失楽園のアレクシア
生きづらくないのか。
ぷかぷか進む船の上。はしゃいだ末に骨という骨を折ったセイレーンの娘もようやく元気になって、船はとうとうユートピアを出航した。
旅の最中、魔王の息子はセイレーンの娘にふと聞いてみた。魔族の神たる魔王の息子からして見れば、セイレーンの脆さは水に濡れた紙にも等しい。
ほんの少し力を込めれば、崩れ落ちる。
「……あなた、『アレクシア』のおとぎ話を聞いたことが無いの?」
「アレクシア?」
「おねえさまは『アレクシア』の話は陸の方では有名なんだっておっしゃってたのに。あなた、意外と世間知らずなのね?」
これには何も言い返せない。魔王の息子はぐっと大人になって、拳を握った。
「お前は知っているんだろう。教えてくれよ。」
「良いわよ。『アレクシア』はあたしたちよりずーっと昔に生まれたセイレーンでね。」
セイレーンは自慢げに胸を張って話し始める。そう、それはむかしむかしのものがたり。
――――遥か、遥か昔。アレクシアというセイレーンは自らユートピアを飛び出した。
セイレーンにとってエデンは唯一の楽園だ。ここを出ては彼女らは生きては居られないとまで言われていたのに、飛び出したのには理由があった。
自分を救った海賊船の、黒髪の青年に恋をしたのだ。
――――――正確に言えば、始めアレクシアが海賊船を追ったのは恋をしたからではない。海賊の自由さに憧れたからだ。
アレクシアは物心付いた時からユートピアの外に興味が有って、近海をふらふらふわふわ散歩するのが趣味だった。――――そして、海の上をうろついている所をさらわれた。さらわれて、さらった賊が襲った相手こそが運命の船。
賊を返り討ちにして船を奪い取った海賊団はアレクシアをひと目見ると驚いた顔をして、船長の元へすっ飛んで行った。
「こりゃあ驚いた。<セイレネス>じゃねぇか。」
「だ、誰?」
「俺ぁ、この船の船長だ。こいつはセネカ。お前は?」
「……アレクシア。」
船長は「お前はべっぴんさんだな。」とアレクシアの頭を撫で回した。
「息子たち!次の進路はユートピアだ!」
「「おぉおー!」」
アレクシアは大きな瞳をまぁるくして、セネカと呼ばれた男の顔を見上げた。セネカは笑ってアレクシアを抱き上げてやる。
「オヤジが家まで送って行ってくれるってよ。」
アレクシアは驚いて、セネカの襟をしっかりと掴んだ。セイレーンは翼を授かった代わりにニンゲンに比べて身体能力が著しく低い。抱き上げてもらったことなど、一度もないのだ。
『オヤジ』と呼ばれる船長は船を急がせてユートピアへ向かい、アレクシアは再びユートピアの地でうたをうたった。その歌は海賊船を後ろからそっと押し出し、かの海賊船を襲おうとする他の船を尽く激しい海流に追いやった。セイレーンのうたは、船を守り、脅かす。アレクシアはそんなことは知らなかったけれど、それでもうたをうたったのはきっとその船のことが好きになってしまったからだ。
魔王はその騒ぎを聞いて、ユートピア周辺の潮の流れを複雑に「作り替えた」。波に乗り風に吹かれただけでは決してユートピアに近づけないように。そうやって魔王にとってセイレーンは保護する対象なのだと明確に示したことで、ユートピアへ近づく者は無くなった。
――――――――だからこそ、アレクシアは飛び出した。
外部との関わりが完全に絶たれたユートピアで、じっとしていることが出来なかったのだ。
――――そうして追いかけた海賊船で、かの青年に出会った。
「キース。」
黒い髪の青年は船長を殺すためにやって来た。彼は言う。「あの男に、大切なものを奪われた。決して許しはしない」。憎悪の奥に灯る色は深い悲しみに満ちて、ほの暗い光を宿す。
アレクシアは彼のことをまるで野犬のようだと思った。鋭い瞳も乱暴な振る舞いも、野生の獣のように見えたのだ。
ハープをひくアレクシアに、キースが足音荒く近寄ってきた。
「お前、」
低い声にも動じず、アレクシアはハープをひいたまま美しい声で返事をした。
「はい、何でしょう?」
「余計なことをするな。」
あぁ、獣の眼だ。ぼんやりとキースの瞳を見つめるアレクシアに腹が立ったのか、キースは乱暴にアレクシアの襟を掴み上げた。ハープが甲板に落ちていくのが妙にゆっくり見えて、それでもアレクシアの意識は燃え盛るキースの瞳に注がれていた。
「ふざけるな!」
キースが怒っている理由に見当は付いている。きっと、昨日の夜、彼が眠れるようにと唄をうたったのが気に触ったのだろう。
「俺は、必ずあの男を殺す……!あんなの、求めてない!」
「キース。」
「この船で、あんな、あたたかい気持ちで眠ることなんて有っちゃならねぇんだ!」
「落ち着いて、キース、」
伸ばされたアレクシアの腕を、振り払う。
ボキリ。
「え、」
ごく、普通に。キースからすれば、ほんとうに普通に振り払っただけだった。確かにキースの力は普通の人よりも強いし、動作は決して優しくはなかったが、それでも、――――。
キースは紫に腫れ上がったアレクシアの腕に目を見開く。
「あんた、骨が、」
「……私たちセイレネスは、翼と、うたを授かりました。その代わり、身体はあなたたち人間に比べてあまりにも脆い。」
「な、んで、」
「それでも。――――それでも私がこの船に乗っているのは、親父さまが私を娘としてあたたかく迎えてくれたからです。人にはない翼も、鱗も、爪も、気持ちが悪いでしょう。」
折れていない腕を、手を、キースに差し出す。指先がキースの頬に触れて、ゆっくりと撫でた。今度は、振り払わない。
「だけど、そんな事はこの船じゃ関係ないのよ。」
あたたかい手が頬を、頭を、柔らかく撫でる。
こわがらないで。
アレクシアの声なき声が頭の奥で鳴り響く。キースは、アレクシアが自分の出自を知っていると確信した。母を捨てた父を「親父さま」と慕うセイレーンは、優しい動作で心を伝えた。唄などうたわなくても、アレクシアはいつだってキースの心を動かす。――――――それが、キースにとっては苦しかった。必ず殺すと決めて来たのに、この鳥乙女に触れる度に焼き付いた憎悪の炎が消えてしまう気がして。
「怖がらないで、キース。」
美しい金の髪やエメラルドの瞳が月の光に輝いて、まるで天使のようだとガラにもなく思う。
「この船の上では、あなたも私も同じだけの価値が有る。」
柔らかく微笑んだアレクシアが額に汗をかいているのに気がつき、キースの顔が青ざめた。
こんな、弱くて、強くて、優しい女を傷付けたのか、俺は。
「ごめん……謝って済むことじゃねぇが、謝らせてくれ。医務室に行こう、アレクシア。」
「そうね。マーレーンに一緒に怒られてくれる?」
「……あぁ。」
笑うキースに、アレクシアはエメラルドの瞳を細めてはにかんだ。
「そうやって笑ってる方が素敵ね、キース。」
――――アレクシアの腕が折られる数分前。医務室では、1人の男がうっとりとハープの音色に酔っていた。
「アレクシア…………なんて美しい、俺の天使。」
悩ましげなため息を鼻で笑って、もう1人の男が心底馬鹿にしたように言う。
「だぁれがお前の天使だよ。現実を見ろ、マーレーン。」
「何だよ、セネカ。俺は美しいものが好きだ。愛してすらいる。アレクシアは俺の寵愛を受けるに相応しい、正に奇跡のような美しさと愛らしさを兼ね備えた神秘の生き物だろうが。」
「そりゃあ、俺だってアレクシアは別嬪だとは思うが。よく口が回るなぁ。」
「芸術を分からねぇバカには話が伝わらねえってこったろ。」
「バカたぁ言ってくれるじゃねぇか、ヤブ医者が。」
「文句が有るなら出ていけヘボ患者。二度と俺んとこで治療受けんな!」
ここは医務室、医者の聖域。船医マーレーンは医者にあるまじき乱暴さで医務室からセネカを叩きだした。
あぁ、せいせいした。
マーレーンにとってアレクシアという聖域は絶対不可侵である。天使の如き背に生えた翼、美しい歌声、精巧な人形のような顔立ちや美しく磨いた宝石を嵌めたような両の瞳。美しさを愛するマーレーンにとって、彼女は正に奇跡。美の体現者。生きた芸術品。マーレーンがアレクシアに抱く気持ちはもはや崇拝に近い。
そして何より、彼女の心の美しさこそがマーレーンの琴線に触れるのだ。
あぁ、アレクシア。君ほど美しい人がこんなにも傍に居る喜びを、どう伝えたら良いんだろうか。
マーレーンはこの世の神たる魔王に祈った。あぁ、我ら魔族の神たる魔王よ。彼女のような存在を生み出して下さり、また、彼女に出会う僥倖をこの身に与えたもうたことに感謝いたします。
マーレーンが手を組みアレクシアの美しさを神たる魔王に延々と語り始めた頃、ドタバタという足音が聞こえてきてマーレーンは魔王にアレクシアの美しさがいかに尊く素晴らしく稀有なものであるかを中断して、駆け込んできた人物を確認した。曲りなりにも医者ではる。マーレーンの顔はアレクシアの美しさを語る時以上に引き締まり、眼差しは強い光を灯す。
――――しかし、駆け込んできた人物が、ついさっき部屋から閉めだしたセネカだと確認すると、途端に真面目な顔を崩してやれやれと首を振った。
「何だぁ、謝る気になったのか?」
「違う!急患だよ!」
「はぁ?こんな時間にどこの馬鹿野郎が――――――」
そして、セネカの背に隠れていた人物を目にすると、先ほどまでの落ち着きはどこへ行ったのかという勢いで椅子を蹴った。
「アレクシア!」
きゃああぁあああ、とまるで女のような悲鳴を上げたマーレーンは、当のアレクシアは平然としているのに半泣きになりながら素早くアレクシアを座らせて治療を始めた。
気まずくなったキースは医務室の端に立っていたが、マーレーンが「君は身体が弱いんだから気を付けないと、アレクシア!」と怒鳴ったところで、地面に膝を着いた。
「待ってくれ、マーレーン!アレクシアの腕を折ったのは俺だ。知らなかったとはいえ許されることじゃあねぇ。アレクシアは何にも悪くないんだ。叱るなら俺を叱ってくれ!」
潔く土下座をする少年の姿にマーレーンはふむ、と頷いて、キースの手を取った。ばちん。その手を、叩く。表皮が赤くなった手をキースに見せて、問う。
「痛いか、キース。」
そんなわけがないだろうと怪訝な顔をするキースの鼻をマーレーンはつまんだ。
「今のでアレクシアの手にはヒビが入る。覚えとけよ、少年。」
そんな、まさか。嘘だろ。
声を枯らすキースにセネカが「本当だよ。俺もアレクシアの骨を折ったことが何度かある。」なんて言うものだから、処置を終えたマーレーンが何だとセネカそいつぁ俺がここに来る前の話だな聞き捨てならねぇ全部吐けとセネカの首を締め上げようとした。
――――脆いのは、アレクシアの身体の特徴であるが、それが顕著に現れるのは骨だ。脆いというか、極端に密度が薄い。人間の身体は骨だけで10kg近くあるが、アレクシアの身体は人間に比べて極度に軽く、その体重は30kgほどしかない。ヒトの形のまま飛ぶために骨や筋肉、臓器、一つ一つを軽くした結果脆弱になってしまったのだろうというのがマーレーンの見解だ。アレクシアは島を出るべきではなかったと主張するのはそのためである。セイレネスの身体は、ユートピアを除いてこの世界に適応していないのだ。外敵となり得るものが多すぎる。
「俺のかわいいアレクシア。こう頻繁に骨を折ってはくっつかなくなってしまうよ。」
「ごめんなさい、マーレーン。」
マーレーンは伏せた目のまつ毛の1本から美しいとうっとりした後で、優しい声音で諌めた。
「君は身体が弱いんだから。迂闊に人に触れてはいけないよ。」
「はい、マーレーン。」
「いい子だ。」
蕩けるような声に、同僚はうげぇ、と舌を出した。
「気持ち悪ぃ。」
「よし分かったセネカてめぇは表に出ろ。」
セネカとマーレーンが2人してボコボコになった翌日、陸に船を付けて3日は買い出しをすることになった。キースがこの船に来てから、初めての着港である。
キースは1日目と2日目を気ままに楽しんで、そして気が付いた。――――――アレクシアが、船から降りようとしない。
そしてようやくピンと来た。
キースはもう見慣れてしまったが、セイレーンは人混みをあるけば目立つし、何かを買おうとしても荷物を持つこともままならない。
そして、人拐いに常に狙われている。
「アレクシアー?アレクシアー!」
だけど、キースにとってはそんなのは知ったことじゃない。3日目はアレクシアと街に出ると決めていたのだ。来てくれなきゃ1日暇になってしまう。キースにとって退屈は何よりの毒だ。
アレクシアの居室のドアを叩くキースに、目に大きな青あざをこしらえた通りすがりのセネカが告げる。
「おうおう、止めとけキース!アレクシアは部屋から出てこねぇよ」
「はぁ?何でだよ、男前。」
「うるせぇ黙ってろ。――――あいつぁ初めて陸に降りた時、さらわれたんだ。怖がってるわけじゃなさそうだが迷惑かけるから行きたくねぇんだと。」
「…………ふぅん。」
そうなのか。キースが呟けば、おうよ、触れてやりなさんな、と背中ごしにひらひら手を振ってセネカは行ってしまった。
ふぅん。そうなのか。
アレクシアはセイレネスで、珍しくて、誘拐の対象に十分成り得て、人さらいに狙われている。
だから船から出ない。出たがらない。
船の家族が助けに来ると分かっていても、それが迷惑だからと突っぱねているのはアレクシアの美徳だけれど。
――――――――それこそ、キースにとっては知ったことじゃない。
バァン!!
「アレクシア!」
キースは力づくでアレクシアの居室のドアを打ち破った。もしかしたら壊したかもしれないが、キースにとってはどうでもいいことだ。それよりも、今、この人の手を取ることの方が大切だ。
「キース!?もう街に行ったんじゃ、」
「俺は今日はアレクシアと行くんだ。」
「えぇ?」
「行くんだってば!」
ひょいっとアレクシアを抱えると、キースは船を飛び出した。
「あんたみたいな美人が船にこもりっきりなんて勿体ねぇよ。行こうぜアレクシア!大丈夫、おれがついてる!」
キースは背におぶったアレクシアに「何を見に行きたい?」と聞いた。アレクシアを包む腕は力強いが、ひどく優しい。
「キース、」
「……『親父さま』の船のクルーが家族に面倒かけるくらいで遠慮すんなよ。おれはアレクシアのためだったら何でもしてやりたいんだ。なぁ、何を見に行こうか。うまいもんでも探すか?」
「……ふふっ。じゃあ、今日はデートね。」
ぎゅう。キースの首を抱き締めるアレクシアの腕は細い。触れるあたたかさに染まる頬を誤魔化して、キースは走るスピードを上げた。
「ただいま親父さま!聞いて聞いて、キースが街に連れて行ってくれたのよ!」
「おう、やっと船から出る気になったか。楽しかったか?」
「もちろん!胸がどきどきしたわ。『山』に登ったのも、『湖』に脚を付けたのも、『鹿』や『熊』を見たのも初めて!」
「おいおい、キースとどこまで行ってきたんだよ。」
「山のてっぺんまで!街並みを見下ろして、海が太陽できらきら光って……とってもステキだった!ねぇ親父さま、世界は私の知らない素敵な物であふれてるのね。」
「そうだなぁ。」
微笑むアレクシアにつられて微笑む船長は、そのまま優しいまなざしで息子を見た。キースはバツが悪そうに唇を尖らせて、「何だよ。」と悪態を着いたが、『親父さま』はそれにさえ深い愛を湛えた瞳で頷いて見せる。いたたまれなくて、キースは2人に背中を向けた。
背中を向けて、甲板に戻った所で、声だけが耳に届く。
『親父さま、キースってとても素敵なひとね。』
『そうだなぁ、流石俺の妻の息子だなぁ。』
――――――顔を赤くして甲板をごろごろ転がるキースを「何遊んでんだ、悪ガキ。」とマーレーンが蹴っ飛ばした。
「おれぁ、アレクシアの外出なんざ認めてねぇからな。」
冷たく見下ろすマーレーンに、キースは動じることもなく静かに目を見つめ返した。
「……悪ぃが、おれはアレクシアと『外』に出るのに躊躇いなんてねぇよ。約束してやる。この船の外では、何が有ろうとあの人を離したりなんかしない。」
「――――寝っ転がったままかっこつけやがって、ガキが。」
キースは勢い良く立ち上がると、挑戦的な眼差しでマーレーンを見た。
「ガキでも何でも、あの人は喜んでたぜ。山に登ったのも熊に会ったのも初めてだってな。」
その表情は、自分が何よりも優れていると思っていたマーレーンが唯一屈服したこの船の主にそっくりで。
「………兎に角、おれぁアレクシアが怪我をするのだけは避けてぇんだ。キース、お前もその辺りよく考えて行動しろよ。」
「分かってらぁ。」
しっしっと手を振る生意気な新入りにケッと悪態付きながらマーレーンは甲板を後にした。これから甲板はどうにもうるさくなって、マーレーンは落ち着かない。アル中どもの面倒を見るのも面倒くさくて、いっそもう寝てしまおうかと頭を掻きむしった。
――――――今夜は出航。
備蓄は満タン。
ともなれば、夜の宴が始まるのは陽気な海賊船にとっては当たり前のこと。
キースは父たる船長の元へ、ナイフも銃も持たずに向かった。酒を飲む前に、どうしても伝えたくて。
「――――――オレは、誤解を、していたのかもしれない。」
静かな声でそう切り出す。父は何も言わずにじっと息子を目を見つめる。
「アンタが母さんを捨てたんだと思ったけど、母さんはアンタが居ないことについて恨みがましいことを言ったことは無かった。ただ、オレぁ、アンタが居ないから母さんは病気で貧乏なんだって、ずっと、」
血がにじむほどに拳を握る息子の手を、父親はそっと包み込んで、
「――――――よく、今まで生きていてくれた。お前に再び会えたことに、神と妻に、感謝を。」
そうして、キースはようやくこの船の「家族」に迎え入れられたのだ。
―――――――キースがこの船に本当の意味で迎え入れられてから数ヶ月。
ハープの音が聞こえると、キースは必ず甲板に出て行った。アレクシアのハープの音もアレクシアの歌声も何もかもが美しく、暗い海さえ神秘的に揺らいで見えた。アレクシアがハープをひけば、ガタガタとギターやバイオリン、楽器のひける「家族」が集まってきて看板はあっという間に人で埋まって、宴が始まる。
「キース。」
「家族」とのセッションを終えたアレクシアが両手に飲み物を持ってやって来たので、キースは杯を取り上げて、海に落ちないように注意しながらアレクシアには高過ぎるベンチに座りやすくしてやった。鳥乙女の脚は歩くことにあまり適していない。普段浮きっぱなしのアレクシアには人並みのバランス感覚というものが備わっていないのだ。
アレクシアが無事に腰を下ろしたのを見てほっと一息つくと、アレクシアのエメラルドの瞳がじっと自分を見下ろしていることに気がつく。
「どうした、アレクシア。」
「キースの目って、月の下だととっても綺麗ね。」
にっこり。
あどけなく笑うアレクシアにキースはどぎまぎしながら目を反らす。
「そんなこと、初めて言われたな。」
アレクシアはキースの顔を隠す帽子を取って自分が被ると、ご機嫌で杯の中身をあおった。ごく稀に船長がアレクシアに与える、アレクシアお気に入りのぶどうジュースである。このぶどうジュースが与えられるとアレクシアは必ず半分を他の杯に移し変えて、キースに持ってきてくれるのだ。
満月の夜は明るくて、月の灯りが海底深くまで射す。だから満月の夜は船が海中の獣の目に止まりやすい。『人魚の通り道』の傍で有れば話は別だが、海の底でひっそり生きる獣たちは敏感で、頭上の影に怯えて攻撃してくることも有る。アレクシアは彼らを鎮める音を知っているので、晴れた満月の夜には必ず歌をうたうのだ。セイレーンの歌声はあまくやさしくうつくしく、頭の芯までじぃんと熱くしびれるで、海の獣たちが心を鎮めて眠り続けるのも頷ける。とにかく、キースにとってアレクシアの歌はいつも心地よいものなのだ。
それはきっと、あの日彼女がキースに望んだ日から、ずっと。
「――――――セイレーンはね、歌うために生まれてくるの。」
月を背に歌うように語る声の主に青年は目も耳も全部奪われて、ただ目を見開いた。
か弱い体。軽い骨。大きな翼は白くて汚れやすい。
「何て生きにくい体だろうと思うでしょう。」
だけど、かみさまはわたしたちに素晴らしい声を、思い通りに動く指を、どこまでも続く海を越える翼を下さったのよ。
「いつどんな場所だって、翔んでしまえばわたしの歌とハープが聞こえない所なんてないんだから。」
ぶどうジュースを片手に自慢気なアレクシアと並んで座るキースは、穏やかな顔で空を見上げた。雲ひとつない晴天に、煌々と光る月だけがぽっかり浮かんでいる。周りの星が霞んでしまうくらい、強く、眩しく、うつくしい。
「ならアレクシア。おれが死んだ時にはおまえが毎日うたってくれよ。」
歌うために生まれてくるのだと言うならば、その歌でおれの魂を慰めてくれ。
アレクシアは何かを言いたげにしたが、キースが拳をぎゅうと握りしめているのに気付いて言葉を口にしなかった。
代わりにその頬にそっと手を添える。――――――いつかの夜のように。
振り払えば骨が砕けて折れてしまう、華奢な手の平。鳥乙女は飛ぶ為に歌う為に他の全てを犠牲にしたのだ。言葉通り、うたうために生まれてきたからだ。生命を懸けてうたう生き様。なんといざぎのよいことか。
「おれはきっと後悔のないように死ぬけど、それでも寂しくなっちまうから。」
キースはもうずっと昔にいつか死ぬ時が来ることを覚悟していた。それは今日かもしれない。はたまた60年後かもしれない。船の上に生きる男の寿命を知るのは海の女神かはたまた海底の竜神か。どちらにせよ受け入れるしかないのだ。海に生きて海に死ぬ。それこそが本望。
だけど、こうして自分を必要とする人の居るこの世界が惜しくないわけがない。離れがたく、どうしようもなくさみしい。
「――月がきれいね、キース。」
セイレーンは、やさしいうたをうたった。
愛しているとうたうのは、あなたをあいしているから。
口ではそう言わないけれど、うたに載せた気持ちはきっと、あいするひとの心に響いているのだろう。
そして、彼は思うのだ。後悔の無いように生きて死んで、その後もこの人がうたい続けてくれるなら。
それはどんなに幸せなんだろう。
「―――――というお話よ!」
セイレーンの娘は自慢げに胸を張ってえっへん、とわざとらしく言ってみせた。
「・・・・・はぁ。」
「はぁ、って何よ!はぁ、って!」
不満気なセイレーンの娘には言いづらい。言いづらいことこの上無いが、隠すことも有るまい。
魔王の息子は決意を持って、己の知る真実を告げた。
「その2人、俺ん家で働いてるよ。」
「はぁ?」
「はぁ、って何だ、はぁ、って。」
「・・・・えっ、?・・・・・・・・・・・・分かった!からかってるのね!?」
わかりやすく真っ赤になって怒るセイレーンの娘に俺はぶんぶんと首を横に振って過失は無いのだと示した。
「違う、違う。本当の話だ。その2人は後に中央に招かれて、今も海守として働いてるよ。」
「中央というと、魔王の城?」
「そうだ。俺の実家だな。」
「――――でも、アレクシアのおとぎ話はもう何百年も昔のことなのよ。」
「お前、知らないのか。竜の娘は中央のことは有名な話だと言っていたんだがな。」
「! あたしは世間知らずじゃないわよ!!」
「まだ何も言ってない。知らないなら知らないで良い。――――中央大陸は、他の大陸に比べて時間の進みが遅いんだ。」
「・・・・・・はぁ?」
「だから、アレクシアとキース・・・アキーストはまだ健在だよ。その話からまだ5年分も経ってないんじゃないか。」
平然と言う魔王の息子に、セイレーンの娘は絶句して、しばらくの沈黙の後に言葉を紡いだ。
「・・・・・・あたしは、今年で17歳だけど。魔王の息子、あなた、何歳になるの。」
「俺か?中央の外の時間で換算すると、176歳だ。」
「うっ、そでしょぉおおおお!!」
金切り声に魔王の息子は耳を塞いだ。同じセイレーンでもアレクシアと大違いだな――――――と思ったのは伏せておこう。だってほら、セイレーンの娘がそろそろ興奮のあまり腕の一本や二本折ってしまいそうだ。
「落ち着け。また腕が折れるぞ。」
「でも、だって、何なのよ!」
――――――鳥乙女は、拳を握りしめて机に振りかぶった。
そして船はユートピアに引き返し、セイレーンの娘は全治1ヶ月、魔王の息子は再び足止めを食らったのである。