第3話 桜は何かに染められた ①
「人と会える身体をください」
薄紅色の少女はそうおっしゃいました。
三月一日、早朝。
僕と夜蓋さんは、とある中高一貫の女子校におりました。
まだ誰もいない時間。仲介者から受け取った校内図を頼りに忍び込んだのは、講堂のエントランスです。
僕が通っていた学校では講堂といえば体育館と併用でしたが、ここは独立した建物でした。白を基調とした上品な空間には、淡いタッチの油絵が飾られています。
それは横幅が二メートル以上もある、大きな桜の絵です。
数本の枝を捉えた構図で、薄紅の花が、満開前の絶妙なタイミングを描き出されています。こうして目の前に立っても雄しべの数がパッとは数え切れない、精緻な筆使いでした。絵の下に添えられた真鍮のカードには『初桜』という題名と制作年月日が記載されています。意外なことに、まだ描かれてから五十年も経っていません。
「お願いします」
お客様たる付喪神は、絵画の前に、半透明の女生徒の姿を現していました。
お化粧もしていないのに頬はほんのり色付き、唇は桜染めを重ねたように柔らかな色をしています。チャコール色のセーラー服がよく似合っていました。
夜蓋さんの手には、経口摂取のできないお客様向けに蝋燭として仕立てたご自身の『肉』があります。煙を浴びせて使うのだそうです。
化生屋はお客様へと問いかけます。
「肉体を望む理由は何だろうか」
「卒業式の後に会う約束をした友人がいます。その子に会うためにです」
桜さんの発言に、僕は違和感を覚えました。
会うために化けたい。それは裏を返せば、彼女が約束の相手と会えない身だということです。では約束自体はどんな手段で結ばれたのでしょうか。
「ご友人とは、どうやって知り合ったんですか?」
僕の疑問に桜さんは微笑んで答えてくれました。
「生徒にだけは私の姿が見えるんですよ。不思議ですよね。どのクラスでもない、連絡先も教えられない、お菓子を食べることもできない私を、誰も疑わないで慕ってくれる」
生徒と語らえるのが嬉しいのだと、彼女の顔が物語っていました。けれどその表情はすぐに曇り、目元が潤んでいきます。
「会うことができる『生徒』というのは、在校生だけなんです。卒業式を終えた子はたとえ三月末までは学籍があっても私を見つけられなくなります。きっと私と話した記憶もすぐに消えていくでしょう。本当はあんな約束してはいけませんでした。でも、断れなくて。あの子にどうしてもと頼まれたら……。いえ、言い訳は駄目ですね。私は誘われたのが嬉しかったんです。このエントランスで見送るだけでは寂しかった。それで、後先考えずに頷いてしまった」
桜さんは一度目を閉じると、意を決したように力強く自分の涙を拭いました。そして赤らんだ目元で夜蓋さんにしっかりと向き合い、深々と頭を下げます。
「お願いします。私はあの子が私にくれる言葉をどうしても知りたい。そしてどうか、私にあの子を言祝がせてください」
健気に垂れた黒髪に、夜蓋さんは告げました。
「承ろう」
対価を示す前に断言したのは、このお客様が代償を厭わないと判断したからでしょう。
顔をあげた桜さんは、まさに花の綻ぶように笑みました。
彼女達の約束は「二人きりで会う」という条件だったので、今回の付き添いは無しとなります。
変化の作り込みは、人間が見たり触れたりできる最低限に留め、臓腑の再現は行いません。対価は画布の繊維を薄皮一枚、具体的には〇.〇二ミリ分ほど。絵の具が塗られている表面にはなるべく影響がないよう裏側から削り取るそうです。
そういった詳細を詰めていたところ、桜さんがふと自分の唇に触れました。
「あの、お化粧はできますか。絵としての私に色移りしてしまいます?」
夜蓋さんは、ふむ、と絵に視線をやってから答えました。
「変化してから化粧を施した場合は、変化が解ける前にきれいに落とせば問題ない。それを怠れば君の懸念のとおり絵が汚れることになる。逆に最初から『化粧した顔』に化けるのであれば、変化中は化粧を落とせないが、君の本性にリスクはない」
「じゃあ、少しだけ。こんな感じに化けさせてほしいです」
桜さんが顔を両手で覆い隠します。その手が開かれると、可憐な少女は大人びた少女に変わっていました。目元は焦げ茶のアイラインとパール感のあるアイシャドウで立体感を引き立てられ、唇は生来の桜色に濡れたようなツヤだけを足されています。
「いつもはそちらのお顔で会ってるんですか?」
「まさか。お化粧は禁止ですよ。それに私は絵画の付喪神だから、自分の素顔に自信はあるんです」
「ではどうして?」
「特別感、でしょうか。あの子に会うためにお化粧したのだと気付いてもらえたら、うれしい気がして」
チークは入れずとも元から色付いている彼女の頬が、更に赤らみました。桜さんはその照れを誤魔化すように、髪を揺らして首を傾げます。
「どうでしょうか? 化生屋さま」
夜蓋さんは彼女の顔を近くで覗き込むと、頷いて答えました。
「問題ない。他に何か希望はあるか?」
「いいえ、大丈夫です」
「では最後に注意事項を。メイクに限った話でなく、仮にも肉体を作るということは、怪我や汚染のリスクも負うということだ。化身が傷を負えば君の本性も損傷する。その身が汚れたまま変化が解ければ、やはり絵としての君に汚れが移る。服や肌が汚れた時は洗うか拭うかでなるべく早く落とすように」
「分かりました」
「だが洗いすぎて皮膚をふやかしたり、皮脂を根こそぎにしてもいけない。それはそれで君の傷みに繋がりかねない」
「はい、気をつけます」
「できることなら生脚はやめてスカートの下にジャージを履いてほしいが」
「あら……。ご心配ありがとうございます。でも、ごめんなさい。美術品ですもの、見た目の美しさは譲れません」
「君の意思を尊重はしよう。だが、どうか気を付けて。伝令用のメモも渡しておくので、何かあれば連絡を」
夜蓋さんはインコの形に切られた紙を取り出して、桜さんのカンバスの裏へ挟みました。これだけ念押ししても彼は落ち着かないように尾骨を振るものだから、桜さんがくすくすと笑います。
「なんだか、親が心配性だと文句を言っていた子の気持ちが、ちょっと分かってしまいました」
そんな会話を交わした数時間後。
カンバスの生成り色をした公魚が、何も鳴かない白インコと共に帰って来て、この度のお仕事は終了したのでした。
* * *
そして、約二週間後。
僕は再びあの女子校を訪れていました。
前回と違って時刻はお昼。この学校は春休みが早めに始まるようで、校内の人気は少ないものです。とはいえ先生方や部活動に熱心な生徒さんは登校しているので、忍び込むには向かない時間帯ですが、人が居なくなる頃を見計らう余裕はなかったので仕方ありません。
そういうわけで僕はセーラー服を着ています。
頭にはセミロングのウィッグを被り、目立つ首元は幸いにも校則でOKだったハイネックのインナーで隠し、足には厚手のニーハイソックスを履き、胸はカップ付きキャミソールのカップ部分に丸めたハンドタオルを詰めて若干膨らませました。コルセットによるくびれ作成は夜蓋さんの許可が下りなかったのですが、あまり体のラインを見せないセーラー服ですから大丈夫でしょう。顔は元より女顔ですけれど、念には念を入れて化粧品店さんを頼り、厳しい先生にもバレないというあやかし式ナチュラルメイクで更に少女らしく仕立ててもらいました。
僕は不審でない程度の早足をキープして、講堂へと向かいます。
変装の甲斐あって、職員室の先生が窓越しに僕をチラリと見ても、不法侵入を咎めに飛び出てくることはありません。とはいえ、なるべく人目を避けるため、いったん裏庭へ抜けます。
そこには一体のブロンズ像と一人の女性がいました。
ブロンズ像はセーラ服の少女像で、祈るように両手を組んでいます。屋外用の処置をされているようで緑青に覆われることなく、全体がきれいに暗褐色をしていました。
女性の方は、白シャツ黒スカートに黒いジャケット姿で、まだ十代に見えます。教育実習生にしても若すぎるし時期でもありませんから、もしかすると今年の卒業生でしょうか。制服で来るか私服で来るか迷って地味な私服で来ました、といった格好に見えました。
彼女は下を向きながらうろついていて、落とし物でも探しているようです。その後ろをすり抜けるか、居なくなるまで待ってから通るか。植木の影に隠れて考えていると、ブロンズの少女像が女性のほうへと顔を向けました。
「ねぇ、あなた」
青銅の唇から、女性に声がかけられます。
しかし、人間には言動をまったく認識されないタイプのあやかしさんのようで、白シャツの女性は反応せずに離れていってしまいます。ブロンズ像さんは『困ったわ』と言うように自分の頬に手を当てて肩を落とした後、元通りにお祈りのポーズを取って固まりました。
ご助力したいところですが、今は先を急ぎましょう。
裏庭を抜けて迂回ルートを進み、僕は講堂にたどり着きます。重厚な扉に手を掛けると鍵は開いていました。
扉を引きます。
とたんに漏れ出て来たのは、むせ返るような血臭です。
ぬるりと、空気自体が粘性を帯びた錯覚さえありました。その濃密さに空咳が出て、首の傷跡が引き攣れます。
『苦しいか』
僕の足元、僕自身の影の中から、夜蓋さんの声がしました。
「いえ、大丈夫です」
僕は扉を開け切ってエントランスへと足を踏み入れます。
そこには、真っ赤な血溜まりが出来ていました。
桜の絵がすべての花から鮮血を垂れ流し、伝い落ちた血が、よく磨かれた床に広がり続けています。何匹もの黒い蟲がその周囲を飛び交っていました。蠅に似ていますが羽音の無い、あやかしです。おそらく流れ落ちる血にも実体はなく、この臭いも幻覚のはず。
さりとて、けして人体に良いものではないことは、本能的に理解できます。
僕はそれ以上近づくのをやめて絵を遠巻きに眺めました。目元に力を入れ、カメラレンズの焦点を調整するように、幻覚の奥に現実の絵だけを透かし見ます。すると、やや上の位置に描かれた一輪だけは、幻ではなく現実に紅色の何かで汚れていました。
「『桜の樹の下には死体が埋まっている』」
夜蓋さんが、僕の影から体半分を起こして言います。
「本来は白い花が、死体の血を吸って薄紅色に染まるのだという、有名な怪談だ」
「……死体の血が凝固も変色もしてない時間とかほんの一時でしょうし、そこに目を瞑っても血と桜では赤色の系統が違いませんか。人の血はヘモグロビンで、桜は、えっと」
「アントシアニン」
「別物ですよね?」
「あぁ。怪談の原典とされる梶井基次郎の小説『桜の樹の下には』でも、桜が吸うのは血ではなく腐液であり、花は不気味なほどに美しく咲くがその色には言及されていない」
「なんでそれが鮮血に変わったんですか。いや腐乱死体よりは血のほうがマシですけど」
「オレが思うに今キミが言ったのがそのまま理由のひとつじゃねーかなー?」
知らない声が会話に入って来ました。




