嘘と後悔、そして愛
暗い室内をランプがほんのりと照らす。大きなベッドに腰掛けた新妻ソニアは今日会ったばかりの夫・リカルドを待っていた。
大人たちの事情により急遽決められた結婚。騎士団長として多忙な夫とは事前に一度も顔を合わさぬまま、王都から遠く離れたこの土地に嫁いできたソニア。何もかもが不安な船出。カタカタと窓を揺らす風の音が、ソニアの心もかき乱した。
やがてドアがノックされた。はい、と震える声で返事をするとガチャリとドアが開き大きな影がすっと入ってくる。
「すまない。待たせたようだ」
落ち着いた低い声が耳に心地いい。式の間撫で付けていた黒髪が額に下ろされて鋭い目が隠れているからか、昼間より少しだけ幼く見える。
リカルド・ジラルディ。王国の辺境騎士団長であり現国王陛下の末の弟でもある。陛下に王子が二人誕生して王位継承権が下位となったことで侯爵の地位を賜り、ここステッラに領地を得た。辺境ではあるが豊かな土地であり、隣国からの侵入を防ぐ上でも彼がこの地にいることは適任であった。
類まれな身体能力ゆえに早くから騎士として頭角を現したリカルド。王弟だから出世したのだと言われることを嫌い、志願して何度も危険な地域へと赴いた。そうすることで下の者たちにも認められていき、実力で騎士団長になったのである。
そんな彼も気づけば25歳を過ぎ、世間では妻子がいて当然の年齢となっていた。それなのに浮いた噂の一つもない弟を心配した陛下が勝手に決めた結婚相手が、フィオレンツァ伯爵令嬢・ソニアなのである。
ソニア・フィオレンツァは15歳。蜂蜜のように滑らかで豊かな金髪とアメシストのように輝く紫の瞳を持つ、美しい少女だ。しかし夢見がちなその表情はあまりにもいとけなく、妻と呼ぶには頼りない印象であった。
幼い妻の隣に腰掛けその小さな肩を見下ろすと、微かに震えている。
「……私が、怖いか」
「いえ……そんなことは」
「王命とはいえ十も年上の男に嫁ぐことになったのだ。さぞ不安だと思う」
するとソニアはその美しい瞳からぽろりと涙をこぼした。
「申し訳ございません……私……夜のお務めが……怖くて……」
リカルドは頷いた。もとより、このような幼い少女を抱くなどと、自分でも納得がいかなかった。せめて、もう少し大人になってからでないと。
「そうだな。しかも君は昨日ここステッラに着いたばかり。休む間もなく式に臨み、疲れも溜まっているはずだ。今日はこのまま、別々に眠ろう」
ソニアの手を取ってベッドから立ち上がらせると、掛布をめくり、横になるよう促した。
「リカルド様は……?」
「ここは夫婦の寝室だが、隣に私室がある。私はそちらで寝ることにしよう」
「よろしいのでしょうか……そんな」
「ああ。君にはまず、この街を知り、気に入ってもらいたい。そのために私も城の者たちも全力を尽くそう。そしてお互いを深く理解し、君がそうしたいと思うまで……部屋は別室でかまわない」
「リカルド様……ありがとうございます」
夫を見上げるソニアの瞳は潤んでいた。
「では明日、朝食の席で待っている」
そう言って部屋を出て行くリカルド。ドアが閉まるとソニアはランプの灯りを消し、ベッドに潜り込む。長旅の疲れ、一人ぼっちで初めての土地にいる緊張。すべてが襲い掛かり、急激にまぶたが重くなってきた。
「優しい方で良かったわ……ディーノ、私、純潔を守ることができてよ……」
小さな声で呟いて、すぐに眠りの中に落ちて行った。
「おはようございます、リカルド様」
「おはようソニア。よく眠れたか?」
「はい、それはもう。ベッドがとてもふかふかで清潔で……夢のような寝心地でした」
リカルドは少し憐れむような顔をした。ソニアがフィオレンツァ家で邪魔者扱いされているという話を噂で聞いていたからだ。
先妻の子であるソニアは後妻に疎まれて育ったのだという。後妻が娘と息子を相次いで産みその地位を確立してからは、なおさら当たりがきつくなったとも。
今回の縁談も、王都を離れ辺境の地に嫁いでくれる適齢の娘がいなかったため、うちの娘はまだ若いがどうでしょうかとフィオレンツァ伯爵自ら手を挙げたのである。『邪魔者はいなくなるし王家に恩を売れるし一石二鳥』というところだろう。
ベッドの話で無邪気な笑顔を見せるソニアに、リカルドも微笑みを返してから侍女に合図を送る。
「それは良かった。では朝食を始めようか」
朝食はソニアにとって素晴らしいものだった。新鮮な野菜のサラダ、柔らかな白いパン、塩気の効いたベーコン。フルーツは何種類も用意されている。
「まあ……」
頬を赤くして喜び、次々と平らげていくソニア。伯爵令嬢としては少々はしたない姿かもしれないが、それよりも若い食欲が勝っていた。
満足げな表情で食後のお茶を飲むソニアに、リカルドは馬車で外に出ることを提案した。
「新婚だから一週間休みが取れた。旅行に行くことも考えたが、それよりも我が領地を見てもらいたい。毎日、場所を変えて案内しよう」
「はい! ありがとうございます」
外出着に着替えリカルドのエスコートで馬車へと向かった。隣に並ぶとソニアの頭はリカルドの肩よりも低い。目を見て話すにはかなり上を向かなければ難しい。分厚い胸、高い腰の位置。馬車に乗るときに手を乗せると、固く大きな手はびくともせずソニアをふわりと持ち上げた。華奢で小さな自分とは違う、大人の男の人なのだと感じた。
「今日はまず南のほうへ行こう。王都よりは北になるが、それでも我がステッラの中では暖かく豊かな地方だ。ここでは多くの作物が育つ」
金色に広がる麦畑を目を細めて眺めるリカルド。作業中の農民たちが帽子を取って彼に挨拶をする。
「領民たちに慕われていらっしゃるのですね」
「私の初めての領地だからな。皆を幸せにしたいと思ってやってきた。とはいえ、私は遠征に出ていることが多いから、留守を預かる家令が優秀なのだが」
「……優秀な家令が仕えているということは、リカルド様が素晴らしい方だからですわね」
リカルドは少し驚いた目をしたがすぐに笑みを浮かべた。意外に幼いだけではないと思ったようであった。
こうして一週間かけて二人はステッラのあちこちを見て回った。愛らしいソニアは領民たちに歓迎され、祝福の言葉を行く先々でかけられた。このように誉められ肯定されることはソニアにとって初めてのことだ。
「リカルド様、私、ここに来てから毎日が楽しいですわ」
実際、ソニアは幸せそうに見えた。美味しい食事、明るい太陽の光、優しい使用人たち。夫はいつも穏やかで、義母のように怒鳴ることもない。華奢だったソニアの身体は心持ちふっくらとし、頬は赤みを増して透き通る白肌にますます磨きがかかった。
それでも、ソニアはまだ寝室を共にしない。そしてリカルドもそれについて妻に何も言わなかった。
侍女頭や家令は二人がまだ真実の夫婦になっていないことに気がついていたが、何か考えがあってのことだろうと思い口をつぐんでいた。
やがて一年が経った頃、ステッラ城に王宮から招待状が届いた。
「第一王子殿下の立太子式への招待状だ。さすがにこれは出席しなければならないだろう」
騎士団の任務に忙しいリカルドは、極力宮中行事には参加してこなかった。たかだか舞踏会などのために一週間もかけて王都へ向かうなど無駄の極みという考えだ。そのためソニアもこの一年、ステッラから出ることはなかった。
「式はひと月後だ。もちろんソニア、君にも妻として出席してもらいたい」
「もちろんですわ、リカルド様」
「先月仕上がったドレスとアクセサリー、もう一度衣装合わせをしておいてくれ」
立太子式がそろそろだと噂されていたため、リカルドは早めにドレスメイカーを呼んで参列用のドレスを作らせていた。そのドレスは16歳になったソニアの可憐さを見事に引き出していた。しかし育ちざかりの身体はたったひと月でも丸みを加え女らしく変わっていく。だからフィット具合を確かめ直す必要があった。
「わかりました」
裁縫係の侍女と共にドレスを試着すると、ウエストは余裕があったが胸が少しきつくなっているような気がした。
「これくらいならコルセットでなんとかなりそうですわね。でも当日までは、少しお食事を控えましょうか」
「食事制限は辛いけど仕方がないわね。この素晴らしいドレスは絶対に着たいんだもの」
リカルドは最高級の生地とレースでドレスを仕立ててくれた。ウエディングドレスですら実家が用意してくれたのは簡素な既製品だったソニアは、自分のために作られたその美しいドレスをうっとりと撫でた。
「そうですわね。旦那様があれほどまでにドレスに注文をつけただけあって、奥様に本当によく似合ってらっしゃいますもの。ぜひ、万全なスタイルで着ていただきたいですから頑張ってくださいませ」
ドレスメイカーを呼んで仕立ててもらうことが初めてだったソニアは、打ち合わせの時まごまごして何も意見が言えなかった。するとリカルドがひょいと覗き込み、あれこれとアドバイスをしながらソニアの望むようなデザインにしてくれたのだ。
「旦那様は奥様の魅力をよくわかってらっしゃいますわ。さすが、愛ですわねえ」
鏡越しにニコニコと話し掛けてくる侍女に、ソニアは曖昧な微笑みを返すしかなかった。
「どうだ、一年ぶりの王都は」
馬車の窓にぴったりと顔を寄せて外を見ているソニアに、リカルドが笑いをこらえた声で尋ねる。
「あっ……すみません。はしたないことを」
「ふっ……見たければいくらでも見ていいぞ。懐かしいのだろう」
リカルドはそう言ったが、実は逆であった。15年間暮らしたはずの街なのに、懐かしいという気持ちがほとんど湧いてこない。店が多く人や馬車の往来も激しい街並みを、ごみごみして息苦しいな、とソニアは感じていた。金色の畑、緑豊かな森、静かに流れる川、冬には雪が降る山々……ステッラの自然のほうがすでに懐かしい。
(たった一年でこんな風に思うなんて……)
やがて馬車は静かにジラルディ家のタウンハウスに到着した。これから一週間、この屋敷で過ごすのだ。さほど大きくはないが、落ち着いた温かみのある屋敷である。
「フィオレンツァ伯爵家に里帰りしたいなら、行ってきてもかまわないが……」
「いえ、その必要はありません。私が訪れても誰も喜びませんし」
サバサバと答えたつもりのソニアだったが、リカルドに頭をぽんぽんとされると少し目頭が熱くなった。リカルドは、近頃こうしてよくソニアの頭を撫でる。どういう気持ちからなのかソニアにはわかりかねていたが、悪い気はしなかった。
「では二人で王都を楽しむことにしよう。一休みしたらカフェにでも行ってみるか」
「ええ、ぜひ! ステッラにはパン屋はあるけれどカフェはありませんものね」
それから二人は街のあちこちを見て回って幾日か過ごし、ついに立太子式当日を迎えた。
「支度はできたか、ソニア」
「はい、リカルド様」
部屋に入ってきたリカルドを見てソニアは思わず感嘆のため息をついた。きちんと髪を撫で付け、王家に繋がる者であることを示す勲章を胸に光らせた彼は、やはりその尊い出自をうかがわせる。リカルドのほうもソニアを見るとにこりと笑い呟いた。
「やはりよく似合うな。ネックレスもその大きさにして良かった」
ティアラとイヤリング、ネックレスはすべて希少なピンクダイヤモンドを使っている。この一年で背も伸びて首がすんなりと長くなってきたこともあり、大きなネックレスも違和感なく喉元に収まっていた。
「ありがとうございます。こんなに素晴らしいものを用意していただいて本当に嬉しいですわ」
「騎士団長の妻なのだから当然だ。今日は皆に紹介して回らなければならないから、申し訳ないがつきあってもらうぞ」
「はい、もちろんです」
立太子式は教会の中央に敷かれた赤いカーペットの上で行われた。その両側、左右に分かれて王族・貴族が座っている。
古式にのっとった式の荘厳さに胸をうたれながら眺めていたソニア。ふと向かい側の席を見ると、フィオレンツァ伯爵夫妻――つまり、ソニアの父と義母――と目が合った。義母は鼻に皴を寄せツンと横を向いてしまったし、父は気まずそうに目を逸らし隣に座る幼い息子に話し掛ける素振りをした。
(やっぱり、私のことなんて何も気にかけていないんだわ)
ずっと不遇だった実家での自分を思い出し悲しい気持ちになったソニア。そのまま他の貴族のほうまで目をやると――
(あっ……ディーノ……!)
かなり末席ではあるが、懐かしいディーノ・マルコーニが座っていた。ソニアは彼から目を離すことができず、必死で合図を送る。
(ディーノ! 私はここよ! 気づいて)
だが前方を見つめたままのディーノとは最後まで目が合うことがなかった。
(席が離れているからかもしれないわ。この後の祝賀パーティーで話ができたら……)
立太子式は滞りなく終了し、人々はパーティーに参加するため教会から王宮の大広間へと場所を移した。ソニアはリカルドとともに大勢の賓客に挨拶し、会話し、笑顔を振りまき続ける。いつまでも終わらない苦行のように思われたが、ついにその時が訪れた。ようやく務めを終えたソニアの手を取り壁際のソファに座らせるリカルド。
「疲れただろう、ソニア。ここでしばらく休んでいてくれ。私は少し陛下や兄たちと話をしてくる」
「ええ、いってらっしゃいませ」
王弟でもあるリカルドはこういう時に家族水入らずで話す時間を設けられている。彼の姿がドアの向こうに消えると、ソニアは立ち上がりディーノの姿を探した。
(どこに……どこにいるの、ディーノ)
人混みをすり抜けながら五分ほど経った頃、ようやく懐かしい鳶色の髪を見つけた。
「……ディーノ!」
その声に反応したディーノと目が合い、ソニアは軽く手を挙げた。そして急いで彼のもとへ向かう。
「ディーノ! 会いたかったわ」
「……やあ、ソニア」
ディーノの目には明らかに困惑の色が見える。ソニアは軽い不安を覚えた。
「ディーノ、本当に久しぶり……私との約束、覚えてる?」
「ちょ、ちょっと待って、ソニア……ここでは話しにくいから、あっちへ行こう」
ディーノに促されソニアは中庭へと出て行った。
大広間の灯りが庭を照らしている。花壇の奥のガゼボではどこかの恋人たちが語らい合っているようだが、ディーノは周りを窺いながら人のいない木陰に歩を進めた。
「ディーノ、すごく背が伸びたわね。もうすっかり大人の男の人だわ」
「あ、ああ……ソニアも元気そうだな」
「ええ。夫のリカルド様はとてもお優しくて、良い方なの。田舎の気候も私には合っていて、毎日穏やかに暮らしているわ」
するとディーノは顔を輝かせてソニアに目を向けた。そういえばさっきまで、下をむくばかりでソニアの顔を見ていなかった気がする。
「そ、そうか! 結婚生活が幸せなんだな。良かった……」
「そうなの。思っていたよりも素敵な生活をさせていただいてるわ。だからリカルド様には感謝してもしきれないの。でも……それでも私はあなたが好き。あなたへの初恋をずっと胸にしまったまま大切にしてきたの。あなたが立派な騎士になるその日まで私は純潔を保って待っているから、早く迎えにきてね」
「え! 純潔って……どういうことだ? 君は、ジラルディ侯爵と夫婦になったんだろう?」
「まだ身体には触れられていないわ。怖いって言ったらやめてくださったの。そして、私がいいと言わない限り手を触れないって仰って……だから私、まだ乙女のままなの」
ディーノは口をポカンと開けてソニアを見た。信じられないという表情で。
「……い、いや……そりゃあ確かに、いつか騎士になって君を迎えに行くよと子供の頃は言ったかもしれないけれど……そんなことを今さら言われても。それに、僕はもう騎士になるのはやめたんだ」
「だってディーノ、あなたは三男なので伯爵家を継げない、だから騎士にならないといけないんだって言っていたわ」
「もうそんな必要はなくなったのさ。僕は今、ザネッティ家の一人娘エルダと付き合っている」
「え……? ディーノ、どういうこと……?」
「僕は、ザネッティ子爵家に婿入りするんだよ。もう騎士になんかならなくても、貴族として生きていけるんだ」
ソニアはふらふらとディーノに近づいた。
「だってディーノ、私のこと好きだって言ってくれたわ……結婚しようねって」
「そんなのは子どものよくある戯れ事だろう。それをずっと信じているだなんて頭がおかしいんじゃないか? そもそも君がフィオレンツァ伯爵家を継ぐかもしれないからそう言ってただけなんだから。だけど弟が出来て君はお払い箱になった。もう君は、僕にとって価値がないんだよ」
ディーノに向かって伸ばしたソニアの手を、彼は無情にも払いのけた。その弾みでソニアはよろめき、芝生に膝をついてしまう。
(そんな……ディーノの言葉は本気ではなかったというの……?)
座り込んだソニアの脳裏に、過去の出来事が浮かんできた。
屋敷が隣同士だったため幼い頃から一緒に遊んできたソニアとディーノ。母が死んだ時にはずっと傍にいて慰めてくれた。義母に辛く当たられている時も、彼の存在だけが癒しだったのだ。
『いつか僕は立派な騎士になって、君と結婚する。そして君を幸せにするから』
ディーノはずっと、ソニアにそう言っていた。だからソニアはその言葉を信じ、心の支えにしてきたのだ。ディーノが学園に通う年齢になり滅多に会うことがなくなっても、ずっと。
ソニアは学園には通うことはなかった。『女子は勉強などする必要がありません』という義母のひと言でそう決められたのだ。だから学園でディーノに会うという望みも叶わなかった。
ソニアは毎週、寄宿舎で暮らすディーノに手紙を送った。最初の頃一度だけ、返事が来た。そこには、必ず君を迎えに行くから信じて待っていてくれと書かれてあった。ソニアはその手紙をオルゴールの一番奥に大事にしまい込み、辛い夜には取り出して眺めて過ごした。いつかきっとディーノがここから連れ出してくれる。それまでの我慢なのだと言い聞かせていた。
やがて妹が、続いて弟が生まれたことにより唯一の味方であった父も義母側についた。跡継ぎを産んだ義母は気弱な父よりも屋敷内で大きな権力を得たのである。
(ディーノ……早く私をここから救い出して……)
三歳年上のディーノが18歳になって学園を卒業するまであと半年。ソニアはそれを心待ちにしていた。しかし、その時に突然持ち上がったのがリカルドとの縁談だ。
「そんな……私には想う方がいるのです」
そう言ってみたものの、『あなたには拒否する権利などありませんよ』という義母のひと言でソニアの夢見る未来は砕かれた。
(私はディーノのことが好きなのに……顔を見たこともない、十も歳の離れた方に嫁ぐなんて)
しかし義母の言う通りソニアには何の力もなく、あっという間に嫁ぐ日取りが決められた。王都から出たこともないのに、遠い辺境の地に一人で向かわねばならない。
(お願いです。ディーノ、どうか今すぐ迎えに来て)
寄宿舎へ手紙を送ったが、返事は無かった。まだ学生の身であるディーノには自分を救い出す手だては無いのだとソニアは絶望した。
(この身体はディーノのもの。せめて、清い身体のまま死ぬことができたら……)
あの夜、リカルドと床を共にすることを拒否したのは強い覚悟の末だった。新婚の妻が閨を拒否するのは夫を侮辱すると同じというこの時代。怒った夫に打ち据えられ最悪殺されたとしても、夫が咎められることはないのだ。
だからリカルドが激昂したりせず丁重に扱ってくれたのは、予想外に幸運なことであった。子の出来ぬまま三年経てば離縁を申し出ることができる。その頃にはディーノも立派な騎士になり、ソニアを迎えに来てくれるはずだ。
ソニアは純潔を守ったまま穏やかに日々を過ごしていった。時折良心がチクリと痛むけれど、それよりもディーノへの思慕が勝っていた。だからその痛みには目をつむった。
だがどうだろう。あれほどに焦がれたディーノはソニアを利用価値のないものとして切り捨てるような人間だったのだ。
呆然とするソニアの耳に、女性の甲高い声が響いた。
「ディーノ! こんな所にいたの? 探したのよ」
「ああエルダ、すまない。ちょっと野暮用でね」
ソニアが顔を上げると黒髪の美しい令嬢がディーノの隣に立っていた。20歳くらいだろうか、ソニアよりも豊かな曲線を持ち大人の魅力に溢れている。
「あら、どうしたの。もしかして浮気していたの?」
きつい口調でディーノを睨みつける。ディーノは慌てて顔の前で手を振った。
「まさか! 前にも話しただろう? 幼馴染のソニアだよ」
するとエルダはにやりと笑い、ディーノの腕を取った。
「ああ、あの夢見る勘違いお嬢様ね。ディーノから話は聞いていたわ。私はエルダ・ザネッティ。ディーノとは学園からのお付き合いよ」
「学園からの……」
「ええそうよ。あなたが送ってくる手紙を毎週、ディーノと一緒に笑いながら読ませてもらっていたわ。世間知らずで馬鹿な恋文をね」
コロコロと楽しそうな声を上げるエルダ。
「学園を卒業したらあなたの顔を見てやろうと楽しみにしていたのよ。それなのに結婚して辺境に行ってしまっていたから会えなくてがっかりしていたの」
かがみ込んでじろじろと楽しそうにソニアの顔を見つめる。
「でもやっぱり、諦めきれてなかったのね? 人妻になってまでディーノを追いかけてくるなんて呆れたものだわ。ジラルディ侯爵も面目丸潰れね」
ソニアはその言葉にハッとした。自分の愚かな行動がリカルドの評判を落としてしまうことになぜ気づかなかったのか。
「あ……あの、お願いです、どうかこのことは誰にも言わないで下さい……」
するとエルダの目がキラリと光った。意地の悪い、義母と同じ目。
「そうねえ。地面に頭を擦り付けて頼むなら、黙っていてあげてもいいわ。元伯爵令嬢、現侯爵夫人が頭を下げる姿が見れるなんて滅多にないもの」
「……わかりました」
ソニアはきちんと座り直し、地面に手を付いて頭を下げようとした。
「その必要はない」
突然低い声が響く。見上げるとディーノとエルダの後ろにリカルドが立っていた。
「……リカルド様……」
「えっ、あっ、ジラルディ侯爵殿」
ディーノはさっと道を開け、恭しく礼をする。臣下に降りたとはいえ王弟であることは変わらず、尊い身分には違いないのだ。
「私の妻に頭を下げさせようとしているのか」
リカルドの声は怒気を孕んでいる。こんな声をソニアは聞いたことがない。
「い、いえ、違います、ただの冗談で……」
ツカツカと近寄ってきたリカルドはソニアの腕を取り立ち上がらせる。いつもの優しい手つきと違い少し荒々しいことが、リカルドの怒りを感じさせた。
「地面に打ち倒し嘲笑し、なおかつ頭を下げさせようとしたことが冗談だというのか。卑怯な加害者の言いそうなことだな」
リカルドがギリっと睨みつけると、普段そのような目に遭ったことのない二人は震え上がった。
「も、申し訳ございません!」
「我が妻を侮辱することは私を、ひいてはジラルディ侯爵家を敵に回すことだがそれをわかってのことか」
「と、とんでもございません! そんなつもりは少しも……いえ、全くありませんでした! どうか、どうかお許しを……」
「ならばさっさと立ち去れ。今後一切、妻に近寄ることを禁じる」
「は、はい、わかりました、申し訳ございません……! 失礼いたします……!!」
二人は競うようにもつれ合って走りだした。大広間には戻らず、そのまま馬車のほうへ向かったようだ。よほどリカルドを恐れたのだろう。
「……大丈夫か、ソニア」
しかしソニアは俯いて震えるばかり。リカルドは小さなため息をつき、いつもの優しい声に戻した。
「君はジラルディ侯爵夫人なのだ。軽々に頭を下げたりするものではない。わかるか」
こく、こくと何度も頷くソニア。リカルドはドレスについた芝を払ってやり、大広間へ戻ろうと促したが彼女は拒否した。
「いけません……私は、リカルド様の側にいるべき人間ではありません」
「……ソニア?」
「私は、リカルド様を裏切っていたのです。怖いと嘘をついて夜のお務めを断り、初恋の相手のために純潔を保とうとした、卑怯で自分勝手な人間なのです。そのことを知られたからにはもう、お側にいることはできません。どうか、このような人間は離縁なさってください」
「君は離縁したいのか? 実家にも帰れないのに行く所はあるのか?」
「それは、その……しゅ、修道院へ、そうです、私は修道院へ参ります」
「修道院も今は空きが無いと聞く。いいから私について来い。もうパーティーの用事は済んだから、ステッラに帰ろう」
「私も……一緒に帰っていいのですか」
「何度も言わせるな。さあ、帰るぞ」
ソニアは静かに涙を流していた。恋に恋していた自分、妻として夫を蔑ろにしていた愚かな自分に吐き気がするほどの嫌悪を感じて。だがそれでもリカルドは一緒にいてくれると言う。その包容力をソニアは初めて理解した。
(私は何て馬鹿な女だったんだろう。この一年お客様気分で過ごし、何もお役に立てていなかった。それでもリカルド様は私を許してくれていた。そして今もまた……このご恩を私は必ず返さなければ)
ステッラに帰る道すがら、ソニアはディーノとのことを洗いざらい話し、再び謝罪した。そしてこれからはステッラのために、領主の妻として仕事をすると誓った。
「そうだな。そろそろ読み書きや計算もマスターしたことだし、帳簿の扱いなども家令から学んでいくといい」
実はこの一年、リカルドの提案によりソニアは家庭教師をつけられていた。読み書きだけでなく語学、音楽、料理や裁縫、宝石の鑑定まであらゆるものを学び、農業に関しても一年かけて見て回ってきた。実家で家庭教師もつけられず学園にも通っていなかったソニアはすべての学びが新鮮で、貪欲に吸収していった。その下地がようやく整った頃だとリカルドは判断したのである。
「はい、わかりました。ステッラのために全力を尽くします」
その言葉通り、ソニアは変わった。頭の中がいつまでも15の少女のままだった彼女は大人びた顔つきになり、家令からお墨付きをもらえるまでに成長した。リカルドが遠征に出ている間も立派に留守を守れるようになったのである。その時既にソニアは19歳。嫁いでから4年の月日が流れていた。
「ではソニア、今回は北方の駐屯地を見回ってくる。帰ってくるのは二週間後になるだろう」
「わかりました、リカルド様。気をつけて行ってらっしゃいませ」
もう冬が近い。雪で山を越えられなくなる前に北方へ旅立ったのだ。ソニアも、冬に備えて足りない物をリストアップし、仕入れておかねばならない。城にいる者たちを飢えさせたり寒がらせてはいけないのだから。
家令と共に忙しく働いていたある日、一人の客人が城を訪れた。燃えるように赤い髪、唇の端にあるホクロが魅力的な女性だ。
「私はコンチエッタ・アルバローニ。リカルドはいるかしら?」
「リカルド様は北方のセンツァに遠征なさっています。二週間後のお戻りになりますので、もう一度お訪ね下さいませ」
コンチエッタはジロジロと不躾な視線をソニアに送った。
「私はリカルドの学友なのよ。つまり彼の客人ってこと。帰ってくるまでこの城で待たせてもらうわ」
ズカズカと城に入って行くコンチエッタ。困惑するソニアだったが、リカルドの過去を知る侍女頭が確かに学友だと証言したため、客としての滞在を許可することにした。
夜は浴びるほどワインを飲み、昼過ぎまで眠る毎日。コンチエッタは徐々に態度を大きくしていった。
ある日の夕食の席で、既に酔いの回っていたコンチエッタはソニアに絡み始めた。
「私はね、リカルドと結婚するつもりだったのよ。それなのに親に勝手に結婚を決められて。相手は60歳の老いぼれよ? こんなに若く美しい私が! この10年間、地獄のような日々だった。ようやく死んでくれたけど、私はすぐに屋敷を追い出されたのよ。子供を産まなかったから何の遺産も渡されずにね」
グイッとワインをあおると据わった目でソニアを睨んだ。
「私はね! リカルドを愛してたの。リカルドもそうだったのよ。私が政略結婚させられたから、彼は傷ついていたはずよ。王命なんかが下らなければ彼はずっと独身のまま私を待っていたに違いないのよ。そうしたら……今、私と再婚できたのに……」
今度は涙を流しながらワインのお代わりを要求する。
「コンチエッタ様、もうそのくらいになさっては……」
「私に命令しないで!」
コンチエッタはワイングラスを床に叩きつけた。
「いい? 私の目はごまかせないわ。あなた、まだ女じゃないわね」
ギクリ、とソニアは痛いところを突かれ身体を固くした。
「顔は綺麗だけれどまるでお人形さん。女の色気も何もないわ。きっと、リカルドはあなたに欲情しないのよ。だから子供もできないんでしょ」
「私なら彼をすぐその気にさせられる。彼の子供を何人でも産んであげられるわ。だからあなた、城から出て行って。私とリカルドの愛を邪魔しないで!」
そう叫ぶと突然机に突っ伏していびきをかき始めた。ソニアは侍従に命じて彼女を部屋に運ばせ、侍女とともに食堂の後片付けをした。
「奥様、あの人いつまでいるんでしょうねぇ。お城のワインを飲み干してしまうつもりかしら」
「そうね……でもリカルド様の大事な方かもしれないから。お帰りになるまで待つしかないわね」
「それはそうですけど……酒癖も悪いしほんと嫌になります」
なんとか侍女を宥めソニアも自室に戻った。一人になるとさっきのコンチエッタの言葉が脳裏をよぎる。
『まるでお人形さん。女の色気も何もない』
あのパーティーの夜以降も、リカルドがソニアを抱くことはなかった。心を入れ替えたソニアが寝室を一緒にと申し出てそれだけは実現したが、彼は決してソニアに触れようとはしない。勇気を振り絞ってソニアから手を伸ばしてみたこともあるが、「無理をするな」と言われ優しく頭を撫でられただけだった。
(きっと、リカルド様にとって私は押し付けられた厄介者のままなのだわ。しかも最初に嘘をついて面目を潰したのだもの、信頼されなくて当然ね。そんな相手を妻として抱くなんてきっと、考えたくもないはず)
知らぬ間にソニアの目からは涙がこぼれ落ちていた。ここステッラで4年間を共に過ごし、彼の人となりを見てきた。無口だが無愛想ではなく、穏やかで優しくて頼りになる。誰からも愛され慕われるリカルドをいつしかソニアは心から愛していた。
(だけど、この気持ちを伝えてはならない。幼かったからといってあの過ちをなかったことにはできないもの。リカルド様がコンチエッタ様と一緒になりたいと思うのなら、私は……何も言わずここを去るべきだわ)
愛する男性と同じベッドにいながら触れることも叶わない、そんな状況を辛く思い始めていた矢先のコンチエッタの訪問。これは神のお導きなのかもしれない。
(リカルド様がお戻りになってコンチエッタ様と引き合わせたら……離縁状を置いて出て行こう……)
そしてあと2日でリカルドが戻る予定の日。初雪が降り始めた。
「これは、積もるかもしれませんね」
侍女が心配そうに呟く。山道を雪が覆ってしまうと通行できなくなる。雪が止むまでは帰ってこられないだろう。
「お帰りが少し遅れるでしょうね」
ソニアも空を見上げながら答えた。
いつもより半月早い雪ではあるが、ソニアがきちんと準備を進めていたため城の中は落ち着いていた。もう冬の支度は出来上がっているのだ。
その時、門の外が騒がしくなった。
「どうしたのかしら?」
すると侍従が走ってきて報告する。
「奥様、傭兵軍団が門の外に集まっています。雪が降るので城内へ入れろと騒いでいます」
「そんなことはできないわ。傭兵なんて中に入れたらどんな狼藉を働かれるか」
神妙な顔で頷く侍従。
「今、城内の兵士たちを城門に集めております。戦闘も覚悟しておりますので、奥様は城の背後にある抜け穴から脱出なさってください」
「なんですって! 傭兵?」
話を聞いたコンチエッタが血相を変えて部屋に入ってきた。
「最近よく聞くのよ。アイツら、食料を食い尽くし金品を奪い、女を襲うって……城主が留守にしているのを知ってて来ているのよ」
「コンチエッタ様、抜け穴がありますから。急いでそちらからお逃げください」
「言われなくても逃げるわよ。やっぱりこんな田舎に来るんじゃなかったわ、お金が無いからタダで飲み食いさせてもらおうと思って来たってのに!」
コンチエッタは既に来た時と同じ小さなカバンを手に持っていた。そして侍従に案内させ抜け穴に走って行った。
バタバタと去っていく彼女の足音を聞きながらソニアは決意を固めていた。
「さあ、奥様もお逃げ下さい」
「いえ、私は残ります。兵士以外の侍女や使用人は全て、抜け穴へ向かわせてください。私が時間を稼ぎます」
「しかし!」
「私はリカルド様からこの城を任されているのです。逃げる訳にはいきません。さあ早く!」
ソニアの強い決意を感じ、侍従は動き出した。女たちは身支度をして抜け穴に向かい、男たちは武器になりそうな物を手に城門に集まった。
「早く開けろー! 腹減ったぞー! 酒を飲ませろー!」
傭兵たちがさらに騒ぎ始めた。ソニアは城門の上にある櫓に登り、傭兵を見下ろした。
「なんだぁ? 若いねーちゃんが出てきたぞ」
「踊りでも踊ってくれるのかぁ?」
ゲラゲラと下品に笑う傭兵たち。ソニアはすうっと息を吸い、出来るだけの大声で話した。
「私はソニア・ジラルディ。ジラルディ侯爵の名代として今あなたたちに話しかけています。あなたたちをこの城に入れることは、できません。お帰りください」
「なんだと? ふざけたこと言ってんなぁ。俺たちにかかればこんな城門、すぐに開けられるんだぜ? いいか、お前らが自ら門を開けるなら命だけは助けてやろう。だが開けないって言うなら容赦はしないぜ」
「お断りします。どうせ皆殺しにするつもりでしょう」
「クソアマめ、よく言った。お前をひん剥いて慰みものにしてやるからそこで待ってろ」
傭兵たちは声を上げて門へ突進した。大きな丸太も用意しており、ガンガンとぶつけて突破しようとしている。櫓の上から弓で攻撃を仕掛けるが、敵からもたくさんの矢を打たれ怪我人が出始める。
やがて門の形が歪みメリメリと音が鳴り出した。
(もう、ダメかもしれない……リカルド様、あなたの城を守れなくてごめんなさい……!)
ついに門の一部が破られた。傭兵が次々に侵入し戦闘が始まる。大勢の兵士が戦う中、一人の傭兵がソニアを目掛けて櫓を登り始めた。さっき、嫌な言葉を放った男だ。
ソニアは胸に隠していた短剣を鞘から取り出して両手でしっかりと握った。せめて相手に一太刀なりとも与えたい。それがだめなら自らの最期をこの手で……
男の手が最上段に掛かった。そして下卑た顔をヌッと現す。
「へへへっ、やっぱり上玉だな。俺が一番乗りだ」
両手で縁を掴んでひょいと上がって来た男は、ニヤニヤしながらソニアに近づいてきた。
「近寄らないで! 刺しますよ!」
すると男はソニアの手を剣の柄で殴ってソニアの剣をはたき落とした。
「あっ……!」
すぐさま両の頬をパンパンと殴られて、目の前に星が飛ぶ。
「俺は女だって容赦はしないぜ。刃向かう奴は殴る」
そして拳を握るとソニアの腹に一発、叩きこんだ。
「うぐっ……」
床に仰向けに倒れ込んだソニアは気が遠くなっていく。男が近づく気配がして、ドレスに手がかかった。
(これは、罰なんだわ……私がリカルド様を騙した罰。だから私の純潔は、こんな下衆な男に奪われることになってしまった……)
涙が一筋流れ、目を閉じたその時。
「ソニア!」
「ぐわっ」
リカルドの声が聞こえて目を開けたソニアの視界に、男の苦痛に歪む顔が映った。ソニアの上に倒れそうになった男の服を、リカルドが掴んでどさりと放り投げる。男の背中には剣が深々と刺さっていた。
「ソニア! しっかりしろ、ソニア!」
リカルドはソニアを抱き上げ必死で声を掛ける。
「リカルド様……」
ソニアはそっと手を伸ばしてリカルドの頬に触れると、そのまま意識を失った。
ソニアが目を覚ました時、暖かい部屋の中で暖炉の火がパチパチと音を立てていた。
「目が覚めたか、ソニア」
「リカルド様……」
リカルドはベッドに腰掛け、ソニアの頭を撫でた。
「よく頑張ってくれた、ソニア。君が時間を稼いでくれたから戦闘の準備ができたのだ。おかげで、死人は出ていない」
「本当ですか? 良かった……」
リカルドたちは雪が降りそうだったので出発を早めて帰って来ていたらしい。城の近くまで戻った時、緊急用の狼煙が上がっており、急いで馬を走らせた騎士団に傭兵たちは手も足も出ず全員あっという間に捕えられたという。
「一人だけ死んだのはソニアを襲おうとしていた男だ。俺が、感情を抑えきれず殺してしまった……後悔はしていないが」
リカルドがそっとソニアの頬を撫でる。頬に触れられたのは初めてのことだ。優しい指の動きに、ソニアの頬から甘い疼きが全身に拡がっていく。
「君が酷い目に遭わされたのではないかと気が気ではなかった……本当に、無事で良かった」
ソニアは頬を撫でるリカルドの手をそっと握り、愛しい気持ちを込めて頬ずりした。大きくて硬い手のひら。この手で救ってくれたのだ。
「私も、あの時死ぬことを覚悟しました……まだ何も、リカルド様にお伝えしていないのに。私がリカルド様をお慕いしていることも、あなたに抱かれたいと心から思っていることも……」
二人の視線が絡み合った。お互いの瞳の中に、欲情の光を確かに感じ合う。リカルドは静かに顔を近づけ、ソニアの震える唇にキスをした。
「君を抱きたいと思っていたのは俺も同じだ。いや、君よりももっと前からそう思っていた。だが、君がかつての嘘の負い目から私に身を差し出すことだけは避けたかった。だからもっと時間をかけて、君の気持ちが私に向いたならその時に……と考えていた」
リカルドはソニアの肩を抱き寄せその逞しい胸に包み込んだ。
「しかしそれは卑怯なことだったと気づいたよ。歳上のくせに自分の気持ちを隠して愛されることばかり求めるだなんて……君が、あの男に襲われそうになっている時、身体中の血が沸騰したような気がした。そして後悔が押し寄せたんだ。そう、私も君を愛していると伝えていなかったのだから……」
リカルドの低い声がすぐそばで聞こえる。今までにないほど近い距離で。厚い胸からはドクンドクンと心臓の音が伝わって、その安心感に涙がこぼれそうだった。
「リカルド様……私を愛してくださっていたのですね。嬉しい……」
リカルドの手がソニアの髪を撫でる。だがそれは以前の撫で方とは違い、髪の一筋すらも大切に想う愛しさが込められていた。それを感じ取ったソニアは甘いため息を漏らし、その甘さがリカルドをさらに滾らせていく。
「リカルドと呼べ、ソニア」
「リカルド……」
長い遠回りをした二人はようやく自分の気持ちに素直になることができたのだった。
それから月日は流れ、二人の間には五人の子供が生まれた。強い侯爵と賢い侯爵夫人に導かれ、ステッラは辺境にも関わらず大いに栄えていったという。