その7 定義
時は少しだけ遡る。
イノセントはダーレスの家を訪ねていた。
ダーレスとは何か月も前から手紙でのやり取りを行っていた。駆け引き、という面で見れば今までのこの交渉にはほとんど何の進展も見られなかったのだが、実際のところはイノセントにとって非常に充実したものだった。新たな見地さえ与えてくれる彼との対話は本当に満ち足りていた。初めの議題などもはや脇に捨て置くべきではないだろうか、とさえ思ったことが何度もある。だが、まるで何かに導かれるかのようにこの街へとやって来る仕事が入ったことで、この協議は明らかに新たな局面を迎えていた。運命という言葉がどうしても好きにはなれないイノセントでも、今回ばかりはそういったものに感謝しない訳にいかなかった。
「やはり、駄目でしょうか…?」
しかし、その願いは今のところ叶えられそうに無かった。
「…すまない、だがこれだけはどうしても見せる訳にはいかない」
とはいえ、これは手紙で何度も繰り返した内容の焼き回しであったのだ。本当のところ、心のどこかで予想していた通りでさえあった。
だが、どうしても止まることなど出来なかった。その魔法の存在を知ってしまったからには、自分に言い訳できるような余地を残せるはずも無かった。
拒否されるという形で終わってしまうのならばそれも仕方ない。もし仮に立場が逆だったとしたら自分だって簡単に応じる事など出来ないだろう。ダーレスの立場が難しいものであることは十分に理解している。むしろ自分と会ってくれたという事だけでも感謝したい気持ちでいっぱいなのだ。
ただ、それでも自分は自分に出来る最善を尽くさなければならない。ここで自分の事を誤魔化すような半端な事をしてしまえば、それは必ず心の中にしこりとして残るだろう。きっとまた、同じようにここを訪れざるを得なくなる。
ここで願いが叶わず終わってしまうことは構わない。だがその結果を受け入れるためには全力を尽くさなければいけない。
どこか自暴自棄に近い思いであることは自覚しながらも、イノセントはもう一度口を開いた。
「…ダーレスさんが私を案じてくれていることは分かります。しかし、私はその『コトハ』が記している内容をもう既に知っているのです。その力が持つ呪いは、その論文中の細かい内容にある訳ではありません。ダーレスさんが心配してくださっているその呪いについて、私はもうすでに受けているとも言えてしまうはずです。…そして、『コトハ』というものの存在を知ってしまったものとして、私にはどうしてもこれを避けることが出来ません…。もしかすると、私はただ知ってしまったという事実に突き動かされてここまでやって来てしまったのかも知れません。ですが、その論文を受け止めることで、ようやくこの件について自分の力で判断を下せるようになるのです。そこでやっと、抗いようのない力に従わされるだけの歯車という立場から抜け出せるように思えるのです」
悲痛とも言える面持ちをダーレスは見せた。
「君がそう考えてしまう事、それ自体、呪いのせいなのだろうか?」
「…いえ、きっとこれは…。順番が逆なのかも知れません。だからこそ私はそれに惹きつけられ、出会ってしまったような気がします」
ダーレスは深く目をつむり、額に手を当てた。決めてしまった答えを何度も繰り返すだけでは無く、本当に自分のために考えてくれている事がイノセントにも分かる。
彼は重々しく、口を開いた。
「…『コトハ』は間違いなく禁忌の中でも最たるものだ。だが君にこれを悪用する気など全く無い事は、はっきりと分かっている。…ただ、それでもこれは駄目だ。ただ話で聞くだけと、実際に自分の目で確かめる事には大きな差があるはずだ。…これを見ても良いのはきっと、これを求めていない人だけなんだ。君はあまりにも強くこれを求めすぎている…。」
「…ええ、分かりました」
もうこれ以上、彼を困らせる様な要求など出来ない。
「朝早くからありがとうございました」
今日の会談はここで終わりとなった。
イノセントが屋敷を後にしようとドアに手を掛けた時、玄関まで見送ってくれたダーレスが沈黙を破った。
「…あれがなぜ生み出されたのか、それは私にも分からない。あの中にはそういった背景が何も書かれてはいないんだ。本当は論文と呼べるほどに体裁が整っているわけでは無いのだよ。……あれは、何の回答も与えてはくれない。あれはただ、破滅的な問題提起を人の中に湧き起こさせてしまうだけだ」
イノセントはダーレスの目を真っ直ぐに見つめた。
「…君の求める答えは、きっとあの中には存在しない」
何も言わず、イノセントはただ頷いた。
ダーレスの目の奥底からは、空を支える大地のような、盤石とした静けさが見える。
「…私は君に、何の回答も用意することが出来ない。だが、世界はそこまで頑なな、絶対的に固定されてしまった物では無いはずだ。世界の実情がどう見えようとも、人間は自分よりも大きな存在にただ挽き潰されていくだけでは無いはずなんだ。
……命の内にあったはずの特別さは、あの魔法によって明確に否定されてしまう。そんなものどこにも無かったのだとはっきりと明示されてしまう。あれはそれが出来るだけの力を確かに持つ。
だがそれでも、これはあくまでただ一つの魔法でしかないんだ。あの魔法が確かにこの世にあるものだとしても、それは決して世界の全てなどでは無い。神の言葉でもない。
…こんなものに呑み込まれてはいけないよ。人が心の中に思い描く世界なんて、どれほどそれらしくとも仮初のものでしかないんだ。本当の世界はいつだって目の前に広がっている、このことを決して忘れないで欲しい」
イノセントは僅かに微笑を浮かべて頷いた。だがきっと、この中に自分は嘘を含んでいる。生命という存在としての人間が不要になった今、その魔法はまさしくこの時代の象徴なのだ。だからこそ、そんな魔法でも自分は強く求めてしまっている。それに彼の言葉も間違っている。世界はとうに人の手には負えないものなのだから。
だが僅かな可能性であっても、その魔法の中に何かを見出せるかもしれない。だからなおの事、それを求めずにはいられないのだ。
ダーレスはただ静かな目をしていた。こちらを案じるその想いに後ろめたさのようなものを感じてしまった。
(少し感傷的になり過ぎたかもしれないな…。…うん、目の前にあれがあるから焦ってしまっていたみたいだ。…だけど幸いにも時間はあるんだ。ゆっくり行こう。元々、今回の仕事に合わせて多少無理を言ってしまったようなものなんだ。それにしては手応えもそこまで悪いものなどでは無い。今のところはこれで十分だ。………よし、大丈夫だな、いつもと同じように頭は働く。思索の中に迷い込んだりもしていない。潔癖になり過ぎず、打算的な考え方も出来ている。…うん、もう戻るのだから隊のみんなに情けない所は見せられない)
自分の事を案じてくれているダーレスの思いを汲み取り、イノセントは気持ちを切り替え、外への扉に手を掛けた。
サンは胸をどきどきと鳴らしながらダーレスの家の門をくぐった。
(…うん、大丈夫。騎士のことはディオさんも平気だって言っていたし、キャロルさんも助けてくれるって言ってくれたし、格好だってちゃんと気を遣ったし、それにそもそも騎士の人ももういないかもしれないし…。)
自分に言い聞かせるように、サンは何度も同じ文句を頭の中で繰り返していた。
宿を出る時は今まで触れたことの無い魔法を教えてもらえるのだという喜びの方が強かったのだが、ダーレスの家に近付くにつれ、騎士のことでだんだん緊張と一緒に不安まで感じ始めてしまった。すぐ目の前に玄関の扉があるというのに、ぎこちなくなってしまった足ではなかなか辿り着けない。
やっぱりディオに付いて来てもらった方が良かったかもしれない、そんな弱気が心に差し始めていることに気が付いてサンは慌ててかぶりを振った。こんなことではいけない。ここからは自分が頑張らなければいけないと、昨日心に決めたのだから。
しかしその時ちょうど、その扉が開き、見知らぬ男性の姿が現れた。
(…あ、この人が……。)
一目見ただけでサンにもすぐに分かった。
(…この人がイノセントさんだ……。)
サンが道を開けると、彼は軽く頭を下げてすぐ目の前を通り過ぎて行った。ただそれだけの所作なのに、立場などを超えて彼が信頼に足る人物であるような直観をサンは不思議と覚えた。
一瞬、サンの目には彼が片足を引き摺っているように見えたのだが、まばたきした次の時そこにあったのはごく自然に両足で地を踏みしめて門の先へと歩いていく彼の後姿だった。どうしてそんな錯覚を覚えてしまったのか、サン自身にも理由は分からなかった。
だがそんな感想に気を取られている内に、さっきまであれほど心配していた騎士との邂逅はあっさりと終わってしまった。
(…よ、良かった。うん、やっぱり心配し過ぎだったのかも…。…それに、騎士の隊長だっていうけれど怖そうな感じのする人じゃ無かったから、もし何かの手違いが起きてしまったとしても大変なことにはならないで済むかも…。キャロルさんの言う通りだったかな)
隅に退き、生垣にぴったりとくっついていた背中をはがして、サンは自分の事を玄関で待ってくれているダーレスの元へと向かった。
「いらっしゃい、ちょうど良い所だったね」
「はい、よろしくお願いします!」
温和に迎えてくれたダーレスに、サンは深々と頭を下げた。
ダーレスに案内されてサンは奥にある客室に通された。勧められた席に着くと、さっきまで彼が座っていたのか温もりがまだ残っている。意味も無く意識してしまって少し落ち着かない。
「さて、魔法の話だね」
ダーレスが先に切り出した。サンもすぐに背筋を伸ばした。
「ただ、危ないものだからどうしても教えられないという魔法もあるんだ。本当は昨日の時点ではっきりと断っておくべきだったと思うんだけど、それでも構わないかい?」
「ええ、もちろんです」
サンが頷くと、ダーレスは安心したように微笑んだ。
「ありがとう。色々と集めていると、いつの間にかそんな魔法も増えてしまってね…。本当は私自身、これらをどうしたものかと悩んでしまう時もあるのだけれど…。」
ダーレスはそこで一度言葉を止め、仕切り直すように続けた。
「どんなものを最初に伝えれば良いかなと思っていたのだけれど、今日は最初だし、魔法そのものの話よりも先に、まずは魔法についての私の考え方を伝えることにして良いかな。ちょっと君の求めるものとは違うかも知れないけれど…。」
「い、いえ、すいません、色々と考えて頂いて…。ありがとうございます」
「いや、私自身、人に魔法を教えた経験なんてほとんど無いから手探りのようなものになってしまうけれども、そこはごめん。これはまず、オリエンテーションみたいなものだね」
静かに、ダーレスは話し始めた。
「いわゆる武器や、兵器としての魔法も私は持ってしまっている。これらはただ身を守るにはあまりにも過剰な力だ。だけど、これらはある意味扱いやすいとも言えるんだ。私自身こういったものには特に魅力を感じられないし、進んで世に広めていくべきものではないだろうからただ死蔵してしまえば良いと思っている。…危ないものだからこれらの魔法が記された論文は一律に処分してしまうのも考え方の一つなのかもしれないけれど、それはこの研究に尽くした過去の魔法使いたちに申し訳ないし、何より今の私には気が付けないような、全く異なる分野にまで転用できる技術もそこには含まれているかもしれない。それならばやはり、ある魔法使いたちの間で連綿と受け継がれて来た歴史的な価値をも持つ一つの技術として、ふさわしいその時が来るまでは眠っていて貰うのが一番なのかなと思うんだ。…もしかしたらこれは、人知れず消えてしまいそうな魔法を世に残したいと考えている君の目的からすると、消極的すぎるものに見えてしまうかも知れないけれども……。」
「い、いえ…。私も人を傷つけしまうような魔法はあまり……。本当は私の方こそ、こういった事を目的にしている以上どんな魔法も平等に扱うべきだとは思うのですけれど…。」
「ふふっ。だけど、私は君の守りたいと思えるものから優先していけば良いと思うよ。例え、君の主観が大きく入ってしまったものだとしてもね」
ダーレスは少しの微笑を見せると、改めて続けた。
「ただ、これらの魔法とは別に、禁忌と呼ばれるものがある。それらは武器でも兵器でもないけれど、一度世に出てしまえば本当に多くの人を混乱の渦の中に叩き落とし、根底から揺さぶってしまうような力だ。例えば、そうだな……」
ダーレスはそこで一度言葉を切り、慎重に選ぶようにしてまた話し始めた。だがそれは、今までとは随分とかけ離れているように思える内容だった。
「ほんの少し前まで、私達のこころは心臓に宿るものだと考えられていた。そして命の火が消える時、そこに宿っていた魂は心の臓に鼓動を打たせることを止め、天に昇る、と。その時代では多くの人はそれが当然のものであると信じ、それは一つの明確な事実として受け入れられていた。臓器としての心臓という見方が生まれたのはごく最近の事だ。心臓はただの臓器などでは無く魂の台座だった。神秘と奇跡が内包されている不可侵の領域だった。そこに踏み込むことは決して許されない禁忌だった。
だけど今は、人の思い、感情、心、そういったものは頭に宿ると考えられている。同時に心臓はその魂の台座としての役目を終え、血を体中に巡らせるための一つの機能となった。心臓は、神聖さに守られた不可侵の領域では無くなった」
魔法から離れている内容に見えても、とても大事な事を伝えようとしてくれている事は容易に分かり、サンは耳を澄ませて聞き入っていた。どんな話でも受け止められるように、サンはしっかりと構えているつもりだった。
だが、それでも次の一言は衝撃だった。
「私は以前に心臓を患っていてね。今、私の心臓は魔法で代用されているんだ」
「え、なっ…!」
それは既知の魔法を遥かに凌駕するものだ。
「今の時代から見てもこれは明らかに過ぎた魔法だろう。禁忌との境界にいるような魔法だと思う。だが少なくとも、私はこころを失ってしまった存在なのだと、本当は魂の抜け殻が不気味に動いているだけの生ける屍のようなものだとは言われてはいない、と思う。少なくとも面と向かって言われたことは無い。これは心臓が魂の台座を果たしていた時には決してあり得なかった事だ。少し前の時代では、私は決して在ってはならない存在だろう。
私が持っている魔法で君に教えられないものは、こういった禁忌と呼ばれる領域に何のためらいも無くあっさりと踏み込んで行ってしまうもの達だ。これらは今の私たちが持つ価値観から判断すれば非常に危険なものに見えてしまう。それこそ触れるのも許されないほどに。
だが同時に、時代が追い付けばこれらは優れた技術だと認められるようになるものかもしれない。というのも、この禁忌という世界の区切り、これは神の声の如く頑ななように見えながらも、其の実とても柔軟なものだからだ。禁忌という絶対的な印象がどれほどふさわしく思えようとも、これは時代の流れ、そして無数の人々の歩みの集積によって驚くほど簡単に変化して行くものでもある。
実際、私たちが持つ今の価値観では、『心臓は魂の台座である』という認識はかつてよりも力を失っていたらしい。もしこの認識が未だ強大な力を持っていたとしたら、たとえこの胸の中にある魔法を同じように手にしていたとしても、私はそれを自らに使うことなど出来なかっただろう。きっと、命を落とすことになっていたと思う。かつての世界観の下では、心臓が鼓動を止めるとは即ち魂が肉体から消失することに他ならないからだ。実際には自分はとっくに死んでいるのに、自分の身体だけはあたかも自分が生きているかのように動いている、などという状況を望みはしなかったはずだ。
たとえ力があったとしてもそれだけでは足りないのだ。それのみでは力を行使することは出来ない。力に対する裏付け、これもまた欠かせないものなのだ。
人の生死を決められるだけの強力な世界観。これは別の見方をすれば、人という存在を世界に対して保証してくれているとも言えるかもしれない。そして何より、これはその共同体においては人々の共通の認識として誰とも繋がっているものだ。
これらの点を踏まえて改めてこの共有された世界観というものを見てみると、これは限りなく神に近いとさえ言えてしまうだろう。
もちろんこれは全き神などではない。だがこれは本当に強力な力を持つ。禁忌というものを設けて、人々をそこに従わせる。もしかするとこの禁忌は未来の人々からすれば、どうしようもなく不合理で理不尽なものに見えてしまうかも知れない。だけどこの『神に成り代わってしまったもの』の下にいる人々にとって、この禁忌に対して異を唱えるのは非常に難しい。なぜならこの批判というのは、その社会に住む人々には一種瀆神的なものとさえ見えてしまうからだ。たとえ宗教的な感覚など誰も持っていなかったとしても、この『神』への批判はやはり冒瀆的ものとして受け止められてしまう。残念ながら正しさを保証されてしまった人間は、そこから外れたものを悪とみなして非情になってしまう面が確かにある。その人の在り方がさらにこの『神』を補強する。」
あたかも運命のように、人の行く末を決められるだけの強力な世界観。そう捉えるならば、確かに不文律という言葉だけでは足りないのかも知れない。
…いや、それ以上に、ここには信仰の問題さえもが入り込んで来ることを私は既に知っているのではないだろうか…。
王都には、まさしくこの「神」がいたのではないか?
…そして私には、この「神」を信じる力が致命的に欠けていた…。
――そうだ。きっと正しい。これはまさしく「神」の問題だ。
みんなが信じているもの、意義を見出しているもの、私にはそれが理解出来なかった…。
だから、私は王都にいることが出来なかった…。
ならば、どれほど王都から離れようとも、どれほど新しい世界と出会おうと、結局のところ私の中心にあるものはただの不信心で――
「だけど忘れてはいけないのは、例えどれほど強大に見えようともそれはあくまで神に成り代わったものでしかないということだよ」
「え? あっ…」
自らの内側にある暗い部分へと引きずり込まれそうになっていた思考は、その彼の言葉が引き上げてくれた。彼は優しく、温かく、だが確かに自分のことを見守ってくれていた。
「全き神は何も話さない。だというのに、そちら側の『神』は本当に多弁だ。だからどうしてもこの『神』ばかりが強調されてしまう。だけど、この『神』はあくまで神の座に滑り込んで居座っているだけのものでしかないとは知っていても良いと思うんだ。やはり私は、この二つの神は決定的に違うものだと思うから。
だが、全き神について私が話せることなど何もない。
だからそんな私に説けるのは、寛容、という言葉だけだ。
だけどこれも突き詰めていけばあらゆる罪の不在、罪科の肯定ということに成り兼ねない。おそらく、絶対の一つをこしらえて信奉してはいけないんだ。それは突き詰めるという過程で、結局のところあの『神』と同じものに変わってしまうのだろう。たとえば、人に寛容であることを強制するというのはやはり歪なものを感じると思う。言葉でさえも一切の意味を伴わない形骸化したものになって人を呪縛する、なんてことも十分に起こり得るものだから。
だから私に唱えられる寛容というものは、本当にごく素朴なものでしかないと思う。禁忌の内側にある魔法はやはり、私にはどうしても受け入れられないものがほとんどだ。それらはあまりにも冒瀆的なものに私には見えてしまう。その魔法を生み出した人達は一体どういう思いでそれらを創り上げたのかさえ私には分からない。だから私が抱いている寛容というのは、あくまで一人のありふれた人間として抱くことが出来る程度の、ごく当たり前のものでしかないはずだ。
だが私は、『神』というものが実は多様であることを知っている。
だから私には禁忌にしか見えないものであっても、それはただ私と異なる『神』を頭上に戴いているだけのことでしかないのだと思うことが出来る。どれほど冒瀆的なものに見えようとも、それは彼らの『神』の下では偉大な業績だったのだろう。例えそれらが真の神の下においてさえ赦されざるものに思えたとしても、それはやはり私が自らの『神』の下に判断しているに過ぎないのだから。だから私はその『神』がいかなるものであったとしても、否定しようとは思わない。
ただ、この世界に生きる自由な意思を持った一人の人間として、私の上に君臨しようとする『神』とはどうしても反りが合わないということはある。おかしな話に聞こえるかも知れないけれど、自分の目の前に立ちはだかることが最も多いのは他人の『神』ではなくて、自分に最も近しい『神』なんだ。単純に接することが多いという馴染み深さこそが、軋轢を生み出すのかもしれない。それというのも、この『神』は往々にして人に無抵抗で慣習に従うことを求め、人から思考を奪おうとすることも多々あるものだから。そして寛容とは、何よりも自らの意思で判断する余地を残すということだから。
だから寛容という言葉を唱える者として私は、これがどれほど冒瀆的に聞こえてしまうのかを踏まえた上でも、『神』への反逆は本来人間に赦されているものだと思う。
人というのは誰もが自らの意思を持つ。いや、持つことが出来るのだ。ならばやはり、自らの意思で『神』から離れることも有り得べきことだろう。もちろんこれは、自らの意思でもって『神』を選ぶことを否定する訳ではない。だが、自らでもって自らの在り方を定めること、つまりは意思を持たぬ奴隷であることを自らの力で止めること、これは世界に対して人が示せる強さの一つであるはずだ。そして私にはここにこそ、あの静かな神の一端が垣間見えるような気がしてならない。
そうなるとやはり、どれほど逆説的かつ混乱した言説に見えようとも、ごく素朴な結論として、冒瀆とは『神』の否定であると同時に神への讃歌であるように私には思えてしまう。
冒瀆による『神』の否定は可能だ。なぜなら『神』は多弁なのだから。
だが冒瀆による神の否定は不可能だ。なぜなら神は寡黙なのだから。
つまり冒瀆は『神』への否定とは成り得ても、神へは決して届かない。
ならばいかに冒瀆的に思えるものであろうとも、それを否定する必要なんてどこにも無い。
なぜならいかなる否定も、全き神の御光を陰らすことには成り得ないのだから。
だが翻って回りくどい二重否定、つまりは冒瀆の否定によってこそ神の卑小化が為されるのではないか、と問うてもそうではない。
冒瀆に対して『神の代弁者』によって為されるいかなる反論も、それが暴露するのはその者が掲げる『神』の小ささでしかないのだ。いかにそれらしく聞こえようとも、人は全き神の言葉など話せない。
真に偉大なもの、完全無欠なものとは、そういった否定や肯定と言ったものを超えた場所に在るのだろう。こんなものはすべて人間の些末な右往左往でしかないのだから。
そういったものとはまるで関係なく、神はある。
だからいかなるものであろうとも、私たちが否定する必要なんてどこにも無い。すべてのものは、この世界に在ることを本来的に赦されているのだから。
とはいえ、この世界から零れ落ちるように失われて行ってしまうものがあるのは事実だ。すべてが在って良いものだとしても、すべてはまた移ろい行くものでもあるから。そしてここは神の国ではなく、人の世なのだから。
だが君はそういったもの達が人知れず消えて行くのを良しとせず、それを守ろうとしてくれている。私はここに、他のものを想うことが出来る人の優しさと、ただ流れ行くままにさせておくだけではない人の強さを見ることが出来るように思えるよ。そして何より、自らの意思で自らの歩む道を定めることの出来る、人の自由があるように。
君の為そうとしていることは正しいと、私も思う。」
それがダーレスの話の締め括りである事はサンにも分かった。しかしその後に自分の言葉を続けることが出来なかった。胸の奥がずっと熱い。
「――…大丈夫かい?」
「え?」
心配そうな顔で自分の顔を覗き込むダーレスにサンが疑問の声を上げたその時、ぽろりと涙が一粒頬を伝った。
「あ、ご、ごめんなさい、私――。」
自分でも驚きつつ、気恥ずかしさと共に涙を拭った。
ダーレスの言葉は自分にとって、もはや魔法の話などでは無かった。
王都を離れ、ここに来ることになった自分の旅をすべて肯定してくれたように思えた。
ずっと、王都を中心としたこの世界が思い描いているものと、自分の抱いているものの間にどうしようも無いほど大きな溝があることは分かっていた。
だから、私はどうしても私自身のことを認めることが出来なかった。
認めてはいけないとさえ思っていた。
認めてしまうとは、まるで世界を否定することのようにさえ思えていたのだ。
世界と自分の間に隔たる溝をどうしても埋めることが出来ず、だからといってどちらか一方を選ぶことも出来なかった。それは、その亀裂の地の底にある繋がりさえも完全に断ち切り、突き放したもう一方と永遠に別れることにしか思えなかったのだ。
だが彼の言う通り、ただ在ることが赦されているものだとするならば、それ自体は何かを否定する意味なんて持たず、その必要さえ無いものだとするならば、初めからどちらか一方だけしか選べないなんて事は決してなくて――。
王都から出て来た事は決して間違いでは無かった。
ダーレスははっきりとそう告げてくれていた。
サン自身ももう、そうはっきりと確信していた。
「――ごめんね、どうも自分の言葉を人にうまく伝えるというのは慣れてはいないものだから…。話が散らかり過ぎて、何を言っているのかさえよく分からないような内容になってしまったことは分かっているのだけれど…。むしろ、私は無為に言葉を浪費しているだけで何も口にしていないようにさえ聞こえたのではないかな?」
やっと少し落ち着けたところで、ダーレスが口を開いた。
「い、いえ、そんなことはありません…! ごめんなさい、私の方こそ…!」
今の自分の心情をうまく口に出したいのだが、先程の涙から来る気恥ずかしさに邪魔をされて何の感想もうまく言えず、ただ謝る事しか出来なかった。
「いや…、まあ何か少しでも伝えることが出来たのなら良かった」
先程までよりはかなり砕けた調子でダーレスは改めて話し始めた。
「危ない魔法は君には教えられないけれど、そういったものは私自身が守っていくことは保証してあげられる。もちろん私自身の価値観には合わないものも含めて。
それと、君に教えるのは、王都で使われている魔法とは別の系統のものの基礎が良いかな、と。たぶん君だったらそこから自分の力で一気に色々な所へと展開できるようになると思うから」
「は、はい! お願いします!」
買い被られていないだろうか、少しだけ不安が顔を覗かせたが、同時に気持ちが引き締まった。期待に応えられるように頑張らなければ。
「だけど、これも断っておけば良かったのだけれど、ちょっと規模の大きな実習みたいなことはあんまり出来ないと思う。というのも、さっき話したけれどこの心臓が身体に負担を掛けていてね。身体が魔力の気を帯び過ぎていて、それに近いものになってしまっているんだ。だから私はもう、大きな魔法を使うようなことは出来なくて」
「え、だ、大丈夫なのですか?」
「うん、別に日常生活に支障がある訳では無いから。小さい魔法だったらいくらでも何の問題も無く使えるし、そもそも魔法なんて無くても生きて行けるものだからね。魔法使いがこんな事を言ったらダメなのかもしれないけれど」
生まれた時からずっと傍にあった力を失うというのは四肢を一つ失ってしまうのと同等ほどのものにサンには思えるのだが、ダーレスは気にした様子も見せずにあっさりと言う。
こちらの怪訝な表情に気付いたのか、ダーレスは続けた。
「もともと、私がこんな風に色んな魔法を集め出したのは家族を亡くしてからなんだ。その時から、自分が死んでしまってもこの世に残る何かを作らなければいけないと思って、色々と研究も行った。だけど、今はもうクリスがいるから。私にはもう魔法が必要ないというのも本当だよ」
サンにはとても計り知れない事なのに、ダーレスは簡単に口にする。
その時、扉が小さく開き、例の小さな人形がお盆の上にお茶を乗せて部屋の中へと入って来た。その人形は目の前の机に登ると、彼女にとっては非常に大きいはずのティーポットを器用に持ち上げて、二つ並べたカップの中にお茶を注いでくれた。
「あ、ありがとう…?」
サンは一応お礼を言うと、ぺこりと頭を下げて彼女は部屋を出て行った。
「…あれもダーレスさんが集めた魔法の一つが掛けられているのですか?」
「うん、まあ、そうだね」
ダーレスは頷いたもののなぜだか少し歯切れが悪い。
「…実を言うとね、あれに使われている魔法も全体で見れば間違いなく禁忌に分類されてしまうものなんだ」
「えっ」
「触れないのが一番だとは十分に分かってはいたんだけれどね。どうしても少し試してみたくなってしまったんだよ。でも、ただ歩くという魔法をかけるだけでも、これがなかなか難しい。ものを持って運ぶとなると余計にだ。物音に反応してそこにお茶を運ぶようにしたはずなのだけれど、これもまたうまくいかないでしょっちゅう誰もいない部屋にお茶を置いて来てしまう」
しかしダーレスは口にしている内容とは正反対に実に楽しそうに話す。サンもそれを見ていると思わず顔が綻んでしまった。
「まあ、禁忌に触れている魔法とはいえ、このくらいだったら何の問題も無いんじゃないかな、たぶん。」
悪戯っぽくダーレスは笑った。
「だって正しいものしか存在できないほどに、この世界が狭隘なはずは無いのだから」
彼はまるで当然のことのように言う。そのことこそがまさしく、彼が偉大な人物で在ることを雄弁に物語ってくれているようにサンには思えた。
「…私、ダーレスさんに出会えて本当に良かったです」
サンの口からは自然にぽろっと言葉が漏れた。
「そう言ってもらえるのは嬉しいけれどくすぐったいものだね。だけど、私には君の方が崇高で立派に見える。世間で広く評価されている訳では無い魔法のために王都を離れるというのは誰にでも出来る事では無いと思う」
「い、いえ、私は…。」
さきほどのダーレスの言葉も含めて、そこまで言われてしまうのは自分には不当な気もしてしまう。ただそれを口にしてしまうのは快く力を貸してくれているダーレスに対しても失礼にも思え、サンは話の焦点を自分からずらした。
「だけど、私一人では何も出来なかったとも思います。皆さんが力を貸してくれたからで――」
「ふふっ、ディオ君がいるものね」
「え、あ、いや――」
ダーレスの事を中心に意識していたのだが、なぜかディオの名前が出て来た。
「…彼はすごいね。きっと笑いながら、それこそ楽しむかのように、苦難のど真ん中をあっさりと突き抜けて、どんな人をもいつの間にか明るい所へと連れて行ってしまうだろう。しかも誰もそうとは気付かぬうちに。後になってやっとそれを知ることが出来るほどの速度で」
「……ディオさん自身はそんなつもりなさそうですよ」
サンはぼそっと呟いた。もうとっくに仲直りしたとはいえ、昨日の事があるのでどうしても素直には頷けない。
ダーレスはそれを見て楽しそうに笑っている。
「うん、その通りかもしれない。だけれど、だからこそ、みんな彼を好きにならずにはいられないのかもね」
ダーレスは本当に嬉しそうに続けた。
「私が君に伝えられることなんて、彼が直接見せてくれるだろう世界の大きさからしたらとんでもなく些細な事だ。例え億の魔法を束ねたところで、彼一人には絶対に勝てない」
ほんの少しは分かるような、だけどやっぱり分からないような言葉に、サンの頭には疑問符が浮かんでいた。
「ふふっ、近くにいるとむしろ分かり難い事かもね」
ダーレスはやっぱり笑っている。
「まあ、前置きはこのくらいにしてそろそろ本題の授業を始めようか」
「あ、はい!」
ついに約束の、魔法の講義が始まった。