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それは冒瀆的な物語  作者: たく
18/25

その9-3 ダーレス

 サンはうっすらと目と開けた。だが視界に入って来たのは見慣れぬ光景だった。

(…あれ、私、何していたんだっけ…?)

 ぼんやりとした頭では、自分がどこかのベッドの上に横たわっていることくらいしか分からない。

「お、目が覚めたのか」

 すぐ隣で椅子に座っていたディオからの声に、サンは今度こそ意識がはっきりとした。同時に、何が起こったのかも思い出した。唐突にすべてがはっきりと認識できるようになった。

「クリスちゃんは?」

「今はダーレスがそばに付いているぞ。動けるのか?」

 恐らく、ずっとすぐ近くで看病してくれていたのであろう彼に尋ねるには性急すぎる内容だったはずだ。自分で尋ねている内からすぐにそう感じたのだが、起き上がろうとしている自分を見て彼はすぐに答えてくれた。

 何か嫌な予感が頭をよぎった。

 彼の問いに頷き、伸ばしてくれた手を取り床に足を降ろした。しかし彼の手をそのまま握っていることは出来なかった。この事態を招いてしまった自分に、そんな資格なんてあるはずがない。

 何か恐ろしいことが起こっているような、そんな不安感が背中にのしかかって来る。胸の動悸が焦ったように早くなっているのを自分でも感じる。彼のすぐ後ろに付いてダーレス達の元へと向かう間も、それが治まってくれることはなかった。

 彼はクリスの部屋の前で足を止めた。静けさがさらに不安を掻き立てた。

「入るぞ」

 一声掛けてから、彼はドアを開けた。

 ベッドの上で横たわるクリスと、愛しむように彼女の頭に触れているダーレスの姿がサンの目に飛び込んで来た。

「…目が覚めたんだね。…すまなかった、それと、クリスを守ってくれてありがとう」

 ダーレスがその優しい目を二人に向けて口にした。だが今の状況を見ると、サンは首を横に振る事しか出来なかった。

 何も出来なかった。自分はこうなる切っ掛けを作ってしまっただけだ。

「クリスの具合はどうなんだ?」

 口を開くことも出来ないでいる自分の代わりに、一番知りたいことをディオが尋ねてくれた。

「…あまり良くない…。自分の力を超えた魔法を使おうとしてしまったんだ。クリスにとっては本当に、身を削るようなものでしかないというのに…。」

 クリスは眠っているもののその顔は苦しそうに見える。かわいらしい彼女のベッドが余計にその痛ましさを増している。

「……クリスちゃんについて教えてくれませんか?」

 ディオとダーレス、二人の様子から本当の事を知らないのは自分だけだと悟り、意を決して尋ねた。ダーレスは頷くと全てを話し始めた。それはもうすでにある程度は推察できているものではあっても、それでも避けて通ることは出来ない話だった。

 ダーレスは少しだけ目を伏せてから、今はもう遠い過去の話から語り始めた。



「こんなところがあったのか…。」

 一緒に聖霊祭を抜け出して来たシェリルに連れられ、ダーレスは森を抜けた先の、小さな丘へとやって来ていた。透き通った光を返す小さな川が見渡せる。喧騒とは無縁の静寂の中に、水のせせらぎ、梢の揺れる音、小さな鳥の鳴き声が広がっていた。全てが笑っているように明るかった。

 シェリルはこちらの表情を見て嬉しそうにはにかんだ。あまり活発に外を出歩く方ではない彼女がこんな隠れ家のようなところを知っているのは少し驚きだったが、物静かな彼女には非常によく似合う場所でもあった。

「ダーレス」

 彼女は腰を下ろすとそれだけを言って、ぽんぽんと自分のすぐ脇の地面を叩いた。ダーレスもそれに微笑み返すと、彼女のすぐ隣に座り込んだ。そっと肩が触れ合うと彼女はこちらの表情を伺いながら、また少し恥ずかしがっているような笑顔を見せてくれた。だがきっと、自分も似たような顔をしているのだろう。

 彼女はあまり多くの事を口にはしない。だがいつもたくさんの事を伝えてくれる。

 その時、光の玉が一つだけふわふわと目の前にまでやって来た。泉から森を抜けてここまで漂って来たらしい。

 ダーレスはふと手を伸ばそうとしたのだが、シェリルに止められた。

 手を触れたら美しい光を残しながらも聖霊は消えてしまう、彼女はそれが嫌なのだろう。ダーレスもそれには逆らわなかった。

 シェリルの手はそのまま自分の手と重なり合っている。

 彼女と自分の目もいつしか真っ直ぐに重なり合っていた。

 少し濡れたような彼女の瞳がただただ美しかった。


 瞬く間に月日が流れ、娘も生まれた。

 名はアイリス。自分よりはシェリルによく似ている。まだ三歳になったばかりであまりうまく話せないのもあるだろうが、それを差し引いても物静かな方だろう。きっとこれも母親譲りだ。

 だがそれでも本当は感情豊かな子なのだ。庭で育てている薬草に毎日の日課で水やりをしていると、アイリスはいつもくっついて来てどこか楽しそうにそれを眺めていた。じょうろから降り注ぐ小さな雨が描く虹、葉の上で丸くなる水滴、少しずつ成長していく様々な植物たち、それらが彼女の小さな胸を打つらしい。アイリスにも持てるようにと作った小さなじょうろをプレゼントすると、少しはにかんでいるようなシェリルそっくりの笑顔を浮かべていた。

 その日以来、毎朝の水やりは二人で一緒に行っている。小さなじょうろを片手に、ちょこちょこと後ろをくっついて来る姿がかわいらしい。一通り終わった後にはいつも彼女を抱き上げてもう一度庭の見回りだ。これも恥ずかしがりでなかなか甘えに来てくれないアイリスとの大事な日課だ。本当は甘えたがりの彼女だから我慢してしまっていることもたくさんあるだろう。だがそういう時はこちらから近付いてあげるとぴったりと身体を寄せて来てくれる。少し人見知りのところはあっても普通の、そして特別な女の子だ。

「おとーさん」

 抱き上げたままのアイリスが舌足らずに口にしながら、赤くなり始めた野いちごを指差した。これは仕事用の薬草ではないのだが、他のものと同じように庭で育てているものだ。そういった半ば趣味の植物もこの庭ではいくつも育てていた。

「うん、もう大丈夫かもね。食べてみる? アイリス」

 しかし彼女は少し怪訝そうな顔をした。三歳なのにこんな表情を浮かべる事が出来るものなのかと少し不思議に思える事がある。まだまだ知らないことばかりだ。こんなに小さな彼女がそんな事をいつもたくさん教えてくれる。アイリスにとっては野いちごだって未知の食べ物なのだ。少し怖いのだろう。

 そこで先に自分が野いちごを一つつまんで食べる所を見せてみた。アイリスはその様子をじっと眺めていたが、やっと納得してくれたらしい。こくんとうなずく彼女の口元に野いちごを運ぶと、おずおずとそれを口にした。だが次の瞬間には口をすぼめて目をぎゅっとつぶった。

「はは、酸っぱかった?」

 またこくんと彼女は頷いた。

「きらい?」

 少し間を置いてから、ぎゅっとつぶったままの目で彼女はもう一度頷いた。

 その姿が愛おしく、アイリスの頭をくしゃくしゃと撫ぜた。

「これでもジャムにしたりするとおいしいんだよ?」

 アイリスはまだ固まっている。新たな酸味が口の中に広がらないよう、野いちごを舌の上で動かさないようにしているらしい。

「ふふっ、ジャムはまた今度お母さんと作ってみようか。今日はさっきの薬草から傷薬を作ってみよう。アイリスも一緒にやる?」

 彼女はこれにも頷いてくれた。

 家の中に戻ると、ただ庭に出ていただけなのにシェリルが出迎えてくれた。アイリスの様子に少し不思議そうな顔をしていたが、事情を話すとシェリルはくすくす笑って彼女の事をこちらの腕から抱き上げた。アイリスも言いつけるようにシェリルの首にぎゅっと抱き着いている。

 今日も平和な一日だ。後でアイリスと一緒に傷薬を作ろう。だけどその前にシェリルと一緒に朝食の準備だ。アイリスもすぐに機嫌を直してくれるだろう。彼女は料理も気になり始めているようだから。

「ね、アイリス。みんなで一緒に朝ご飯つくろうか?」

「…うん!」

 その返事にダーレスも笑い返した。

 器用なシェリルの血を受け継いでいるのだ。きっと彼女は料理上手になるだろう。薬草に関する知識だってすぐに得てしまうだろう。もしかしたらすぐ自分よりも上等な薬を作ることまで出来るようになるかもしれない。

 この子にはどんな未来が待っているのだろうか? どんな大人になるのだろうか?

 そんな事に想いを馳せる事はあっても、ただこの時間が永遠に続くと思っていた。


「…ダーレス、ごめんね」

「止めてくれ! どうして君が謝るんだ! こんなの…、こんなの…! …すまない…! 僕の力が足りない…! どうしても…! どうしても……!」

 白い部屋。白いベッド。彼女の頬からも赤みが消えている。

「ううん。一番つらいのはあなただから…。」

「そんなこと…! そんなこと決してあるものか…!」

「ううん、きっとそう……。」

 握られていた自らのこぶしに、そっと彼女の手が重ねられた。それは細く、か弱く、儚かった。彼女の口数がいつもよりずっと多い。きっとこれが最期の会話になる。二人とも分かっている。

「……私、今まで本当に幸せだった。私の命は全てが満たされていた。いつだってあなたが満たしてくれていた。今だってそう。今こそ自分の人生の全てが詰まった瞬間の中にずっといるような気がするの。…あなたがいて、あの子もいた世界に私も一緒にいれたこと、それが本当に幸せだった」

「…こんなものが幸せなんかであってはいけないよ……。」

「…ダーレス……。…いい人を見つけてね。私がいなくなっても、必ず幸せになってね」

「そんなこと…。」

「あなたが私と一緒にいてくれたこと、それは永遠に消える事はないのだから。あなたがいてくれたから、私はずっと一人じゃなかった。…それなのに…、ごめんね、ダーレス…、赦して…。」

「…君は僕のすべてだ。だからそんな言葉なんて必要無いよ? ね?」

 ふと見せられた彼女の悲しそうなその顔に、不器用にほほ笑んだ。

 少しだけ柔らかく、彼女も微笑み返してくれた。

 沈黙が流れた。

 過ぎて去って行くその時間への切望が、自然と次の言葉を続けさせていた。

「……すまない…。僕は君たちに何もしてあげられなかった…。」

「ううん。あなたはいつだって決して尽きることの無いものをくれた。今だってあなたはそう言ってくれるんだもの」


 この世界に神はいない。

 いたとしてもそれは人を救うためにいるのではない。

 ただ在るだけだ、人とは異なる理の中で。


 すべてが変わってしまった。

 独りだけ残されてしまった。

 ただ無為に日々が流れた。

 しかし、自分の命は勝手に続いて行く。

 全てが意味を失っているというのに、終わりが訪れることは無かった。

 心配した友人や街の人たちがよく家を訪れてくるようになったようなのだが、どういった会話を行ったのか、自分がどういう応対をしたのか、後になって振り返ろうとしても何の記憶も見つからないという事が多々あった。ただ誰かがいたらしい、という痕跡に後で気付くという事が何度もあった。

 これから何をすれば良いのだろう。

 そもそもしなければいけないことなど何かあるのだろうか。


 なぜか書斎にいた。

 ここには無数の医学書が山積みにされたままだ。どれも彼女たちを救えなかった、もはや自分にとっては無為の象徴でしかない。

 …すべて焼いてしまうべきなのかもしれない。

 その時ふと、巻物が一つ足元に転がった。

 茫とそれを目で追うと、自分が違和感を抱いていることに気が付いた。

 こんなもの持っていただろうか。どの書物も、擦り切れるほどに調べ尽くして来たというのに。

 その巻物を手に取ってみると、それは「コトハ」という一言から始まっていた。

 全ての書物は自らの意義を理解してもらおうと何かを叫ぶ。伝えるべきだと信ずるものがために記されたのだから当然だ。それを放棄したものなど在る筈が無い。

 しかし、その「コトハ」に記されているものはまさしくそうとしか思えなかった。

 巻物という体裁を取っているにも関わらず、端から順に読んでいくことを恐らく想定していない。だからといって一つの内容を追って転々とかいつまむように読んでいくと必ず筋を見失うように出来ている。

 そもそもこの「コトハ」というのが、著者の名なのか、それともこの理論の名なのかさえ、どれほど読み進めていこうともまるで分からない。

 まるでそれ自体が巨大な一つの魔法陣を形成しているかのようだった。

「コトハ」は人に理解されることを求めていない。どれだけ読み解くことが出来たかに思えても、手に入るものは次へと繋がる鍵でしかなく、それ以上の意味など持っていない。

 だが、だからこそ、それは没我を誘ってくれた。

 今は何も目にしたくないのだ。

 自らでさえも煩わしい。

 何も示さず、自らさえも必要としないその「コトハ」へと、病的ともいえるほどにのめり込んで行った。

 無限にある時間のすべてを、そこへと注ぎ込んだ。


 読破し、コトハの会得が完了した。

 コトハ、そこに綴られていたのは人を創り出す手法。

 しかし、別段何の感情も湧いて来なかった。

 人の手で人を創り出すことが出来る。

 それがどうしたというのだ。

 そんなことをしたって彼女たちは帰って来ない。

 コトハを使い、彼女たちに似せた誰かを生み出したところで、それはやはり似ている誰かでしかない。ただ虚しいだけだ。

 …そう、これほど途方もない力だというのに、もはや自分はここに何も見出せない。

 コトハの巻物を手に取った。

 おだやかな日差しが降り注ぐ中、まだ赤ん坊でしかないアイリスをその腕に抱きながら、庭に並べた椅子にシェリルと共に腰掛けて過ごしたある日の光景が頭を過った。

 今、自分は暗い書斎の中に独りでいる。

 もうとっくにすべてが終わっていたのだ。ただ目を背けようとしていただけでしかない。

 手にしたコトハに、封印を施した。

 もう二度とあの日々は帰って来ない。

 彼女たちはもういないのだから。


 それからどれほどの時間が経ったのだろうか。

 もしかしたら、ほとんどその直後だったのかもしれない。

 胸に焼き付くような痛みが奔った。

 よいことだ。

 これでやっと、ただの惰性でしかなかった命が終わる。

 彼女たちと共に迎えていた死に、この鈍い身体がやっと気が付いたのだ。

 徐々に天井がぼやけていく。

 いつの間にか仰向けに倒れていたらしい。

 まぶたを閉じだ。

 無音と、何もないただの暗黒が広がっている。

 きっと、これが自分の行く先なのだろう。

 もう何もいらないのだ。

 だからこれでいい。これこそがふさわしい。

 ……だが、そうか…。そちら側というのはやはり無いのか…。

 アイリス、シェリル…。本当にもう、君たちはどこにもいないのだな…。

 …それならば、それならばせめて、この生の最後は彼女たちに最も近いところで終わらせたい。もう思い返すことさえ出来なくなるというのなら、せめて最後くらいは――。

 失っても変わることなど決してない。彼女たちのことを、ずっと、強く愛している。

 永遠に閉じられようとしていたまぶたを無理に開いた。

 だが本当はもう分かっている。かつての庭の様子はもう見る影も無いだろう。

 何も出来ないでいるうちに、あまりにも多くの時間が流れてしまった。いつからか、あえて目に入れないようにさえしていた。しかし、それでも――。

 身体を這いずらせ、なんとか廊下に出た。焼け付くような痛みで思い通りに動かぬ身体を手だけで引き摺り、身を打ち付けるようにして階段を下った。すぐそこにあるというのに果てしなく遠くに見えた玄関までついにやって来ると、最後の力を振り絞り、目の前の扉に手を掛けた。

 ぎいっという、軋んだ重い音を立てて、扉はゆっくりと開いた。

 しかしそこでは、あの日々と変わることのない朝日が身体を照らしてくれた。

 花の香りがする。蝶がその間をぱたぱたと渡り歩いていた。小鳥は不思議そうにこちらを見て少し首を傾げたが、すぐにまるでいつもの日課の如く美しく歌い始めた。地を走る小さな生き物たちはすぐに草の影に隠れたが、好奇心の強そうなくりくりとした目でこちらの様子をそこから伺っている。

 庭の様子はかつてとほとんど変わっていなかった。むしろ背丈が伸び、新しいつぼみを付けて季節の移り変わりを教えてくれているものがたくさんあった。

 ここには今なお、命が満ち満ちていた。

 目が眩むほどの光の中に幻が見えた。

 幻だとはすぐに分かった。そこにいるのはあの二人なのだから。

 アイリスがあの小さなじょうろを手に水やりをしている。シェリルはあの酸っぱい野いちごを摘みながら、あの優しい静かな微笑みを浮かべてアイリスのことを見つめていた。

 二人は自分がここにいることに気が付いてくれたようで、こちらへと笑い掛けてくれた。

 …ああ、そうか。

 あの日々まで消えてしまったわけじゃなかったのか…。

 二人の残してくれたものが、まだこんなにも輝いてくれている。

 どこも全てアイリスが愛してくれた場所だ。あんなに小さかったあの子が残してくれたもので、世界はまだこんなにも満ちている。シェリルはこの光景をいつも微笑みながら、今のように見つめていてくれた。

 地に倒れ伏すと、土の匂いがした。懐かしい香りだ。

 どれほど変わったように見えようとも、今日はあの日の先にあった。あの日々もまた、今の中にあってくれる。

 二人の友人、アルベとカイゼルたちの声が聞こえて来た。彼らはこちらへと駆け寄って来てくれているらしい。これは現実だろう。きっと、彼らがこの庭をずっと守ってくれていたのだ。

「ありがとう…、ありがとう…」

 これだけではとても言葉が足りない。だがこれ以上何を言えば良いのか分からず、彼らに届くかどうかも分からないまま、ただただ声を振り絞るように繰り返した。

 このまま本当の意味で失ってはいけない。

 あの日々を本当に永遠に出来る何かを創ろう。彼女たちにさえ届くような何かを。

 自分だけでは到底辿り着けなかったはずの、そんな何かを。


 コトハの力、その僅かな一端を借りることにした。


 瞬く間に月日が流れた。

 もう魔法はほとんど使えない。だが、それはむしろ明確な焦点を与えてくれた。

 もう一度魔法を使うことは出来ないだろうか? 

 そこからさらに発展させて、誰もが魔法を使えるように出来ないだろうか?

 そのために魔力を安定して保管する方法を今は中心に据えて研究を行っている。

 だがそもそも、この魔法という力についてもっと詳しく知る必要があるだろう。


 そんな日々の中、一つ予想外の出会いがあった。

 名はイノセント。彼はコトハを求めていた。

 なぜ彼がコトハを知り、自分の所にまで辿り着けたのか、本当のところは分からない。

 彼によると、初めに彼が耳にしたのは、その出所さえすぐに分からなくなってしまうような非常に怪しいうわさ話だそうだ。いつもなら特に気にも留めなかったはずなのだが、なぜかこの時ばかりはどうしてもこれが気に掛かり、半ば無理を承知である女性に調査を依頼したという。

 すると彼女は自分のところまで辿り着いてしまったと言うのだ。

 不思議なことも多く、偶然にしても出来過ぎている話だ。そもそも自分はコトハについて誰にも語ったことなど無いというのに、それについて彼が耳にしてしまうというそのこと自体が不可解だ。

 だが、彼の言葉に嘘は一切入っていないように思えた。

 もしかすると、ただ封印されたままでしかないコトハが業を煮やして、次なる継承者を選び出したのかも知れない。普通ならば在り得ない話でも、コトハについてなら起こり得るように思えてしまう。自分だって、あれは闇の中から一人でに生まれたのではないのだろうかと密かに思っているのだから。

 そして何より、彼はコトハに選ばれてしまってもおかしくないような危うさを秘めていた。彼は本当に強くコトハを求めていた。だがそれ以上に彼が欲しているのは、恐らく自身の破滅だ。むしろ破滅がそこに待ち受けているからこそ、そこへ進むことを止められずにいるようでさえある。

 その姿は、かつての自分に似たものを思わせた。

 だが、だからこそ、自分と同じ道を歩ませる訳にはいかない。

 自分が生き延びることが出来たのは偶然でしかない。

 すべて彼女たちがいてくれたからだ。

 自分は、今やもうこの世界にはいない彼女たちに希望を持っている。

 きっと彼に伝えなければいけないのはこの想いなのだ。

 だが、理屈を超えてしまっているこれを、非常に個人的なことでしかないこれを、どうしたら人に伝える事が出来るだろう。

 これは人に説きようのないものなのかもしれない。信じてもらえるかどうか、ただその選択を彼に委ねる事しか出来ないのだから。

 だが、たとえどれほど時間が掛かるとしても彼にはこれを伝えなければいけない。彼はかつての自分だ。放ってなんておけなかった。


 イノセントとのやり取りの傍らで、研究は続いていた。

 その日は木枯らしが吹いていた。木の葉が渦を巻いている。

 また季節が変わるらしい。これから来る冬もきっとすぐに終わってしまうだろう。そしたらすぐに聖霊祭の時期がやって来る。

 何でもない物思いだったはずなのだが、それは稲妻のようにある直観を呼び起こした。

 あの小さなつむじ風はあれほど激しい運動だというのに、それは捕まえた木の葉を逃がさない。むしろ風が強くなるほどに捉えられる木の葉は増していくだろう。

 ――魔力でもこれと同じものを創ることが出来ないだろうか?

 今まで魔力を閉じ込めようとすることにこだわり過ぎていたのだ。安定させようと力を加え、そして圧が高くなり、だから適量を少しずつ取り出すことが出来なかった。

 だがこの形ならば欲しい魔力の量に応じて風を弱めればそれで良い。渦の力が弱まればその中に仕舞い込まれていた魔力も自然と外に出て来るはずだ。

 ならば水が渦を創るように、魔力でそれを織り成せないだろうか。

 すくなくとも、あの泉にはそれが出来るだけの潤沢な魔力がある。

 歩みを止めかけていた研究が一気に息を吹き返した。

 これから完成するものはきっと今までの研究の集大成になるだろう。その意味を込めて、まだ見ぬそれを「魔法結晶」と名付けた。結晶というにはあまりにも動的すぎるが、あらゆる魔法に誰もがそこから繋げることの出来る、魔法の核とも言うべき魔法なのだ。通常の意味とは違っても、やはりその名がふさわしいように思えた。

 魔力を循環させるための魔法を用意し、それが確かに正しく動作することを確認し、ついに泉にて「結晶」を生み出す準備が整った。絶対の自信と、まるで正反対の祈るような思いと共に泉へと向かった。


 尽きることのない清冽な光がその瞬間世界に満ち溢れた。


 神というのはやはりいるのだろうか?

 久方ぶりに心に浮かんで来た問いだった。

 自分が信じているものはきっとそこまで偉大なものなどではないだろう。

 ただ、自分は彼女たちのいたあの日々を信じることにしただけだ。

 そうすると決めたあの日から、そんなことは問う必要さえなくなっていた。

 だがそれでも、もう一度問わずにはいられなかった。


 光が治まった時、真っ白に輝く髪をした少女が目の前に立っていた。

 彼女はまるで立ちながら眠っているかのような様子だったのだが、ふと目覚めたように大きな目をぱちくりさせると、きょろきょろと辺りを見回した。

 それからやっと気が付いたように、こちらのことをじっと見上げた。

「…こ、言葉は分かるかな?」

「う、うん…。」

 彼女はどこか不安そうな様子で頷いた。だがそれも当然かもしれない。すべてを目の前で見ていたはずの自分でさえ、何が起きたのかまるで分からず、内心かなり動揺してしまっているのだ。

「よ、よし…。じゃあ、まずはこれを…。」

 それでも出来るだけ平常心を保って上着を脱ぐと、彼女に羽織らせた。もう冬の真っただ中なのだ。彼女もすぐにくるまった。

「そ、そうだ! 名前はあるのかな?」

「…わ、わかんない……。」

 不安で、今にも泣いてしまいそうな目で見つめられるとこちらまで胸が締め付けられるような思いがしてしまう。

 だが今の答えでもう明白になった。彼女が生を受けたのはたった今、この瞬間だ。

「そ、そっか――…。えっと――。」

「……――おとうさんなの?」

 言葉をうまく続けることも出来ずにいると、彼女はじっとこちらを見上げてそう口にした。実際のところはかなりの驚きに撃たれてしまったのだが、それは心の内に隠して顔には出さず、彼女の頭にそっと手を置いて笑顔を見せた。

「そうだね。お父さんだ」

 彼女、クリスと二人での新しい生活が始まった。


 初めはどうなることかと案じたのだが、クリスはすぐに心を開いてくれた。人見知りだったアイリスとは違って彼女はとても人懐っこい。だがそれ以外のところではどこも普通の子供と変わらない。よく食べ、よく眠り、そしてよく遊ぶ。あえて言うなら好奇心が非常に強くて活発過ぎる事くらいだろう。クリスにとっては目に映る全てのものが新鮮らしい。冬の間には家の中を探検し尽くしてしまって、季節が変わるころには外の様子が興味の中心に移ったようだ。

「なにしてるのー?」

 日課の水やりをしていると、屈託のない笑顔でクリスがくっついて来た。

「庭のお手入れだよ。みんなすくすく育つようにね」

「ふーん? 葉っぱならお外にもいっぱいあるよ?」

「うーん、ここは特別なんだ。お父さんにとって」

 クリスは少し不思議に感じているようだが、同時にこうしてただ話すことが楽しく堪らないと言ったような笑顔を浮かべている。愛おしくなってその頭を撫ぜると彼女はさらに顔をほころばせた。

「クリスも一緒にやってみる?」

「うん! やる!」

 元気いっぱいに頷く彼女に――まだ取ってあったのかと少し自分でも驚いてしまったのだが――ずいぶんと昔に作ったあのじょうろを手渡した。しかし一緒に並んで水やりをしていたのは最初だけで、すぐに飽きてしまったらしく、蝶々を追い掛けたり、花の匂いを嗅いでみたりし始めた。五感を満たすことが今は堪らなく楽しいらしい。

「おとうさん! ここにぶんぶん言う虫がいる!」

 しかしその途中でクリスはなにか見つけたようだ。偉大な発見をしたように一輪のアネモネを指差した。そこでは黄色いあの虫がくるくる花の上で踊りながら蜜を集めていた。ここに来るまでに他の花もたくさん回って来たのだろう。その小さな体の上に花粉の玉をいくつも付けてなおさら黄色く見える。

「ああ、ミツバチがもう出て来る季節になったんだね」

「ミツバチ?」

「うん。その子たちがクリスの好きな蜂蜜を作ってくれるんだよ」

「ほんとう!」

 クリスの目がさらにきらきらと輝いた。初めて出会ったあの日に、甘いものなら喜んでくれるかと思ってパンに付けて出して以来蜂蜜は彼女の好物だ。

「でも追いかけたりしちゃ駄目だからね。刺されちゃうから」

「ええー…」

 クリスは少しがっかりした様子を見せると、今度は他の花の様子を見に行った。だがすぐに新しい何かを見つけたらしい。今度はしゃがみ込んで地面をじっと眺めている。

 そんな彼女の様子を見ているだけで、こちらも笑みが自然と零れてしまう。この新しい生活の始まりに困惑が無かったとはとても言えないが、自分でも驚くほどにすんなりと馴染んでしまった。今まで随分長いこと一人でいたというのに。

 だが、今はそれが喜ばしく思える。

 一通り仕事を終えてふと辺りを見回してみたらクリスの姿が見当たらない。ついさっきまで蟷螂にちょっかいを出していたのだがどこに行ったのだろうか。

「いたーい! さされたー! おとうさーん!」

 家の裏手から聞こえて来た悲鳴に慌てて駆け出した。

 クリスと過ごす日々は決して色あせること無かった遠い日々を思い出させてくれた。だがその新しい日々はどれもがかつてとは大きく違うものだった。過去と今とが常に同時に重なっていた。

 もしアイリスが今ここにいたらどんなお姉さんになっていたのだろう。

 もしシェリルが今ここにいたらクリスを見てなんて言うのだろう。

 かつては胸を締め付けるような思いを呼び起こすだけだったはずのこんな思いが、クリスと過ごすうちに静かな喜びに似た感情と共に湧き上がるようになっていた。

 ふと気が付けば魔法の研究にも全く手を触れていない。

 終わったのだ。

 もうそれは必要なくなったのだ。

 クリスと一緒に訪ねたい場所が一つできた。

 森を少し抜けた先の丘、クリスと手をつないでそこを訪ねた。ここにはシェリルとアイリスが眠っている。

「クリス。クリスのお母さんとお姉さんだ」

 二つのお墓を見て、クリスは不思議そうにこちらを見上げた。きっと意味がまだよく分からないのだろう。だがそれでも良いのだ。今日は二人にクリスを紹介しに来たのだから。

 アイリス、君の妹が出来たんだ。性格は全然似てないかもしれないけれど、それでもきっと気に入ってくれると思う。庭にあるアイリスの好きだった花をこれから一緒に育てて行こうと思うんだ。今までずっとお父さんの事を守ってくれてありがとう。でもこれからはこの子の事を守ってあげて欲しい。

 シェリル、すべて君の言う通りだった。大事なものが出来たんだ。君たちを失ってから、そんなものはもう二度と現れる事なんて無いと思っていた。だけど違ったんだ。きっと何があろうとも、大事なものはいつだって尽きることなくこの世界に生まれて来てくれるんだね…。…君はそれを知っていたんだね。

 …なにも終わってなんかいなかったよ、シェリル。

 ぜんぶ君の言う通りだった。君が正しかった。



 ――結果として結晶は確かに生まれた。それは大きく、力強く、そして慈しみに満ちた光だった。だが私が触れた次の瞬間には、その光はもはや消えてしまっていた。…だが、そこには一人の幼い少女がいたのだ。

 ……それが今そこで眠っている彼女だ」

 ダーレスはここに記されている全てを事細かに語ったわけではない。

 だがそれでも、彼の半生を知るには十分すぎるものだった。

「…私にもなぜあの結晶が彼女へと、クリスへと姿を変えたのかは分からない。もしかすると、私の研究は亡くした家族から始めたものだったから、その思いを汲み取るように結晶が反応してしまったのかもしれない。その上コトハの魔法という、人の創造を目的とした魔法の存在を知っていたという事も何かしらの影響となった可能性だってある。…そうだね。コトハの呪いといものがあるならば、その影響を一番強く受けていたのはイノセント君ではなく、やはり私だったのだろう…。

 …だが、コトハの魔法が禁忌の中の禁忌だと分かっていながらも、それでも私にはクリスの誕生が何よりの奇蹟に思えた。

 ……クリスと過ごした日々はそれほど長くは無い。だが私の人生の何にもましてそれは大切なものだ。私の妻、娘から私を通して、すべてが彼女に繋がっているんだ。クリスは私たちのすべてなんだ。

 この子が全ての救いだった」

 彼は優しく、眠るクリスの頭を撫でるように手を触れた。

「――だがそれでも、どれほどの言葉を尽くそうとも、私のしてしまった事が禁忌である事に変わりはない。…昨日、イノセント君がこの街にやって来たと知った時、罰を受けるときが来たように思えてしまったんだよ…。

 避けることの出来ない運命がやって来たように…。

 彼がこの街に来た理由は仕事とはいえ、彼の来訪をいつまでも拒み続ける事はどうやっても不可能だったろう。だが彼の事を諦め、切り捨てて、コトハの魔法を見せることにしてしまうのも躊躇われた。結果、どちらに徹することもできずに悪足掻きのように彼とクリスが出会わずに済むよう立ち回ったのだが、結局その全ては無駄に終わってしまった…。

 …イノセント君が怒るのも当然だ。彼の目にこの子がどう映ってしまうのかも十分に分かっている。だけど私にはこの子こそ、無為な人の生など在り得ない証に思えたんだ…。

 …この子にはなんの罪も無い。禁忌を踏み越えたその罪は全て私にある。

 だから、私が全てを負っていく。

 ――クリスには寂しい思いをさせてしまうと思うけれど、それでも、この子にはこれから先の世界を生きて欲しい。その隣に、私がいることが出来なくても。この子こそが、私たちがここにいたという何よりの証明なのだから。

 すべてだから。」

「ま、待って下さい! そんな言い方したらまるで…!」

 ダーレスの固い決意を伺わせる口振りに不吉なものを覚えてサンは弾かれたように叫んだ。全て自分の力を大きく超え、到底手の届かないばかりだったとしても、ただ見過ごすことしか出来ないなんて許せるはずも無かった。

「…サン君、すまなかった。授業だなんて形を取って君に話した内容は、結局のところ自分の犯してしまった禁忌への言い訳に過ぎなかった」

 だがダーレスはサンの言葉に答えてはくれなかった。

「――最後の魔法を使おうと思う。これから先もクリスが普通に生きていけるように、もう二度と自分の力で苦しむことなんて無いように」

「待って…! 待って下さい! ――そ、それなら私が魔法を使えば良いんですよ! わざわざダーレスさんが魔法を使わなくても私が代わりに使えば何も失うこともなく――!」

「クリスは私の魔力から生まれたから、必要なのは私の魔法なんだ。…それになにより、私自身が彼女のためにこうしたい。…禁忌を踏み越えてしまった罰は、やはり誰かが負わなければいけなかったんだよ。…私はもう十分過ぎるほどに救われた、だからこれで良いんだよ」

「で、でも…!」

「サン」

 すぐ後ろのディオから声を掛けられたが、サンは振り向くことが出来なかった。答えがあるはずだと暴れる心がそれを許さなかった。

「イノセント君との話が何か決着を見るまでの間、クリスの事を守ってはくれないだろうか。…投げっぱなしになるようですまない。ひどく勝手な頼みである事も分かっている。ひと段落したらアルベを頼ってくれれば良いんだ、あらかたの事情は話してあるから。本当は私が全てを終わらせなければいけないのだがもうあまり時間も――」

「それが最善なんだろ。後はこっちで何とかしておこう。心配するな」

「…本当にありがとう。イノセント君のこと、悪く思わないで欲しいんだ。彼は本当に何も悪くなんてないのだから…。…出来れば彼のことも――、ごめん…。さすがにこれは頼り過ぎだね…。」

 自分の事を置いてきぼりにして、ダーレスとディオは勝手に話を進めていってしまう。

「サン君、魔法を教えるという約束、果たせなくなってしまってすまない。だけど私の蔵書については全て自由に扱ってもらっても構わないから」

「そんな、そんな事なんてどうでも…! それに私にはそんな資格なんてありません! 私のせいでこんな事になってしまったというのに!」

「いいや、それだけは絶対に違う。誰も悪くなんて無い。運命というものがあるとするならば、全てはこうならざるを得なかった事なんだ。そして君はクリスを守ってくれた、それが事実だよ」

「で、でも…! いや、それでも絶対にまだ何か手が――」

「サン、もう分かっているんだろ」

 先程から一度も逸れること無く淡々と真っ直ぐに話を進めて行ってしまうディオの言葉があまりにも冷たく聞こえ、サンは今度こそ振り返った。だがサンは何も言い返すことが出来なかった。いつだって悪戯っぽく輝いている彼の目なのに、今はただただ静かだった。自分のことを気遣ってくれているような光さえあった。どんな言葉よりも彼の目がこれは動かしようのない事実だと告げていた。自分はただ場を掻き乱しているだけなのだと悟ってしまった。

 これ以上はもう、どんな言葉も無用なものでしかなかった。

 ダーレスは立ち上がると、二人に目で頷いた。そして再び、クリスの額にそっと手を触れた。そこには言葉に仕切れない、尽きることの無い深い想いだけがあった。

 ダーレスは何かを呟くかのように口を少しだけ動かしたが、すぐに首を横に振って止めた。何を言おうとしていたのかはサンには分からなかった。

 彼の右手がほのかに光を放った。

「クリス、愛している。何があろうともずっと一緒だ」

 最後の魔法が使われた。

 次の瞬間、そこにはもはやダーレスの姿は無かった。ただ白雪のような光が満ちていた。

 その中の核とも呼べそうな光の珠が一度だけくるりと、尾を引きながらクリスの上で円を描いた。こぼれた無数の小さな輝きが祝福するように彼女を包んだ。それを最後に、無数の光たちは開け放たれた窓から空へと昇って行った。

 苦しそうだったクリスの表情はもう安らかなものへと変わっていた。



「サンは部屋に戻って休んでおいてくれ。クリスの様子は俺が見ておくから」

「……私は大丈夫です。何か出来ることは在りませんか?」

 まだ眠っているものの、一番悲しく、辛い思いをするのは間違いなくクリスだ。彼女を差し置いて自分一人が泣くような真似なんて出来ない。一滴も涙をこぼさぬように堪えながら、まっすぐにディオを見上げた。

「そか」

 ディオは短くそうとだけ答えては、それ以上何も聞かないでくれた。今はそのことが嬉しかった。

「じゃあサンの知っている事を教えてくれ。あの騎士の男と、それとダーレスとクリスの事についても俺が聞けていない話がまだありそうだ。それに他の事の状況も色々と確認しておきたいからな。ただその後はやっぱり休んでおいてくれ、後で交代することにしよう」

「分かりました。――」

 サンが話し始めようとしたちょうどその時、玄関のドアをノックする音が響いて来た。

「え、な、なんでしょう…?」

 思いも寄らなかったことに身をすくませながらサンはディオの事を見上げた。

「…サンは後ろの方に隠れていろ。俺が出て来る」

 ディオの言葉に頷きながらも、サンはクリスの部屋を出ると、玄関の様子が見える場所で身を潜めた。ディオはドアノブに手を掛けている。ノックの音がもう一度響いた。

(…まさかイノセントさん? …もしかして、禁忌の魔法の捜索という事で他の騎士の人達を連れて来たんじゃ…。)

 じっと待っているだけで不安な思いが増して行く。ディオはこちらに目で合図を送って来た。サンも心を決めて頷き返した。

 ディオが勢いよく扉を開け放った。

「きゃあっ! ……え、あれ? なんでディオがここにいるの?」

 しかし、驚いたように大きく飛び退いた彼女の姿を見て、不安な予感は大きく外れてくれていたことがすぐに分かった。

「なんだよ、お前か」

「あ、キャロルさん…。」

「…あ、サンちゃんもまだここにいたのね。 ……ね、ねえ、やっぱり何かあったの? イノセントさんの様子がおかしくて、それで私、ここに来れば何か分かるんじゃないかと思って――。」

「まあ上がれよ。こっちも色々と情報が欲しかったところなんだ」

 三人は眠るクリスの邪魔をしないよう、その隣の部屋でそれぞれ知っている情報の共有を行った。サンはダーレスについて自分の知っている事、そしてディオが駆けつける直前に起こった事を、キャロルはつい先程のイノセントとの会話について。

「――そうか、ダーレスは胸に魔法を…。」

 ディオは顎に手を当てて呟いた。サンにとってはもう既知の話だったのだが、ディオにとっては初めて耳にすることだったらしい。出会う前に心臓が悪いという話を聞いていたとはいえ、昨日宿屋で話した時の様子からはとてもそうは思えなかったのだ。強く、大きな人だった。――だというのに、あの人はもういないのだ。

 また涙が込み上げて来そうになったが、誰にも気付かれないようにサンは必死に耐えた。

「――だけど今のところは、そのイノセントとかいう男がどう動くかがこれからの鍵になりそうだな。こちらの敵になるのか、それともこれ以上は関わらずここで退くのか」

「敵だなんてそんな言い方…!」

「実際そうなってもおかしくないだろ、今までの話だと。むしろ大人しく下がるよりもそっちの方が確率は高そうに思えるぞ」

 ディオに指摘されて、噛みついていたキャロルも言い返せなくなってしまっていた。

 サンもやはり何も言えなかった。分かり合えていたはずなのに、なぜこんな事になってしまったのだろう。

「…イノセントさんはただ普通に、ごく素朴に生きていくことを望んでいただけなの……。あの人はただ自由が欲しかっただけ…。」

 キャロルが声を震わせながら小さく呟いた。

 ぞくりとサンの肌が泡立った。

 ダーレスはクリスの中に光を見出していた。だがイノセントは彼女を通して深淵を覗いたのだ。キャロルの言葉によって、サンの視線はイノセントが見つめている光景と正確に重なった。似た背景を持つがゆえに、それだけでは意味の取りにくい言葉でも瞬く間に同じ場所へと辿り着いていた。

 木になった林檎が重力によって地に落ちることにはそれ以上の意味が無い。

 では魔法によって人が生み出せるならば、人が複雑なだけであって自然現象の集合体でしかないならば、果たして人間というものにはどれほどの意味があるのだろうか。

「善い生き方」などといったものは存在しないだろう。それはただ連続していく事象の流れの中で、たまたまそこに至ったというだけのものだ。現象の連続である世界の中に人は完全に組み込まれていることになるのだから。人には本来、何かを選択する余地など残されていない。ただそう錯覚しているだけだ。

 そう、人とは物だ。

 事実、社会は個人という存在には目も掛けず、一つの機能を持った歯車として扱う。

 システマチックに回り続けるこの社会と、このたった今垣間見た人との間には、フラクタルが如き美しい相似関係までもがある。この完成されたまでの冷たい無機質さは、圧倒的なまでの説得力をさえ持っている。

 彼はこれを見たのだ。

 人の生には一切の意味も意義もない。

 目の前が暗くなってしまうような禁忌としての一面を、クリスは確かに持っている。

 ダーレスの語る通りの奇蹟なのか、イノセントの指摘する冒瀆なのか。同時には見られないはずのそれらが、サンの目の前にしっかりとした形を持って二つ並んでいた。

「――起きたみたいだな」

 サンは自らの思考の海に沈んでいたため何も気付けなかったが、ディオの様子を見るにクリスの部屋から物音がしたらしい。キャロルと色々と話していたようなのだが途中で切り上げるとすぐにそちらへと向かってしまった。キャロルは押し黙って少し俯いたままだ。イノセントの事についてディオと意見の食い違いがあったのかもしれない。

「良く寝ていたな」

「…うん、すこしふしぎなゆめをみたの」

 隣の部屋から聞こえ始めた声にはっと我に返ると、サンも急いで席を立った。クリスの声がいつもの溌剌としたものとは違う、聞いているだけで悲しくなるような響きで耳に届いたのはきっと気のせいなどでは無い。

「…おとうさんがね、クリスは色んなものをくれたのにお父さんからは何もわたせなくてごめん、って…。そんなことないのに…、そんなのぜんぶ反対なのに…。クリスがそう言うと、笑ってだき上げてくれたの。だけど、いつの間にかおとうさんは消えちゃってて…、どれだけ探しても見つからなくて…。」

 聞こえて来る彼女の声は震えていた。何も言わずとも、もうすでに全てを悟っているようだった。

「……お父さんはもういないの…?」

「ずっと一緒だとダーレスは言っていた。そんなに遠くへ行った訳じゃない」

「ほんとう?」

「ああ、ダーレス自身がそう言っていたんだ」

「………うん。…………うん…。」

 サンが部屋に来た時、ベッドの上でクリスは俯きながら涙を零していた。

「あ、お姉ちゃん……。」

 涙で濡れた目をベッドの上からクリスは向けた。サンは部屋に飛び込むとすぐに彼女を抱き締めた。

「お姉ちゃん、ごめんなさい…。わたし、さっき…」

「ううん、大丈夫だよ。私の方こそごめんね、ごめんね――…!」

 自分の胸の内をもっと伝えたくて、サンはさらに強く抱きしめた。

(私はやっぱりこの子の味方をしてあげたい)

 サンは心の底から思った。

(私はきっと、イノセントさんの言うことも分かってしまう。…だけど、たとえそうであろうとも、私は絶対にクリスちゃんの味方だ。ダーレスさんとクリスちゃんは、禁忌なんて超えて本当の親子だった。

 ――それなのに、私が壊してしまった。)

 扉のすぐそばで困惑した様子で立ち尽くしているキャロルにも、すぐそばにいるディオにも気付かれないようにしながらも、サンは一つ重大な決心をした。

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