第29話 悪魔の恩人
第29話 悪魔の恩人
それはそれは酷い日々だった。
いつからこんなことになってしまったのか。おもいだすのも億劫だった。
少なくとも小学校に入学するくらいまでは
ごく普通の仲が良い3人家族だったはずだ。
「お前の!せいで!お前が!全部!」
怒鳴り声とともに、頬を腫らした母が何度も背中に平手を振り下ろす。
その少年は反抗することも叶わずただただ殴られるばかりであった。
ひとしきり落ち着くと母は、背中が真っ赤になった我が子を一瞥すると急に泣き出した。
次の日の朝、少年は温かい食事を与えられ、母は号泣しながら何度も謝った。
「ごめんね…母さんが…母さんが…あんなことしなければ…」
そして綺麗な服装に整えられて、学校へと向かう。
これが少年の、最近の毎朝の出来事だった。
学校にいる間は必要以上の声を発さず、休み時間は常に何かの本を読んで過ごした。
帰ればまたあの地獄が待っている。幼い少年にはなぜ優しかった父が母を傷つけ、自分を傷つけ、傷つけられた母が自分を殴るのか。何が原因なのか。そしてなぜ朝になると母は豹変するのか。1つも分からなかった。あとで考えれば服によって隠れる場所ばかり殴ったのも、綺麗な服を着せてくれたのも、なんとなく分かる気がした。
確かそんな頃に進級してクラス替えがあったはずだ。その頃だ。初めてあの子にあったのは。
「ねーねー!なんの本読んでるの?面白い?おしゃべりしましょう!?」
なぜ、わざわざ話しかけて来るのか。僕が可哀想な奴にでも見えたのか。うるさいなあ。第一印象はそんな感じだった。だから無視してそっぽを向いた。
「あ!いけないわ!無視しないでよ!私が悲しい!」
その声があまりに真に迫っていて、実際に彼女の目は涙でいっぱいになっていた。
それがなんだか可愛らしくて可笑しかった。
それから少しずつ彼女と話すようになった。
「私はね!正義の味方になるの!だからみーんなと友達になるの!あなたも私の友達よ!」
両親が警官だという彼女は途方もない夢を至極真面目そうに語った。少年はその夢が何になるのを指すのかは分からなかった。ただ「友達」であると呼ばれたことに、くすぐったいような喜びを感じでいた。
家庭環境は一向に好転しなかった。むしろ父と母の暴力や罵倒はエスカレートして行ったような気さえした。それでも耐えられた。
その頃は学校に行くのが楽しかった。正確に言えば学校に行き、昼休み彼女と話すのが楽しかった。
それが生きがいだった。なによりも幸せだった。たった数十分の語らいが、私の命を繋いでいた。
そんな時あれが起こった。
いつもの通り自室にこもっているといつもより早く帰ってきた父親が血相を変えて扉を開けた。
驚いて何事か聞く間もなく、私は父親に首を絞め上げられた。
「お前は…俺の!お前はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
訳の分からないことを叫びながら首を絞める力はどんどん強くなっていった。抵抗することも出来ず、少しずつ意識は薄らいでいった。そんな時、叫び声に気づいた母が血相を変えて飛び込んできた。
手に持っていたものが悪かった。
父のための夕飯でも作っていたのだろう。
その手にはしっかりと包丁が握られていた。
驚いたのだろう。日々あれだけ傷つけているくせに、そんな時だけ、いやあんな非常事態だったからか。あの瞬間だけ、彼女は「母親」だったのだろう。
手に持っていた包丁を、いつの日かは愛していたはずの亭主の背中に突き立てた。
瞬間、パッと手が離され、私は床に叩きつけられた。
私が咳き込みながら生きてることを確認したその矢先、背にかなり深く刺さった包丁を物ともせず、父は母に殴りかかった。何度も何度も何度も拳が肉を殴打する音が響いた。スーツのシミはどんどん大きくなり床に血だまりができるほどだった。それでも父は何か子供のようにわめきながら母を痛めつけ続けた。
ついに父は母の首を絞め始めた。私は何をすればいいか分からずただ呆然とその様子を眺めていた。顔を真っ赤にしながら母はまるで父を抱きしめるかのように、彼の背中に手を回し、さらに深くへと包丁を押し込んだ。父も口の端から血をこぼしながらさらに強い力で母の首を絞めた。
その瞬間はなぜかはっきり覚えている。包丁を握っていた母の手がだらりと落ちた。と、同時に父は口から多量の血を吐き、母に覆いかぶさるように倒れた。
奇しくもあれだけ傷つけあった2人は身を寄せ合いながら息絶えた。
私の両親は、目の前でお互いを殺して絶命した。




