君の箱庭が一番幸せだった
初めはただの興味だった。
日頃の鬱憤を晴らすために家を抜け出して街に行って、適当に散財して、そこそこに愛想振りまいて。で、その帰りにごみ溜めに倒れ込んでいた少年を見つけた。助けてくれと今にも消えそうな声で言うから。あぁ、そういえば最近も世話役がいなくなってたよなと思って。
そんなもんだよ、声をかけた理由なんて。
「じゃあ、私についてくる?」
「……ほんと、……ですか!」
ゴミ捨て場から男の子拾ってきたとそのまま説明すれば、戻してきなさいと言われるに決まっている。だから。
「私の生き別れた弟です」
「そんな子はいません」
秒でバレたけど。
お母様に言っちゃったのはさすがにまずかったな。結局鉄拳を喰らいつつ必死に説得したら、少年は側付きの使用人として雇ってもらえることになった。
「これからよろしく。ところで立場上私の側近になるみたいだけど、大丈夫? 兄たちに付く方が出世はしやすいと思うよ」
「大丈夫ですよ。あなたに恩を返したいんです」
「ほー、それは律儀なことで」
困ったように笑う少年、もとい紫乃くん。
これからよろしくと差し出した手を遠慮がちに握ってくれる優しい子である。あの日から随分と顔色も良くなって、こうして今日から仕えてくれることになった。
父を説得するのが一番の難関ではあったけれど、いくら私が庶子とはいえあまりに放置しすぎるのも対外的にどうなんでしょうねと仄めかしたら、非常に苦々しい顔をしながら了承していただけたし。
「お父様が賢い方で良かった」
「アレは脅しですよ」
「交渉だよ♡」
子は親の背中を見て育つと言いますよね。
あっ、そんな引いた顔して見ないでよ。
それでも雇われの身とはいえ、彼にはかなりの負担がかかる。今つけている教育係も執事も外して、彼一人に私に関するほとんどの業務を任せることが条件だった。
「いやぁ、かなり節約に踏み切ったねお父サマ」
「あなた危機感とかないんですか?」
「拾い食いしたいお年頃だからね」
「犬に拾われたつもりはなかったんですけど」
彼の衣食住を保障すると言ったって、今の私にかけられている教育費などに掛かる金と手間を考えるとかなり安く上がるだろうから。失敗してもすぐに切り捨てられるし、庶子がどうなろうとどうでもよいと思われていることくらい容易に察する。
同世代の友達などいないに等しいので私はむしろ嬉しいくらいなのだが、紫乃くんからすると色々と押し付けられすぎて可哀想だ。
「仕事、大変だと思うから無理はしちゃダメだよ。私の世話は最低限でいい」
「側仕えが主人の世話をしない訳ないでしょう? あなたこそ心配しないで、僕に任せてください。がんばりますから」
ぐっと拳をつくって張り切る様子が微笑ましい。無理をするなと言っても無理する性格なんだろうな。私のために何かを身に付けて教えようとも意味はないが、それが後に彼のためになるかもしれないから頑張るなとは言えない。
だから今、言えることがあるとすれば。
「紫乃くんがしたいことなら、何でも応援するよ」
いずれこんな家捨てて出ていくだろうけれど。せめてこの家にいる間だけでも、盾になれたらと。
「……そうですか」
そう思って言ったとき、彼はどんな表情をしていただろうか。
□
「何を考えているんです?」
彼の一言で、現実を思い出した。
紫乃と初めて会ったときのことだと伝えれば、あぁなるほどと。
真上にある表情が作られた笑顔ということしかわからないで、何か得体の知れないものを相手にしているようだった。寝台に縫い付けられた手首にかかる重さと、彼が身動ぎしたときにする香りだけが本人であるという手掛かり。
…… 。
なぜ、こんなことになったんだったか。
君を解雇すると伝えて、呆然とした様子のままの彼を残して立ち去ろうとして、……腕を掴まれてそのまま押し倒されて。
まぁ不当解雇だし。殴るのも無理はないと思い目を瞑って待っていると、降ってきたのは拳ではなく柔らかいもの。そして頭真っ白。
「あの頃は、純粋だったなと思って」
「そう思っていたのはあなただけですよ」
何も知らなさすぎたと言うけれど。あの時は箱に閉じ込められたままでたまに抜け出したときに見えるものしかわからない、外を教えてくれる大人もいない、教育だって読めもしない本を投げ渡されるだけ。そんな中で何を知ることができたと言うのだろう。
「だから教えて差し上げたでしょう? 常識も教養も不文律も勉学も、……快楽も」
それが問題なんだ。
紫乃から教えられたことしか知らない。
どんなに偏っていても、私にはそれがおかしいかどうかさえわからない。
「……怖いんだよ」
もしあなたが、いなくなったときに。
何も知らないままだったことに気付くのが怖いんだ。私が知っていると思っていることが、紫乃がいたから成立していたことだったってわかるのが。
「僕があなたを置いてどこかへ消えると、本気でお思いですか?」
「…………」
そうは言うけどさ。
家での立場は悪い、期待されない、要領も悪い、性格も素直じゃない、一人じゃ何もできない。紫乃の盾になれたらなんて思ってたくせに、何もしてあげられない。環境なんて最悪だ。外へ出れば自由になれるのに。
ただ、あの日偶々紫乃を見つけて拾っただけの、できの悪い仮初主人のためにどこへも行かないなんてさ。現実的に考えてあり得ないほどバカな選択な訳で。
「拾った恩なんて充分返してもらったよ。父は死んで兄は君との雇用契約を破棄した。もう私の世話なんかしなくていいし、自由になれる。だから解雇だ。退職金は好きなだけもっていくといい。何もしてあげられなかったけど私は、」
「僕のしたいことなら何でも。応援してくれるんですよね、すみれ様」
これまで然程動かなかった紫乃の表情が、何か圧をかけるように凄みを増した。忘れたとは言わせねぇからな、という強いメッセージが込められている気がするのだが。
「っあぁ、それはもちろん、私にできることなら何だって──」
当然覚えていると必死に返すと、作られたままだったものがようやくいつもの笑顔に戻っていったから、嬉しくて口元が緩んだ。
彼が何を考えているのか、先ほど何をされたのか。今がどんな状況なのかさえ、私はすぐに忘れてしまうほど愚かだから。
「それなら、僕と死んでください」
「……は?」
いつだって応援してくれるんですよね、と。
微笑まれたが、せっかく自由になれる機会を放棄してなぜそんなことを。
「気付いてたでしょ、僕の気持ち。」
「……、……」
ひたりと、彼の右手が首の横に差し込まれた。
ゆるりと首を囲うように添えられた手。
動揺を隠すために押し殺した声が、喉の動きを通して図られているみたいだった。彼は私の言いたいことを読み取ったかのように、美しく微笑む。
「知らないフリして接してたみたいですけど、釘を刺さなかったのはどうしてですか。自然に消えると思ってたから? 四六時中一緒にいてあなたのことばかり考えているのに?」
「……そんなのは、一瞬の気の迷いでしかない。成長期に伴ってそういう感情を抱くのは正常だ。近場にいた女がたまたま私だった、それだけなんだ。だから何も言わず時が過ぎるのを待って、」
「待てを喰らい続けた僕がどうなるかなんて考えが及ばないほど、馬鹿じゃないでしょうに」
「ッ壊したくなかったんだってば!」
私にとって唯一だ。
関係を壊したくなかった。嫌われたくなかった。失いたくなかった。
……また、紫乃が来てくれる前の虚しい日々に戻りたくなかった。
「私だって必死だった。すごく大切で、だから紫乃さえ傍にいてくれればいいと思ってたよ。けど、それは足枷になるだろ。いずれ出ていくのにそんなのあっちゃいけないし、何より私が許せないんだ」
けどどうしても消えないから。
苦しい。今だけは忘れたい。そうやって後回しにしていたせいで、最後まで冷たく突き放すこともできない。もうどうすればいい、と情けなくこぼした私を慰めるように、ゆるりと押し付けられた唇からこぼれたのは。
「消さなくていいじゃないですか。あなたは死ぬまで、僕しか知らないままでいいんだから」
最愛の最期を奪うのは僕でありたい、と。
いつの間に仕込んだのか、彼の舌を使って押し込められた錠剤。体に掛かる重みのある温もり。
……どうやって逃げられると言うんだ、こんな要塞。
それならばと背中に腕を回し、強く抱き込む。
「一生分、愛してくれ」
濡れて美しく揺らめいた瞳が、“私”の最期の記憶だった。