててもいいや。邪魔だけど。ねぇ、俺、リッカの部屋で一緒に寝れる?」
「……いやあの、勝手に同居の話を進めないでください。夜蓋さんの許可もなしに」
「あー。そっか、許可もいるんだっけ。面倒くさいなぁ、もう」
「あなたに従う人ばかりじゃつまらないんでしょう?」
「『ヒト』は、ね。バケモノに逆らわれても面白くないよ。なんかゾワゾワして気持ち悪い」
二の腕をさする由希に、夜蓋さんが怒るでもなく言います。
「君に惑わされないあやかしは、君を惑わし得るあやかしだからな。声が刺さらないと落ち着かないのだろう」
「ふーん? 何だか知らないけど、とにかく我慢するからさ。俺も此処に住んでいいでしょ?」
「その必要はない。君たちが和解できるなら、私はリッカを手放すよ」
「えっ」
半分裏返った声が、僕の喉から転げ出ました。
いえ、たしかに、僕はもともと『一時的な休息所』として夜蓋さんのもとへ身を寄せたのですけれど。でも。
「島に帰れということですか」
縋るように言ってしまいます。
「そうすべきだとは思っている」
夜蓋さんは微笑みました。いつもどおりのようで、いつもより少し下がった眉尻が寂しげに。
「リッカは、どうしたい?」
哀愁の浮かんだ顔でそう問われて、僕は図々しいことに、少し安堵してしまいました。
夜蓋さんだって、別に、僕を追い出したいわけじゃないのです。真面目なひとだから、家に帰せるならそれが正しいとでも、考えているだけなのでしょう。
僕は気楽になった胸で答えます。
「夜蓋さんの助手を続けたいです」
白い睫毛が伏せられました。
あれ?
どうして余計に哀しい顔に、
「その気持ちが、私というあやかしに惑わされた結果でも?」
———。
一瞬、あたまが、まっしろに、なりました。
何を言っているんですか。と。
問い返すことは、できませんでした。短い呼吸をひとつする間で、僕は答えに思い至ってしまったから。
夜蓋さんには八百比丘尼とアンデルセンの人魚が混ざっている。けれど、その二つがすべてだとは語られませんでした。
契約を交わさずに彼の肉を喰えば、泡を吹いて死ぬ。泡になって、ではなく。それは魔性の声に誘われた船乗りの、溺死する様に似ていました。
夜蓋さんが唇を開きます。はじめてその声を聞きたくないと思いました。それでも聞こえてしまいました。
「私は人魚の混ざりもの。セイレーンも、人魚だよ」
僕は悲鳴もあげられない。
淡々と、淡々と、人魚は続けます。
「生まれた時代と知名度を考えれば私に混じったセイレーンの血は多くない。それでも、私の肉を喰った者を呪うことはできる。本当は家に戻りたいと願っている者の心を、私の傍にと、少し傾ける程度には。私は……」
その言葉を遮って、鉤爪が床を叩く、激しい足音がしました。
由希が、肉を切るためのナイフを掴み取り、不揃いな脚で踏み切り、夜蓋さんに躍り掛かってくる。
咄嗟に庇おうとした僕の身体が、他ならぬ夜蓋さんの尾に押し返されました。
どうして。
息を継ぎ損ねてその言葉も声にはならない。
ナイフが突き出される。
煌めいた刃が、夜蓋さんの喉に突き刺さる。
勢い任せの由希と抵抗しなかった夜蓋さんの身体が、二人して倒れ込みます。刃がいっそう深々と白い首に食い込みました。海蛇の背骨は、歪んだ蜷局を描き、まるで隔てるように僕と彼らとの間に横たわりました。
馬乗りになってナイフを握る由希の手は、柄を握り締める力で震えています。
「お前、リッカに何をした……!」
「分からない」
喉を刺されているはずの夜蓋さんは、濁りもしない発音で話しました。息を使わなくても喋れたのか。それは別段おかしなことでもないのでしょう。彼も、異形のものだから。刃を受けた皮膚から血は一滴も流れていません。
「けれど私は私の欲望を知っている。君達に想像できるだろうか。人間に喰われるために生まれた私の懊悩を。人の子が私を怖れず、この指を食んだ時、私がどれほど嬉しかったかを。……故にこそ、私にはリッカを惑わさなかったと断言する自信がない」
夜蓋さんが一言一言を告げるたびに、僕の指先から熱が消えていきました。
あの日、僕は何と思ったのでしたっけか。
嘘が苦手なあやかしさんだと。
彼のことが好きかも知れないと。
あの感情が、偽りだった?
違うと叫ぶ代わりに、僕の口から零れたのは、震えた問いかけだけでした。
「いったい、いつから、そんなことを考えて」
「君が私の手を取った時から」
「それじゃあ、ずっとこうするつもりだったんですか。僕を家に返しても大丈夫だと思えたら、突き放すつもりで」
「人でありたい者と、人を惑わす者は、共にはあれまいよ」
「けど、でも」
僕の脳裏には、酷く嫌な想像が浮かんでしまう。
「あなたが人間に焦がれる人魚なら、あなたの助けた僕が、あなたを拒んで……あなたは無事でいられるのですか」
夜蓋さんは顔色ひとつ変えてはくれませんでした。
「心配せずとも、泡になどならないだろうさ。私は足を得ていないし、姫よりもずっと魔女に近い」
「絶対にですか」
「……おそらくは」
「そんな曖昧さで、気にするなと? 無理ですよ。だいたい、僕を惑わしたっていう夜蓋さんの話もただの仮説じゃないですか」
「あぁ、そのとおりだな。けれどその仮説が、私には怖ろしい」
反論の言葉が咄嗟に出ません。夜蓋さんはわざと恐怖という感情に触れた。僕がこれ以上縋りつけないように、わざと。
「私は君の兄とは違う。私が私の意思によって君を歪めたのなら、私こそはおぞましい化け物だ」
リッカ、と、僕を呼んで、
「逃げなさい。そうしてどうか、私をこの恐怖から助けてはくれまいか」
紫色の眼が伏せられます。
泣きたいでしょうに、彼はやっぱり、穏やかに笑んでいました。
健気な頬です。微かに震える、白い睫毛です。助けてくれと願われた言葉に嘘がないことが嫌でも分かる。
僕は。
その願いに、応えるべきなのかも、しれません。
だって僕にはその苦痛が分からないから。
だから。
僕は。
…………。
…………。
…………。
いいえ。そんなの、嘘です。
ぎゅっと、何も持たない手を握りしめます。
違う。駄目です。これじゃあ何も救われない。僕は誰よりも『それ』を知っているではありませんか。
怖くないというだけで、楽になれるわけじゃない。
意を決します。僕は夜蓋さんの脊椎を跨ぎ越え、彼へと近づきました。
まずは、夜蓋さんに馬乗りになったままの由希に声をかけます。
「由希。そこ、退いてください」
「嫌だ。リッカこそ離れてよ」
「大丈夫ですから。偶には、あなたが僕のお願いを聞いてくれたっていいでしょう?」
我ながら、なんてずるい言い草でしょうか。
由希が苛立ちや愛情をいっぱいに込めて、薄い唇を引き結びました。そして力任せに夜蓋さんからナイフを抜くと、それを握りしめたまま立ち上がります。
「ありがとうございます」
「……どういたしまして」
不機嫌なりにも真っ当な返事でした。夜蓋さんと最初に交わしたのと同じ会話だなと、妙に落ち着いた心で思いました。
僕は、夜蓋さんの傍らに膝を付きます。
夜蓋さんは起き上がろうとはせず、伏せられた眼はこちらを見ません。喉の傷口に覗く肉は、深い青紫色をしていました。
「夜蓋さん」
お腹のあたりに力を込めて、その名前を呼びます。
彼を拒まないのなら、僕はせめて、尽くせる限りの言葉を尽くして夜蓋さんを救いたい。そのために、彼の心へ無遠慮に踏み入ってでも。
「教えてください。嘘を吐くと骨が砕けるのは、何故ですか」
ひっくり返った夜蓋さんの肋骨の先が、ぴくりと小さく跳ねました。
「疑問だったんです。それは人魚の性質ではないですよね。比丘尼の人魚もアンデルセンの人魚も、セイレーンにだって、嘘で骨が砕けるなんて話はない」
「………」
「答えていただけないなら、はっきり聞いてしまいましょうか。あなたは誰かを救おうとして、肉の正体を偽って食べさせて——死なせてしまったことがありますか」
「………」
「それがあなたのトラウマなんですね。人魚の姿を歪め、偽りを口に出せば骨を砕くようにと、自らを呪うほどの」
「………」
夜蓋さんは答えません。そして、その沈黙は雄弁でした。
思ったとおりです。
やっぱり彼は、やさしいあやかしだ。
「なら簡単じゃないですか。溺れている僕の前で、この人間を惑わそうと思う余裕なんてあるわけない。あの時のあなたはきっと、僕を助けたい一心でしたよ」
「……それも、仮説だろう」
ようやく、彼は、ささやかな声を返してくれました。
「はい。そうですね」
「私に好意的すぎる」
「それは当然です」
意趣返しのように、僕は少々呆れたみたいな口調で言います。
「飢えていたのは自分だけとでも思っているんですか? 僕はあの日、夜蓋さんに誘われて嬉しかったですよ。僕の欠落を、あなたは欲しいと言ってくれたから。ねぇ、夜蓋さんの恐怖はちゃんと、喜びの裏返しですか? 僕はちゃんと、あなたを助けてこれましたか。そうであるのなら、それだけでいいんですよ」
僕は夜蓋さんの喉に手を当てました。
傷口から溢れるべき血は凝っています。その肉は死人より青い紫色です。だから何だと言うのでしょう。生き物が生き物である条件は、自我があることだけです。
「もうひとつ、聞かせてください。もしもあなたが僕の言葉を信じてくれるなら、僕を突き放す必要のなくなったあなたの、本当の願いは何ですか?」
「私は……」
ささやかな声が、言いました。
「ヒトの——君の救いになりたい」
「そんなのとっくに叶ってる!」
僕は高らかに宣って、挑む心地で続けます。
「おぞましいことなんて何もない。僕は、あなたに救われた……!」
夜蓋さんの眼が開かれる。
光を取り込んで色の明るくなった虹彩で、彼はやっと僕を見ました。
「救いと、言うのか」
「えぇ。あなたが何と言おうとも」
「……そうか」
いつもどおりの呟きと共に、僕の手のひらの下で、彼の傷が閉じていきます。
夜蓋さんは背骨をたわめて身を起こし、変わらず白い手をこちらに伸ばしました。指先で僕の鱗を撫でて、耳元に口を寄せます。彼が話すためだけにする呼吸と、その声帯の震えが戻ってくる。ささやかに笑む気配はやっぱり、酷く優しい。
「リッカの言葉を信じよう」
それを聞いた瞬間、肺の奥まで息が通りました。
強張っていた筋肉がいっせいに緩んで、冷えた身体に血が廻りだす。目蓋が熱い。涙は血潮から作られるのです。
きっと僕はとてもひどいことをしたのでしょう。
でも良かった。
心から、良かったと思うのです。
「……さて」
僕の涙腺がやっと鎮まってきたころ。
夜蓋さんは僕の頭を数度撫でて、由希に向き直りました。
僕が蚊帳の外へやってしまったものですから、由希は、ナイフをぶらぶら揺らして完全にいじけています。
「なに」
「前言撤回だ。私はリッカを此処に留めるし、君を此処に住ませる気もない」
「はぁ?」
露骨に不機嫌な声が上がりました。
「なんでだよ。お前ばっかリッカと暮らすとかズルいじゃん」
「しかし、リッカに化け物を二匹も背負わせるわけにいかないだろう」
「そんなこと言って、リッカのこと独り占めしたいだけじゃないの」
「それもある。その上で、君と取引したい」
由希の眉がぴくりと上がります。警戒と、少し興味がそこに浮かびました。夜蓋さんは立ち上がるように真っ直ぐ身体をもたげ、由希の視線を受け止めます。
「私は今日一日、君のいかなる願いも叶えてみせよう。その代わり、君の喉を壊させてほしい。舌の根を削り、声帯を破り、喉仏を砕いて対価に」
「つまりは、俺の声を枯れさせろって?」
「あぁ。周囲が君に従うのはその声のせいだ。枯らせば、誰とでも話せるようになる。楽しいことばかりではないだろう。しばらくは思い通りにならぬ他者が煩わしく、時には怖ろしいかもしれないが……、すまない。頑張ってくれ。私はリッカを手放さない。だから代わりに、君へ、リッカ以外のすべての誰かを返そう」
僕の肋骨の中で、心臓がギュッと捩れます。
それがどういう感情なのだか、僕にはもうよく分かりませんでした。喜びなのか切なさなのか。
由希の手が、由希自身の、紅い鱗に覆われた喉を撫でました。
「ふーん? 完全に喋れなくするんじゃないんだ?」
「そうしたいところだが、それではリッカを気に病ませるだろう?」
「うぁ、何その分かってる風な言い方。リッカのことなら俺だって分かってるよ、この子が俺に「一生喋るな」なんてお願いするわけないだろ。俺はお前に嫌味言いたかっただけ!」
由希はナイフを放り捨てます。床に当たった刃先が、高く澄んだ音を立てました。
「取引なんかするか、ばーか。どっちも俺の願いで叶えるんだよ。リッカと同じ速さで歩ける脚がほしい。それから、俺の喉も壊してよ」
その言葉に、夜蓋さんは背骨を大きく撓めて、深いお辞儀を返します。
「承った」
そして彼は、自分の小指を、根本から噛み千切りました。
口元から落とされた肉は小さな飛魚となり、由希へ向かって真っ直ぐに泳いでいきました。




