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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

春の国 完結

作者: 居道

慣れと成長の概念がこんがらがってきました。

なんだかんだで三つ目の区切りがついた訳ですが、僕って成長してますかね。


ところで投稿の際に赤枠で年齢制限の注意喚起あるでしょう?あれってめちゃくちゃ目立つ奴でしたっけ?僕、もしかして注意喚起されてますか?

1、

 窓掛けに陰を映す穏やかな日照り。耳に転がり込む都合の良い囀り。いつにも変わらない冷たくも柔らかな春の香り。そして隣で寝息を立てる朱色の髪の少女と、頭の周りに散らばる紫の花弁。いつも通りの目覚めだった。

青髪の少女は片袖が抜けた寝巻を脱いで隅の籠に投げ入れ、棚から新調した旅装束を取って着た。それから腰に帯を巻き、幾つか革の袋を縛り付けた。こげ茶色の敷物を踏み越え、扉の傍らに投げ出された大きな厚い皮の鞄を開けた。中身を確かめた拍子に水筒がはみ出し、木の床をからからと転がった。

「おーい、エイメルーう。早いよお・・・まら夜だって。」

 狩人が寝言のように、欠伸まじりにそれだけ伝えて、すぐにまた寝息を立てた。エイメルは小首を傾げた。彼女はまだ、夜が存在しない春の国に新設された夜らしい時間帯というものが理解しきれていなかった。

朝らしい時間になっても狩人は寝具を抱えて寝転がっていた。それをエイメルが起こし立てて、無理矢理に装いを整えさせた。狩人は何度かの小さな抵抗の後に鞄を背負い、獣のような鳴き声を上げた。エイメルと狩人は互いに面と向かって持ち物を確かめ合い、問題がないと小屋を出て、主の間へと向かった。

主の間では現在の春の主であるガディノと飼い主が並んで根に腰かけていた。ガディノは背負った小さな山に新たに育った苗木を揺らしながら、相変わらず飽きもせずに小言ばかりを口にしていた。一方、飼い主は時に腰元にまで伸びた髪を弄ったり、こっそり根の皮を剥がしてみたり、空想に耽ってみたりと、すっかり上手くなった聞いているフリに徹していた。そんな二人のもとへと、主の間の足場を成す入り組んだ木の根が流動して、エイメルと狩人を運んできた。飼い主は目を輝かせて狩人に駆け寄った。

「よく来てくれたね、狩人。なんだかんだ言っても、君は逃げないと知っていたよ。」

 狩人は触れようと近づいた飼い主の手を掃った。

「朝からうるせえ・・・肉は持ってきたのかよ。」

「勿論。」

 飼い主は座っていた木の根の陰から大きく膨らんだ革袋を拾い、狩人へと放った。狩人はそれを受け取るや早速、中身を改めつつ、肉を一つ取って口に入れた。新鮮な肉の味を噛みしめ、漏らしかけた笑みを隠しながら、革袋を鞄の底に敷いた。

「・・・で、預からなきゃならない剣ってのはどこにあるんだ?」

「ガディノ。」

 狩人と飼い主の視線を受け、ガディノの背が反り返らんばかりに大きく撓った。

「・・・そんな迫らずとも、これから確かに渡しましょう。あの日から、あれは我が主様のもとに預けてあります。さあ、揃ったことです、行きましょう。」

 四人は主の間を発ち、ガディノを先頭にして行き当たった十字路を直進した。短時間で先が見通せなくなるほどの霧が立ち込め始めた。しばらく歩いていると霧が晴れ、見えたのは自然的な新緑に囲まれた大きな穴と、浅い草地に深く突き刺さった銀色の剣だった。四人は穴の縁へと近づいた。ガディノが蔓を操り、剣を拾い上げた。

「ほら、この通り。剣はここに。」

 ガディノは自慢げに剣を掲げながら、両脇に立つエイメルと飼い主を交互に窺った。そして、いざエイメルへと剣を渡そうと腕を伸ばした時、彼の手が震え始めた。

「渡すんだ、ガディノ。これ以上の執着は誰の救いにもならない。」

 飼い主に急かされ、肘を押されても、ガディノは尻込みしていた。

「あーもう、結局はこれだ!予想はしてけどさあ。めんどくせえ。」

 痺れを切らした狩人がガディノとエイメルの間に入り、強引に剣を奪い取ろうとした。するとガディノは悲鳴を上げ、剣を逃がそうとして、あろうことか手を滑らせてしまい、剣を穴の方へと放ってしまった。

「おい、待て!」

 狩人は叫び、手を伸ばした。その先にあったのは剣ではなく、エイメルだった。彼女は剣を捕まえようとして、意図せず穴へと飛び込んでしまったのだった。狩人の手は間に合わず、エイメルは剣とともに穴の底へ、沼へと沈んでしまった。

 

 沼の内側は静かに燻る光で濁り切り、開いた指の間と、泳ぐ髪の一本の隙間にまで纏わりつく柔らかな何かを漂わせていた。エイメルは沼の端々を眺め、下に薄っすらとした輝きを発見し、それを目指して潜った。期待の通り、その正体は沼底に横たわる剣が発するものだったが、剣の傍らには女が座っていた。彼女は剣の刃先を撫でながらエイメルを見上げた。視線が重なった瞬間、見える全てが移り変わった。

 そこは沼の外だった。エイメルはたった一人、春の国と似た、見渡す限りに色と甘い香りが満ちた場所に佇んでいた。背後に足音を聞いて振り向くと、そこには世の何者よりも美しい女がいた。彼女は腕に銀の剣を携えて、エイメルに微笑みかけていた。

「あなたは?」

 エイメルはうっかり話しかけてしまって、すぐにそれを後悔して掌で口を覆った。しかし恐れていたことは何も起こらなかった。美女は微笑のまま一歩、また一歩と、一々に期を計るような仕草を残してエイメルへと足を運んだ。彼女は、瞬く間にして成長し、枝に艶やかな実と花を溢れんばかりに生らす大木を足跡としていた。二人が互いの吐息を感じられるまでに近づいた時、エイメルの世界は美しい彩色と恵みに支配されていた。

 美女の掌がエイメルの頬に添えられた。その温もりは微睡のそれに似て心地よく、エイメルは眠りを受け入れようとした。しかし瞼を閉じる寸前、右の手首から肘にかけて痛みと熱が走った。端から毒々しい赤の光が差して、それは世界を元の沼へと塗り替えた。

 背が沼の底に触れていた。左肩に剣の感触を覚えていた。水面に浮かぶ光が揺れ、四本の蔓が下ってきて、エイメルの両肩と両足に巻き付いた。エイメルは急いで剣の柄を握った。蔦が巻き取られ、エイメルを穴の縁まで持ち上げた。

 狩人がエイメルに飛びつき、剣ごと穴から引き離して座り込んだ。彼女は頻りに何か語り掛けているようだったが、エイメルの思考はまだ色と微睡に囚われており、加えて耳の通りも悪かった。乾いた布で耳に詰まった水が除かれ、何度も肩を揺すられ、飲むに適した水を喉に流されて、そこでようやくエイメルは平常の感覚を取り戻した。

 エイメルを抱きしめようとする狩人を押し退けて、飼い主が覗き込んだ。

「底で何か見てしまったのかい?」

 頷きが返ると、飼い主の表情は暗くなった。彼はいくつか考え込んでから、狼狽えて蔓を片付けきれずにいるガディノを睨んだ。

「ガディノ。君のつまらない行いの所為でまた一人、春の犠牲者が増えてしまったよ。彼女は自由なままでいられたのに・・・本当に残念だ。」

「・・・。」

「けれど、これで君は覚悟を決めざるをえなくなった。狩人らが君の代わりに使命を全うできるように、その障害を減らすために、剣は絶対に預けなければならない。」

「あ・・・ああ。」

 ガディノの其れはとても了承とは取れない、苦し紛れの返答だった。彼はエイメルが握る剣をよく思わず、歯を鳴らした。そして葛藤し、伸ばしかけた手に何度となく惑い、最後には目を瞑って首を垂れ、在りし日を想い、春の夢に浸った。遠ざかっていく飼い主の声と、少女らの足音。果てには掛け替えのない春の気配までもが感じられなくなり、訪れた耐え難い肌寒さに急き立てられ、瞼を開けた。

 ガディノはまず、側の小さな新緑に安堵した。しかし、それも束の間、その外側に広がる永遠の灰色に直面して深く絶望し、委縮した。そんな彼の肩に触れる者がいた。それは血を巡らせる肉と木炭を表面にした、とても生物とは思えない何かであった。

「自分の姿を見てしまったか?」

 ガディノのくぐもった声が何かに訊ねた。

「いいえ、まだ。ですが、知っています。」

「そうか。」

 ガディノは弱弱しく手を挙げ、一面の灰色を指さした。

「番人よ。あれが現実だ。あの日より、ここには既にお前が守るべき春など存在しなかったのだ。全ては剣が見せていた幻、私の捨てきれなかった執着と羨望の跡。・・・ああ、痛ましい。番人よ、その身体は辛いだろう。私はもうあなた方を縛りはしない。望むならば今ここで解き放ってさしあげよう。」

 ガディノは答えを待たずに、番人に向いて息を溜め込んだのだったが、番人の割れた指が彼の胸を押して遠ざけた。

「主様、その必要はありません。私は春の番人です。例えどれだけ小さくとも、時に偽りであっても、誰かが望む春を護り未来に繋ぐことが、私の役目です。」


 春の国は突如として現れた火によって滅ぼされた。春を存続すべく、愚かにもガディノが立ち向かったのだったが、彼は敗北し、戦意すら失った。その彼に代わり、火を探し出して討つ。それがエイメルと狩人に課せられた使命であり、ガディノの悪夢を終わらせる唯一の手段だった。しかし当のガディノはこれに消極的であって、二人を見送った飼い主もどこか負い目を感じているようだった。

 反して、狩人は連日に渡って上機嫌だった。初めは長旅の重荷に文句ばかりの日々を送っていた彼女だったが、ある時に面倒事も厄介者もなく、伸び伸びとエイメルとの二人きりの時間を過ごすことができる幸福に気づいて以来、余すほどに無邪気になった。飽きるまで草原を走り回った。最も高い木を見出しては一々に登ってみた。装束を脱ぎ捨て、川へ飛び込んだこともあった。彼女は自由を謳歌した。

 だが、旅路は難航していた。二人は越えようのない山や、谷、川を避ける内に方向感覚を失ってしまったのだ。そもそも旅の当てはガディノから知らされた火の権威が去って行った方向、それだけだった。正しい方向を確認するためには剣の導きに従って春の国に帰る他なかったが、狩人がそれを望まなかった。それに加えて彼女は冒険を欲し、立ち止まろうともしなかった。その結果、旅の指針はエイメルの直感と狩人の気まぐれを頼りとするようになった。

 帰路と食料にだけは恵まれた、ままならない旅であった。


 ある日、夜を迎え、二人は焚火を起こした。エイメルが吐息から程よい枝を生み出し、それを狩人が組み立て、指輪を以て火を点けた。

 狩人がガディノから預かった剣を水平にして火にかけ、器用にその面の上で、道中で拾い集めた食用の木の実を炒めていた時だった。辺りの闇の中でパキパキと、枝を踏み折る音が鳴り、二人を囲んだ。

「今日も来たな。」

 狩人は呟くだけで特別は行動を起こさなかった。剣に集中し、じっと木の実を見つめ、頃合いを計っていた。剣の上で一つ、木の実の殻が弾けて開いた。

「毎夜毎夜のことで慣れちゃったけどさ、冷静に考えてみるとおかしいよな。いっつも近くに来て音を立てるだけ。襲いかかりもしなきゃ、声すら上げない。獣かと思いきや一つも痕跡を残さないし、明かりの下には現れない。」

 木の実がまた一つ跳ね、狩人の膝の上に飛び乗った。狩人は片手でその実から殻を除いて口に放り、音を立てて嚙み潰した。

「まさか主の関係者だったりしないよな。正直、春の国に誰が仕えてて、誰が生き残っていたのかなんて細かくは知らないし・・・もしそうだったら、あたしヤバいかも。剣で炒め物って絶対よくないよな。主、きっと怒るよな。でも便利なんだよなあ。」

 狩人は隣に座るエイメルの肩に頬擦りした。

「なー、エイメル。見つけてくれよお。あたし気になって仕方ないよ。例えばだけどさ、もし音の正体が獣じゃなくて人だったらさあ・・・あたし、裸を見られたかも知れないんだぜ?嫌だよ、エイメル以外には見られたくない。」

 狩人は何気なしに言ったつもりだったが、偶然か、犇めいていた音がピタリと止んだ。狩人は目を剥いて飛びあがり、木の実を散らして闇に剣を構えた。

「嘘だろっ!」

 渾身の叫びが木々に反響した。その声には怒りと、恥じらいと、嘆きと、憂いと。そんなあらゆる危機的な感情が煮えて混沌を極めていたが、狩人の咄嗟の構えには欠片の迷いもなく、揺るぎない覚悟と殺意を刃に乗せていた。

「エイメル・・・絶対にそこを動くなよ。」

 狩人は宥めに入ろうとしていたエイメルを牽制し、耳を澄ました。長い静寂の後、後方で枝が折られた。刹那、僅かの無駄もなく狩人が身を翻し、疾走の一歩を踏み込んだ。しかし二歩目に至るよりも先に闇から小石が投じられ、彼女の額を打った。狩人は驚きの余り剣を落としてしまったが、腰から短刀を引き抜いて投げ返した。躊躇いのない、殺意の一投だった。短刀は闇に呑み込まれた。そして間もなく、倍の速度で帰って来た。

「いっっ!」

 狩人は悲鳴を押し込んで瞬時に剣を拾い直し、短刀を、その刃先が首に達する寸前のところで足元へと叩き落した。

「何、誰、なんで・・・何?!」

 繊細な危機から一転、直接的な命の危機に瀕した狩人は動転していた。今度こそはエイメルが慰めに入った。闇を警戒しながら狩人の背をそっと撫で、落ち着かせた。狩人は平静を取り戻すや短刀を頭上に振りかぶり、再び投じた。そして返す手で指輪から炎を放って短刀の軌跡を追わせた。するとごく一瞬であったが、背の高い何者かが照らされた。何者かは短刀の軌道に鉤爪のように尖った指を合わせていたが、同時に迫る明かりに気づくや転じて音を忍ばせて回避し、闇に消えていった。その後、闇から音が鳴ることは無く、短刀も帰っては来なかった。

「あっ・・・ああ、あああああああ。」

 狩人の口から発された音は正しく高低を繰り返し、途方もない動揺を表していた。震えながらへたり込み、涙目になる彼女を、エイメルが夜を通して宥めた。


 エイメルは目覚めたままに天を仰いだ。茂る枝の間から主張する陽が刺して痛く、すぐに目を閉じた。昼時にあるのか、既に風が温かく感じられたが、それだけでなく妙に身体が重く、胸元から膝にかけて、柔らかな温もりに覆われていた。首を擡げると唇の端から紫の花が落ち、至近距離に朱色の頭が見えた。

 昨夜はどうしたのか。エイメルは事の経緯を何一つ覚えていなかった。

 

 世話の甲斐があってか、狩人は機嫌を戻していた。食事に際して、狩人はまたも剣で木の実を炒めたが、今度は自分で食べるのではなく、真っ先にエイメルに振舞った。更には限りある飼い主の肉すらも豪快に切り分けて、贅沢な昼食を催した。

 食事を終え、一通りの片付けを済ませると、狩人は剣を地面に突き刺した。すると剣が鳴き、地面から細い根が伸びて刃に巻き付き、鞘となった。狩人は剣を肩に担ぎ、鼻歌とともにエイメルを追いかけた。

 それから何度かの夜を越えた。夜毎に音は鳴ったが、狩人は恐れて闇に手を出さなくなり、音もまた慎重であった。だが、それは音の正体が理性を持つことを匂わせることとなり、狩人は一層に音を不快に思って落ち着かず、日ごとに肉の消費が増え、寝つきも悪くなり隈を増やしていった。しかしある朝の事だった。明るい内にも関わらず、あの音が鳴った。それも一定の方向に留まって、誘うように調子よく枝が折られた。

「へっ・・・フフッ、フッ。」

 狩人は不敵に笑っていた。笑いながら剣の鞘を解き、短刀を構えた。

「調子に乗ってるだろ、そうだろ?たった一回、たった一回あたしの攻撃を返したくらいで。そうだろ、お前、調子に乗ってんだろ・・・なあ!!」

 狩人は吠え、駿馬の如く駆け出した。妨げるものは何もなかった。エイメルは鋭く舞い上がる枯葉から顔を庇って、遅れて狩人を追いかけた。

 音は一直線に、巧みに木の陰を介し、徹して身を隠し通しながら狩人から逃げていた。しかし向かう先には見晴らしの良い草原が広がっており、そこへ近づくにつれ、生える木の数も目に見えて減っていった。狩人は雄叫びとともに枯葉を滑り、木を蹴って飛び、巧みに足に遊ばせながらも、少しずつ速度を上げた。草原も目前、最後に残った木の陰で切り刻まれた枯葉が雨のように舞い、同時に音が途絶えた。狩人は草原へと飛び出し、地面を削って勢いを殺し、草原を一望した。

 草原には先が折れて尖った、大小様々な幹が点在する他に何者も立っていなかったが、上空には降下する細い影があった。影は風を裂きながら、なだらかな上り坂の天辺に着地し、明かりの下にその全身を曝した。それは埃が染みた丈のあるぼろ布で全身を覆い、首と腰に風にはためく薄帯を巻いた長身痩躯。額の左側には黒色の角が生え、右手には長く鋭利な爪が生えていた。

「やーっと追いついたぜ変態野郎。胡散臭いわ不健康的だわ、見るからに碌でもねえ。ほら、観念して顔を見せてみな。中身次第じゃあ、少しは手ぇ抜いてやる。」

 狩人は剣を地面に突き刺して、得意の短刀と指輪を備えた。すると相手も同様の短刀を持ち、手から指へと泳がせて遊んだ。狩人はそれが挑発であることを悟り、指輪を用いた攻撃を仕掛けた。指の一振りから火の粉が始まり、それはやがて炎の波となって相手に襲い掛かった。相手は布を捲って鱗張りの左腕を出し、その一振りによって容易に炎を薙ぎ払い、更には左手の上に滾る小さな球体として束ねあげて見せた。

「げっ・・・やるじゃん?」

 狩人は驚きを溢しながらも追い打ちの足を止めようとはしなかった。迎撃がないまま距離が縮められ、短刀が届くまであと一歩となった時。狩人の眼前で一瞬の辻風が草土を巻き、後には長身痩躯はおらず、脈動する球体だけが不自然に浮かんでいた。直後、上空から射られた矢らしき物体が球体を貫通し、球体の中身が真下へと解き放たれた。爆発が起こり、地が剥がれた。狩人は足場を求めて図らずも底を見渡し、青ざめた。彼女が立っていた場所は谷へと通ずる断崖の端だった。

 並みならぬ音を聞きつけて足を急がせたエイメルだったが、行き着いた先には誰もおらず、焼け焦げた草原と抉れた地面があるだけだった。狩人が突き立てた剣すらも、そこに残ってはいなかった。



 崖から伸びた三つの枝が力なく落下する狩人の身体を引っ掛けた。しかし支えとなるには足りず、狩人も努めてそれらに頼ろうとはしなかった。狩人は爆発の手傷によって一時的に呼吸がままならず、意識を失いかけていた。

 谷底では尖った岩と、蠢く影らが新たな肉の死を待ちわびていたが、そうなるより前に岩よりも硬い二本の腕が狩人を受け止めた。狩人は意識の切れ間に枝に攫われる薄帯と、その下から現れた小さな顎と頬まで裂けた口、そして一対の尖った牙を見た。

 長い気絶の果てに暗闇で目を覚まし、左方に集る湿った温度と水音を聞いた。見れば、左腕の傷から流れる血を舐めとる獣らがいた。狩人は鳥肌を負って狂気的に覚醒し、獣らを乱暴に蹴り飛ばした。そして側に置かれた鞄から水を取って丹念に傷を洗い、傷口に清潔な布を巻き付けた。ついでに肉を齧ろうとしたが、鞄の中には見当たらなかった。

 辺りを眺めると、暗闇から短刀が投じられ、耳を掠めて岩壁に突き立った。だが狩人は短刀には構わずに、来し方をキッと睨みつけた。

「隠れてんじゃねえ、出て来いよ。」

 声は決して大きくはなかったが反響して暗闇を渡り、やがて鉄を打つような音が一定の間隔で返って来た。それが足音であると気づいたのは、あの長身痩躯が現れ、足を止めた後の事だった。

「何で助けた。何が狙いだ。」

 狩人の声には警戒が表れていたが、それは煮え切らないものだった。得体の知れない存在を前にして、狩人の胸に沸き起こったのは郷愁に似た感情だった。

「殺さないのか?」

 吹き抜ける風が狩人の耳に問いかけた。声もなく意思を伝達する風に疑問もなく、狩人はまず憤り、岩壁に刺さる短刀を二本の指で拾って投じた。短刀は鉤爪によって倍の速度で明後日の方向へと弾かれた。狩人は舌打ちして襟を開き、首と胸元を曝した。

「殺せるわけないだろ。分かってんだよ。あたしはあんたには勝てない。炎も駄目、武器も駄目で、他には手の打ちようがないんだから。・・・さっさと目的を言ってみろよ。殺したいなら殺せ、辱めたいってんなら自分で焼け死んでやる。言いやがれ!」

 狩人が叫ぶと、風が地べたに横たわる短刀を撫でて転がし、そのまま彼女の足元を介して耳元へと届いて、再び「殺さないのか?」と問いかけた。

「嫌な奴だな、お前。何したって防いでくるくせに。」

「俺のことじゃない。」

「じゃあ、何だよ。遠回しに自決しろって言ってんのか?」

「違う。お前を食べていた畜生共のことだ。」

 彼は鉤爪で右方を指示した。その先の岩陰では、先程に狩人の血を舐めていた獣らが集まり、細く鳴いていた。それらには爪も牙も無く、丸みを帯びた身体に苔のような体毛を生やすだけで、攻撃性は感じられなかった。

「殺す必要なんかないだろ。殺すにしたって、あんなのに刃物なんか要らない。」

「お前を食べていたのに?」

「舐められてただけだろ。」

「奪われたのに?」

「ちょっとの血液くらいでケチくさいな。体液くらい舐め合うこともあるだろ。」

「???」

「・・・あ。」

 狩人の顔全体が暗がりにもはっきりと赤面した。

「いや、違うんだって。ウチのとこじゃあ、そういう儀礼があってさあ?あんたの所にだって一つくらいあっただろ。傷の舐め合い、とも言うしさあ。ていうか違うだろ。そんな話もうどうだっていいんだよ・・・。」

 狩人は言い切るが早いか、声を消え入らせてしまい、一瞬ばかり頬の赤色を目尻にも及ばせた。そして自然に足元の短刀を拾って固く握りしめ、自らの首に突きつけた。

「どうしたいんだよ、早く言ってくれよ!喜んで死んでやる、死んでやるから理由をくれよ。お前は何なんだ。何がしたくてあたしらに付き纏うんだ!どうせ殺したいんだろ、そうに決まってる。殺せよ、さっさと殺せよ!」

 口にした言葉にそぐわず、狩人の手首からは余分な力が抜かれており、すぐにでも刃先を反転させる余裕を残していた。互いに動きを止めたまま上から小石が三つ落ちて漸く、冷ややかな風が狩人の耳に届いた。

「それがお前か?」

「あ?」

「もういい、悪かった。」

 彼は狩人に背を向けて颯爽と闇に消えていった。狩人は遠のいていく鉄の足音を数えていたが、それがふと止まって、闇の中から鞘に納められた銀色の剣と、肉が詰め込まれた革袋とが投じられた。狩人は刃物を腰に収め、それらを受け止めた。するとまた風が吹いて、鉄の半歩が狩人に返った。

「おいで、新しい狩人。もう一つだけお前を試さなければならない。それが済んだなら、地上に帰してあげよう。」

 意思を伝えて過ぎた風が背後で身を巻いて、ささやかに狩人の背を押した。


2,

 崖から数歩の距離を開け、谷に沿って歩く少女がいた。その目は酷く朦朧としていた。

 少女の胃は満たされていたが、もう何日も水にありつけないままでいた。夜を通して歩き続け、既に憔悴しきって長かったが、それでも残す力を振り絞って狩人を探していた。そうして必死になることには、重要な荷の殆どが狩人に任されていたという事情もあったが、狩人が彼女にとってある種の支柱であったからだった。しかし限界はすぐそこまで来ていた。とうとう些細な小石が爪先をからかい、少女はよろめき、余計に足を騒がせ、意図せず崖の方へと流れてしまった。

 奈落へと身を投げる寸前、少女の腕を掴み、支える者があった。それは帽子を被った長い金髪碧眼の、長身痩躯の若い男であった。彼はエイメルを助けようとしたのだったが、エイメルの目に彼の姿は虚であって、怪物のようにさえ映った。エイメルはできる限りに遠くへ、谷底に逃れようとした。しかし逃げ切る前に力尽きて男の腕に捕まり、そのままどこかへと連れ去られた。

 次に見たのは木目が入り組んだ天井と、かわいらしいガラス細工の吊り物だった。大きめの窓から風が入ると、吊り物が凛と鳴った。エイメルは良く整えられていた寝床を無駄に荒して跳ね起き、状況を見極めようとした。そこは小さな部屋だった。側にはテーブルに乗った水入りのグラスと、添えられた一つの椅子。壁には色を閉じこめた枠の飾りがあり、その隣に簡素な扉があった。

 エイメルは身を屈めて枠飾りの真下に張り付き、扉を軽く押し開いた。隙間から確認できたのは壁に沿って並ぶ隙間なく書物を詰めた棚と、最も遠くの棚の傍らで揺れる精巧な椅子の背だった。意気込んで踏み込むと床が音を立て、椅子の背が止まり、反転した。椅子を揺らしていた若い男が、座ったままエイメルに魅入った。

「・・・やはり美しい。」

 男は吐息まじりに呟いて立ち上がると、きょとんとするエイメルを居間へと連れ込み、一枚の大きな枠の飾りの前へと率いた。飾りはエイメルが目覚めた部屋にあったものよりも二回りは大きかった。男は枠の中央の色の山を指さした。

「君には美しいという言葉がわかるかな?ふむ、その反応を見るにまだ知らないのだろうね。せっかくだ、学んでいくと良い。・・・見てごらん。今は亡き春の国と、その主を題材とした絵画だ。使われた塗料は全てが春の国の作物を頼っている。いいかい、この絵画はね。この世で最も春の国に近しいんだ。つまりはこの世で最も美しい。そして、だ。君はどこか、春の主に似ている。自分でもわかるだろう?君も美しいんだ。どうだろう?君も美しいと思えるかな?春を愛しいと、心から感じられるかな?」

 男は熱心に語り、重ねて問いかけたが、エイメルは飾りの色の区別すらつかず、欠片の解釈にも至れず、混乱の縁に追いやられた。そんな彼女の様子を察して、男は追及を避けて彼女を優雅に椅子に誘って机を挟み、慣れた手付きで茶を煎れた。そして装飾が凝った二つのグラスに茶を注ぎ、一つをエイメルに勧め、自身も一口を含んだ。

「いい家だろう?」

 男はそう言って、次々と自慢の家具らに視線を移らせた。エイメルは彼の目の行く先を辿ってはみたのだったが、滑稽な物々の価値は僅かにも汲み取れなかった。

「私は客人が大好きでね。例えば商人をよく招待していたんだ。この辺りでは山菜だったか、木の実だったか、良い物が採れるらしくてね。彼らを良いお茶や料理で持て成したものだった。まあ、最近はめっきり姿を見なくなってしまったが。」

 男は「まあ、それはいいんだ」と独り言ち、グラスを机に乗せた。

「私はずっと、君のような優れた客人を待っていた。謂わば運命というものに期待していたんだ。それが遂に報われた。きっと吉兆が近いのだよ、君もそうじゃないかな?」

 男が訊ね、首を傾げたのに合わせ、エイメルも同様にして首を倒した。すると男は前傾してエイメルに怪訝な面持ちを近づけ、彼女の眼を覗き込んだ。

「・・・ふむ。」

「・・・?」

「喋れない理由があるのかな?」

「・・・。」

「まあいいだろう。君の美しさからすれば、声など魅力のほんの端くれに過ぎない。」

 男は姿勢を戻し、椅子に背を凭れた。そして「あるに越したことはないがね。」と、また独り言を置いて茶を啜り、うっとりとして絵画を眺めた。

「君が話さないならば、私が語らせてもらおう。語りたいことは多くある。まさに山ほどある。・・・私は、もともとは旅をしていたんだ。自分の価値と居場所を探す、終わりのない険しい旅だ。獣を狩り、行き会った商人から知恵を得て、逞しく生きていた。この家は、今では立派に住み着いてしまっているが、実は特別に親睦を深めた商人からの借り家でね。長居するつもりは無かったんだが、訳あって離れられなくなってしまった。すっかり良い居場所となってしまったよ。」

 男がしんみりと語る傍ら、エイメルは眠気に飲まれて目を細めていた。そこに男の熱い視線が帰ってきて、彼女はハッとして目を開けた。

「しかしだ、私は気付いてしまったんだ。この家が如何に優れた根城であっても、ここで私の価値が活きることは無いのだと。誰にも必要とされず、特別に何かを必要とすることもない。この生活は怠惰だ。惰性だ。だが、だが、愛着というものは恐ろしい。・・・必要以上に悩んだ。決起の為には確かな兆しが必要だったが、それは中々に訪れなかった。だが、ついに君が来た。」

 男に指をさされ、エイメルは珍しく眉を顰めた。

「おっと、すまない。だが言いたいことが分かるだろう?つまり、できることなら君が何者であるのか知りたかった。何を探し求めているのか、何を美しいと思うのか・・・惜しくも叶わぬ願いだが。それならば、私が君に望むことは一つだ。言葉は通じるだろう?今みたいに反応を示してくれればいい。・・・私は、後の私の旅に君が付いて来てくれたらと思っている。君にも悪いことは無いはずだ。私とともにいれば谷に落ちかけることはないし、日々の糧に困ることもない。それに感じるに、この出会いは互いの吉兆なのだ。間違いない。きっと君の旅の答えも見つかることだろう。いい話だろう。さあ、頷いてくれたまえ。君の答えを教えてくれ!」

 男は意気を増して言い放った。その肉迫にエイメルは気圧されて既に椅子に背を張り付かせていたが、尚も逃げ場を求めて退こうとし、椅子の前足を浮かせてしまった。そして自重のままに椅子を倒し、後頭部を床にぶつけた。その衝撃はエイメルに耳鳴りを与え、振動がある気配を伝え、彼女の脳裏にある使命を呼び起こし、身体を突き動かした。

 紳士に徹しようとした男の手を無視し、速やかに立ちあがったエイメルは、右の指先である一点を指さした。そこには小部屋のものとは別の、小窓の下にベルを吊った扉があった。男は拍子抜けしていたが、何か勝手に納得すると繰り返し頷いた。

「うむ、確かにそうだ。何にしても落ち着いて考えることが大切だ。私は少し焦りすぎていたかもしれない。よし、行こう。幸いにも今日は天気がいい。」

 男はエイメルの左手を取り扉の先へ、外へと連れ出した。

 家の前には広くはない畑と畦道が続いていた。その周辺はある程度の手入れが行き届いてはいたが、少し先からは無作為の自生が許されていた。森と山と、川を抱えているらしい土手と窪みが見渡せた。

 深呼吸と背伸びをする男をよそに、エイメルは速足で家の裏手へと回った。始め、男は放任的であったが、ふと何か勘付いて焦り、エイメルを追った。色も形も様々な干し肉の垂れ幕をくぐり、小さな屋根の下に積み重ねられた薪を飛び越え、出会った井戸から数歩を進んだ先の、長く伸びた草の陰。そこにもう一つ、特別に丈夫な縄が下ろされた、焦げ跡が目立つ井戸があり、エイメルは迷うことなくその奥へと入って行こうとした。縄を掴むと、井戸の口に籠った乾いた熱気が肌に纏わりついた。片足を入れようとした時、男の手が間に合って、彼女を抑えつけた。

「やめろ!この井戸は枯れている。水を浴びたいならば手前の井戸を使うんだ!」

 男は懸命に訴えたがエイメルは止まらず、果敢に縄にしがみ付いた。

「どういうことだ・・・まさか。君は、まさか死にたいのか?伝えておくが、君は死んでしまうには惜しい存在だぞ。宝のような、愛されるべき美を持っている!」

 男はエイメルを井戸から引き離すことに全力を注いだが、彼女の井戸への執念は絶えず凄まじく、手強かった。加えて、彼女にはまだ余力があった。

「この奥に何を隠しているのですか?」

 その静かな問いは男の鼓膜を満たし、更には大気と大地とを通じて彼の肉体にまでも深く染み渡った。エイメルは抵抗を止めて、力と意志を欠落させた彼の肘に右手をそっと添えた。彼女の右手の甲には脈動する赤の印が及んでいた。

 男は数度の瞬きをしてから左右に狭く首を振った。それでも誘惑から逃れることはできず、エイメルの翡翠の瞳に囚われた。

「・・・妙な気持ちだ。まるで生まれたばかりの、あの日に胸を潤していた高揚と誇りが思い出される。君が私に何かしたのか・・・いや、そんなことは実にどうでもいい。やはり君は吉兆だったのだ。それが解った以上、他に何も必要ない。」

 男はエイメルを躱して井戸に下げられた縄を握った。

「秘密を教えよう。だが、その代わりに約束してほしい。井戸の底にある者は、ここに私を縛り付ける枷だ。そんなものを、敢えてそのままにしてあるのには理由がある。だから決して手を出してはいけない。情けすらも罪だ。私たちに許されることはただ、あれが滅びるのを見届けるだけだ。それを誓えるか?」

 エイメルは一度、浅く頷いた。

「よろしい。」

 男は井戸の縁に座って、少しばかり躊躇い、エイメルに向いた。

「・・・もう一つだけ、はっきりと答えを知っておきたいことがある。先ほどの話だ。君は私との旅を、生活を受け入れてくれるだろうか?」

「・・・。」

「答えてくれ。君はまだ知らないが、この下にはいる者は不安定だ。万が一には今日に命を賭すことになるかもしれない。井戸を下りることは、本当に恐ろしいことなんだ。」

 エイメルを見つめる男の瞳は冷徹さを映しながら揺らいでいて、片隅では寂しげに、力ある熱を切望していた。エイメルは深く頷いた。その根が優しさであったのか、或いは一時の偽りであったのか、その真実を男は見抜けなかった。


 井戸の底は妙に暑く、乾いていた。それは奥に通じる広狭で波打つ薄暗い通路も、待ち構える広い空間にも同様だった。空間には眠る巨大な火が灯っていた。男はずっと目を背けていたが、エイメルはじっと彼女を見つめていた。

 終わりのない無意味な生命の循環だけが、そこにあった。



「石ころという物は、どうしてわざわざ誰かの鬱憤を受けるだけの生を受け入れてしまったのだろうか?絶対、嫌なはずなのに。不名誉なはずなのに・・・。」

 何度と思ったか分からない。

 形のない胸の内のものなのか、或いは声に出た言葉なのかも定かでない。そんな約束の戯言を石ころに預け、関係を断ち切るかのように、果てのない闇の彼方へと蹴飛ばした。それから数歩を経て、遥か上の青色の線を仰いだ。

「もう無理い、疲れたーあ、光を浴びたいーい。」

 その愚痴もまた、日ごとの常套句となっていた。

 谷底に落ちてしまった狩人。彼女の毎日は闇に始まり、足音を追いかけ、闇に終わる。辛い日には銀色の剣に春を感じ、干し肉を溶けてしまうまで齧み尽くして気を紛らわす。気分が良い日には思いつく限りに歌ったり、毛玉のような獣を捕まえて遊ぶ。そんな日々の中で、狩人は自身が逞しくなったと錯覚し、それなりの自信を持つようになっていた。しかしながら、終わりの知れない谷底の旅路は頻繁に彼女の心を曇らせた。今にまた新たな石ころが無差別な暴力の犠牲となり、闇の隅から帰らぬ身となった。

 

 ある日、とうとう狩人は思い切った。いつもならば蹴り飛ばすはずの石を拾って、前を行く足音へと投じた。足音は止まず、石は倍の速度で帰ってきて、狩人の額を傷つけた。傷の鋭い痛みが引き金となって、狩人は泣き出し、その場で蹲った。

「あーん、もーどこに連れてくつもりなんだよお!毎日毎日、歩いてばっか!あたしもうヤダ!歩きたくない!はやく地上に帰してよお。」

 足音は喚きを聞いてピタリと止まり、引き返し始めた。足音の到達を待つ間に、狩人の手の甲と首に群れる柔らかな感触があった。彼女の額に浮いた血の臭いに誘われた毛玉の獣らが身体を攀じ登り、組まれた腕と頭の隙間に潜り込もうとしていたのだった。頭の上から毛玉が一つ取り除かれるのを感じて、狩人は顔を上げた。

「もう限界なのか?」

 刺すような風が狩人に訊ねた。その不快な冷たさに負けじと、獣の舌が休みなく彼女の額を舐めまわし、生温い湿気を齎した。

「そうだよ、限界だよ。」

「諦めてしまうのか?」

「何を諦めるのかもわかんねーよ。もういいんだ、あたしの負けだよ。」

「まだ試してもいないのに?」

「ふざけんなよ?」

 狩人は嫌悪を発し、力強く立ちあがった。それによって二匹の獣が振り落とされたが、額と肩と背中には揺れに耐えてしがみ付く三匹がいた。

「いい加減にしてくれ。こんな来る日も来る日も谷底の生活、まさに試練だ。もう試したようなものだろ?・・・早く地上に帰してくれよ。昨日で水がなくなったんだ。どこかで汲み直さなきゃあ死んじゃうよ。それにあたしだけじゃない。エイメルだって・・・。」

 狩人はつい気掛かりの名を口にして胸が締め付けられ、崩れ落ちた。今や友の無事は願うにも脆く、心に重い不安を実らす不朽の種となっていた。不安を抑え込もうとするかのように、狩人は石ころのように身体を丸めた。更に足音が接近し、その足の指に擬態した爪が狩人の爪先を踏みつけた。

「諦めてしまうのか?」

「そうだよ。馬鹿々々しい。」

「死んでしまうのか?」

「そうじゃない。お前なんかについて行くのは止めて、自分で考え出した方法で上を目指すんだ。考えてんだよ、邪魔すんな。」

「できると思うのか?」

「できるかどうかは関係ない、やるしかない。・・・元はといえばお前の所為だぞ。」

「本当に俺のせいか?」

「当り前だろ。考えてみろよ、ばーか。」

「もうすぐ着くのに?」

「・・・うん。」

「もう目の前なのに?」

「・・・。」

「・・・・・・・・。」

「・・・マジ?」

 

 谷底の道はその陰に数えきれない程の洞窟を隠していた。それらが腹に潜ませるものは獣から水晶と多様であった。この日に初めて、その一つが彼らの進路として選ばれた。それは岩壁に小さな水流と毛玉の獣の群れを交互に並べた洞窟だった。奥に行くにつれ獣は数を増し、やがて鼾に似た音が聞こえてくるようになった。

 彼は暗がりの端で立ち止まった。狩人は彼を追い抜こうとしたが、鉤爪の右手がそれを阻み、鱗張りの左腕が上がって、明かりの中を指さした。そこは大円を空けた天井から垂直に陽光を落とす広々とした空間で、日向では背の高い生物が四足を畳み、岩壁に頭を預けて眠っていた。生物は全身に、先端を棘のように固めた黒緑色の体毛を垂らしており、下に向いた腹の側面には粘性の体液を排出する小さな穴が並んでいた。それらの穴には毛玉の獣が入れ替わって集り、生物の体液を舐め啜っていた。狩人の腕に捕まっていた毛玉の獣が隙を見て飛び出し、短い足で駆けて群れの中に加わった。

「あれは害ある者。尽きぬ欲のままに貪り、その代償として毒を吐く者。だが、毒も元は大地に所縁を持つ。それは大地を巣とする獣にも同じこと。」

 彼は岩壁を捥いで角張った石を作り、投じた。石は生物に激しく叩きつけられ、目覚めさせた。長い喉が膨らみ、猛々しい咆哮が放たれた。狩人は嫌な予感から尻尾を巻いて逃れようとしたが、彼がその隙を与えなかった。

 生物は細長い足で立ちあがり、蹄を鳴らした。そして下に開いた平らな口を捲り上げ、渦のように入り組んだ牙を剥き出しにした。それを地面へと、群れる獣らへと叩き下ろした。短い断末魔と赤色の液体が飛び散り、啜り取るような音の後に口が上げられた。赤く塗れた岩盤の上に、はらはらと獣の体毛だけが落ちていた。逃げることを諦めた狩人は、その様をただ傍観していた。

「どちらを殺したい?」

 風が狩人に問いかけた。

「質問の意味がわかんねえ。あたしを、あのデカブツと闘わせたいんじゃないのかよ。」

 そう答えた狩人の声は諦めと呆れを帯びていたが、片手ではしっかりと短刀を握り、肩に担がれた剣は根の鞘を退かせていた。彼女の確かな覚悟を悟って、彼は密かに指をわきわきと躍らせて喜んだ。

「殺したいと思うのか?」

「飛躍しすぎだろ。あれと闘って帰れるならそうするってだけで、別に好き好んで闘う訳じゃない。そもそも何かを殺したいだなんて、余程に嫌っているやつが相手でもなきゃ、そうそう思う事じゃない。」

「狩人なのにか?」

「関係ない。与えられた役目が偶々そうだっただけで、その前のあたしは物資の運搬人だったし。・・・ん?待て、なんであんた、あたしが狩人だって知ってるんだ?」

「・・・・・。」

「おい、答えろよ。」

 狩人は彼を肘で小突こうとしたが、触れることを気味悪く思い、止めた。

「ちぇっ、急にだんまりかよ。都合のいい奴め。」

 狩人は彼の側に鞄を置いて一人、生物に近づき、足元に銀の剣を叩きつけた。苔むした岩盤が打ち砕かれ、その破片を避けるように獣らが逃げ惑ったが、生物はまるで怯まず、磨かれた宝石のような目で狩人を見下ろした。

「こいつと闘えばいいんだよな?」

 狩人が振り向かぬまま大声で言った。返答のように、生物が鋭く嘶いた。

「殺したいと思うのか?」

「そればっかだな。あんた、さすがにキモいぜ。」

「あ・・・・。」

「お?なんだ、もしかしてグサッと来たか?」

「俺を嫌ったのか?俺を殺したいか?」

「うん、もういいわ・・・喋んな。後でちゃんと帰してくれよな。」

 狩人は下ろしていた剣の腹を肩に抱えた。すると生物が根元で三つに別れた尾を振り上げ、その先端を狩人に向けた。狩人は生物の全身を観察し、急所を探した。体毛に守られていない部位は口と喉元と、目があったが、どれも手が届かない高さにあった。

「デカいのと闘ったことってないんだよなあ。でも、やるしかないかあ。頼むから生きていてくれよ、エイメル!」

 無駄のない最速の一歩が踏み込まれ、狩人の身体が低く飛行した。生物が戦意を得る前に、剣による渾身の一撃が骨張った足に直撃したが、傷一つ付けられなかった。

「は?無理じゃん。」

 狩人は唖然としながらも忍び寄る三つの戦意を察し、四方八方に跳躍した。彼女が蹴った岩盤を、生物の尾の攻撃が次々と追いかけた。三つ目の攻撃を躱した直後、狩人は指輪を擦り、生物の首へと炎を発した。炎は体毛を燃やすことができず、喉元にも届かず、期待以上の働きこそしなかったが、生物の視界を妨げた。尾の追撃の迷いの隙に、狩人は岩盤から引き抜かれようとしていた三つ目の尾を断ち切った。先端を失った尾は体液を撒き散らして暴れた。その手応えに勝ち筋を見出した狩人であったが、彼女の前で尾は直ちに傷を埋めて体液の流出を止め、まだ肉を貫くに足る矛先を掲げ直した。

 百を超える尾の猛撃と、その半数に満たない狩人の反撃を経て、生物の尾は二本が半分以上を削がれていた。自ずと尾の射程が狭まり、狩人が距離を置けば生物の攻撃手段は未だ傷のない一本の尾を頼る他なかったが、生物はそんな無謀な攻勢に出る事は無かった。生物は徹して、狩人が三本の尾の全て至る距離に近づいてくるのを待っていた。

 狩人は構えの為に半歩を踏み出し、水面を作る体液に波紋を生じさせた。岩盤は闘いの過程で撒かれた生物の体液を広い範囲に被っていた。所々では火の粉が残り、体液から蒸気を発させていた。洞窟内の気流の循環が追い付かず、蒸気は空間内に立ち込めて、厚い壁のような熱を抱え、狩人を包み込んでいた。

 いつからか狩人は肺と気道に刺すような痛みと、舌が麻痺する感覚を覚えていた。慣れない戦闘の為か、身を包む熱の所為か、原因として思い当たるものは多くあったが、判断を下せるほど狩人は明晰ではなかった。狩人は無駄に考えることを止め、闘いに専念することを決めた。生物に消耗の気配を見てのことだった。

 狩人が跳躍して距離を詰めるや、生物が短い二本の尾を立て続けに振り下ろした。その射程の短い攻撃は狩人が待ち望んでいた好機だった。狩人は一撃目を敢えて肉薄させて避け、尾先が岩盤に突き刺さった瞬間にその側面を足場として上へと二度の跳躍を行った。向かう先には生物の首元、これまでにない接近となった。狩人は曲線の頂点で、指輪から球を成すほどの大きな炎を放った。炎によって生物の頭が視認できなくなったが、それはつまり、炎が生物の急所を直撃するという事実のあらわれでもあった。しかし、次に炎は真上から吐き出された粘性の液体に包み込まれ、爆発を伴って消滅した。蒸気と水滴の波が狩人に押し寄せ、それらは彼女の口や肺に侵入した。途端に呼吸が止まり、着地にも失敗して岩盤に背と腰を激しく打ち付け、狩人は痛みと苦しみに身悶えた。彼女の無防備な腹に、まだ損傷のない尾の追撃が迫った。

 狩人が敗北の間際になって気づいたことは、生物の体液が毒であり、その蒸気を吸ったことで思考と身体が不振に陥っていたのだということだった。そして敗北の後に悟ったことは、どうやらこの生物は大変に賢く、殺意を有していないことだった。

 狩人は息もままならぬまま、感覚が覚束ない指先で自身の腹部を確かめた。そこには傷らしい傷はなく、出血もなく、毒もなく、生物の尾の先端は旅装束を破ってはいたものの、ごく僅かな表皮を削るだけに留まっていた。狩人は腹に添えられた尾に触れた。初め、尾は水晶のように硬かったが、触れられた個所から縮小し、柔らかくなった。狩人は少しずつ、尾に指を登らせていった。するとまた硬い箇所が現れ、その少し上には尾を握りしめる手があった。その鉤爪をなぞり、手首を辿り、続く細く滑らかな腕の中程を掌で包み、祈る様に指を絡めた。

 どこからか凍てつくような風が吹き、狩人の横髪を揺らした。

「終わりだ、狩人。君はよく闘った。」

「なあ・・・。」

 その一言で狩人の息は途切れた。それ以上の言葉を発するだけの空気が肺に溜め込まれていなかった。

「殺さなきゃいけないのか?」

 狩人の刹那の吐息は当然ながら声にならず、辛うじて微量な空気を流す音を立てるに過ぎなかったが、その意図は伝わっていた。

「それが狩人であるから。殺すことが、狩人の役目であるから。」

 鱗の左腕が生物の脚へと伸び、その掌で何かが輝いた。輝きの行方を見届けることなく狩人は意識を失った。最後に見えたのは、闇に浮かぶ瞳のような宝石だった。

「そのはずだったでしょう、春の乙女よ。」

 聞き手のない囁きが渦を生み、内に逆巻く刃を生んだ。塵一つとして散らさずに、そこにあったものの全てが形を失くし、肉の球体だけが転がった。


 久しい明かりの下の目覚めであったが、狩人の気持ちは晴れなかった。彼女は谷底の冒険の顛末が朧気で、それはあの生物についても同様で、遡ろうとすれば逆らい難い強固な現実との隔たりを感じるのだった。しかし全てが夢でないことは確かだった。

耳に流れ込んだ鼻歌の先には角と、裂けた口と、鉤爪と、鱗の腕。そして彼女の銀色の髪が、穏やかな風に靡いていた。


4,

 ある朝のこと、外から届いた口論がエイメルを呼び起こした。机の上には冷めた茶を低く残したグラスと、食べかけの四角い菓子が置かれた皿。エイメルは朝食の間に居眠りしてしまっていたのだった。

 椅子から立ち、外へ出ようとするとちょうど扉が空き、家の主イーヴァが押し入ってきた。彼は後ろについて来ようとした手を撥ねながら強引に扉を閉め、既に侵入していた角の客人には気づかないまま扉に錠をかけた。外から乱暴に扉が叩かれ、エイメルにとって聞き馴染みのある声が騒いだ。

 エイメルが扉を開けようとするとイーヴァが阻んだ。彼の指は一本一本が頑固だった。エイメルはドアノブから手を放し、爪先で立って彼の横顔に唇を寄せた。

「彼女たちを歓迎してあげて。」

 その囁き一つによってイーヴァは抗う気を失い、扉の錠を外すと離れて椅子に座った。そして何事もなかったかのように白湯を飲もうとしたのだったが、表情だけは険しく、眉を傾け、思い出せない不満を探しあぐねていた。

「彼女たち・・・たち、とは誰の事だ?」

 エイメルはイーヴァには構わず、ドアノブを回した。

 扉を開けた先には不機嫌に唇を結び、どうしても届かない扉の窓へと健気にも背伸びする朱色の髪の少女がいた。彼女は初め驚くばかりだったが、すぐに口元を緩ませるとエイメルの胸に飛びつき、歓喜の悲鳴を上げた。

 居間に所狭しと四つの椅子が机を囲んで並べられ、三人が座った。エイメルと狩人は、室内を奔放に歩き回り、時に気紛れを風に語らせる銀髪の彼女を気にしていたが、イーヴァは見えていないのか、彼女に関心を傾ける様子が無かった。しかし奇妙な空気の動きが気掛かりではあるようで、扉や窓にちらちらと視線を巡らせていた。

「・・・で、一体どうなってるんだ?」

 その場にいる誰もが口にしたかったであろう言葉を、狩人が切り出した。

「それは私のセリフだ。なぜ当然のように私の家でくつろいでいる?」

 言葉とは裏腹に、四人分の茶を用意しながらイーヴァが答えた。彼は深く被った帽子で鼻頭までを隠し、狩人を見ないように努めていた。

「あんたが入れてくれたからだろ。お茶まで用意してくれてさあ。」

「茶だと?」

 イーヴァは帽子のつばの下に狩人を覗いて、それから目の前の湯気を昇らせるグラスを摘まんで鼻に寄せた。

「うむ。この香りは確かに、私が煎れたに違いないだろうが。」

「ほら、やっぱ歓迎してくれたんじゃんか。」

「お前みたいなやつを誰が歓迎するものか。何故だ、何故こうなった。・・・いや、わかった、わかったぞ。君だ、君が技を覚えて煎れてくれたのだろう。」

 イーヴァが前のめりになってエイメルへと詰め寄った。その反対から、狩人が椅子ごとエイメルににじり寄って、冷や汗を流すイーヴァをこっそりと指さした。

「なあ、エイメル。こいつなんかヤバそうだぜ。どういう関係なんだよ?」

 狩人の問いに、エイメルが表現し難い経緯に窮していると、狩人の首元に銀髪が張り付き、声もなく薄い唇を動かした。その間に狩人は相槌を打ったり、頷いたりと、顔を忙しく動かしていた。

「・・・へえ、あたしと別れた後に助けてもらったのか。あんたなんでも知ってるな。」

 狩人は関心し、礼を言おうとして振り向いたが、その時には既に彼女はそこにいなかった。彼女は悠々と振舞い、イーヴァの背後の書棚の一冊に手を伸ばしていた。本が半分ほど引き抜かれ、落ちた埃にイーヴァが過敏に反応して立ちあがった。彼は位置を乱す一冊に謎を残しながらも押し込んで厨房に向かった。そして引き出しを開け、手前の容器から菓子を四つ取って皿に並べ、それを持って居間へと戻り、またも頭を主張していた一冊に苦悩しながらも平静を装って直し、僅かに足場が逸れた椅子の位置を直して座った。机の真ん中に皿が乗ると同時に、イーヴァが狩人に向き合った。

「あー、なんだろうか。えー、全く釈然としないことばかりではある。怪しいこともあるが、君たちは私の客人だ。そう、客人なのだ。スバラシイ。とても運命などと褒めたことではないが、貴重な・・・ん、偶然だ。朱色の客人よ、お前を歓迎しよう。だが、まずは簡単にでも名乗ってほしい。それが招かれる者の礼節だろう。」

 そう告げるイーヴァは止めどなく垂れる冷や汗が気になり、胸元からハンカチを取って忙しなく頬や首、脇に当てていた。違和感と葛藤が彼を苛んでいた。対する狩人は椅子の背もたれに張り付き、嫌悪の眼差しをイーヴァへと向けていた。

「あー、あんた。そういう感じね。あたしが昔に嫌ってた類のやつだ。中央のあいつはなんて言ったっけな。もしかして家族?」

「カゾクとは何だ。」

「家族は家族だよ。親とか、兄弟とかさ。」

「そんなものは知らない。訳の分からないことばかり口にして、私を惑わそうとするのはやめてくれないか。」

「あたしはあんたが訳わかんないよ。」

 狩人は苦いものを噛んだように顔を歪め、エイメルの手を取って立ちあがった。そしてイーヴァに背を向け、扉の方へと歩き出した。するとイーヴァが椅子の上で跳ねて狩人へと駆け寄り、彼女の小さな肩をしっかりと捕まえた。狩人の肩が強張った。

「待て、待ってくれ。私は君を歓迎しなければならないんだ!」

 イーヴァの危機迫る物言いに狩人は未知の異質な恐怖を知ったのだったが、それは彼女の過激な反抗心をも上回って、慎重にさせた。

「いや、いいって。別に世話になろうなんて思ってないからさ。あたしらはエイメルを探していただけだし。見つかったしさ、帰るから・・・。」

「なんだと?行かせるものか。君がなんと言おうと、私は必ずや君たちを歓迎する。それは絶対だ。絶対なんだ。それに、それだけじゃない。私は彼女と約束をしたのだ。」

「約束ぅ・・・?えっと、エイメルと、かな。どんな?」

「私が自由となった後の生活だ。彼女は私と暮らすことになっている。」

「へ、へえー・・・おい。」

 狩人は血相を変えてイーヴァの胸倉に掴みかかり、無理矢理に引っ張った。為されるがままにイーヴァが膝立ちになると、二人の目線が並んだ。

「エイメルがそんな約束するわけないだろ。」

「いいや、確かにした。何日だ?何日か前にだ。間違いない。」

「嘘だ。エイメルが話せないからってこじつけてんだろ。ぶっ殺すぞ!」

「殺したいと思ったの?」

 狩人の脅し文句に、すかさず風の期待が寄せられた。イーヴァの肩の上から、その本体が裂けた口を覗かせていたが、狩人の眼中にはないようだった。イーヴァは途端に勝ち誇った顔になり、膝立ちからしゃがんだ姿勢に変わって、膝の埃を掃った。

「いいや、私は間違ってなどいない。それに、エイメル・・・は話したぞ。最初は話せないのかと思ったが、私には話しかけてくれた。彼女は話せる。話さないのは君にだけではないのか?君は横暴に見える。信頼が足りないのではないか?」

「そんなわけない、あたしは親友だぞ。何も知らないくせに!」

「ふん、自分で言うのもなんだが、私は彼女の命の恩人だ!」

「あたしだって出会いは恩人っぽかったし!」

「ぽい、では駄目なのだ。要は心を動かしたかどうかだ、戯けめ!」

「はあああ?!」

 狩人はとうとう憤り、イーヴァを突き放そうとした。しかし腕力が足りず、イーヴァの身体は微動だにせず、やはり勝ち誇った顔で狩人を見返していた。

「かわいらしい腕力だ。」

「うるせえ!」

 狩人がイーヴァの胸を殴打したが、その結果、痛みに呻いたのは狩人の方だった。

「終わりかな。さて、戻ってお茶でもどうかな?」

「正気かテメエ、ふざけやがって。もう知らない・・・もう、知らない!」

 狩人は力の限りに扉を蹴り開けた。外に出てすぐの傍らには剣が立てかけてあった。しかしエイメルが動こうとしなかったために進めず、剣を取ろうとした手が空を切った。

「どうしたんだよ。こんなところ、早く出て行こうよ。」

 狩人はエイメルに振り反って呼びかけたが、エイメルは茫然として佇んでおり、まるで狩人の声が聞こえていないようだった。その様子に、イーヴァが勿論といった面持ちで頷いていたのだったが、間もなくエイメルは狩人を押すようにして家を出て行った。

 扉が閉じるや、エイメルは狩人の手を引いて駆け出した。

「え、ちょっ、エイメル?」

 狩人は驚きつつも迎えた干し肉や薪といった障害をなんなく越えて、導かれた先の草むらで簡素な井戸を目の前にした。狩人の困惑はエイメルが迷わず井戸を下ろうとしたことで極まった。狩人はひとまずエイメルを引き留めようとした。

「おいおい、どうして降りる必要があるんだよ。井戸だろ?何がしたいんだ。」

 エイメルは身振り手振りを講じて狩人に意思を伝えようとしたが、それを終えぬうちに彼女の腕を掴む新たな手が現れた。

「その通りだ、君は一体何がしたいんだ。好奇心が旺盛なのか、それとも愚かなのか。いずれにせよ君はどうやら、放っておいてはいけないようだ。」

 イーヴァはエイメルを強引に抱きあげ、運んだ。エイメルは抵抗しなかったが、狩人がイーヴァの腕に爪を立て、肉を抉ろうとした。しかし彼の肌は妙な質感で、爪が刺さったようではあったが出血はなく、強靭で、表皮すらも削り取れなかった。

「エイメルに触るんじゃねーよクソ野郎。」

「全く、君は何から何までが品に欠ける。・・・大人しく付いて来てもらえるだろうか。繰り返しになるがね、私は君たちを歓迎しなければならないんだ。その衝動の理由が今、ようやく飲み込めた。君たちは自由にはさせられない。」

「勝手に決めるな!あたしらは自由だ。エイメルと旅を続けるんだ。」

「ああ、いいとも・・・だが、少しばかり我慢しておくれ。今は駄目なんだ。」

 そう言ってイーヴァは手首で家の扉を開け、中にエイメルを押し込んだ。そして短刀を抜いて威嚇する狩人に手招きをした。

「ほら、来たまえ。歓迎しよう。」

「素手でいいのかよ?」

「うむ、確かに。だが、私の道具は君の後ろにあるんだ。取っても?」

「ああ、待ってやる。取りなよ。」

「・・・どうも。」

 イーヴァはニヤリと笑い、通り過ぎ様に、何気なしに狩人の肩に触れた。


「いだっ・・ちょ、不意打ちとかずるうううううっっ!!」

 絶叫とともに、イーヴァに抑えつけられた狩人が家の中へと運び込まれた。狩人は握っていた短刀を落とし、手ぶりでエイメルに助けを求めた。しかしエイメルは明後日の方、イーヴァの首筋を掠めて、銀髪の彼女を見つめて動こうとしなかった。

 二人は順に、エイメルが生活する寝室へと連れられた。そこで狩人は縄で縛られた手首を頭上に上げさせられ、直立に立たされた。イーヴァは狩人から短刀を備えたベルトを取り上げると、今度は彼女を膝立ちにさせた。そしてエイメルに両足を抑えつけるように命じると、次に、狩人の旅装束を下から上へとたくし上げていった。暴れようとした狩人だったが、エイメルが気掛かりであって、胴をくねらすことしかできなかった。彼女は碌に抵抗できぬうちに裾の末端を腕の高さまで上げ切られてしまい、顔が隠され、肩より下が一糸も纏わぬ姿になった。イーヴァの冷たい手が肌に触れる度、狩人は奇天烈な鳴き声を上げた。

「随分と無駄の多い体つきだ。何かを隠すためかと思えば、さっきに回収した帯の他に凶器はない。姿勢は勇ましかったが、もしや戦士ではないのかな?」

 イーヴァは無情のままには狩人の肌を確かめ、時に膨らみを持ち上げて、まじまじとその肢体を観察した。そして危険がないと判断すると、装束を元に戻した。現れた狩人の頬は羞恥に赤らんでいて、目尻には涙さえ浮かんでいた。

「変体野郎。」

「変態?・・・意味は知らないが、悪口なのだろうな。」

「しらばっくれやがって、マジで。マジで殺してやるからな!」

「殺したいと思うのか?」

 銀髪の彼女が、音もなくイーヴァの背後に忍び寄った。

「ああ、殺してやるよ!ぶっ殺してやる!!」

 狩人は宣言とともに銀髪の彼女に視線を送り、必死に殺意を訴えたのだったが、彼女は助けてくれるわけではなかった。男が大きなため息を吐き、剣と帯を担いだ。

「では、君たちには暫くこの部屋で生活してもらうよ。自由は制限させてもらうが、悪くは扱わない。食事は十分に与えるし、たまには外出も許そう。毎日とはいかないが、水浴びも可能だ。勿論、私が監視する上で、だがね。」

「変態!鬼畜!下種!」

「好きに言ってくれたまえ。いつか君の口から感謝の言葉が聞けることを祈っているよ。別に私は、君たちを苦しめたいわけではないのだからね。」

 男はそう言い残し、部屋を出ていった。外から重い錠をかける音が聞こえると、早速、狩人が動き出した。部屋にある物々に目を通し、手首の拘束を解く手段を探した。しかし部屋には鋭利な物はおろか、まともな角を持つ物すら存在しなかった。狩人は諦めず窓からの脱出を試みたが、攀じ登ってみれば外側には面格子が設けられていた。

 狩人は窓から飛び降りて、寝床に腰かけて読書に耽るエイメルの背に縋りついた。

「なあ、本なんか読んでないで手伝ってくれよ。あいつ、馬鹿でさ。指輪までは持って行かなかったんだ。このなりじゃ危なくて使えないけど、手が自由になれば扉を焼ける。あたしらはこんなことしてる場合じゃない、そうだろ?」

 狩人はエイメルの顔を覗き込み、そして部屋の隅へと駆け込んだ。エイメルは本から目を離し、縮こまる狩人へと振り向いた。

「エイメル・・・?」

 弱弱しい声が友の名を呼んだ。声に返って来たのは、好奇心に逸る子どものような、満面の無垢な笑顔だった。翡翠の瞳の奥には揺るぎない自信が燃えていたが、それが狩人の目には滾る狂気のように映った。狩人は友の形をした怪を恐れ、或いは友の姿をした恐怖を知って、退き場のない壁に必死に背を擦りつけた。

 エイメルは不敵な笑みを保ったまま四足で歩いて狩人の鼻の先に至ると、唇に人差し指を立てて添え、長く目を瞑った。それから狩人を抱え、整えられた寝床の上に優しく横たわらせ、額に口づけした。狩人はまだ慄きを拭えずにいたが、その口づけを、エイメルの慰めの合図と解釈し、全身の力を抜いて頬を染めた。エイメルは狩人の背と寝床の間に指を潜り込ませ、彼女の姿勢を俯せに変えた。そして細い腰の上に馬乗りになり、指を鳴らした。次に肩を、腕を、首を。続く瞑想の気配。狩人は混乱した。慰めを前に、エイメルは何をしているのかと。

「え、エイメル?一体何を。」

「・・・!」

 天の彼方、七星を掲げるエイメルの指が描くは落ちる流星の如く乱れなき直線。星は狩人の背の一点へと降下し、続いて肩、腰、首根、また背。星は只人では見抜けぬ神秘の穴という穴を穿ち抜き、潜む邪悪の全てを殲滅した。長い暇に読み解いた伝書がエイメルに与えた力はそれだけではなかった。寸分の狂いもない突きが瞬きの間に三つの星を落とした。応えるは大地を裂かんばかりの絶叫。だが、それでも、エイメルの信念を止めるには足りず。その指の軌跡は常に一筋であった。


 狩人の絶叫は、異変を聞きつけたイーヴァが助けに入るまで続いた。

 彼女の絶叫が嬌声に変わるまで、あと五日。



「エイメルーう、もう一口ちょうだーい。その大きいの、それー、それ!」


「なー、水浴びしようぜー。服脱がせてくれよー・・・エイメルも脱げよ。」


「寝る前にいつものー。あれしてもらうとさー良く寝れるし、翌日は身体が軽いんだあ。最近はぜーんぜん痛くないし・・・エイメル?待って、寝ないでくれよ。ちょっとでいいから頼むって、あたし手がこの通りだからさ。」


「イーヴァ、お昼だよーご飯作ってー。お腹すいたー、あ。昨日のにあった苦いのは抜いてさ、甘めに頼むよ。・・・・・・・・イーヴァ、お茶入れて―。おーい、お家の主さまあ?どこお?早く来てよお。エイメルが昼寝しちゃったんだよー。喉乾いたよー、イーヴァ?どっかであたしのこと見張ってるんだろお。おーい、イーヴァ―・・・イ。」

「いい加減にしてくれないか?」

「変態!」

 扉が開いてイーヴァが半身を乗り出すや、その顔に円形の積み木が投じられ、鼻を直撃した。それもそのはず、狩人は待ち兼ねた末に借り物の寝巻の結びをほどいていたところで、ちょうど無防備な姿であった。イーヴァは鼻を摩りながら狩人に関心した。

「やっと一人で着替えられるようになったのか。私を呼びつける必要があったのかな?」

「お茶だよ、お茶。お茶くれよ。」

「自分で煎れればいいじゃないか。」

「だって、あたし。手がこれだし。」

 狩人は自慢げに手首を突き出し、ちらつかせた。彼女の手の拘束は隙間のない縄から、余裕のある手錠へと変わっていた。

「手錠に変えたのだ。茶を煎れるくらい、自分でできるだろう。」

「えー。でも、あっつあつの薬缶で襲い掛かるかも知れないぜ?」

「君が思いつく手段では私を傷つけることはできないよ。さあ、大人しく居間へ来て自分で湯を沸かしなさい。私には仕事がある。」

「待てよ。」

 狩人に呼び止められ、イーヴァは閉じかけていた扉の隙間から顔だけを覗かせた。

「じゃあさ、いっそ拘束を外してくれよ。暴れないからさ。」

 狩人の進言に、イーヴァは少しばかり考え込んだ。

「・・・二度と書棚を壊さないと誓えるか?」

「誓うよ。」

「私の味付けに難癖をつけることもしないと?」

「あたしの嫌いな茎菜を使わないでくれるなら。」

「・・・。」

「どうなんだよ。」

「いいだろう。」

 狩人は一度、扉を閉じ、間もなく鍵を持って戻ってきた。そして狩人の手を取り、あっさりと手錠を外してしまった。

「頼んどいてなんだけどさ。やっぱ良くないと思うぜ。」

「いや、良かったよ。正直、君は固く拘束していた時の方が面倒だった。」

「あたし、すぐに暴れ出すよ?」

「してみたまえ。君の武器は全て隠してあるし、この家にあるものは精々が調理用具だ。それにまた何かを壊そうものなら、相応に食事を抜くことになる。」

「逃げ出して食糧庫を見っけちゃうかも。あの井戸に入っちゃうかも。」

「やれやれ・・・。」

 イーヴァは長い溜息を吐き、ドアノブに手を掛けた。

「君はそもそも、ここを出て行こうとは思っていないだろう。」

 イーヴァが出ていくと同時に、狩人の傍らの寝床からエイメルが起き上がった。

「・・・指輪、使っちゃおうかな。」

 狩人はぼそっと呟いて、指輪から小さな火花を散らした。背中に布が擦れる感覚があって振り向くと、寝惚け眼を擦るエイメルが畳まれた寝巻を差し出してきていた。

「ありがとう、エイメル。起こしちゃったか?」

 エイメルは瞼を下ろしたまま、首を縦に振った。

「そっか、ごめんな。・・・でさ、悪いんだけど、お茶を煎れてもらってもいいかな?あれさ、あたしがすると、すっごく苦くなるんだよね・・・。」

 エイメルは目を閉じたままゆっくりと不規則に、何度も何度も頷いた。


5、

 ある夜更け。寝床をともにする狩人とエイメルの夢枕に語り掛ける風があった。エイメルは聡く、そう経たずして気づいたのだったが、狩人は寝言を垂らし右へ左へ寝返りを打つ始末であった。そこで風は狩人に耐えがたい悪夢を見せた。寝言は次第に懇願へと変わり、内包する感情が頂点へと至った所で、ようやく狩人は跳ね起きた。叫び声をあげようとした彼女の口を、鱗の左腕が抑えつけた。

「おいで、狩人。役目を果たす時だ。」

 布と帯で顔を覆った彼女の鉤爪は銀の剣を持ち、肩には狩人の帯を引っ掛けていた。

 二人は銀髪の彼女を先頭にして静かに家を脱出した。そして向かったのは家の裏手、草むらに隠れた古びた井戸であった。井戸からは温かい空気が漏れ出していた。底へと下ろされた縄を伝い、中間に達すると汗を呼ぶほどの熱に包まれた。狩人はつい戯言を口にしようとしたが、一声が思いのほかよく響いて井戸を登ったために言い切ることは躊躇われた。底へと着き、乾燥した風に喉を枯らしながら奥へと進むと、そこには火がいた。目覚めた火は、穏やかな表情で来訪者を迎えた。

「おやおや、春の狩人。よく連れて来てくれました。どれが鐘の使者ですか。」

 火は穏やかに語り、銀髪の彼女に手を差し伸べた。その振舞すらも麗しくあった。しかし狩人は怖気づいていた。火が背負う炎と火花の背後に隠された悍ましい生命の循環を垣間見てしまったのだった。

「もっとよいものを。」

 熱気を裂いて、冷たい風が炎を揺らした。

「・・・誰を?」

 銀髪の彼女はエイメルを前へと連れた。火は彼女の青髪に気づき、喜んだ。

「ああ、あなたは。あなたのことは知っています。・・・ウィルイン。あの日をよく生き残りましたね。私を・・・いえ。私は、あなたがたを苦しめてしまった、殺してしまった者もいたでしょう。・・・取り返しの付かないことをしてしまいました。」

 エイメルは背を押され、火の前へと進んだ。火はエイメルの手を取り、自身の腹部へと突き刺さる紫の鉱石へと導いた。鉱石には小さな花と葉を生らす細い蔓が網目状に絡み付いていた。

「これを抜いてもらえますか?あまり説明をしてあげられませんが、兎に角、悪いものなのです。私に過ちを生む、残酷な毒なのです。もしかしたら、いくらか苦しみを与えてしまうかもしれません。最初に挑んだ者は耐えられませんでした。ですが、あなたならできるでしょう。どうか、すぐに。今を逃してしまえば、きっと二度と穏やかには済ませられないでしょうから。」

 火はエイメルの頬を撫で、熱のない火花を散らした

「さあ、頑張って。私もできる限りに手伝いますから。・・・さあ。」

 エイメルが腕に力を籠めた。鉱石は火の腹を抉りながら、少しずつその複雑な形状を現していった。開いた傷口から紫色の液体が滴り跳ね、火の面持ちが苦悶に歪んだ。鉱石が引き抜かれる程に液体の勢いは激しさを増し、不意に液体の一滴がエイメルの顔へと飛んだ。エイメルは咄嗟に目を閉じたが間に合わず、液体は刺すような短い痛みを伴って彼女の左目に侵入した。エイメルが再び目を開けた時、辺りは濃い霧に覆われていた。そして目の前には、黄色い瞳の鱗の生物が居座っていた。

「俺が分かるか?」

 生物が問いかけた。その声は重く、聞き入ってしまえば、全身の骨が砕けてしまいそうに思えた。エイメルは恐怖を覚え、腕を震わせた。

「分かるだろう、お前が分からない筈がない。忌々しい眷属よ。」

「消えて。」

 ウィルインは震える声で囁いた。彼女の薄く開いた唇からは、銀色の印を刻まれた舌の先端が覗いていた。

「俺に消えろと、そう言ったのか。お前が、この俺に。」

 龍は口の端を尖らせ、笑った。

「傲慢な奴め。だが、その舌に語られてしまえば、俺であっても従わねばならない。しかしだ。それは叶えられないことだ。何せ俺はお前の夢なのだ。この場にある者は誰もが夢を見ている。新緑の根のように強力な夢だ。だが、覚める夢もある。それが俺だ。」

 生物は霧の息を吐きかけた。エイメルはそれを嫌って激しく首を振り、意を決した。

「目を覚まして。」

 指の先に、根が裂ける気配があった。

「賢いな。それでいい。だが、まだ弱い。」

「目覚めて。」

 乾いた何枚もの葉が、一度に割れる音がした。

「そんなものか?その程度で俺が去ると?」

「目覚めよ。」

 足元に花弁が散る感覚があった。

「ああ、そうだ。お前はそうでなければ。お前の声には万人が従う。」

 生物は無垢に笑った。そして霧とともに少しずつ、その存在を薄れさせていった。

「・・・ああ、長かった。ようやく春が終わる。」

 邪龍はそう呟き、高い嘶きを残して消滅した。

 霧が晴れた後にエイメルは現実を取り戻し、鉱石を握りしめて覚悟を決めた。しかし、どれだけ引っ張っても鉱石は動かなかった。不審に思い確かめると、鉱石の表面に張っていた根が枯れており、流れていた液体が止まっていた。

「ごめんなさい、ウィルイン。」

 火が掠れた声で告げた。彼女の表面がひび割れ、内から熱のある炎が迸った。


 激しい爆発が起こり、大地が捲れた。エイメルと狩人は銀髪の彼女の腕の中で、炎柱を吐き出す井戸と、離れていくイーヴァの家の跡地と、そこから湧き昇る山のような紫色の煙とを見送った。二度の激しい土の破裂の後に、煙の下から肉の怪物が現れた。それはもはや火の面影を失って、脈々と形を歪ませ、呪われた命と炎を吐き出しながら、変異を続ける重い身体を引き摺っていた。

 銀髪の彼女は二人を抱えたまま小さな森へと逃げ込んだ。入り組んだ枝々を掻い潜り、後ろ足に葉を散らして駆ける最中、遥か後方では森の端が赤色に飲まれていた。森を脱した直後、森全体が瞬く間に炎に包まれた。ひとまず追ってくる炎がないようであると、銀髪の彼女は見晴らしの良い丘に立ち、狩人だけを下ろした。

「エイメルも置いて行けよ。」

 跳躍に備えていた銀髪の彼女の首に巻かれた帯を狩人が捕まえた。

「これは行かなければならない。」

「じゃあ、あたしも連れて行けばいい。」

「君は剣を護っていろ。」

 鉤爪が容易く帯を裂いた。瞬きの間に、狩人の目の前からは手に握られた帯以外の全てが去ってしまっていた。


 うねる貪欲な炎が大口を開けて彼女を求めた。地から空から怒涛に迫り、時に追い詰めたかのようにも見えたが、彼女を捕えることはできず、辻風の足跡に切り刻まれた。

 エイメルは瓦礫の山に放り落とされた。うねる炎らはエイメルには見向きもせず、ひたすらに銀髪の彼女を追いかけて、熱気を散らして彼方へと離れていった。ふと、瓦礫の中から声が上がった。見れば埋もれる手があって、エイメルは指に切り傷を負いながら、袖を損ないながら瓦礫をかき分け、逞しい腕と肩を掘り出した。途端にその腕が力み始め、肩の先の瓦礫が盛り上がって、その下からイーヴァが這い出てきた。イーヴァはエイメルを見つけると酷く悲しんだ。彼の視線はエイメルの右腕に落ちていた。

「それもそうだ。春の乙女に似た者が只人であるはずがなかった。奇跡などなかった。何かの宿命が、君を私のもとまで運んできたのだな。」

 イーヴァは立ちあがり、腹や太腿、それに節々に突き刺さった木片を抜き取り、座ったままのエイメルに手を差しだした。エイメルを見下ろす彼の目は、あらゆる感情を欠落させていた。

「行こうか。我々の役目を果たす時だ。」

 エイメルの手が重ねるように、イーヴァに預けられた。

「どうかこの宿命が、私たちの吉兆であるように。」

 イーヴァは祈り、火を囲う獣の群れへと、宿命の一歩を踏み出した。


 疾風が吹き抜け、狩人の手から重りを掠め取った。土が割かれ、剣が鳴き、あらゆる根と、蔦と蔓が押し寄せて、剣を中心として球状の壁を生み出した。壁は押し寄せる炎の全てを防ぎ切った。炎の中では獣が生まれたが、それらは次なる炎に中てられては肉の消滅と再構築を繰り返し、より歪を極めて生まれ変わり続けていた。

「その剣って、そうやって使うものなんだな。」

 顔は正面を向いたまま、狩人がぽつりと呟いた。

「知らなかったのか?」

「知らないよ。飼い主も、主も、教えちゃくれなかった。きっとあたし、何もわかってないんだ。エイメルの事も、あんたのことも。あたし、なんなんだろうな。」

「知りたいのか?」

「・・・いい。」

 狩人はしゃがみ込み、不貞腐れたように顔を埋めた。肩の頭からはみ出した耳に、いつになく暖かな、柔らかい風が吹いた。

「私は、君の前の狩人だよ。」

「そんなの分かってたよ・・・なんとなくだけど。」

「・・・そう。」

「なんであたしに付き纏ったんだよ。」

「君ならばと思ったんだ。」

 鉄を打つ音が耳のすぐ側まで近づいて止まった。狩人はちらと横目に鉤爪を認めた。

「あの火ですら、束の間に抱いた迷いによって小さくなってしまった。獣たちは共食いした。人が共食いをしないから、獣らは勝てなくなった。育たなくなった。害ある者らは知恵を得た。食べるために弱い獣を育てた。弱い獣を食べて弱くなった。」

 狩人の隣に銀髪の彼女が並んで座った。布を脱ぎ、銀髪をさらした。

「誰も私とは闘わない。私を殺そうとする者は、誰もいない。あの時の火を最後に、私の闘いはなくなってしまった。だから、新しい狩人ならと期待したんだ。でも君は闘いが好きではないようだし、得意でもなかったね。」

「うるせえよ。」

「だけど君は頑張っていたよ。」

「・・・うるさい。」


6,

 宿命を負う二人は火のもとへ、降りしきる熱のない火花の中を走っていた。イーヴァはマントの背から一本の長鉈を抜き、襲い来る獣らを薙ぎ払った。そうしながら、ある疑問を抱いていた。彼の経験上、獣らは波のように押し寄せるものであったが、それが今回は妙に大人しく、好戦的な個体が少ないようだった。エイメルを護る必要は無く、寧ろ、彼女に襲い掛かろうとするものはいないようであった。

 遂に、二人は紫の鉱石の前へとたどり着いた。そこに火の姿は無く、胎動する肉の塊だけがあった。イーヴァは右手で鉱石を掴み、その下に左手を添えて、力任せに引き抜こうとした。すると肉塊から絶叫が響き、周囲に紫の煙を巻く炎の渦が生じた。渦の中には様々な幻想が生きていた。見も知らぬ生き物や世界が揺蕩い、出現と消滅を繰り返していた。それらは美しく、目を誘うものばかりであったが、どれもが当然のように悲劇的な終末を迎えていた。時に、その一つが醜悪な色を帯びて漂い、イーヴァの瞳に溶け込んだ。そして見えたのは一面の濃霧と、あの黄色い瞳の鱗の生物だけだった。生物は細長い舌を伸ばして、イーヴァの眼球を舐め回した。

「ああ・・・イーヴァ。よく来たな。お前はここに死ぬために来た。そうだろう?何よりも恐れている死と引き換えに、贖えぬ罪を償いにきた。」

「もう恐れてはいない。」

「嘘だ。お前は自分が特別であることを知っている。誰に諭されるまでもなく、自ら己の価値を見抜いたのだ。失いたくはないはずだ。不条理など、望まないはずだ。」

「ヤガシルとは約束をしたのだ。私は彼女を救わなければならない。」

「ふん、愚か者め。こいつとの約束を果たして何になる?」

「私の宿命の故だ。宿命が、私のもとに舞い込んだのだ。」

「いいや、違う。お前は逃げ切れなかっただけだ。・・・なあ、イーヴァ。棄てた物をまた拾うのか?あの鐘の雑兵どもの運命が嫌だったのではないのか?・・・いいか、教えてやろう。お前は不幸だ。命に高潔さなど、誇りなど必要ない。だというのに、お前は無垢にもそれを追い求める。それが何よりも価値あるものと信じてしまったためにだ。・・・だが違うぞ。命の本質は汚いものだ。お前が美しいと信じてきたものの奥底には、醜い毒沼が秘められているのだ。」

 生物はイーヴァの掌に息を吹きかけ、鋭利な鉱石を形作った。

「聞け。世界は故ある者にのみ管理され、いつか必ず力ある者によって支配される。それが定めだ。高潔さも、誇りも、美しさも、それらに反する全てさえもが分け隔てなく無に還る。馬鹿らしいとは思わないか?・・・だから自由になれ、イーヴァ。一度、欲するままに奪ってみろ。そうすればわかる。世界と言う物が、どんなものか。俺たちならば世界を手にすることができる。理想の形を与えることができる。さあ、どうだ。手始めにその美しい女を手に入れてみろ。俺はお前を理解している。お前にとって大事な物は唯一、己だけなのだ。」

 生物はそう言い残して、自ら濃霧とともに消えてしまった。世界が戻っても尚、左の掌には刃物のように鋭い鉱石が残されていた。イーヴァの隣にエイメルが立ち、肉塊から頭を出す鉱石を、イーヴァの右手の上から両手で握った。

「君は誰の故にここへ来た?」

 その問いはイーヴァの口から自然と吐き出された。エイメルは赤の印が及ぶ右手で、渦に攫われ口を阻む流水のような青髪を後ろへと流して、イーヴァを見つめた。彼女は凛として佇み、その双眸に不動の意志が張り付かせていた。

「私は、自分で選んでここへ来ました。」

「それは欠片の偽りもなく断言できることなのか。」

「ええ、きっとそうであると信じています。」

「信じることが何になる。私は疑って初めて自由を獲得した。それが私という個の始まりだった。君もそうだったんじゃないのか。」

「そうですね。きっと、そう違いはないと思います。」

「だろう。そうだろう。なら、逃げようじゃないか。ヤガシルが私に教えてくれた。彼女は衰弱による自決の道を進んでいる。ここで私たちが危険を冒さずとも、いつかは勝手に死んでくれるのだ。」

「・・・。」

「私たちには他の生き方がある。未来がある。そうだろう。」

「ええ、そうでしょうね。でもそれは・・・それはあなたが信じることでしょう?」

 エイメルの手に力が籠もり、熱を発した。イーヴァは右手を抑え込まれてしまうことを恐れて鉱石を手放し、数歩ばかり退いた。

「何を言っているんだ。未来は誰だろうと望むだろう。今に来る未知の時が良い物であればと、君も同じように願っているだろう。」

「いいえ。」

 エイメルは首を振った。彼女の右腕の印が輝きを増した。

「私には違います。私にとって大切なものは終わりではなく、始まりです。もう僅かにも覚えていない過去の為に、決してそれに裏切ることが無いように、持てる限りの記憶に従って生きること。それが正しいと信じています。・・・私が恐れることは、自身の始まりに反してしまうこと。いつかに愛した理想の、その片鱗さえも感じられなくなってしまうこと。例えどれだけを失っても、どれだけ苦しんでも、自分が何者か思い出せなくなっても、そこに自分があると思えたなら、それでいいんです。私に未来は必要ありません。」

「・・・。」

 イーヴァから返る言葉がないと、エイメルは肉塊に向かい、鉱石を引っ張った。肉が裂けて濁った体液が流れ、再び肉塊が叫び、灼熱の嵐が巻き起こった。その熱は只人ではないエイメルの肌を焼くほどでったが、エイメルは臆さず、一心に鉱石に立ち向かった。

 一方、イーヴァはその場から動けずにいた。決心が付かない所為でもあったが、嵐によって身動きを封じられていたのだった。それでも、イーヴァはエイメルを確かめようとて右目を焼かれ、風を防いでいた手を伸ばして右耳を削がれ、更には右の小指と薬指までもが千切り取られた。そうした損傷の末に、勇敢にも何とかエイメルの隣へ漕ぎつけ、鉱石を握り、持てる力の全てを振るった。だが、彼の胸を満たしていたのは勇気や希望ではなく、エイメルを失ってしまうことへの恐怖、ただ一つであった。

 イーヴァの働きによって鉱石は見る見るうちに肉から別たれ、あと一歩というところまで迫った。しかし同時に各段に圧を増した暴風が吹き荒れ、二人はじりじりと押され、あわや鉱石を手放してしまいそうになった。その時、エイメルが右手を高く掲げた。輝きはその内に炎と熱と風とを束ね込み、イーヴァを護った。だが、それらの影響力は衰えず、彼女の右腕は渦の中で過剰な呪いを受け、幾度と破裂し、変異した。エイメルは歯を軋ませながらも声を上げず、その苦痛をイーヴァに気づかせなかった。そしてついに、鉱石が完全に抜かれた。二人は勢いのままに地面へと投げ出され、その上に傷口から溢れた熱のない火花が降り注いだ。やがて炎の渦が止み、火花も落ち着くと、そこには酷くやせ細ったヤガシルの姿があった。彼女は二人へと心細い数歩を歩み、一瞬の微笑を浮かべ、全身の肉を溶かしてしまった。その後には泡立つ濁った泥の沼だけがあった。

 イーヴァは軽くなった掌を確かめた。今しがた火から抜き取った鉱石は跡形もなく、生物から与えられたはずの鋭利な鉱石までも消えてしまっていた。彼は隣のエイメルを抱え起こそうとして、言葉を失った。彼女の右腕は表面が炭のようで、まるで岩石のように肥大し、うっすらとした赤い光とともに胎動していた。その、変異、としか形容できない惨劇に、イーヴァは全てを理解した。

「・・・まさか、君が守ってくれたのか。」

 イーヴァはエイメルの右肩の小さな火傷に手を添え、俯く彼女の、新しい滴を乗せた睫毛を覗きこんだ。指に震えを感じたが、それがエイメルのものであるのか、自分のものであるか、判別が付かなかった。

「何故だ。何故そこまでしてしまった。そんなことをしなければ、身を案じれば、君は些細な火傷で済んだのではないか?」

 エイメルは時間をかけて荒い呼吸を整え、イーヴァを見つめ返した。

「約束をしましたから。」

「・・・。」

「一緒に生活すると・・・そうでしょう?それとも、この腕ではいけませんか?」

 イーヴァは頬に、痛ましい火傷のものとは異なった、穏やかな温もりを感じた。

「いいや、そんなことはない。君は美しいよ。この世界の何者よりも。」


7,

 ある日。春の国の、ある家の、ある一室にて。

 寝床に横たわる青髪の少女と、その傍らで椅子に座る金髪の若い男がいた。二人はいつの日も言葉を交わして微笑み合い、仲睦まじくも映ったが、実に厄介な隔たりが存在していた。それはもう一人の、その場にいないある人物に関わることであって、この日、男は一つ大きな覚悟を決めて、少女と向き合ったのだった。

 少女の翡翠が窓の外から男へと移った。

「ねえ、イーヴァさん。コレナイ、という名の方を知っていますか?」

「勿論、知っているよ。有名人だ。エレムという町にいた考古学者で、根菜と酒好きの変わり者の老父。君と内面が通じていて、婚約もしていた。そうだろう。」

「ええ、そうです。詳しいですね。前にも話したことがありましたか?」

「どうだろう。・・・彼は有名人だからね。嫌でも耳に入る。」

「ふふっ、そうですね。あの人のことはどこへ行っても噂ばかり。・・・ねえ、イーヴァさん。コレナイさんが今、どこにいるか噂に聞いていませんか?」

「それはわからないな。彼のことはもう長いこと聞いていないから。」

「そうですか・・・わかりました。きっと私がいなかったから、お酒を飲んでどこかへ迷ってしまったのでしょうね。コレナイさんは決して強い人ではなかったから。」

 イーヴァは椅子から立ち、少女の枕元に腰かけた。

「そうか、それは心配だね。彼は大切な人なのかな?」

「ええ、とても。」

「そうかそうか。なら、いいことを思いついた。私は旅が得意だから、君の代わりにコレナイさんを探してあげよう・・・さあ、ここに紙と筆がある。大切な人なら、顔を覚えているだろう。描いてみてくれ。なるべく、細かくだよ。」

「ありがとうございます、イーヴァさん。」

 少女は左手で紙を受け取り、立てた膝を台として、筆も左手に受け取った。少女には右肩から先が存在していなかった。日が昇り切るまでの時間を経て、少女から紙と筆が返された。

「上手く描けました気がします。絵には自信がなかったのですけれど、不思議ですね。」

「きっとそれだけ鮮明に覚えていたのだろう。たくさんの思い出があったのだろうね。」

「ええ、そうですね。本当に、たくさん。・・・ふぅ、少し疲れてしまいました。ちょっと寝ますね。おやすみなさい、イーヴァさん。」

「ああ、おやすみ。エイメル。」

 イーヴァはエイメルの寝息を確かめてから部屋を出て、すぐ隣の自室へと入った。そこには整った寝床と、壁に沿って並べられた書物を詰めた書棚と、対面の壁に溢れるほどに飾られた老父の絵があった。イーヴァは絵を眺め、その中から何枚かを取って布に包み、それとは別に大きな荷袋を担いで部屋を出た。そして階段を下り、一階の居間へ。居間の端では、揺れる椅子の上で赤子を抱く朱色の髪の少女がいた。

「よお、どうしたんだよ。荷物なんかまとめて。」

「少し旅に出ようと思うんだ。」

「そっか。」

 少女は椅子から立ってイーヴァに近づき、彼に赤子の顔を見せ付けた。赤子の右目は澄んだ空のような青色で、それはイーヴァも同じだった。

「子ども、一回くらい抱いていけよ。」

 少女の提案にイーヴァは手の荷物を下ろしかけたが、瞬きとともに目を反らした。

「やめておくよ。やはり私は家族であるとか、子どもというものが理解できない。愛せる者が愛せばいい。その子は私の目を受け継いだ可能性があるとはいえ、大体を成したのはヤガシルとエイメルだ。私とは赤の他人に等しい。」

「・・・そっか。」

 イーヴァはドアノブを回し、旅の一歩を踏み出した。春風が彼を暖かく歓迎した。

「たまには帰って来いよ。あたしたち、歓迎するからさ。」

「ああ、勿論。きっと帰って来るよ。」



面白かったら理想のバストサイズを。

普通だったら好きなジュースを。

つまらなかったら好みの肉の部位をコメントしてください。

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