「死」まで、あと・・・
夕暮れ、薄暗い中、藤堂の後ろに立つ人影は、アカマントと名乗った。
藤堂は、今、ぼんやりと死を覚悟する。
そういえばそこの人、さっきから視線を感じませんか?
閑静な住宅街から一歩はずれた裏路地に、二人の人影があった。
藤堂の右は家とビルの側面。左は住宅の裏口が連なる。道幅は3メートルで、車は通行禁止。
藤堂が左右に逃げられる余地は無い。
改めて肩に手を置いた人を見る。いや、恐怖で足が動かず、見るハメになった。
真っ赤な背高帽に隠れた顔は良く見えない。しかしその双眸だけは、虚ろな光をたたえ、藤堂は言いようもない不安に駆られた。
藤堂は震えていた。それは恐怖というよりは、底知れぬ不安だった。この状況下で鬱になっていたのだ。それを引き起こすほどに、相手の顔は暗く、死を臭わせる虚無さを孕んでいた。
藤堂はぼうっと、あぁ自分は死ぬんだな、と客観的に死を受け入れた。そう、死を考える。命が止まり、意識もなくなり、もう二度と学校にも行けず、未来を見ることもない。全てを捨てて、目も見えず、四肢も動かせない。暗闇に自分が牢獄され、二度と意識を取り戻すことはない。それを考え死の恐怖に襲われつつも、死んでもいいやと何処かで受け入れていた。
そう思いを巡らすと、ふいに肩に置かれた手の力が緩む。
藤堂は虚ろな気分を抱えたまま、前を向く。
そしてただただ自分の死について考えながら嘔吐した。
口に残った不快感の最後の一滴を、藤堂はツバと一緒に吐き出した。
藤堂
「・・・?」
未だ口に残る苦みを、死が近づいている絶望と共に飲み込み、ふと感じた違和感の元を探る。
肩だ。
おかしい。
アカマントと名乗った人は、自分の肩口から手を放したハズだ。
だがなぜ?
藤堂は吐瀉物で汚れた顔を後ろに向ける。
アカマントは立っている。
変わったところはない。手は開いて横に垂らしている。
藤堂
(・・・・?)
次第にズキズキしてくる肩に手をやると、鉄が左肩から生えていた。
藤堂
(なんだ・・・ナイフがこんなとこにあるじゃないか)
ひりひりした痛みが、藤堂を徐々に覚醒させる。
藤堂は不注意に伸ばしていた手で、肩口に生えているナイフに手を掛ける。
すると、ズギンッ、とした痛みが藤堂の覚醒に拍車をかけた。
藤堂
(刺された!?・・・・・・・殺される!?)
藤堂が感じていた恐怖の対象が自分の死であることに変わらなかったが、もっと切迫した脅迫的な痛みが身体を貫き、それに押し出されるように、藤堂は駆けた。
走ると痛みが増すが、そんな事は言っていられない。冷静に「骨が切られたわけではない。走れるはずだ」と、先ほど通報した公園に駆け込んだ。
警察官は来ていなかった。
後ろを見ると、アカマントは来ていなかったが、藤堂には必ず追ってくるだろうという確信めいた強迫観念があった。
急いで公衆便所を探し、真っ暗な中、奥から3番目に隠れる。
ドアを締める瞬間、血が垂れていたのに気付いた。これでは場所が知れてしまう。場所を変えようと思うも、もう来るであろうアカマントを恐れ、鍵を閉めた。あまりに勢い良く駆け込んだ為、ショルダーバッグの中身を便器の近くにブチ撒いてしまった。そのうちのいくつかは、汚れた和式便所の中に落ちた。
藤堂は痛みを堪えながら、空かぬようトイレの鍵を握っている。身体が熱い。相変わらずナイフは肩に刺さったままだ。
ブチ撒いた数学ノートや、ナイフが当たって穴があいたのであろう家庭科の裁縫セット、化学の教科書を見ながら、もうこれらを使うこともないのかな、と思って、いとおしそうにそれらを眺めていると、
カツンッ
カツンッ
と足音がした。
恐怖で身体がこわばる。
殺される。
???
「どうしましたか!?通報者の方ですか!?」
藤堂は思い出す。オペレーターに電話したのは、およそ10分前。警察が今着いたのだ。
???
「藤堂クンですか!?」そう叫ぶと、トイレとは反対方向に「救急隊に応援をッ!!要救助者ッ!!」と怒号を飛ばした。
藤堂は涙をボロボロ流しながら、良かったぁ、とひとりごちた。安堵感と共に放尿しているが、そんなことはどうでもいい。これで病院に行けば助かるのだ。
今、藤堂は感謝していた。警察が来てくれたこと、自分から犯人を遠ざけてくれているであろうこと。オペレーターの手早さ、捜査員の迅速さ、その全てに畏敬の念すら抱いていた。
良かった・・・本当に良かった・・・。
とりあえず鍵を開けて身を乗り出す。足のふるえで思うように身を乗り出せない。それもそうだ。藤堂自身こんなに自分が緊張状態にあったことはない。それが解けたのだ。筋肉は弛緩仕切っている。なぁに、あとは鍵だけ空けて待っていればいい。
藤堂は和式便所に散らばった学校用具に目を移す。こんな不潔なところに落ちてしまった用具をもう一度使う気にはならないな、と笑い、でも家庭科の裁縫セットはケースに入っているから中身は無事かも。そう、急に現実的になりながら、その裁縫セットを空けて確認した。中には裁ち鋏とマチ針が入っている。フェルト生地もすこし。裁ち鋏を握って思う。ナイフなんて、これより殺傷能力あるだろ。ダメだよこんなものを人に向けちゃあ。
足音がトイレのそばに近づき、藤堂も合わせて、もう一度身を乗り出す。今回は上半身ごとドアから勢い良く出す。肩が痛んだが、どうせ今から治療するんだ、と開き直る。
しかし警察官は居ない。藤堂は「あ、応援呼びに言ったのね・・・俺を介抱しなさいよ全く・・・」と苦笑すると
「アカマント、着セテヤロウカ?」
藤堂は電流が流れたように身体を緊張させて後ろを見ると、先ほどのアカマントが壁際に居た。
素手を相手に、しかし言いようもない不気味さから、藤堂は先ほどよりも恐怖していた。
アカマントは足を動かしているふうもなく、藤堂に詰め寄る。やはり顔は暗闇で見えない。
ドンッ
突然藤堂は不意にアカマントの顔に裁ち鋏を突き刺した。
藤堂は無意識に、正当防衛を行っていた。それは普段の藤堂から考えると、そんな機転を効かせることが出来る分けないのに、と、誰もが疑問に思うだろう。しかし、窮鼠猫を噛むとは正にこのこと。人間の本能が動かしたというのか、兎に角藤堂はアカマントに一矢報いる事が出来た。
藤堂が賢かったのは、さらに追撃しなかったことにあると評価出来る。
藤堂は素早く、しかし足取りおぼつかず、トイレから脱出しようと試みた。勿論裁ち鋏は抜いていた。
アカマントは、一瞬動きが止まったものの、ダメージなど無いかのように動き出した。手には別のナイフが握られている。藤堂が追撃を決めていれば、間違いなく、躊躇無く返り討ちにされていたであろう。
藤堂は、ほうほうの体でトイレから出ると、向こうに何人か男性が見えた。固まって喋っている。
スル・・・ズル・・・・
アカマントが距離を詰めようと、トイレの中からこちらへ寄ってくるのが、走りながらでも感じられた。
藤堂は兎に角その男性達の元へ向かうと、それは制服の警察官だった。
警戒しないわけでもなかったが、走りながら恐怖から逃げている藤堂にはそれを確かめる余裕はなく、「助けてくれ!!!!!」と叫んで倒れた。
警官達は藤堂を囲み「大丈夫ですか!?」と叫んでいる。それを遠くのことのように聞きながら、藤堂は意識を失った。
ようやく藤堂が手に入れた贅沢であった。