会社の昼休みの出来事
春のよく晴れた日、会社の昼休みに田中係長は部下の佐藤を定食屋へ誘った。若い佐藤はぼそぼそと「お供します」と言い、机の上の書類をがさつに片付けるとYシャツ姿のまま田中係長の後を追った。
田中係長は三十代半ばで今の生活に大きな不満はないが、同年代では大企業の社長をしている人や新進気鋭の政治家がおり野心家の彼としては漠然とやるせなさのようなものを感じていた。佐藤はまだ二十代半ばで、マイペースでいつも適当な返事しかしないタイプだった。田中係長は常々佐藤のいい加減な態度に不満があり、今にこいつを驚嘆させて一目置かせてやると考えていた。
昼のオフィス街は高層ビルの足元をサラリーマンやOLがせわしなく動き回り、国道の交差点の向こうでは大勢の人が小さな虫のように蠢いていた。田中係長は信号待ちをしながら、ちょっと得意そうな口調で言った。
「最近、英会話をはじめてな。英語ができるようになると世界が広がるよ」
佐藤はあまり関心なさそうに「そうっすか。金髪の女っていいすよね」と言った。
信号の変わり間際、急いでタクシーが通り過ぎ、そのエンジン音が喧騒の中にかき消されると、歩行者用の信号が青に変わった。田中係長と佐藤は群衆の一人として交差点に歩み出た。対抗してやってくる人ごみをかき分け、街路樹が並ぶ歩道までたどり着くと、歩道の先からビジネスマンとは違った雰囲気を持った二人組がやってきた。ラフなシャツにジーパンを穿いた若い白人男性の二人組だ。田中係長は一瞬ひるんだ表情を見せたが、すぐ口元をきつく締め少し後れて歩く佐藤の方を振り返りながら一大決意したように言った。
「俺の英語力を見せてやる!」
佐藤は、はぁと気のなさそうな返事をすると訝しげな声で「大丈夫ですか?」と言った。田中係長はこちらへ向かってくるブロンドの髪をした白人の若者の一人にニヤニヤと不気味な笑顔を見せ、大げさに両手を広げると
「ハロー、マイネームイズ…#&%+*<…」と英語らしき言語で話し掛けた。白人の若者はびっくりした表情をしたがすぐ嬉しそうな顔をして「コンニチワ!」と笑顔で答えた。
田中係長の問い掛けに答えたのはジョンと言い、親友のポールと一緒に大学の休みを利用して故郷テキサスから日本へ短期旅行に来ているところだった。とりわけジョンは日本の大ファンで大学の友人の間でも「日本通」として知られていた。勉強でもスポーツでも特別秀でたもののなかったジョンにとって「日本通」であることは少なからず彼の誇りだった。ジョンとポールは観光名所を回っているところだったが、「日本通」のジョンからしたらそれだけでは物足りず、大学の友人へのみやげ話に誰か日本人と交流したいと思っていたので田中係長の問い掛けは大歓迎だった。
田中係長は顔を真っ赤にして次々と言葉を繰り出し、ジョンもテキサス訛りだろうか聞き取りにくい言葉で楽しそうに答えた。
「@@(&&%$#$%#$@**@?」
「&&%+>‘#“%%$$%#$&&%!」
「&%$$%&&+*‘@&#」
「@&%‘($$%%%&$#“$%」
「%&$##&$@@+y%*…hahaha~」
「$$#%$%‘&@%&“”#…ハハハ~」
二人で大きな笑い声がはじけ、オーバーに抱き合うとどちらともなく「グッバイ!」「サヨナラ!」と言って別れた。
高層ビルが見下ろす街の人ごみにジョンとポールが姿を消すと田中係長は街路樹の脇の喫煙所に立ち寄った。煙草に火をつけ小さく煙を吐き出すと得意満面の顔で
「どうだ!俺の英語うまいだろ」と言った。佐藤は大きく目を見開いて
「凄いじゃないすか!海外の支社に引っ張られたりするんじゃないですか!」と感嘆の声を上げた。田中係長は誇らしげな表情で煙草の煙をゆっくり吐き出すと
「まあな、そういう日も来るかもしれないな」と声を上ずらせて言い、さらにいつになく自信に満ちた声で「今日昼飯奢ってやるぞ。近頃お前頑張っているしな」と言って灰皿に煙草を投げ入れて颯爽と肩で風を切って歩きだした。佐藤はあわてて田中係長の後を追った。
一方、ジョンとポールは田中係長らと別れた後、地下鉄の駅を目指して国道の交差点を渡り自販機コーナーの脇にある喫煙所に立ち寄っていた。ジョンはテキサスから持ってきた煙草を取り出すとライターで火をつけて一口大きく吸いこみ高層ビルの合間に見える春の青空を力強い目つきで見上げた。煙をゆっくり吐き出すと胸を張ってポールに言った。
「It is wonderful! It is very good at my Japanese.(どうだ!俺の日本語うまいだろ)」