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泥だらけの問診票  作者: フォックス
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泥の問診票

 中村クリニックは車通りの多い道に面していて、夕方になると前の道路は帰宅を急ぐ車で長蛇の列ができていた。そのため、痺れを切らした何台かは迂回を選択する。そしてその度に病院の駐車場は迂回用の転回スペースとして有効に活用されていた。

 中で何が行われていても分からないように、通り沿いの窓ガラスは漆黒のカーテンで覆われている。外壁は灰色のコンクリートの打ちっぱなし。スロープの脇にはプランターがいくつか置いてあり、どれも赤い花が咲いている。

 信号が青になった。先頭よりも僅かに間を置いて、後続車が流れ出す。この先にある交差点を過ぎたあたりで、渋滞は徐々に緩和され、次の信号に差し掛かる頃には程よい車間距離を保つようになる。すぐ側を流れる川からは生き急ぐ夏虫のリリリリという声が響いていた。

 

「もううんざりだ! まったく、どうしてこの私が! 毎日毎日、あんなチビやガキどもを相手に、リットマンの聴診器をぶら下げにゃならんのだ!」

 声の主は声を荒げる。組んだ腕、背もたれが悲鳴を上げる。背後から、ジャリジャリとアスファルトが削られる音。そこで男は組んだ腕をほどき、指先で黒にひかれたカーテンを軽く持ち上げる。

「1817! またあいつだ! 学習しろバカたれが! レクサスなんぞに乗りおって! お前みたいなやつはな、田所のババアみたいに、軽トラにでも乗って蓮根の収穫の手伝いでもしてればいいんだ……! 思い出したぞ! ババアといえば、栗松のババアもそうだ! 何が『ウチの子は賢いし、ちゃんと柱に結んであるから大丈夫』だ! 犬なんぞ連れて来おって! いつからうちは動物病院になったんだ!」

「ちょっと! 静かにしてよ!」

 言葉を挟んだのは、男ではない。娘だ。ナース服姿のためか、廊下まで声が響いていたせいか、娘は後ろを振り返ると「まだ仕事中なんですけど」と耳打ちするように小声で付け足した。男はふてくされ、机に向き直す。大した自制力だ。

「塩まいとけ」

「言っとくけど、ここ病院だから。入口で塩まく人、見たことある?」

「1817が来た」

「そうやって番号で呼ぶのやめない? あとなんで今日ずっとドア開けっぱなしなの?」

 男は何も言わず、キャンパスノートに手を伸ばす。

「大目に見てあげなよ。そのうち申し訳なく思って、うちの病院を利用してくれるかもしれないじゃない」

「あそこにガキはいない」

「ガキってね、その呼び方もやめてっていつも言ってるよね。え? なんで子どもがいないって知ってるの?」

「………」

「あっそ。まぁお父さんにも他人に多少興味があることが分かったところで、今日のところはお先に失礼します。明日は晴れるよ」

 「ねぇ、聞いてる?」と娘が聞いても、俺に返事はない。ぱらぱらとページをめくる。拗ねたような男の態度に呆れ顔でいると、診察ベッドの下に山のように盛られた段ボールの空箱を見て娘はぎょっとした。

「うわ、また!  ベッドの下に空箱は置かないでってば! ……Amazon……しかもまた新しい聴診器買ってるじゃん!」

しまった、と男は自分の油断を戒めた。

「壊された」

「誰によ」

 苦し紛れの言い訳だったため言葉が見つからない。首にかかった聴診器がこれほど重く感じる。娘はふんと鼻を鳴らし、その場にしゃがみこむと乱暴な手つきで段ボールを解体し始めた。

「備品の買い足しには判子押さないくせに、自分のになるとすぐ買う」

「またその話しか」

「赤ばっかり」

「あれは俺のせいじゃない。注文したらそうなっただけだ」

「そんなはずないでしょ。色指定したに決まってる」

「あれは全部経費で落としてやったろうが」

「何その上から目線。土と肥料とプランター代の領収書に判子がまだなんですけど」

「なんの断りもなく勝手に買ってきたんだ、判子を押す必要がどこにある」

「誰かさんが花だけで注文とるからでしょ」

「…………」

ぐうの音も出ない。いまさら取り繕う気はないが、娘に言いたい放題されたままでいいのだろうか。かといって反撃する材料もない。葛藤。そしてペンが止まる。

「さっきから何書いてるの?」

 人の気配を感じた時には遅かった。とっさに肘でノートを隠すが間に合わない。肘の上からはみ出した部分を見て娘は絶句する。

「嘘でしょ…」

 50過ぎの父親が書いた4コマ漫画というのは、強烈なインパクトを与えただろう。定規まで使って綺麗に引いた枠線。何度も消した跡が残る吹き出しの文字。耳の裏が熱い。書いた本人でさえ読み返したくない。本来見られたくないのはむしろこの腕の下なのだが。

「ちょっと見せて」

「触るな」

「今日どこ行く?」

「読むな」

「俺んちでゲーム」

「読むな」

 机の上のマグカップがカタカタと揺れ、中のコーヒーが何重にも円を描く。このコーヒーは男のために用意されたものではない。幸い、娘が右腕を怪我していため、娘の左手一本と格闘するだけですんだが、状況が状況。こればっかりは譲れない。次第に男が自分の陣地を広げてゆく。と思われたが、そうではなかった。娘は左利きだった。

「いい加減に……」

「真紀ちゃん、帰らなくていいの?」

 つっかけのスリッパをパスパスと鳴らしながら、驚いた表情で女が娘に近づく。中年も終わりに近い年頃で、宮地と名札のついた女は時計のある壁を指さす。

「ほら、もう18時すぎてる」

「あれ? 鳴った?」

「壊れてるのよ、昨日から。電池も変えてみたんだけど、どうもね。真紀ちゃん昨日休みだったから知らないわよね。ごめんね」

「ううん、博子さんのせいじゃないよ。全部お父さんのせい」

「なんで俺なんだ」

「お金ケチって直さないからでしょ!」

「壊れたことなんて俺は知らなかった」

「嘘ばっかり。だからドア開けっ放しにしてたんでしょ」

 確かに男が診察室のドアを開放していたのは、待合室の柱時計の音を聞くためだった。娘の洞察力は鋭い。彼女の登場のおかげで、キャンパスノートに興味が薄れたのか、机の上に娘の腕はなかった。

「ほらやっぱり。何も言わない」

「…………」

「あまり先生をいじめちゃだめよ」

「これぐらい言わないと。言っても聞かない人だから。明日、業者に電話して直しに来てもらうよ。博子さん、明日午前休みでしょ?」

「そうなの、それじゃお願いしよっかな。私みたいな素人じゃどうしようも……ん? なんか落ちてる」 

 看護師の宮地が床に落ちたキーケースをそっと持ち上げる。

「あ、さっきしゃがんだ時に落としたんだ。危ない、危ない。ついでに……はい」 

 キーケースを受け取ると、娘は小さな鍵を男に手渡した。

「なんだ?」

「使うでしょ」

「????」

「旗は刺さってると思うから」

「????」

「終わった後でもいいけど、ちゃんとゴミも出しておいてよね」

「????」

「お母さんが『明日こっちに止めてもいいよ』って言ってたから。はい伝えた」

「明日?? なんだ?」

「夕方から雨らしいから、帰りは一緒に帰ってもいいけど。絶対タバコ吸わないでね!」

「????」

「もしかしてカレンダー見てないの?」

「さっきから何の話をしてるんだ!」

 語尾を荒げた男だったが全ての状況が理解できなかったわけではない。分かることもある。渡された鍵が自転車の鍵であるということ。会話からして明日の内容であること。娘の車が禁煙車だということ。それに旗……。刺さってるとも言った。おそらくゴミは燃えるゴミか何かの回収日なのだろう。何かは知らない。ふと柱時計を振り返った娘が、我に帰ったように驚く。

「うわっ、もうこんな時間。じゃ、先帰るね」

「まて真紀! これはなんだ!」

「なにって自転車の鍵だよ、明日使うでしょ」

「何に?」

「旗当番」

「旗当番? おい! 俺はやらないって言っただろ! もう二度と!」

「順番回ってきたんだから仕方ないでしょ。お父さん早番だし。博子さんは明日休みだし」

「お前がやれ!」

「いやいや、私遅番」

「……、いや待て!今は夏休みだろ!」


 車通りの多い道路沿いに面した中村クリニックの院長は、子ども嫌いを絵に書いたような人だった。小児科を名乗ってはいたものの、近くの小学生たちからは「ホラーハウス」と呼ばれていた。

 院長には今年二十歳を迎える一人娘がいた。大手飲料メーカーのテレビコマーシャルに出ている人気若手女優にも負けず劣らずの容姿の上に、性格も良く、愛想までいい。

 奥さんのことは誰も知らない。そのことについて聞いてみると、「っんっぐっぐぐ……」と奥歯を噛みしめ、お腹を壊した仁王像のような笑顔を作り、子どもを失神させるらしい。そして、そういう時は決まって看護師の娘がヒョンッと顔を出し、うまいことその場をやり過ごすのだった。


「カレンダー見てないね。明日は登校日でしょ」


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