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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

告白

作者: 片名すたる

 ボクは自覚していた。だからこそ、相談所に行ってみようと心構え、一週間前にアポを取り、鉄パイプのいすに座っているのだった。

 部屋は特別飾られているというわけでもなく、片隅に観葉植物があり、床はカーペットで、壁は白く、蛍光灯が部屋の白さを際立たせていた。真ん中には白いテーブルが置かれていた。ボクの座る向こうには、少し髪を伸ばした青年が座っていた。

「ようこそ」

 青年は心からの笑みを顔に浮かべていた。ボクは視線を右にずらした。

「ここに来ることはとても勇気の要ることだ。自信を持ちなよ」

 わずかに頷く。

「それで、言うまでもないけれど、君は自分の根幹に関わる部分に不安を持っている」

「……はい」

 ボクは同性愛者だった。つまり、男子でありながら、男子を好きになるのだ。だから、相談所に来ていたのだ。

 人見知りのボクがあまり口を割らないと見た青年は、ああ、僕もこんな感じだったっけ、と笑って言う。青年はなんだか、ガラス玉のような、透き通っている人だった。

「今、僕にできることが二つあるんだ。ひとつは、君の話を聞くこと。もうひとつできることは、君に、僕の話をすること。どちらがいいかな?」

 ボクは、お先にどうぞ、と言う。

「了解。じゃあ、思い出話でもするかな。つまらないかもしれないけど、参考になることがあるかもしれないから、飽きずに聞いてください」

 青年は前で手を組み、ボクと視線を合わせて、語り始めた。


「僕の読んだことのある本では、こう書いてあったんだ。30人に1人は同性愛者だって。だから、君の高校に通っている人が900人だとすれば、30人は同性愛者がいるんだ。

 僕は今、こうして同性愛者を支援する法人で、相談も受け持っている。でも、君と同じ高校生だった頃の僕には、絶対に考えられないことだと思う。

 高校生の時、僕ははじめて意識したよ。僕は男子が好きになるんだな、って。でも、それは受け入れられなかった。だって、男子は女子を、女子は男子を好きになるのが「フツー」だと思ってたから。ただただこれは一過性のもので、いつかは僕も女子が好きになれるだろう、そう思っていた。実際、保健の教科書にもそう書いてあったしね。今では誤りだとして削除されているけど。

 高校生の君もきっと、男が好きになってしまうのはおかしい、これは一晩の悪夢のようなものだ、そんなふうに思ってるんじゃないかな。

 でも、僕の高校生活が不幸まみれだったかといえば、そうじゃない。だって、好きな人はいたから。きっとストレートの人もこういう思いで、女子を好きなるんだろうな、と想像したものだよ。それで、ここでは頭文字だけとってAと呼ぶけど、Aは僕のクラスメイトだった。そして、僕の初恋だった」


*  *



 この市には、同性婚はあってはなりません! 家族制度の崩壊を伴ってしまいます……。同性愛者は悪い人たちではありません。しかし、同性婚というのは……。

 今回の市長選挙では、今までにない事柄が争点になっていた。すなわち、同性愛者の結婚についてだった。ほとんどの候補は同性婚について反対をしていた。当然だろう。私も反対だ。

「ねえねえ、どこの党に投票するのー?」

 ハナは繋いだ手をぶらぶらと揺らしながら聞いた。きっと小学5年生のハナには、選挙制度の意味などわかっていないだろうに。

「ハナはどこに投票すると思う?」

「うーん……。じゃあ、あの人は?」

 指をさす。そこには、白いワゴンカーの上でマイクを持ち、右手で力いっぱいのジェスチャーをする女性がいた。

 ワゴンカーに記されている名前は、「マナミ」だった。

 このマナミという候補は、ひとつ問題点があった。

「こんにちは皆さん、○党候補のマナミと申します! 私はこの度、同性婚について、賛成の立場をとっています。ここで誤解をしていただきたくないのが、私自身は同性愛者ではないということです」

 マナミの問題点、それは、同性婚の賛成派であることだった。


*  *



「僕はおそらく、高校生になるまで恋愛感情というものを理解したことがなかったと思う。そして、ほんとうはみんなもそうなんだと思う。小学生の宿泊旅行のときの話。夜中、みんなでワイワイと話さなかったかい? やいどの女子が好きだ、やいあいつは某が好きらしい、両想いかもしれない、告白してこい、だの。でも、はっきり言って小学生だった頃の我々には愛について一体全体、何をわかっていたと思う? 中学生もわかっていなかったさ。9割9分、思い込みのようなものから来た架空の愛の模造品だ。男は女を好く、っていう思い込みが作ったね。

 高校生くらいにならないと、愛はわからないさ。そこでやっと、自分は男が好きだ、女が好きだ、両方好きだ、って確信していくんだ。しかも、大体の場合、これは先天的に近い要素だ。

 なんでこういうことを言うかといえば、さっきも言ったように、高校生のときにAという同級生に恋をしたからさ。

 新制服を装う36人の生徒は、みんな前の黒板を見ていたさ。視線がまるではりつけにでもされたように。いや、でも、厳密に言えば、35人の生徒が黒板の方、先生の方を見ていた。そして、独り、つまり僕だけ、視線は違う方面に向かっていた。

 気持ち悪いと思うかもしれないけど、僕はAに一目惚れしたと言っていいと思う。ただ、その一目惚れは僕に苦しみも与えたよ。

 君には親友と呼べる存在はいるかな? わからない? そんなものだよね。僕はもう、今ならいるけど……。そりゃいいや。

 僕は電車通いだったんだけれど、友達と会うことは嬉しくもあり苦痛でもあった。電車から降り、階段を昇り、改札を通って会う友達の顔を見るとほっとしたよ。でも、この友達は僕が同性愛者だなんて、全然わからないんだろうな、と思ってた。結局理解されないんだろうな、と。それに、僕には親友と呼べる人はいなかった。訂正。ある『きっかけ』でできたけど、その前の話ね。 

 親友は、家族を除いた人の中で最も近しい関係にあると思う。 だけど、そうすると僕には新しい悩みができるんだ。その親友が好きなってしまったらどうしよう、とね。

 だから、みんなとは薄く、広い関係になっていこうと思った。個人的には社交性がある程度あったつもりだったから、それでなんとかしていたんだ。表面(おもてめん)では、きっとたくさんの顔見知りがいる人、という印象だったんだろうね。それでも、僕は心の中では独りだった。太平洋の真ん中の、対外貿易だけはさかんな孤島のようなものだね」


*  *



 そもそも、同性愛は不自然だ。異性愛を通じて人間は繁殖し、種の存続を保っている。にも関わらず、それに逆行する同性愛は倒錯であり不自然であり受け入れがたいものだ。まして、同性婚を許すだなんて……。

「あー、パパあ、みんなあっち行っちゃったよー」

 ハナは不服そうに違う候補者の取り巻きを見ていた。

「そうだな、じゃあパパ達もあっち行こっか?」

「ううん、ハナはここにいたい!」と頑なだ。

「同性愛や同性婚について、否定的な気持ちを持っている人もぜひ聞いてください! お願いします。完全に私事ですが、少し昔の話をさせてください!」

 快活に説くマナミの声は、懇願よりも熱望というものだった。私はその「昔の話」を聞くことで一体どのような動機が同性愛を認めるに至ったのかを知りたいという感情が知らぬ間に生まれたようだった。

「そっか、じゃあ聞いていようか」「やったー!」

 そうして私はマナミの述懐を聞くことになった。


「私が高校生だった頃の話です。もう何年前のことでしょう。高校生にもなるとやっぱり彼氏が欲しくなるものですよね。ですから、私も青春を満喫しようと心に決めて高校に入りました。

 高校最初のクラス。みんな緊張した表情をしていたことをよく覚えています。新しい制服、新しい机、新しい先生に、新しい同級生。何もかもが新鮮の香りでした。そして、恥ずかしながら、私には恋愛の香りもしていました。

 入った部活は写真部でした。カメラをもって学校中を撮影して回ったものです。

 文化祭の時期になると、もうクラスは打ち解けた雰囲気の楽しい場所でした。最初の頃のクラスにあったカチコチな感じとは大違いです。そして文化祭では、――いまだによく覚えています――劇、演劇を行うことになりました。もうこの頃から私には気になる人がいました。

 彼は、――もう一度言いますが、私は男性が好きです――とらえどころのない感じの人でした。外向的なのですが、どこか隠された部分がある印象の人でした。誰しも秘密はありますでしょう。しかし、私には、彼の秘密が彼の存在の大きな部分を占めているとわかりました。女の直感、とでも申しましょうか。

 元から好奇心が旺盛だった私には、彼の秘密が興味の対象になって、徐々に彼自身が恋愛の対象になっていました。

 私が意を決したのは宿泊旅行のときでした。四泊五日の旅行で、四日目の夜はクラスで花火大会をすることになっていました。

 クラスで固まってホテルから海の方へ繰り出しました。サンダルの地面を踏む感触が固いアスファルトから柔らかな砂になるまで、私の心臓の鼓動は私の耳の中を叩いていました。この鼓動が私以外の人にも聞こえているんじゃないか、私の隣を歩いている友達にも聞こえているんじゃないか、と思うほどでしたね。あとは、私の視線も気づかれていたかもしれません。私の視線は彼を探していて、彼に向くことが多かったです。まるで磁石のプラスマイナスのように。

 花火大会は何事もなく始まりました。緑や赤や金色の光が黒のキャンパス上に現れては消えました。爆発音を予感させる甲高い花火の発射の鳴き声が初めて聞き心地のよいものに感じられました。

 そうして、途中からは手持ち花火の時間になりました。私は彼が少し端の方で星空を見ているのをめざとく発見しました。これは寄っていかなければ一生の後悔だ、やらない後悔よりやった後悔、そう自分に言い聞かせました。

『星を見ているの?』

 私の声が震えていないことに驚きました。

『あ、うん。花火もいいんだけど、打ち上げ花火を見ていたら星も綺麗だなって』

 彼は特に何も察していないようでした。確かに彼は細かな洞察はしない、鷹揚な人格の持ち主でした。私は大きく深呼吸をして、まだ発火していない花火を一本渡しました。彼の手にある花火は一種の勲章のようでした。

 私は自分の花火にライターで火を点けました。そして、激しく火花を散らす花火から、彼は火を受け取りました。

『あのね、私言いたいことがあるんだけど』

 私は花火から視線を上げて、彼の顔をみました。私と彼は花火を挟む形でしゃがんでいました。花火で灯された彼の顔をいつまでも見ていたかったです。

『何?』

『私、あなたのことが好きです。付き合ってください』

 ついに言えた。ついに私の口から言えた。そう思いました。動くもの聞こえるものは彼と私の花火、それだけでした」


*  *



「僕は驚いてしまったよ。女子から告白されるだなんて、考えたことのないシチュエーションだったから。実際は数十秒くらいだったんだろうけれど、頭の中では数分くらい考え込んでいた感覚だったよ。僕の無反応が彼女にも時間の延長した感覚を促したと思う。

 そのとき、僕は承諾しようかと思った。

 僕はその承諾が中身のないものになると疑った。そもそも疑っている時点で、もう中身がないはずなのに。打算の思考も同時にはたらいた。ここで彼女と付き合えば、誰も僕が同性愛者だと思いもしないだろう、と。僕は僕の中で反駁した。誰も僕が同性愛者だとは思わない。それはとてもよいことさ。実によいことさ。でも、だからといって彼女を利用する必要はあるのか? 彼女は僕を好いているらしい。その気持ちを返す能力と権利があればきっと承諾していたと思う。けれど、僕は能力も権利も有していない。だから、僕は返事をした。

『ごめん』

 何も大げさなことは言わなかった。一瞬間だけ彼女と目を合わせたけれど、本能的に目線をずらした。海は暗かった。花火の光でわずかに見えた波の白い泡になりたいと思ったよ。砂をなでる波の音はおだやかだった。

 ただ、新たな打算の考えが浮かんだ。打算? いや、違うかもしれない。ひらめきのようなもの。――彼女になら、打ち明けてもいいかもしれない。そういうひらめき。

 僕は波の方を見ながら言った。

『あのさ、僕、多分、――』

 語尾に近づくと僕の目線は正面に戻っていた。ただ、もう前には誰もいなかった。彼女は波音に紛れてしまうくらい静かな足取りでクラスの方に戻っていったらしかった。

 神様がいるなら彼は残酷だな、なんて思ったよ。

 僕はぼんやりとみんなが集まっている方を見た。やっぱり、僕はAを見てしまう癖がついていたみたい」


*  *



 はっきり言って、意味がわからなかった。ただの恋愛話ではないか。しかもそれが同性婚賛成と全く関係していないではないか。しかしマナミを囲む群衆はそう思わないようであった。先ほど他の候補者の選挙カーの周りにあれほどいた人たちは、マナミの方に移ってきていた。

 私は視点を自分の右手あたりに向けた。ハナの熱心に聞く様子を、私はなぜか見習おうと思った。


「彼はあまり気まずいというふうに思っていないようでした。宿泊旅行の帰りのバスで、通路をはさんで隣になってしまいました。先生が勝手に決めてしまったのでした。できれば窓側に行きたいなと思っていたのですが、もう片方の隣に座った友達は寝ていて、話しかけるにも気が引けてしまいました。

 私は気を紛らわせるために読書でもしようと文庫本を出していました。彼は彼で隣の席の男子とおしゃべりをしている様子でした。バスは順調に帰路を行っていましたが、途中でサービスエリアに入りました。そのときに速度制限のための段差の衝撃で、私の手から文庫本が落ちてしまったのです。そうしたら、その落ちた文庫本に気づいた彼は拾ってくれました。しかもいつもの接し方です。

 なんだかとても不思議に感じられました。

 宿泊旅行も終わって、いつもの学校生活に戻ることになりました。そうすると、私は今まで以上に彼を観察している私を見つけました。どう考えてもストーカーみたいですね。私は純粋に、彼は誰が好きなのかしらと気になりだしたわけです。未練よりも好奇心になっていたと思います。彼は口が堅いのか、誰が好きとは聞いたことがありませんでした。噂では学年で一番モテるという女子のMだったのですが、ただの噂でした。

 彼は誰とでも変わりなく振る舞い、接していました。はっきり言って、彼は誰も気になっていないのかな、と思っていました。

 結局観察にも飽き始めてきた頃のことでした。

 写真部の関係で、放課後の下校最終時刻まで学校にいることが多かったのですが、その結果私はあることを知ることができました。

 私の高校の校舎は4階建てだったのですが、高校1年生の教室は4階にありました。荷物を教室に置き校庭で写真部の活動をしていた私は、一度4階に上がらなければなりませんでした。

 3階と4階の踊り場に着いたとき、窓から沈む夕日と紅葉をつけた木々が並ぶのが見えました。思わずカメラを手にとって撮ろうとしました。すると、私は上の方から彼ともう一人男子の声が聞こえてきました。声のトーンからして、何か真剣に話し合っている様子でした。悪気はありませんでしたが、私は彼らのペースに合わせて階段を下りました。彼らの話している内容がどうしても気になるのでした」


*  *



「僕はむしろどう振舞えばいいのかわかってなかったんだ。彼女の付き合いの申し込みを却下したあと、どのような関係になるのかが見えていなかった。だから、今まで通りに振舞ってた。不思議なものさ。

 宿泊旅行が終わったあとしばらくして、僕には親友のできる『きっかけ』が訪れた。顔見知りが多いとはいえ、僕にはすごく仲がいい人はいなかった。僕はテストが近かったから独り教室で勉強していた。もうそろそろ帰らないといけない時間になったときに、Aが教室に入ってきた。そう、僕が一目惚れしてしまったあのAが。もう2学期に入っていたのに、僕が意識しすぎていて、2回しか話したことがなかったんだ。

 1回目は、1学期に席が隣になったときかな。機械的なよろしくのあいさつだよ。彼と席が隣り合わせだったときはいつも脇目でAのことを見ていたと思う。彼は爽やかで、要領もいいし、性格もよかった。彼は彼に確信を持っていて、まるで僕とは大違いの存在として意識していたよ。ああ、彼も同性愛者だったらいいのにな、と何度思って席に着いていただろうな。

 Aと2回目に話したのは文化祭でだった。それはとても恥ずかしかったよ。文化祭は劇をやったのだけれど、僕は裏方でAは活発に役者をやっていた。

 休憩のときだった。役者も裏方もほとんど他のクラスの企画を見に行っていた。僕も見に行こうよと誘われたんだけれど、マイペースに昼ごはんを食べているよと言って舞台裏で弁当を食べようと思っていた。かばんの中から弁当を取り出そうとかばんの中をがさごそして、やっと釣り上げたときに、弁当と一緒に性的少数者向けの本が出てきちゃったんだ。別にヘンな雑誌じゃなくて僕のように自分の性的指向で悩む人に向けられた指南本みたいなものだよ。タイトルは『ゲイとレズビアンはどうしたらいいか』みたいな感じで見られると結構まずかった。

 ただ、見られちゃったんだよね。僕はみんな教室からすっかりいなくなったのかと思っていたのだけれど、もう一人、僕以外にいたんだ。もちろん、それがAだったんだ。

『おーい、一人で弁当食べてんのかよ』とAは上手の出入り口から裏に入ってきた。僕の本は、見えない手がAの前の地面に置きに行ったように滑っていってしまった。

『ん? 何かかばんから出てきたぞ』

 そう言ってAは右手で本を拾い上げたところを僕はすばやくひったくった。ものすごく必死な表情をしていたと思う。本をカバンの中に急いで入れて、『い、今のはなんでもないよ』と明らかになんでもないわけがない声色で言って僕は出て行った。

 今思えば、わりとカミングアウトするタイミングとしては適切だったんじゃないかなと思うんだよね。まあ後の祭りなんだけど。

 とりあえず、1、2回目のAとの接触は決してまともなものではなかった。で、3回目の会話はわりとスムーズに行ったよ。勉強してたんだ、って始まって、帰る方向って同じだっけ、と会話は進んで、意外と話が合うことに気がついた。

 僕はあまり最近の流行を追いかけなくて、昔のものを好む傾向が少しあるのだけれど、Aもそれに似たところがあった。クイーンとかビリージョエルなんかで話が通じて面白かったよ。それに反して、文化祭のときの本は全然話題に上がらなかった。僕は安心と不安の両面があった。忘れてくれたのかなという希望的観測とともに、このままAと親しくなってしまうと、Aに対する想いはどこに向かえばいいのだろうという不安だ。

 でもとりあえずAとはよい仲になった。そのテスト前の教室での遭遇がよい『きっかけ』になったんだ。

 しかし、やっぱりあのことの話題は避けられるわけがなかった。帰宅の道すがらいつものように他愛ない話をしていたんだ。

 秋に入るくらいの時期だったかな。木は赤や黄色や橙をたくわえていた。地面には銀杏の葉の絨毯ができていたところもあったね。それでAと二人で歩いていたんだけれど、途中で仲の良さそうなカップルとすれ違ったんだ。僕の目線が男の人に向かっていることに罪悪を感じながら、僕はしばらくしてから『ああいうカップルっていいよなあ』とつぶやいたんだ。本心から思ってなくて、ただこういうときにフツーの人は考えるんだろうな、というふうな無機質なつぶやきだったんだけれど。

 そのつぶやきのあとの二人の間には、沈黙が横たわった。なんだか沈黙は僕を挑発していた気がしたよ。『ほう、本当に? それで? 目をつけている女子はいるのかい?』とシニカルに聞いてくる気がした。

 気がつけば駅の改札口を入ったところにいた。僕とAは電車の方面が違っていた。だからいつもはAとの別れを密かに悲しむ場所だったんだけれど、その日だけは安寧の場所になった。沈黙よ、ざまあみろ、って思った。互いにバイバイと言ってそれぞれの家に帰っていったよ。

 その次の日の放課後のこと。

 その日、僕はAとはちょっと目を合わせるとすぐにそらしてしまう気まずさがあった――好きだったからなおさらなんだけれど。でもAは特に気にしていないようで、一緒に帰ろうと言ってきた。僕はもちろん断るわけがなかった。

 そして、僕は心に決めていた。もう、今日言わなければ一生後悔することになると。今日こそ、自分のこの想い、とまでは言わないまでも、カミングアウトまではしよう、と。

 でもカミングアウトは一つの自分を殺すのと同じようなものだと思うんだ。一つの、『女性が好きである僕』という自分によって、僕の日常的な、社会的な、外向的な存在が支えられているんだ。でも、カミングアウトはそれを殺す。切り崩す。すごく大変なことの割には、実際にはものすごく大きいようで小さなことを言わんとしているんだよね。僕が『男性が好きである』ということをさ。

 僕の中で、僕がもう一人の僕の頭に拳銃を当てて引き金を引き、殺してしまうという感じだ。できればその事実に誰も気がつかないフリをしてしまって欲しい。日常が進んで欲しい。でも、そういうわけにも行かない。僕は僕による、僕に対する殺人容疑で裁かれるんだ。そう思っていた。でも、そんな法廷を意識するよりも前に、僕の頭の中は真っ白になっていた。真っ白にさせたのは、Aの言葉さ。

『お前ってさ、男が好きなんでしょ?』

 Aの言葉には、イヤミも、ふざけも、面白おかしさも宿っていなかった。使ったティッシュを丸めてゴミ箱に投げ入れたときのような気軽さがあった。

 階段を下りながら、僕は小さく頷いた。とてもとても小さく頷いた。でも、頷くだけでは逃げている気がしたんだ。だから、僕はきっぱりと言った。

『そう、僕は男が好き。ホモだよ』僕にはそのとき、ホモが差別用語であるとか、同性愛者やゲイっていう大それた言葉は浮かばなかった。

『ふうん』

 Aは僕の言葉の重さを慎重に秤で計るように相槌を打った。

『それで、今好きな人はいる?』

『うん』と消えそううな声で。

『ふうん』

 僕はAの薄い反応に驚いたよ。逆に彼が驚くはずじゃなかったのか、と。実はAも、まさか、いや、それは絶対にありえない――」


*  *



「私は足音も呼吸の音も殺しながら聞いていました。しかし、思わず大きな声で『え?』とでも言いそうな勢いでした。

 今、とんでもない情報が私の耳の中に滑り込んできている。そう思いました。なんだか、推理小説を途中まで読んでいたところを、既に読んだ人が伏線から結末まで洗いざらい報告してきたときのような置いてきぼりの感情になりました。

 まさか、彼がホモ――失礼しました、ダメですね――ゲイの人だったなんて、思いもしませんでした。そもそも私は最初から恋愛対象などではなかったんだな、と思うと今までの自分がおかしくてたまりませんでした。拍子抜けとはこういうことか、と。しかし、彼がゲイである事実と同じくらい、いや、それ以上に驚いてしまったのは、彼のことではありませんでした」


*  *



「Aははっきり言ったよ。ひと呼吸置いてから、僕の目を見て言った。

『俺も、男が好きだよ』

 僕は最初、Aは何を言っているんだ、と思った。Aが同性愛者じゃないのかと希望的に思っていて、それがいざ事実となると、とんでもなく嬉しいとともに、本当なのか、嘘じゃないのか、と疑ってしまう部分もあった。でも、やっぱり嬉しかった。ああ、やっぱりか、と頭の中で勝手に辻褄合わせをしていたよ。

『僕は、Aが、大好きなんだ』

 僕の口は僕のものではないようだった。

『ふうん……』

 階段を下り続けた。階段の一段一段を踏みしめた。

『お前はもう誰かに言った?』『まだ』

『カミングアウトしたいと思わない?』『まだ』『そっか』

 そうしてまた沈黙の悪魔が舞い降りた。2階の踊り場が目に入ったときには、ぼんやりと時間が長くなったと感じた。

『俺はお前と付き合ってもいいと思ってる』

 Aがそう言ったとき、階段から滑りそうになった。

『ただ、ひとつだけ条件がある』

『……何?』

『一緒に、親にカミングアウトすること』

 特赦を得た囚人に死刑宣告をしたら、このときの僕の表情と同じようなものだっただろうな。

『わかった』

『ありがとう』

 その日、僕たちは静かに二人で帰った。


 結局、僕は親にカミングアウトを成し遂げたのか。いや、言い方がおかしいね。カミングアウトは別にしなければならないことではないのだから。しかし、僕にとってはカミングアウトを『成し遂げた』と言う方がしっくりくる。

 でも、カミングアウトは友達にするのと家族にするのでは、全くわけが違う。わかると思うけど。だって、友達はあくまで他人だけれど、家族は一生を共にしなければならない存在だ。そして、『僕』という存在を定めてくれる大きな役割を果たしているし、現実的な僕の命も支えてくれている。

 もし、家族にカミングアウトをして、拒絶されたら?

 不安で不安で仕方がなかった。Aと付き合う条件がカミングアウトだなんて、いっそ諦めようかと思った。もしカミングアウトを受け入れてもらえなければ、僕は否定されるんだ。家族でひとりぼっちなんだ。もう家族ですらなくなってしまうかもしれない。ぞっとした。

 僕は母親にカミングアウトした。

 2学期が終わる終業式の日だった。その日、Aも親にカミングアウトすると約束してくれた。

 家に帰ることがものすごく億劫で仕方がなかった。いっそ、僕が横断歩道を渡っている間に自動車が来て、僕を轢殺して欲しかった。それとも、頭上から突如鉄塊でも落下してきて僕を圧殺して欲しかった。とりあえず何らかの、僕の意思とは無関係のところで僕を殺してしまう力がはたらいて欲しかった。

 しかし、その日は不可抗力の特別休日だったのかもしれない。不可抗力の天使は訪れなかった。いや、でも、訪れていなくてよかった。

 父親は出張でいなかった。ちょうどよかった。夕飯が終わって、母親は流しで皿を洗っていた。僕は食卓で読書をしていた。最後まで、カミングアウトはどうやって、どのような風に行えばいいのか書いてある本を読んでいた。もちろん、ブックカバーはついていたけれど。

 食卓に座っていて、カウンター越しに皿を洗っている母親が見えた。水が流しに落ちる音はかなり大きかった。僕を急かしているように聞こえた。

『お母さん』と僕は一度、小さな声で言った。

 母親は皿洗いに集中していて気づかなかった。このまま逃げてしまおうかな、まだ言いどきではないのかもしれない――頭には自分への言い訳、Aへの言い訳がよぎり始めた。

『お母さん』と、今度は少し声を張ってみせた。

『なあに?』いつもと変わらない優しい母親の返事。

『お母さんに言わなきゃいけないことがあるんだ』

『何、何か悪いことでもしたの?』母親が皿をキュッキュッと手でこする音が聞こえた。

『え? いや、まあ、違う……と思う』

『あらー? やっぱり悪いことなんでしょ? 正直に言いなさい?』

 当時の僕には、ゲイであることは悪いことであるという認識があった。だけれど、段々カミングアウトをする段階に近づくと僕がゲイであることに何も悪い点なんかないんじゃないか、と感じるようになった。僕の一部であり、取り外し可能なものでも、好きでなったものでもない。僕がゲイであることは、僕が僕であることのひとつの大事な条件なんだ、とある意味で開き直り始めることができていたと思う。

『あのね、お母さん。僕さ』

 言葉をどう紡げばいいのか、頭が真っ白になってよくわからなくなっていたよ。

『何よー? そんな顔して』

『驚かないで欲しいんだけど、』

『だから何よー? 気になるでしょう!』

『僕さ、』

『ん? 聞こえない!』

 深呼吸で一旦刻む。

『僕さ、男の子が好きなんだ。ゲイなんだ』

 水が流しに落ちる音、ドタドタドタ、という音が宙ぶらりんになった。母親の耳にはきちんと僕の言葉は届いていた。おそるおそる母親の顔を見た。僕の頬はなぜか濡れていた。

 もし、殺人を犯してしまったと自白されたような表情を母がしていたら、明日の朝にはもう全て忘れて何もなかったように振舞って欲しいと思っていた。

 でも母親はそんな表情をしていなかった。ただ、水を止めて、手袋を外して、洗っていた皿を置いて、台所から出てきた。そして、いすに座っている僕を抱きしめてくれた。

『お母さんの息子は、お母さんの息子なのよ。それは絶対に変わらない。自分の息子がゲイだろうがなんだろうが関係ない。お母さんにとってはかけがえのない子供なの。だから泣かないで。お母さんも悲しくなっちゃう』

 高校生になって、誰かを抱きしめる、誰かに抱きしめられる、という行為を久しくやってなかった。僕はこのときに、人を抱きしめると、抱きしめられると、こんなにも安心できて、信頼されていて、安定を感じることができるんだな、と感じた。

 今だに、あのときはものすごく印象に残ってる。しばらく母親と二人ですすり泣きをしていたよ。高校生にもなって、笑っちゃうよね。ごめん……ちょっと泣きそうになっちゃった、ははは……。

 それでなんとか家族への、いや、母親へのカミングアウトはよい結果に終わった。

 翌日、学校に着いたときに真っ先にAのところに向かった。Aの表情は今まで見た中で、一番明るくてかっこよかった。僕とAは無言で、目を合わせて頷いた。きっと僕の目から、表情から、迷いや不安の影は消え去っていたと思う。

 そうして、Aと付き合うことになった。なんだかとんでもない付き合いの始め方に見えるかな? でも、それは僕とAの付き合いだから。

 大学受験の準備が始まる頃、文系理系に分かれなくてはいけなくなった。自然将来の夢の話題になったことがあった。

 僕は、自分のように悩む人たちを助けたいと高校生の頃から思い始めて、今に至るよ。Aに関しては――確か、性科学とか、そういう生物学の方に向かったかな。

 ま、これで君に何か参考になったことがあれば嬉しいんだけれど……。もうこんな時間になっちゃったね。じゃあ、君の悩みは聞けなかったから、また今度、時間があったら来てよ。いつでも相談に乗るから」


 青年にお礼を言って、僕は白い部屋と法人の建物から退出した。夏の昼の暑さは嘘のように、夜の冷気が僕の顔や腕の肌をなでてくれる。

 駅に向かう途中、「同性婚賛成!」という言葉が視界のどこかでひっかかった。それはよく住居などに貼られている、議員ポスターだった。希望に満ちあふれた表情で、ポスターの中の女性は左斜め上を見ていた。ロングヘアで若めだ。確か、現役の市議会議員だ。ポスターには、「マナミ」と書かれていた。

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