序章 人魚のまがいもの ②
「……?」
呼気が、喉の奥に詰まります。声も出ない。開けた唇がむなしく震えます。あれ。なんでしょうこれ。僕は大げさにくちをパクパク動かして、夜蓋さんの顔をあおぎました。白いほほがこわばったのが、見えました。
「水を多く飲んだか」
するどく早い声で聞かれます。僕は首を横へふりました。そんなに、飲んでません。肺をひたすほどは。目の奥が、どくん、どくんと脈を打ちはじめます。苦しい。あたまがチカチカする。
やがいさんの顔がゆがむ。
「君の喉をひとひら、魚に変える。代わりに喉骨を一グラムもらう」
そう言って、かれは、ぼくの口に小指をさし入れました。
「受け入れるなら食べてくれ」
いみがわからない。
でもわかる。
たすけようとしてくれてる。
だからたべます。
かんで。
のみこむ。
瞬間、喉のつかえが消えました。
「は、ぁっ」
僕の頭がどれほど呑気でも、人間には本能というものがありましょう。吐いて吸って吐いて吸って、空気にがっつく勢いで身体が揺れます。口の中に血の臭いはしません。妙に簡単に食い千切ることのできた夜蓋さんの指は、香りも味もじんわりと甘く、林檎とか苺とか桃とか、バラ科の果物に似ていました。
その夜蓋さんの左手が、僕の後ろへ回されて、背に触れます。
「ゆっくり息を吐け。吸うために、深く吐く」
右腕では僕を確と抱きながら、彼はあくまで穏やかに話しました。波間の身体が妙に安定しているのは、夜蓋さんの尾が海底に届いているためでしょう。その頼もしさに身を任せ、アドバイスに従って深呼吸をします。数度繰り返せば肺はあっさり落ち着きを取り戻しました。
桟橋の方を見ると、もう三〇メートルは流されています。二人の女性は肩を寄せてへたりこんでいました。
「少し揺れるぞ」
夜蓋さんは僕を抱えなおし、桟橋へと戻り始めます。
警告どおり、泳ぐとも、歩くとも、這うとも表現しがたい動きに揺られました。確かなのは、僕が指を噛み千切った手も、海中に沈んでこの身体を支えてくれていることです。
「噛んだところ、傷、大丈夫ですか」
「問題ない。私のことより、君のことだ。もう一度聞くが水は飲んでいないか」
「少しだけです。それで、何が、何だか」
「おそらく乾性溺水だろう。咽頭が痙攣して気管が塞がる症状で少量の水でも起きる。元は肺に水が入るのを防ぐための反応だから、魚の性質を得れば治まる」
「さかな」
そういえば、喉を魚に変えるとか、おっしゃっていましたね。
鰓でも生えたのかと思いましたが、呼吸も発声も変わりはありません。それなら、と、僕はマフラーの下に指を潜り込ませます。喉仏の上にはよく知った薄く硬い感触が一枚。……鱗です。直感的に、色は真紅だと思いました。
「これって、あなたの指を食べたから?」
「あぁ。化生屋といって、客をひととき変化させるのが私の生業でな。普段は君のような人間ではなく、あやかし相手の仕事だが」
そして彼は歌うように言います。
『お望みのあなたをお貸しします。
お代はあなたを幾らかです。』
その売り文句に続けて、すまない、と、僕の命の恩人は何故か謝罪を口にしました。
「変化は明日には解ける。その時に対価をもらうことになるが……、喉骨を削り取られれば、君は声が少し変わるかも知れない」
「はぁ。別に構いませんし、お詫びは不要ですよ? 僕は助けてもらったんですから」
「まだ助かりきっていない。鱗が消えれば同時に痙攣が再開する可能性はある」
「では仮に明日死ぬとしても、一日分は助かりましたが」
貸し与えてもらった魚の性質のオマケか、冬の海に浸かってる割に声が震えてきません。相変わらずのんびりと述べた僕と対照的に、夜蓋さんは突然声を固くしました。
「リッカ」
「なんでしょう」
「質問する。答えてくれ」
「はい」
「ここは何処だ?」
「鳴仙島の船乗り場付近ですが」
「今日は何日だ?」
「二月十六日」
「君は誰だ?」
「鳴仙リッカ、十六歳、通信制ですが高校生。もしかして意識確認されてます?」
「している。私の名は?」
「夜蓋さん。あの、大丈夫ですよ。僕のリアクションが薄いのは別件のせいですから」
僕は着込んだハイネックごとマフラーを掴み、水を吸ったそれらの布を押し下げました。
夜蓋さんの眼が再び見開かれます。
その視界には僕の、赤黒い火傷跡に覆われた頸部が、晒されているはずでした。
「小さい頃、由希に焼かれたんです。そのトラウマだと思うんですけど、僕はどうにも、危機感とか恐怖感というものが、鈍くて」
それだけ伝えると、さっさと襟とマフラーを戻して首元を隠します。見ていて気分の良いものではないでしょう。
「ちなみに後天的な傷跡なんで僕は人魚じゃないですよ」
言ってから、「ん?」と自分で首を傾げます。
「今は鱗をもらったから、僕こそ本当に本物の人魚なんでしょうか」
「リッカがそう望むなら」
「絶対イヤです」
「では変わらず人間として扱おう。他に不調はないか?」
「ありません」
「そうか」
それきり夜蓋さんは何も言いませんでした。慰めや義憤のようなことは、何も。ありがたいことに僕には、彼の短く簡素な相槌が、好ましく感じられました。
僕達は港に帰り着きます。
ぐんと背伸びした夜蓋さんの手で、僕は桟橋の先に降ろされました。海から上がれば風の冷たさが身に沁みましたが、夜蓋さんが僕の襟元に息を吹きかけると、服を濡らす海水は無数の小魚となって波間にもどり、すっかり乾きました。
船長はこちらを気にしていましたが、無事と分かれば僕に手を貸す気などないらしく、船内へ戻っていきます。女性二人はショックから立ち直ったようで、僕の荷物を拾い、こちらへ駆けて来てくれました。
「あのっ、」
慌てた様子で何か言おうとした彼女達が、不意にぼんやりとした顔になります。そして、目の焦点を戻すなりホッとした表情を浮かべました。
「落ちちゃったかと思いました、良かったぁ」
どうやら僕の服が濡れていない事実に折り合いをつけるため、海に落ちたという記憶の方が歪んだようです。あやかしを見ない人には、こういうことはよくあります。
話を聞いてみると、僕は落ちるギリギリのところで夜蓋さんに助けてもらったことになっていました。
彼女達は夜蓋さんの骨も認識できないらしく、彼の白い顔を見て、ちょっと頬を赤らめるのみでした。
「えっと、どこか痛めたりしてないですか? スマホとか財布とか、壊したり落としたりしてませんか?」
「どこも怪我はしていませんし、貴重品はバッグに入れていたので大丈夫ですよ」
「……私も問題ない」
その後は、繰り返される感謝と恐縮をなだめて、僕は彼女たちを送り出しました。
ピンク髪の女性は最後にもう一度、頭を大きく下げます。
「本当にありがとうございました。これ、大事なものなんです」
それはそうでしょうね。
僕は彼女の隣に現れた、スーツ姿の男性を見ます。
インクのように黒い靴の足元には影がありません。持ち主同様に深々と頭を下げ、その付喪神さんはするんと万年筆の中へ消えました。
* * *
彼女たちが十分離れるまで待って、夜蓋さんが呟きます。
「バッグに、仕舞っていたか?」
「いませんね」
荷物を肩に掛けて、僕はポケットからスマホを取り出します。電源ボタンを押しますが反応はありません。
「物怖じがないと嘘も得意になるようですよ」
しれっと言う僕に夜蓋さんは複雑そうな顏をしましたが、お説教めいたことは口にしませんでした。代わりに出てきたのは「これからどこへ行く予定だ?」という質問です。
「押し売りとはいえ今や君は私の客。変化が解けるまで客に付き添うのが、私の方針なのだが」
「かまいませんよ。予定は何もありません」
その答えに、夜蓋さんは片眉を上げて僕のバッグを見ました。着替えや日用品で膨らんだそれは、『目的もなくふらりとお出かけに』、と考えるには大荷物です。
「家出か?」
「惜しい。由希に追い出されちゃったんですよ」
僕は重たいバッグを揺らして肩をすくめます。
「ヤツときたら傍若無人でしかたない。仲の悪い兄弟ですし、いずれこうなる覚悟はしてましたけれど」
「すまないが立ち入ったことを聞くぞ。何があった?」
「どうぞお立ち入りください。別に大したきっかけではないんですよ。僕からヤツに『歩けはするんだから読んだ本くらい自分で片付けてください』と、お説教しただけです。でも虫の居所が悪かったようで喧嘩になって、最終的には『出て行け』と申し渡されてしまいました」
「……それで君が追い出されるのか?」
「島外のひとなら、そう思いますよねぇ。でも、この島のみんなが『人魚様』を甘やかすから、甘やかさない僕は嫌われ者です。もう僕が追い出されたことは広まってるでしょうし、こうなれば島を出るしかありません。離島で村八分は真面目に生活が大変ですから。まったく、困ったものです」
「困ったどころの話ではないだろう」
危機感の死んでる僕に代わって、あやかしさんは至極まともに苦い声を出してくれました。
「保護者も『人魚』の味方なのか」
「実質的に由希が保護者です。母は数年前に亡くなって、父は長期入院中なので」
「……………」
夜蓋さんが額に手を当てます。頭痛でしょうか。僕のせいですね。数回眉間を揉んでから、彼は顔を上げました。
「リッカ」
「はい」
「君はこれから、どうしたい」
それはとても真摯な物言いでした。
「家に戻りたいなら、君たちの間に入る程度のことはしよう。戻りたくないなら、衣食住を揃えるのに手を貸そう。今は何も選べないのならば、ひととき休める場所を用意しよう。私はリッカの望みが知りたい」
望みですか。
くす、と、口から漏れかけた笑いを飲み込みます。この島で僕の望みが問われたのは、いつ以来のことでしょう。
「正直、そう問われると自分でもよく分からないですね。家に戻らなきゃと思うけれど……、この際、由希と距離を取るのもアリな気がして。希望としては、休息が一番近いのかな」
夜蓋さんは、やはり「そうか」と頷きました。
「では、良ければ、私のところへおいで」
渡りに船とはこのことか。
未成年者を平気で連れていけるのは人外ならではでしょうね。……その誘いを期待しなかったと言えば、嘘になります。
二つ返事で飛び付きそうになる気持ちを、僕は理性で止めました。冷遇には慣れた身ですが、飢えた子供と思われたくない程度の自尊心はあります。
「さすがにご迷惑では?」
「そんなこともないが、気が咎めるなら、私の店の住み込み助手として雇うのではどうだ。バイト代もきちんと出す。君のような人間の手を借りられるのは、私としても何かと助かるものだ」
夜蓋さんの左手が持ち上げられます。僕の齧った、小指の欠けた手です。傷口は赤黒い瘡蓋ではなく青紫の水晶に覆われていました。
おそらく彼は、その手で僕を誘おうとしたのでしょう。
けれど腕はこちらへ伸ばされることなく、彼自身の胸元へ引き戻されました。
「いや、これでは卑怯だな」
夜蓋さんの顔に苦笑が浮かびます。そして跪くように背骨を降ろして身を屈めると、下から、掬い上げる視線で僕を見ました。
「言い直そう。私を恐れぬ君は貴重な存在で、私はこの機を逃したくなくなった。君の傷を魅力だと感じる悪辣も、君の弱みに付け込む非道も認める。その上での懇願だ」
彼はあらためて、右手を僕に差し出します。
「リッカ。私の助けになってはくれまいか」
白いばかりの手を見つめて、数秒。
——まともに何かを恐れることもできない僕の、この碌でもない欠落を、欲してくれると言うなら。
僕は自分の右手をゆっくり持ち上げました。
そしてこれだけは強がりでも何でもなく、笑顔で言います。
「さてはあなた、嘘が吐けないタイプですね?」
僕はこのあやかしさんが、結構、好きかも知れません。