田中慎弥「冷たい水の羊」
田中慎弥さんの名前は芥川賞の不機嫌会見で知っていましたが、数年前に読んだ「図書準備室」を除いて作品に触れたことはありませんでした。
今回読むきっかけになったのは、自分自身の書き方の行き詰まりからでした。「いくら書いても自分から抜け出せない」という状況を脱却したいと思っていた時、芥川賞受賞作の「共喰い」を試し読みしたときに見つけた「もし乗れたとしても永久に右へ曲ることしか出来そうにない壊れた自転車」という文章に一目惚れし、この人の作品を読んでみたいと思いました。自分は文章を書いていて比喩表現に凝ったことは今までなかったので、まだ見たことのない新たな世界を見れる期待がありました。
作家が処女作で書いたものに興味がありました。スタートラインに立ったばかりの作家が、表現を探りながら書いているものが読みたかったので、2005年に新潮新人賞を受賞した「冷たい水の羊」と、リベンジとして「図書準備室」も再度読み返しました。
「冷たい水の羊」は、同級生から凄惨ないじめを受けている男子中学生が、「いじめられていると自分が思わなければそれはいじめにならない」という論理でいじめに耐えている姿を描いています。主人公が思いを寄せるクラスの女子生徒「水原里子」は、彼がいじめを受けていることを教師に密告します。論理を脅かされた主人公は水原とともに心中することを計画し、実行の機会を待ち続けます。
好きな女の子と心中する為に包丁を持ち歩く主人公の姿には、いじめを受けた人間の屈折した心理が感じられます。教室から孤立することでしか感じることができない高揚感が彼を包み、「将来」という真っ当な道を進んでいる同級生たちを軽蔑する彼の姿にはどこか既視感を覚えます。「歪んでいる」と一言で片付けられたくないような、人前では言い表しにくい共感を抱きます。
作者の田中慎弥さんはこの作品でデビューするまで、高校卒業後も就職することもなく、家の中で読書をして過ごしていたそうです。ただ毎日机に向かうことは決まりにしていたそうで、デビューしてからもこれは一日も欠かしたことがないと言っていました。もう一つの作品「図書準備室」では働いたことがない人間を主人公に話が書かれています。
「冷たい水の羊」と「図書準備室」は、どちらも攻撃される立場にいながらそこに居続ける人間が書かれていて、テーマはとても似ていると思いました。自分自身の内面が原因で孤立することは辛いことですが、孤立することでしか得られないものもあると思います。
テーマもそうですが、「冷たい水の羊」は比喩表現もやはり面白い作品でした。またタイトルが好きです。羊は生贄という意味で使われています。強い羊だと思います。