領主の甘い憂鬱
歯車が噛み合わなくなったのはいつ頃からか。ココス領主、レイン=ココスはふと過去を振り返る。
レインは伯爵号を戴く父アンブレラの下、それなり以上に裕福な家で慈しまれて育った一人娘だ。アンブレラの教育は厳しくも優しく、遺せるものを全て与えるが如く幼いレインを知識が埋め尽くす日々を送っていた。
レインが生まれたとき既にアンブレラの年齢は60を目前にしていて、将来は女伯爵か婿取りかと大いに騒がれたらしい。そしてレインが10歳の春、ついにアンブレラが病に倒れた。
アンブレラはレインに隣接した領地にて営まれる学舎に通うよう手配した後、天に召されるまで長らく病床の人となった。今にして思えば意地だったのだろう。知識を愛する父の最期の贈り物に笑みが零れた。レインの記憶の中の父は未だ60代のまま笑っている。
その学舎で出会った二人の人物がレインの人生を大きく変えることになったのは一体何の皮肉だろうか。学舎のあるスカイラーク領の領主の三男デンター=スカイラークと国王の妾腹の四男のリストリン=サイゼリア。レインの主観では彼らが一番レイン個人を振り回したと言ってよい。結果として公人のレインも大層振り回されたが。
まだ幼気な年頃のレインはデンターに仄かな想いを寄せ、リストリンを兄のように慕っていた。田舎領主の一人娘と冷や飯食いの三男坊、名ばかりの王家の厄介者は思いの外馬が合った。また共通した頼りない立場のおかげで、政治の煩わしい制肘がなかったおかげもあったのかもしれない。
おそらく、アンブレラはデンターをレインの婿にと考えているのだろう。レインの小さな恋はそんな勘違いがきっかけだった。レインはより関係を盤石にするためデンターに手紙を送ることにし、中身の検閲を免れるよう手渡しでデンターに送り続けた。
デンター様は本日も健やかにお過ごしでしょうか。こちらでは雪が降り出しました。そちらも近いうちに降り出すかと思われます。デンター様も体を冷やさないようどうかご自愛下さい。
始めての手紙はこんな感じだった。月日を経て手元に戻った手紙はレインの心情を表すように色褪せている。
当時の私はさぞかし甘ったるい少女なのだろうよ。変わり果てた自覚のあるレインは自嘲する。
変わり果てた原因はつまらない本当につまらないことだ。父母の死。婚約破棄。昔馴染みの裏切り。ああ、実に甘ったるい。どうやら事ここに至っても私は原因を彼に求めたくないのだ。
思考を打ち切るノックが部屋に響く。
夜にレインを訪れるのは緊急の連絡を抱えた執事か夫か暗殺者かのハズレが多い三択だ。ちなみに並びが早い順に確率が高い。
今夜は・・・・・・夫か。まったく忌ま忌ましい程に甘ったるい夜だ。客に出し辛い献上品の甘い酒を片手に、甘ったるい昔話に甘ったるい期待。月のものが来る度に女の私が顔を出す。裏切りの果てに残された傷すら愛しい馬鹿な女の情けない顔が。
「なんだ抱く必要がないからって、安心してのこのこやって来たのか」
かつて破談になった婚約者が今の夫。飛んだ笑い話だ。あれから何年経っても社交界では噂の種として燻っているぐらいに。
陰欝な政治の海を泳ぎ切った覇王。四男から登り詰めた王の求婚によって均衡を崩された幼い関係は、もう欠片もありはしない。ただ懐かしく惜しむだけ。
リストリンの求婚を受け入れたなら、後継者争いで潰れ今のココス領は無かったろう。領主の私はそれを許せなかった。そして、求婚の余波は一つの婚約を壊した。女の私はそこで終わった。
「なに、穏やかな夜を楽しむのも夫婦の喜びですよ」
言葉とは裏腹に欲を孕んだ瞳が妖しく光る。レインは体が疼くのを面白く感じた。終わった筈の女の喜びが滑稽で堪らなかった。
「未練かデンター」
色褪せた恋文を度数の高い蒸留酒に浸し火を放つ。悲しむべきことだが、お前も私も子供ではいられないんだ。
「昼間私がお前を使うように、夜はお前が私を使うといい。・・・・・・ふむ。私ではなく、私の体をと言えばよかったかな」
さよなら、デンター=スカイラーク。私の愛した人。
そして明日も夜が明ける。
デンター「穏やかな夜を愉しみたい()」
レイン「さよなら、デンター」