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真っ白い眼帯をした背の低い少年が、自分の祖父母が経営する民宿にやって来た。
小学校が夏休みに入った僕は、父と母と兄と妹と五人で遊びに来ていた。
実家から山一つ向こうの、美しい景観と美味しい料理が売りでお客さんも多かったと思う。
飲食店を営んでいた両親は、お盆の期間を避けて店を休みにしたので、夏休みといってもその日のお客さんは二組だけだった。
若いカップルと、お婆さんと自分の年頃と同じ少年がその日は宿泊していた。
この辺りは春には桜が、秋には紅葉が鮮やかで、夏には近くの小川で釣りが楽しめる。
母親はなんだかんだで祖父母を手伝い、父は僕ら兄妹を連れてその日は川へ遊びに行くことになっていた。
だけど僕は、どうしても見たいテレビ番組があって行かなかった。
三十分なんて、あっという間に過ぎてしまった。
テレビを消したら他にすることも無くなって、だからといって夏休みの宿題をするのにも気乗りをしない。窓の外を、扇風機の風を受けながら眺めていた。
毎年のように来ているが、綺麗な場所だと思った。夏は特に綺麗だと思う。
光がはっきりと影と分かれている。植物がはっきりと、絵みたいに映る。
蝉が、大きな声で鳴く。
何年か前にジイジイ鳴くのは油蝉だと父が教えてくれた。
流れ込んでくる風は弱く、扇風機のボタンを押して風を幾ら強くしても暑い。
一緒に、川へ行けば良かった。
山の中にある川の方が断然、涼しかっただろう。今更だけど。
窓の下に、小さな人影が見えた。
人目を避けるように、辺りをキョロキョロと見渡しながら山へ向かっていく。一人だ。
一人で山に入ると危ないと、大人には散々言われていた。
気になって結局、その少年を追い駆ける為に部屋を飛び出した。
地面が慣らされた道から少し外れた場所に、白いブラウスを着た少年が立っていた。黙って、祠を見詰めている。
視線は逸らさず、彼は口を開いた。
「着いて来ないで下さい」
自分よりも高い声に、大人みたいな喋り方だった。
今とは違い、当時人見知りというものをあまりしたことが無かった僕は、普通に、友達に話す様に声を掛けた。
彼に近付くと、片目が白い眼帯で覆われていたのが解かった。今日来たお客さんの一人だ。
「眼帯カッコイイね」
「人の話も聞けないんですか」
声のトーンが、大きく下がったのが解る。
それでも、気になることが有った。当時見ていたアニメの主人公は、眼帯をして戦っていた。
学校でも話題になっていて、真似をして遊んでいる子が多かった。
彼は、見ていないのだろうか?
「毎週テレビでやってる『戦隊ヒーロー……」
「ニュース以外見ません」
あっさりと被さるように言葉を遮られてしまった。
眉間の皴は寄せられていて、怒っているようにも見える。真似ではないのだとしたら、
「怪我、してるの?」
「だったら、良かったんですけどね」
「良くないよ、痛いよ」
「傷だったら、治るでしょう」
彼は面倒そうに、左眼に手を掛けて眼帯を外した。
白目の部分の境が見当たらなくてまるで、真っ白なビー玉が埋め込まれているようだった。
「白い」
思ったことをそのまま口にしたら、顰められていた顔は泣きそうな顔に変わった。
「ほら、こんなものが、カッコイイわけないでしょう」
「カラコン?」
よく表情が変わる。
両目は見開かれて、先程よりも小さな声で話し始めた。
「……驚かないの?」
「驚いたよ。カラコンて高いんでしょ? よく買ってもらえたね」
大きく溜息をつかれた。
「……もしカラコンだとして、それをなんでわざわざ隠す必要があるんですか?」
「……なんでだろう? 怒られるから? あ、内緒で買って貰ったとか!」
凄く、呆れた顔をされた。
「偽物だったら、カッコ良かったかもね」
「本物なんだ」
「そうですよ、気味が悪いでしょう」
つまらない顔をしているのに笑っている。
チグハグだ。逸らされた顔を見ていると、あの色と同じ色だと思った。
「コブシと同じ色だね」
「はい?」
「花びらが白い花だよ。同じ色だね。綺麗だよ」
顔を覗き込むと眼をまた逸らされてしまった。眉を寄せている。
また怒らせてしまった。彼の耳は赤くなっていた。
怒った時には怒った顔。チグハグな顔よりずっといいと思った。
「怒った?」
「怒ってません」
「怒ってるよ!」
「怒ってません!」
「嘘だよ!」
「違う!」
お互いの声は、次第に大きくなっていく。顔を覗き込もうとすると反らされるから、ぐるぐると回って何度も覗き込もうとした。
煩かった他の音も自分達の声が全部被せた。だから、他に聞こえた人の声に気付く頃には、季節外れのコブシが目の前で綺麗に揺れているのに気が付かなかった。
「コブシと同じ色が嫌だったの? 同じ色だよ。ほら、綺麗だよ……」
「ちょっと黙って!」
口を彼の手の平で押さえられた。冷やりとした手だった。
同時に自分達以外の声の存在に気が付いた。
よく考えたら、おかしかった。
そもそも、視線の先のコブシは、夏に咲く花ではなかった。
――さあ、祭りの準備だ。
――今年も感謝祭を始めよう。
――酒は太郎さんの家から。
――魚は誰から?
――それは五朗さんに。
――じゃあそれは……、
不思議な光景だった。
手を付いた自分達よりも大きな石の鳥居の先では、大人が忙しなく動き回っていた。
此方には気付いていない。
「カンシャサイ?」
「お祭りのこと」
「そうなんだ」
彼は眼を細めて、ジッとその光景を見詰めている。
「皆、着物だ」
「うん、もう直ぐ祭りが有るなんて誰も教えてくれなかった。毎年来てるのに」
大きな溜息を付かれた。
「こっち」
服の裾を牽かれて、鳥居の脇まで連れて来られた。
誰も居なかった。
「声はするのに……」
「昔の話だよ。もうずっと前の」
「居るのに」
「居たのに、だよ」
「変なの」
「そう、変なんだよ」
パッと、服を離された。
さっさと正面に戻る彼を追い駆けた。
鳥居の中の人々は揺らいで、ゆっくりと元の、誰も居ない景色に戻っていった。
彼はポケットに仕舞っていた眼帯をまた、元のように左目に付けた。
くるりと身体の向きを変え、スタスタと何事も無かったように歩き出した。
「帰るの?」
「ええ、祖母が心配するので」
「待って!」
前を歩く彼の手を掴んだら、暑い夏でも冷た過ぎた。彼は肩を大きく上下させてから、ピタリと足を止めた。
「コブシ! ちゃんと見た?」
返事は返してはくれなかったが、構わず話し続けた。
「白くて綺麗な花だったでしょう! 一番好きな花なんだ。でももし嫌いだったんなら、ごめん。ねえまだ、怒ってる?」
最後の方は、聞こえなかったかもしれない。
虫の鳴き声と山の木々の葉が擦れる音が、やけに大きく聞こえたから。
「……だから、怒ってないってば」
擦れたような小さな声で返してくれた言葉が、とても嬉しかった。
「本当?」
「本当」
「じゃあ、一緒に帰ろ」
彼の横に手を繋いだまま、並んだ。
隣の顔は赤くて、泣いているようだった。
「泣いてる?」
思ったことをそのまま投げかける。
「泣いてない、まだ」
繋いでいない方の手で、彼は眼を擦った。
「泣いてるじゃん」
「悪い?」
ジトッとした眼つきで睨まれる。
「全然!」
笑いながら答えると、彼も眉を八の字にしながら笑う。チグハグだ。
でもさっきとは違う。全然嫌じゃなかった。
「僕も変だけど、君も変わってる」
ぼそりと独り言のような、小さな声だった。
「そうかな?」
「そうだよ、お互い様」
「オタガイサマ?」
彼は僕の知らない言葉を沢山知っていた。
もしかしたら、自分よりも年上なのかもしれない。
背は僕よりも、小さいけど。
「同じってこと」
「いいね、お揃い!」
ジトリと、背中には汗が流れ落ちる。
彼も暑いのだろう冷たい感触は消えていた。
暑いのに、手を繋いで一緒に帰った。
最初は長く感じた道のりは、僕の一方的な話題であっという間に終わってしまった。
その晩、彼の泊まっている部屋に遊びに行った。
兄と妹も誘おうと思っていたが、二人とも疲れて眠ってしまっていた。
扉をノックすると、彼が顔を出した。「遊びに来た」と言うと、一瞬驚いた顔をしてから中に通してくれた。
部屋の椅子に座っていたお婆さんはもっと驚いていた。「お邪魔します」と頭を下げると優しく笑い掛けられた。綺麗な人だった。彼と少し似ていた。「ね、本当に来たでしょ」と彼はお婆さんに言うと、「本当ね」とクスクス笑っていた。首を傾げると「気にしないで」と言われたので、気にしない事にした。
畳の上に寝そべりながら二人で、こんな話をした。
お婆さんがウトウトとしていたのでまるで、秘密の話をするかのように小さな声で。
「花を食べる少年の話、知ってるかい?」
「……知らないなぁ。どんな話なの?」
「髪も眼も白い、妖怪の話だよ」
哀しい話だった。
御伽話のように、その後はどうなったのかがとても気になった。
でも、眠気には勝てなかった。
僕はいつの間にか、布団の中で眠っていた。
迎えに来たお父さんが抱えて、僕の事を運んでくれたと次の日の朝に聞いた。
次の日の朝早くに、彼とお婆さんは帰って行った。と、聞いた。
元々、一泊だけの予定だったらしい。
そうだ、彼は宿泊客なのだ。
この辺に住んでる訳ではない。解かっていたはずなのに。
なんで、忘れてしまっていたのだろうか。
さよならも、言えなかった。
陽は高く、今日も蝉は大きな声で鳴き始めていた。
植物は影を強く付け、光は眼に強く注がれて、僕は思い切り顔を顰めた。
僕は誰にも告げず、昨日行った祠まで走って行った。
汗が背中に流れて、足も縺れていつものように走れなかった。
何処から覗いても耳を済ませても、もう誰も現れなかった。
祠の前にある石で出来た鳥居は、片目づつ色の違う少年の手と同じくらい、ひんやりとしていた。
その後、忙しそうな祖父母の手伝いをしながら尋ねた。
「昔さこの辺で、カンシャサイってお祭り有った?」
「どうかしら? お爺ちゃんなら知ってるかもね」
「わかった。有難う」
畳んでいた洗濯物をお婆ちゃんに渡してから、料理を作っているお爺ちゃんとお母さんのいる台所へ向かった。
「お爺ちゃん、この辺で昔、カンシャサイってお祭りあったよね」
菜箸で綺麗に料理を盛り付けてから、祖父は話し始めた。
「誰に聞いたんだ? もう百年以上前の話だぞ」
「友達」
「物知りな友達だな」
「なりたかったけど、いなくなっちゃった」
「そうか、また、会えるといいな」
小さな声で言うと、頭を思い切り撫でられた。
この辺りはコンビニも無く不便だと以前、学校の友達が言っていた。
中学までしか近くに無いので、早いうちに家族で転校していく子も多かった。
その子達のことだと、思ったのだろう。
そう伝えようと思って声を出そうとしたけど、もう会う事はないのかもしれない。そう思ったら言葉は全て、泣き声に変わってしまった。
眠る前に、うとうとしながら言った「また、遊ぼう」という約束はずっと先の約束になった。




