日記
『更級日記』は、摂関政治の往時の勢いが失われていく時代の陰りの中で、寛弘五年(1008)に生を享けた作者、菅原孝標女(本名は伝わっていない)により十三歳の少女の日から五十歳で夫と死別後の傷心の日々に至るまでが夫の死から二年余を経て晩年の孤独の日々の中で執筆された。
作者の父の菅原孝標は菅原道真の家系で、上総国(千葉県中部)と常陸国(ほぼ茨城県)に赴任するが、散位(位階のみで官職に就かない)のまま引退生活に入る。作者の実母は、『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母の異母妹に当たり、昔気質で引っ込み思案と伝えられ、上総国、常陸国への夫の赴任に同行することなく、都に留まって静穏の生活を送る。作者の実母に代わって、上総国に作者とともに下向した継母の上総大輔は、高階成行の娘で、宮仕えの経験があり、歌人でもあった。紫式部の娘の大弐三位と高階成行の弟の成章が結婚している縁もあり、継母や姉から多感な少女の作者に語り聞かされた『源氏物語』は、作者に物語への息詰まるような憧れを抱かせ、いつかは『源氏物語』の浮舟のようになりたいという思いも芽生えさせる。
日記は、作者の父が上総国での任を終え、京に戻るために十三歳の作者が少女時代を過ごした屋敷を旅立つときから始まっている。
一、物語に憧れる日々
あづま路(東海道)の道の果てよりも、なお奥の方で生い育った私は、都の人から見ればどれほど田舎びていたことでしょうか、それがどういうわけか、「世の中には物語というものがあるそうだ、どうにかしてそれを読んでみたい」という思いを抱くようになり、することもなく退屈な昼間や宵の口の団欒の折に、姉や継母が種々の物語や光源氏の有様などについて、ところどころ話すのを聞くと、物語への憧れはいっそう募るばかりでしたが、大人たちは物語のすべてを覚えていて私の望むように語ってくれることはなく、とてももどかしい思いから、私と等身大の薬師仏を造り、手を洗い清め、誰も見ていないときにその薬師仏を置いた部屋にこっそりと入り、「京に少しでも早く上らせてください、都にたくさんあると言われる物語をすべてお見せください」と、一心不乱に額づいてお祈り申し上げているうちに、十三歳になる年に、父の任期が終わって上京することになり、九月三日に門出の儀式をして、「いまたち」という所に移りました。
長い間遊びなれた家から家具などを取り払うと中が丸見えになり、支度に大騒ぎをしているうちに、日が沈みかかると、身に滲みるような霧が一面に立ち込め、牛車に乗るときに家の方に目を向けると、人目のないときに幾度となくこっそりと額づいてお祈り申し上げた薬師仏の姿が霧の中にわびしく現れ、お見捨て申し上げて旅立つ悲しさに人知れず泣かずにはいられませんでした。
三、昔の跡、くろとの浜
十七日の早朝、「いかだ」を出立する。昔、下総の国に、まのの長者という人が住んでいたそうである。疋布を千巻も万巻も織らせ、晒させた長者の屋敷の跡があるという深い川を船で渡った。その屋敷の門柱がまだ残っており、大きな柱が川の中に四本立っていた。
その夜は、「くろとの浜」という所に泊まる。この場所は、陸側が小高く広々としており、白い砂浜が遠くまで続いて、その先には松林が茂り、折から月がとても明るく辺りを照らしていて、風の音もたいそう心細くなる趣でありました。人々が興に乗り、歌を詠んだりするので、
『まどろまじ 今宵ならでは いつか見む くろとの浜の 秋の夜の月』
『今夜は決してまどろむまい、この美しいくろとの浜の秋の夜の月を、今夜でなくていつまた見ることができようか』
四、乳母を見舞って
翌朝、「くろとの浜」を発ち、下総国と武蔵国との境にある太井川という川の上流にある浅瀬、「まつさと」の渡し場に泊まり、一晩中かけて舟で荷物などを少しずつ対岸に運んだ。私の乳母にあたる人は、夫に先立たれていて、この国境で出産していたので、私たちの一行とは離れて別に上京することになりました。とても恋しく、乳母を見舞いに行きたいと思っていると、兄にあたる人が抱いて連れて行ってくれた。
乳母の宿は、夫なども付き添っていないので、私たち一行の宿のほんの一時しのぎの仮屋よりも粗末な有様で、屋根や周囲には苫を一重葺いているだけで、月光が隈なく降り注ぐ中に、紅の着物を上に掛け、辛そうに臥した乳母の月光に照らし出された姿は、乳母のような身分の人としてはとても不釣り合いなほど、たいそう色も白くきれいで、私の見舞いを喜んでしきりに髪を撫でては涙をこぼすのを見て、そのまま見捨てて帰ることは耐えられないという思いでしたが、兄に急いで連れられて帰るときの気持ちは、名残惜しくとても切なくてたまらないものでした。帰ってからも乳母の面影が思い出されて悲しく、月の興趣も感じられず、ふさぎ込んで寝てしまいました。
その翌朝、舟に車を積んで渡し、対岸でその車を立てると、見送りに来た人々はここから皆帰ることになりました。上京する私たちはそこに立ち止まり、帰っていく者も佇み、見送る私たちも皆泣いておりました。その情景は、幼心にも身に滲みて悲しく思われました。
一三、旅の終わり
粟津に泊まり、十二月二日に京に入る。多くの国々を通って来たが、駿河の清見が関と逢坂の関ほど印象深い所はありませんでした。暗くなってから三条の宮の西隣にあるわが家に到着しました。
一四、物語を求めて
三条のわが家は、山の木々が鬱蒼と生い茂り、都の中とは思われない所でした。移ったばかりで落ち着かず、ひどく取り込んでいたけれど、物語を少しでも早く読みたいと思い、「物語を探して見せてください」と母にせがんだところ、親戚の人で命婦という名で宮仕えしている人を尋ねて手紙を送ると、命婦は私たちの帰京を喜び、「宮様のお手持ちのものを拝領しました」と言って、素晴らしい冊子の数々を硯箱の蓋に入れて贈ってくれました。どうしようもなく嬉しくて夜も昼もこれを読み耽ったのを手始めに、次々と見たいと思いましたが、着いたばかりで落ち着く間もない都の外れで、物語を探して私に見せてくれる人はいるのでしょうか。
一五、継母との別れ
継母だった人は、父とともに上総の国に下向した人でしたが、不本意なことなどもあり、夫婦仲もうまくいかない様子で、別れてよそに行くことになり、五歳の子どもなどを連れて、「温かったあなたのことは忘れることはないでしょう」と言い、軒近くにあるとても大きい梅の木を指して、「この梅の花が咲くころにきっと来ますよ」と言い残して行ってしまったのを、私は幾度となく恋しく懐かしく思っては、声を忍んで泣いているうちに、その年も改まりました。
一六、乳母、侍従の大納言の御娘の死
その年の春、疫病が大流行して世間が騒がしく、「まつさと」の渡し場で月光に照らされた姿を美しいと思ってみた乳母も、三月初めに亡くなりました。どうしようもなく悲しんでいるうちに、物語を読みたいという気持ちも失せてしまいました。一日中泣き通してふと外に目をやると、夕日が鮮やかに射しているところに、桜の花が一斉に散り乱れている。
散りゆく桜は、再び巡る春に見ることができるが、あのまま別れてしまった乳母には二度と逢えないと思うと無性に恋しい。
聞くところによると、侍従の大納言の姫君がお亡くなりになったということであり、上京してすぐに、父が「これを手本にしなさい」と言って与えてくれたのがこの姫君の御筆跡でありましたが、それには、御自身の運命が暗示されているような不吉な歌をお書きになっているようで、涙がそそられました。
一七、『源氏物語』耽読
乳母の死でふさぎこんでいる私を心配して、母が物語を探してくれ、少しずつ気持ちが晴れていきました。「源氏物語」の若紫の巻の辺りを読んで、その続きを読みたいと思うのですが、都に馴染みのない頃のことなのでとても見つけることができない。親が太秦に参籠なさるときにも、『「源氏物語」を一の巻から始めてすべてをお見せください』ということばかりをお願いしても、見ることは叶いませんでした。たいそうもどかしく残念に思っていると、おばにあたる人で地方から上京して来た人を訪ねたとき、その帰りがけに、「源氏物語」の五十余巻を櫃に入ったままでそっくり、ほかに「在中将」「とほぎみ」などの物語を一袋に入れてくれ、それをもらって帰るときの嬉しさは天にも昇るほどでありました。
胸を高鳴らせながら、「源氏物語」を最初の巻から初めて、たった一人きりで几帳の中に臥し、櫃から次々に引き出しながら読む気持ちは、后の位も問題にならないほどでありました。
昼は終日、夜は目の覚めている限り、灯火を近くにともして、「源氏物語」を読むこと以外に何もしないで過ごしているので、自然と物語の文章が、そらでもそのまま浮かんでくるようになってくると、夢の中に、とてもきれいな僧で黄色の袈裟を着た人が現れて、「『法華経』の第五巻を早く習いなさい」と言うのですが、この夢のことは他の人には話すこともなく、『法華経』を習おうとは思いもせず、物語にだけ夢中になり、『私は今はまだ器量が良くないが、年頃になれば、顔かたちもこの上なく美しくなって、髪も素晴らしく長くなり、光源氏の寵愛した夕顔や、宇治の大将の愛を受けた浮舟の女君のようにきっとなれる』、とそんなふうに思っていた私の心は、今思えば何ともたわいもなく、あきれたことでありました。
二二、猫と夢と
毎年桜の花の咲き散る季節になると、乳母の亡くなった頃と思い出されて切ないのですが、その同じ頃にお亡くなりになった侍従の大納言の御娘の筆跡を見ては、わけもなく悲しみが募っていた五月頃、夜更けまで物語を読んで起きていると、どこから来たのか、猫がものやわらかに鳴いているので、その声のする方を見ると、いかにも可愛らしい猫がおりました。どこから来た猫かしらとみていると、姉にあたる人が、「静かに、誰にも言わないで、本当に可愛らしい猫ですから私たちで飼いましょう」と言うと、猫は実に人馴れしていて、そばに寝そべってきました。この猫を隠して飼っていると、下々の者のそばには全く寄りつくことがなく、私たちの前にばかりいて、食べ物も汚らしいものは、顔を横に背けて食べようとしません。
私たちが面白がり可愛がっているうちに、姉が病気になることがあって、この猫を召使いのいる北側の部屋ばかりにいさせて、こちらに呼ばなかったところ、やかましく鳴き騒ぐようになりました。病気の姉がふと目を覚まして、「猫は、どうしたの、こちらに連れていらっしゃい」と言うので、「どうして」と尋ねると、「夢の中で、この猫がそばに来て、『私は、侍従の大納言の姫君が、こうなったものなのです。こうなるべき因縁が少々あって、この家の君が私のことを無性にいとおしんで思い出してくださるので、ほんのしばらくここにおりますのに、近頃は召使いの間にいて、ひどく辛いことです』と言って、泣く様子は上品で美しい人に見え、ふと目覚めたら、この猫の声だったことに、とても悲しく胸を打たれました」とお話になり、何とも感動いたしました。その後は、この猫を北側の部屋に出すことなく、大切に世話をしました。
私が一人きりで座っていると、この猫が向かい合って座るので、猫を撫でながら、「侍従の大納言の姫君がここにいらっしゃるのですね、父君の大納言殿にお知らせ申し上げたいものです」と語りかけると、私の顔をじっと見つめながらものやわらかに鳴くので、私の言葉を聞き分けているようでとても心惹かれました。
二四、月夜の語らい
七月十三日の夜、月が一点の曇りもなく明るい時、家の者が皆寝静まった夜中に、姉と二人で縁側に出て座っていると、姉が空をしみじみと眺めて、「たった今、行方も知れずに飛び失せてしまったら、あなたはどう思うかしら」と聞くので、何となく気味悪そうに思っている私の様子を見て、姉は他に話題をそらして笑ったりするのを聞いていると、近所の家に、先ばらいをする車が止まり、「萩の葉、萩の葉」と供人に呼ばせるが、相手は答えないようでした。呼びあぐねて、笛をとても見事に澄み通るように吹くと、そのまま通り過ぎてしまったようでした。
『笛の音のただ秋風と聞こゆるになど萩の葉のそよと答へぬ』
『笛の音がまさに秋風のように聞こえるのに、秋風にさやぐはずの萩の葉は、どうして「そよ」とも答えないのでしょうか』
このように私が詠んだところ、姉は「本当に」と言って、
『萩の葉の答えふるまで吹き寄らでただに過ぎぬる笛の音ぞ憂き』
『萩の葉が「そよ」と答えるまで吹き続け、待つこともせず、そのまま通り過ぎてしまった笛の音の主が、私には恨めしく思われます』
こんなふうに夜が明けるまで夜空を眺めて思いふけりながら夜明かしをし、夜が明けてから二人とも床に就きました。
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了
原岡文子氏の解釈・現代語訳に沿って意訳し平安絵巻のイメージが伝われば幸いです。