序章 人魚のまがいもの ①
僕を救ってくれたのは、背骨のきれいなご店主さんでした。
* * *
「もう船が来る」
背後から声をかけられて、僕は目を覚ましました。
曇天の海辺。真昼といえど二月半ばの空気に鼻先が冷えています。ベンチに腰掛けた僕のポケットで、スマホのアラームが虚しく鳴っていました。
船が、来る。
寝惚けた頭で聞き取った言葉に、見慣れた桟橋の方へと視線を向けます。ここは鳴仙島の船着き場。数十メートル先の海上で、小型船が白波を上げていました。
僕は何故に船など待っているのでしたっけ。
……。あぁ、そっか。
家を追い出されたんでしたね。
ぬるい諦念とともに、思考がゆっくり回り始めます。
かたわらのボストンバッグは、着替えやら高校のテキストやらを取り急ぎ詰め込んだもの。僕はこれから、あてもなく本土へと渡る予定でした。
しかし、待ち時間にほんの少し仮眠を取るつもりが、こんなに深く寝こけるとは。明日からの生活のアテもない身で、我ながら呑気なことです。
スマホのアラームは船の着岸予定に合わせてセットしたものでした。それを無視して眠り続ける僕を見かねて、誰かが起こしてくれたのでしょう。
僕は手探りでアラームを止めて立ち上がり、お礼を言うべく振り返ります。
そこに居たのは随分と彩度の低い青年でした。
面差しは二十代後半くらい。灰紫の両目に、白くて細い頬に、白くて長い髪。着込んだカットソーとコートはお葬式じみて真っ黒。
そして、それから、白い骨。
カットソーの裾より下にあるのは、下腹部や二本の脚ではなく、大蛇の骨でした。筋肉も血管も神経すらない背骨と肋骨が、港を固めたコンクリートの上に波打っています。
見知らぬあやかしさんです。
島外からのお客様でしょう。
僕が本土に出かけた時には、異形の彼らが、ヒトに混じって暮らしているのをちらほらと見かけました。どうも大多数の人間は、認識や記憶が歪んで、彼らの正体に気付かないようですが。
僕はあやかしさんを捉える眼を擦り、三重に巻いたマフラーを整え、頭を下げました。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
あやかしさんはハスキーボイスで穏やかに応じます。独特の掠れた響きは、剥き出しの背骨やがらんどうの腹に音が抜けていくためかも知れません。
会話に適した距離を探ってか、彼は胴を揺すり、少しだけ後ずさりました。腹の鱗がないものだから、その動きはよたよたとして、蛇の滑らかさとは程遠いものです。
「架け橋がご入用ですか」
僕はつい訊ねていました。
「橋?」
「船に乗り降りするのが、難儀ではありませんか。移動式のタラップならお貸しできますよ。スロープ型の」
言い足した僕の前で、あやかしさんは紫の眼を零れ落ちんばかりに見開きました。
「それを、私に?」
呟いてから、自分の聞いた言葉を確かめるように大きく瞬きます。睫毛がこれほど白いと、こんな曇天でも目元に光が散るのですね。
「ええ。必要でしたら」
「私は自力で海を渡るので、問題は無いが……」
「では余計なお世話でしたね。ご不快でしたら、すみません」
「不快になど微塵も思っていない。驚いただけだよ。君には私の骨が見えているのか」
「あ、はい。背骨と肋骨が、たくさん」
「……物怖じのない子だな」
驚愕を飲み込み終えたのか、彼は微笑んで、目を細めました。それがあまりに眩いものでも見るような顔だったので、僕は気軽な言葉では返事ができなくて、黙って頷きました。
あやかしさんは少し胴を倒して、小柄な僕に視線を合わせます。
「私の名はヤガイという。夜の蓋と書いて夜蓋だ。君は?」
「鳴仙リッカ。片仮名でリッカです」
「では、リッカ。あやかしを見る君に教えてほしい。この島に『人魚』がいるという話を聞いたのだが、真実だろうか?」
うわ。
白い喉からクソみたいな呼称が。
何やら神妙になっていた気分が吹き飛びました。そのまま「知りません」と吐き捨てそうになりましたが、耐えます。僕に親切心で声をかけてくれた方に不義理をするのもいけません。僕は気分の悪さを抑えて答えました。
「それはたぶん、由希ーー僕の、兄のことです」
『兄』と発音すると、厳重に巻いたマフラーの下で、喉の皮膚がひりつくような不快感がありました。古傷の痛みを掻き消したくて僕は早口で続けます。
「この島にあやかしさんは住んでいませんよ。『人魚』というのは方言みたいなものです。生まれつき脚が悪かったり、肌に特異がある人をそう呼ぶんです。あ、差別とか蔑称じゃなくて、むしろ尊称です。それで……、うちの人魚様に、会いたいですか?」
どうかNOとお答えください、と内心で祈りつつ訊ねます。その祈りは通じて、夜蓋さんは「いや」と首を振りました。
「遠慮しておく。私のような者が人間をみだりに訪ねるものではないよ。……話を聞かせてくれて、ありがとう」
夜蓋さんはそう言って、会話を終える合図をくれました。名残惜しむように尾骨が僕の足元へ回されて、踵に触れ、すぐに離れました。
「縁があれば、いつか、また」
「はい」
頷いた僕に、彼はざらりとコンクリートを擦って、身を翻します。
その背をしばし眺めたのち、僕も撫でられた踵を返して桟橋へ向かいました。
船はちょうど着岸を終えたところでした。船長は島の人間ですから、僕と目が合うなり嫌そうに顔をしかめます。僕はにこやかに手など振っておきました。
さて。
鳴仙島は小さな島ですが、最近はちらほらと観光客が来ます。
人口が百を超えない程度の土地から歌手や作曲家を幾人か輩出したことが噂となって、一種のパワースポット扱いされているようです。今も船からは、三人のお客さんが降りてきました。
それぞれ金髪とピンク髪の若い女性が二人、スーツ姿に黒い革靴の青年が一人。一見するとちぐはぐな三人組です。
予定でも確認するのか、こちらへ歩みながらピンク髪さんが手帳を取り出しました。
別に覗き見する気はありませんが、その手帳に目がいきます。
派手な手帳にはペンが一本掛けられていました。彼女のファッションとはテイストの違った、シンプルに黒い軸の万年筆です。金具はやや古びており、長年、大事に使われてきたに違いないものでした。
それは、ちょっとまずいのでは?
「あの」
発しようとした警告が強風に遮られます。
この時期この時間に吹く、地元民の僕にとってはよく知れた、観光客の彼女たちには不意打ちの突風です。風圧に耐えようと身体を縮こめた女性の手から手帳が飛ばされ、万年筆ごと、海へ。
スーツの男性が、あ、と絶望的な声を漏らします。
僕は反射的に飛び出していました。
荷物を放り出し、目一杯に伸ばした腕の先でギリギリ手帳を掴みます。もちろん万年筆ごとです。良し。いや良くない。
足が、桟橋から、離れる。
飛び出しすぎたと気付いたときには、身体はもう立て直しようがないほど傾いていました。海面がすぅっと迫ってきます。
……落ちるだけでは、馬鹿らしいですね。
気合で半身を捻り、持ち主の女性へ向けて手帳と万年筆を投げました。彼女は呆然としながらも両手でしっかり受け止めてくれます。
良かった。
今度こそ安堵しながら、僕の身体は海面に叩き付けられました。
痛い。
冷たい。
落ちた勢いで全身が一気に沈み込み、息を止めるのが間に合わず僅かに水を飲みます。海中で咳込みそうになるのを、口を押さえて無理矢理に堪えました。コートが波をはらんで押し流される。耳元で泡がゴボゴボ鳴っています。
なんとか咳を抑え込んで、僕は水を掻きました。
しかし水温が低すぎるのか、濡れた冬服が重すぎるのか、とにかく身体が動かない。邪魔なコートを脱ぎ捨てようとしますが、纏わり付く袖すら抜けません。これは、本格的に、まずい。死んだらどうしましょう。どうするのでしょう。このあたりの魚は人の死肉を好むという、兄さんの話は本当でしょうか……。
と。
誰かに、肩を掴まれました。
何ごとかと振り向くこともままならないうちに、強く引き寄せられ、腰を抱かれて、僕の身体は一気に押し上げられました。海面を割って頭が出ます。
「無事か!?」
叫んだのは夜蓋さんです。
あぁ。
僕は息を吐きました。
吐こうとしました。