0節 必然の出会い
日本の耳慣れた慣用句、ちゃぶ台返し。実際にやったことがある人はどれくらいいるだろう。個人的には、居てもほんの一握りだと思う。大抵の奴は後処理の面倒くささを考えて思い留まる。
まあ、俺はついさっきやったんだけど。
母さんとコタツに入って昼のニュース番組を見ていたら、いきなり
「ねえ、拓也、宗教に入らない?これなんだけど…」
って聞いたこともない新興宗教に俺を誘ってきた。
「馬鹿じゃねえの」
「何言ってるの!ここに入れば、教祖様のお力をいただけるのよ。拓也も高校の成績上がるわ。」
母さんはよく騙される。オレオレ詐欺に引っかかる一歩手前だったことだってあるんだ。笑えるよな。
「俺を巻き込むな」
「教祖様はなんでもできるのよ」
「うるせーよ。テレビ観てんの。」
とても面倒臭い。
「泥をお金に変えるのよ。他にもテレパシーだって使えるし、」
「そんなん詐欺だろ。どうせバカの悪徳商法だって。」
「拓也っ!」
俺が言い終わるか終わらないかのうちに、鋭い叱責が鬼のような形相の母さんから飛び出した。
「っうわ、何?」
「今すぐバカって言葉を取り消しなさい!今すぐよ!」
「は?何言ってんの?」
「取り消しなさい!取り消しなさいって!!!教祖様はどこからでも見てるのよ!ねえ!」
人が違ったように目を血走らせて叫ぶ。取り消せ取り消せと喚きつつコタツから這い出る。俺の肩をむんずと掴んで揺らしながらひたすら繰り返す。
「謝れ!謝れ!」
ガックンガックン視界が揺れる。
急にどうしたんだよ。そんなに変なこと言ったか?言ってないだろ。何でそんなに真剣なんだ。母さんは何を考えているんだ。わからない。何一つわからない。
気がついたらコタツごとひっくり返していた。
「うるせーよ!!!」
予想以上にちゃぶ台返しは派手だった。我ながらびっくりだ。みかんはグチャグチャに潰れたし、テレビの画面は割れたし、コードはブチっと断線した。
ここまでしても母さんは止まらなかった。それどころかしまいにはコードを手で握りしめて
「教祖様…ごめんなさい…ごめんなさい…今、この子を消します…」
なんて言いながら俺の方へじりじりと寄って来る。母さんのことを得体が知らないと思ったのは初めてだった。見る間に狼のような俊敏さで覆いかぶさられた。次いで、首をぐるっと囲む冷たいコードの感覚。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
信じられない。冗談だろうと母さんの顔を見れば、涙と鼻水でべちゃべちゃになっていた。コードがギリギリと首に食い込む。全身が熱くなる。
力の限り腹を蹴って狂女を突き飛ばす。体の芯から凍りつくような気持ちで家から逃げ出した。
今、建物の4階ぐらいの高さの裏山のてっぺんに立っている。木が植わっていないから、景色を見るにはもってこいだ。
冬に街を見下ろすと、異国に来ているみたいだ。灰色のアパートも、赤い屋根の家も、学校も、全部雪で白くなっちゃうからさ。
俺の母さんも宗教のことを忘れてまっさらにならないかな。海外に居る父さんに相談するか。無駄だろうな。どこにあんな狂気を隠してたんだ。そういえば、最近やけに外に出かけてたな。なんで気づかなかったんだろう。ぎゅっと手を握りしめたら、爪が食い込んで血が滲んだ。
足元の雪を掴んでは投げ、掴んでは投げた。遠くに見える高校へと飛ばしたつもりなのに、雪玉は山の麓にすら届かなかった。
例えば、今、魔法が使えたら。
空を飛んで、それこそ本当に遠くの誰も知らない街へ行ってやる。この街がだんだんミニチュアみたいになって、やがて点になって消えるんだ。自由な魔法使いは好きな時に好きなだけ空を飛べる。
なあ、俺に魔法をくれよ。
「欲しい?」
ハッとして振り向くと長い髪の見知らぬ少女が立っていた。大きな瞳で真っ直ぐこちらを向いている。華奢な体は繊細で、雪の中に溶けてしまいそうだ。
「魔法、欲しい?」
精巧な顔を眺めるだけの俺に聞かせるよう、少女は言葉を繰り返した。
「欲しいんでしょ?」
小さな唇で囁く。確かに、魔法があればと俺は考えた…。
「決まりね。」
ふわりと目の前に来たかと思うと、いきなり抱きしめられた。え、なに、これは、
「あああああああああああ!!!!」
稲妻のように激痛が体中を迸る。目玉がひっくり返った。喉の奥がちぎれた。骨が燃えて皮膚が泡立つ。体の外側と内側を無理矢理裏返しにされるような感覚が。
叫んでも、叫んでも止まらない。体が捻れて今にもはちきれそうだ。血が溜まってパンパンに手足が腫れ上がる。誰か来いよ。俺を助けろ。闇が迫る。死ぬのか。さようなら。元気でな、菜摘。
死んだのかと思った。真っ黒な空間に俺と少女だけが立っている。いてもたってもいられなくて口火を切った。
「おい!なんだここは!俺はどうなっているんだ!」
「ここは別の次元。私とあなたの二人きり。」
少女は無表情で答える。
「俺を元のところへ戻せ!」
「落ち着いて。」
「落ち着いていられるか!急に」
「お願い!私の話を聴いて。あなたのお母様を助けるには魔法を使うしかないわ。」
「…何なんだよさっきから」
「あなたのお母さんは、教祖に魔法で洗脳されているのよ!」
「洗脳?」
「そう。教祖アルアジフの力だわ。
私一人だととても敵わない。
でも、あなたはたくさんの魔力を持っているわ!
あなたが魔法を使えば、洗脳もきっと解けるわ。
あなたの力が必要なの!」
「………母さんを助けられるのか。」
「もちろんよ!助けましょう。私と一緒に。」
わからないことだらけだ。ちゃぶ台返しをしたことがひどく昔に思える。もうめちゃくちゃだ。それでも、
「わかった。俺に魔法をくれ。」
母さんが戻ってくるのなら。
「…ありがとう。
これは、私とあなたの契約。
私はあなたに魔法を授け、あなたは私に勝利を捧げる。」
暗闇は壊れて、光が降り注いだ。
「契約?」
「そうよ。私の望みが叶うまで。」