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第1話「高宮結衣」

「私、予知能力があるんですよ」


高校のクラスメートである高宮(たかみや)結衣(ゆい)の唐突な一言に佐々木有馬(ささきゆうま)は首を傾げざるを得なかった。


「………はい?」


たっぷり四拍分も言葉に詰まった挙句のまあなんとも陳腐なリアクションである。

いや致し方ない。それもそのはず、彼の覚えが確かなら高宮結衣と話すのはこれが初めての筈である。()頓狂(とんきょう)な返事もやむなし。

重ねて印象深いことに、それはとても綺麗な声だった。全く奇妙な台詞を載せたその声色が思わず聴き惚れるほど澄んでいたのだ。その事も余計に状況の不思議さを助長させていた。

湿気を孕んだ夏前の大気にすーっと透き通る、涼やかでしかしそれでいて凛とした声。



しかし困った。

予知能力―――予言、占い、比喩?

どうも意図が汲み取れずに思わず沈黙が続く。


生暖かい大気の感触が西日と相まって肌をこそばゆく()ぜる、そんな七月前の夕暮れ時、蒸し暑い下校時間。


粘度ある微風に溶けるようにそよぐ(つや)のある黒髪。半袖のブラウスから覗かせる柔く透き通った肌は学校指定の夏服という規律の窓に通されて(かえ)って扇動的に感じられる。

初夏の夕陽の(ほの)かな橙色(だいだいいろ)が彼女には良く映えていた。



高宮(たかみや)結衣(ゆい)はフィクション的な“委員長”のステレオタイプと、まさにそんな人物だった。


成績優秀、通った目鼻立ち、真面目、休み時間には読書、高嶺の花、エトセトラ。


入学からこの方、美貌に釣られて愚かな告白に及んだ阿呆共は数知れないが、そもそも微笑すらツチノコより珍しいと囁かれる氷の女王、高宮結衣である。砕けた恋心は片手では足りない。


結局この二年、ずっと同じクラスであった有馬をしても、彼女の内面について分かったことと言えば『お勉強が大好き』ぐらいではないだろうか。窓際から動かない、(ほとん)ど誰とも会話しない、笑わない、関わらない。その辺の人工知能の方がよっぽどリリカルで感情豊かである。


以前に一度だけ、その氷の美貌が笑みを浮かべた事があったが、それも問題の間違いを認めようとしない数学教師を完膚なきまでに論破した時に浮かべた(えぐ)るような嘲笑であった。

翌週から学校に来なくなった教師の顛末は(まさ)に女王の粛清を思わせてクラスメートの記憶に色濃く残っている。


そんな、半ば不可侵(アンタッチャブル)が不文律となっている深窓の()()こと高宮結衣が()()()()()()()()()()()()()()()奇想天外な場面に佐々木が遭遇したのはほんの五分前の事だった。


この日、佐々木(ささき)有馬(ゆうま)が自転車を押して帰ろうと思った事にこれといった理由は無かった。

高校三年の夏前、考える事が多くなったこの時期に少しゆっくり歩きたかったのか。それとも前日に音楽プレーヤーに取り込んだばかりのロックバンドの曲でも聴きながら帰りたかったのかもしれない。

聴いたこともないバンドだった。加工音声と電子的な曲調が売りのニューフェイス、そんな謳い文句で流されていた曲の何が気になったのか自分でも良く覚えていない。

考える事が増えた所為(せい)で考えない行動が多くなったのだろうか。


それはともかく、自転車を押して帰った故のタイミングの問題である。つまり態々(わざわざ)ゆっくり歩いてでも帰らなければ出会(でくわ)さなかった場面にしっかり出会(でくわ)してしまったのはそういう訳であった。


はじめに野太いクラクションが聴こえた。大型の運搬車両かごみ収集車ぐらいしか出さないような、ズシリと体幹に響く酷い音である。

そこの角を曲がった所だと直ぐに分かって、それで覗いてみたが最後、そこで有馬は硬直してしまった。

大通りを折れた所にある一方通行の道路のど真ん中だった。どこかでみた運送会社のトラックが一台と、クラスメートがひとり。

つまり詳しくすれば、完全にトラックの進路を塞ぐ形で高宮結衣が屹立(きつりつ)している、そんな場面であった。


けたたましく鳴り響く重厚なクラクションを真正面で浴びながらも微動だにしない、眉ひとつ動かさない。それどころか更に理解不能なことには彼女はそんな喧騒の真っ只中で読書を(たしな)んでいた。


水と油、白と黒、右と左―――交わらないそんな(つがい)の境界を眺めているような、そんな気にさせられた。

大型のトラックが断続的な轟きを炸裂させ、その目の前で高宮結衣は酷くいつも通りに静々と小説を読んでいる。


自身に向け放たれた(かしま)しい警笛の中手にした文庫本に緩やかに目を走らせる彼女に、しかしながら悪気は一切漂っていなかった。整った眉目を凛と澄ました横顔に映る(かす)かな表情がどこか(あき)れに近い気がして佐々木により一層齟齬(そご)感を煽らせる。

君が呆れる場面ではないんじゃあないか。その場の何も分からなかったが、それだけは分かった。


何度目かのクラクションが弾けた後、どうにも動かない高宮に業を煮やしたのか無精髭を蓄えた中年のドライバーが運転席から駆け下りてきた。

勘弁してくれよと言わん表情が怒り一辺倒で無かったことに少しホッとしながら、しかし有馬も二人に歩み寄る。


怒鳴り散らすこともなく、一体どうしたんだよお姉さんと困り顔で頭を掻くドライバーはきっといい人だったのだろう。態々(わざわざ)降りてきた運転手に一瞥(いちべつ)をくれただけでまた視線を手元に戻した高宮の態度に流石に声が大きくなってはいたが。


これ以上はなあと、有馬は二人の間に体を差し込むように登場した。


「すいませんおじさん、こいつクラスメートで、直ぐ退()きますんで。」


(いく)ら止むなしとはいえ氷の女王の視線を真正面から受ける度胸は有馬にはなかった、ドライバーの方を向いて、高宮を背に、状況に割り込む。

案の定というべきか、氷の棘を思わせる視線が背後から浴びせられ、背中から心臓を貫かれるような悪寒に襲われた、勘弁してくれ。


彼女はそれでも(なお)道を譲る気が無さそうだったが、それも困る。

非常に、甚だ、著しく気が進まない上に全く良い案とも思えなかったが、困る事と困る事を天秤にかけた結果、有馬は高宮結衣の空いた左手を握っていた。

彼女の掌が、触れた瞬間にぴくっと小さく跳ねた。しなやかで触れてはいけない氷の彫像のような彼女の手はその反面実に少女らしい暖かさと柔らかさを内包させていた。


すぐさま罵声と蔑視が飛んでくる事も有馬は覚悟していた。が驚いた事にである、高宮結衣は驚いていた。てっきり、凍えるような視線を交えた必殺の(けな)しでも浴びせるものだと思っていた高宮が意表を突かれたような顔で固まってしまったものだから、有馬まで硬直してしまう。


しかし好都合だと思い直し、高宮の手を引いて道路脇の歩道に連れ出した。勿論、細心の注意を払ってだが。


呆れ顔のドライバーを乗せたトラックが目の前を通り過ぎて大通りに消えていった後でも、高宮は重なるふたつの掌を不思議そうにじっと見つめていた。


「…あの、高宮さん?」


獣の唸り声のような、トラックの低いエンジン音がその余韻すら失せてしまった頃になって(ようや)く、高宮結衣は視線を手元から外して、有馬の方に移してきた。

思わずぎょっとする様な、そんな瞳の光彩を有馬は見た。背筋を伸ばして、片っ端から何かについての潔白を示さないといられないような、そんな気にさせる。力強く透き通ったガラス玉がふたつ、自分を捉えて射抜いていた。


ふと、有馬はまだ手を繋いだままな事に気付いた。(いや)、正確には繋いでいるのは知っていたのだが、離そうとしても離れないことに気が付いたのだ。


高宮結衣が、有馬の手を離さずに握っていた。


どういう事だろうか。有馬の全身に種々入り混じった緊張がたちどころに根を伸ばした。

振り払うなど到底できようもないが一刻も早く振り(ほど)いてこの場を立ち去りたい消え去りたい今すぐに。


しかし何かの(しがらみ)の如く、射(すく)める様な目線は有馬を縛り付けて離さない。


「えっと……すみません…?」


謝意に満足したのではないだろうが、有馬の言葉に合わせて握られた手が離れた。

緊張の糸が緩和されると共に指先に残る暖かな感触が霧散していく。

視線は(なお)も有馬を捉えたままであったが、心なしか少し冷たさが穏やかになったようであった。


そんな瞬間だった。


「私、予知能力があるんですよ」


――――――――――――――――――――


そんな訳で今有馬は困っていた。

彼女の言う事である、からかいや冗談の類ではないだろうと思うが、ひょっとしてボケたのだろうか。仮にそうであるならばパンチが強すぎる、高宮結衣から放たれる回答不明のボケとはそんな恐ろしいものがあってたまるか。


「…じゃああれだ、次の期末テストの問題教えてくれ。」


口に出してから、我ながら品もプライドも無い質問だなあと自嘲する。これで沈黙を破るのが申し訳ないくらいだが―――。


「…」


本当に、高宮結衣にそぐわない事に、彼女はキョトンとポカンを足して二で割ったような不思議な表情を浮かべていた。

その様子が酷く幼く見えて思わず微笑んでしまいそうになる。それは年相応の、あどけない表情だった。

しかしそんな(ほころ)びは見間違いを疑うほど本当に一瞬で、またいつもの無機質な表情に厚く塗り潰されてしまった。



「…馬鹿ですか、冗談です。まさか間に受けた訳ではないですよね」



涼しげな、悪く言えば冷たい声色で高宮が返答した。決してからかっていない、諦念の(にじ)んだ薄い声だった。

視線は既に有馬から離れており、薄曇を透かせて降り注ぐ西日を(わずら)わしくするように細められている。



その時だった、完全に、凪の如く、有馬の意識はぴたりと静止した。

夕陽が雲の切れ間から完全に抜け出た、まさにそんな瞬間である。

緩く煽る季節風に(なび)く柔らかそうな髪を右手で撫ぜるように抑えながら、高宮の身体(からだ)が完全に斜陽に彩られた。

滑らかな彼女の肢体が、うろこ雲のプリズムを通して澄み渡るクロームオレンジに染まってゆく。


時間がゆっくりゆっくりと減速してゆき、そして止まる。

生まれて初めての事であったが、それが何なのかは何故だかはっきりと理解された。


完膚なきまでに、言い訳のしようもなく、頭の天辺から爪先まで。

有馬は彼女の姿に見惚(みと)れてしまっていたのだ。


夏の夕陽に彩色された高宮結衣のその姿に。





―――どの位経ったのか、不意に動き出した高宮に、止まっていたのが自分だけであった事に有馬は気付かされた。


「じゃあ、さようなら、佐々木くん。」


まだ意識は半分動いておらず、すぐ(そば)を彼女が通り抜けるのを反射的に視線が追う。

形容するならば、風鈴の音のような、涼しい匂い。そんな心地よい髪の香りが有馬の鼻梁をこそばゆく(くすぐ)った。


―――ふと、止まった意識を置いてきぼりにして、無意識に口が動いた。


「…今の、冗談なんかじゃないだろ」


それは本当に口を()いて出た言葉だった。輪郭(かたち)のない、薄い(もや)のような思考のなりそこないが、意識を通さずに、その底にある心からパッと現れて言葉になった、そんな感じである。



だから、有馬の言葉を聞いた高宮がこっちを振り返った時のその表情にも、全く、欠片(かけら)ほども頭はついていかなかった。


高宮は今にも泣き出しそうな表情でこっちを見ていた。

それこそ子供が哀しみに(わめ)き出す寸前のような、そんな表情で。

幼い憂いを孕んだ(こぼ)れそうな涙を、留めようとすればするだけ一層(にじ)んでゆくそれを、必死に抑圧しながら。


刹那の半分ほどの時間だけ覗かせたそんな表情が、再三有馬の思考を釘付けにする中、高宮結衣は今度こそ歩み去っていった。


大通りの方に彼女の姿が消えてしまうまで有馬は瞬きすら出来ずに呆然としていた。が、その直前、見えなくなるその直前に、掠れそうな淡い声を、有馬は確かに聞いた。


「500m先の交差点で子供が轢かれるのを防いだと言ったら、あなたは信じるのかしら…」


内容ははっきりとは聞こえなかったが、その分(かす)かに震えの載ったその声色はより直接的に有馬に受け取られた。



助けて。とそう言っている気がした。




斜陽に写し取られた彼女の影までもが見えなくなった瞬間、時の流れを思い出したかのように夕陽が落ち始める。


そんな中、勇者の使命感に似た(ほの)かで静かな明かりが有馬の心に灯りはじめた事を、彼自身は何も気付いていなかった。



肩口にかけた外したイヤホンから、小気味()い電子音楽が漏れ出して、湿気た夕暮れの中に溶け続けていた。


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