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「春も終わりに差し掛かったのに、その日はやけに冷えた晩だった。夏至は当に過ぎていた。山に囲まれた大きな屋敷には雪のように肌の白い少女が、人目を避けられる様にひっそりと生きていた。少女は、屋敷を囲う柵の外に出たことは無かった。そんなことは、周りの人間が許しはしなかった。その先には、恐ろしい妖しがいるんだよ。怖いだろう、だから越えてはいけないよ。皆お前を心配しているんだよ。何度も何度も、そう聞かせ続けて閉じ込めた」

 淡々と話す先輩は、まるで予め用意されていた台本を音読しているようだった。声に抑揚が無いのに、舞台栄えする演者のようにも見えた。

 

 そこは、切り離されたような空間だった。

 一瞬、真っ白な世界に入り込んだような感覚がした。

 暗い場所から明るい場所に入り込んだ為、目が痛い。光りの欠片が目蓋の内側を飛んでいく。

 ゆっくり目が明るさに慣れ始めた頃、ここが以前、人が住んでいた場所なのだと解った。

 拓けたこの場所には、円を描くように木片が、ある一点を囲っていた。

 ロープすら張られていない山道だったのに、その場所だけが明らかに人の手が加えられている。いや、いた、がきっと正しい。太陽の光は円の中にも確かに注がれているのに、植物は木片の外側にだけ背丈を伸ばしている。

 その場所を、避けているようだ。

 円の中は土は乾いていて白っぽい。風が吹く度に砂埃が舞い上がっている。

 不思議な光景だ。


 山道は暗かった。

 数歩先に進んだだけで、空間が分断されている気がした。夏の陽射しは光りと影の境界線を強くする。葉で遮られていた陽光がジリジリと直接肌に当たって小さく痛む。自分の指先は冷えているけれど。

 先輩はまるで、何かの本を読んでいるかのように淡々と先ほどの続きを喋り続ける。

「山は色を着けては落とし、また違う色に染め上る。鮮やかに美しく。春は薄桃に、夏は太陽のような黄に秋は燃える様な朱。冬は全てを包んでしまうような純白」

 先輩が手を添えていた他のものより大きな木片は、此処が柵の入り口だった教えてくれる。

 等間隔に木片は並べられていたのにこの一箇所だけは、他よりも間隔が多く取られている。

「来栖君」

 隣に立っている先輩は、怖いくらいにいつも通りに僕の名前を呼んだ。

 返事の代わりに、先輩を見上げた。

「実際に、自分の目で見たいんだ」

 スッと、握っていた手を僕の前に先輩は差し出す。

「手伝ってくれ」

 開かれた掌には、先輩がいつも良く使うメーカーの目薬が乗っかっていた。

 小首を傾げて、先輩は困ったように笑った。

「駄目かな?」

「そうですね」

 想いの外すんなり出た自分の声に、自分自身で驚いた。

 僕は背負っていた自分のリュックから少しだけ温くなったペットボトルをホルダーから取り出し、その下に入れていた少しひんやりとした目薬を抜き取った。

 先輩が宿のテーブルに置きっぱなしになっていたモノを、一応持ってきて良かった。常温以上って確か駄目だったと昔、眼科で目薬を処方された時に医師から聞いた記憶が頭の片隅に残っていたからだ。 

 市販されているモノが、どうだったかは知らないが多分きっと同じだろう。

「こっちにしましょう」

「……来栖君」

「先輩の方が大きいんだから、しゃがんで下さい」

「あ、すまない」

 慌てて座り込む先輩の切れ長の目が、大きく見開かれる。カチリと鳴るキャップを外して、丁寧に点す。

 明るい場所で見た先輩の両目の色は、片方づつ違っていた。

 パチパチと数回、瞬きを繰り返している。

「いつも、ありがとう」

 僕を見上げる先輩は少し潤んだ目で、笑う。

 自分のとった行動が可笑しくて、僕も笑った。



 出来るだけ、その場所の近くにある物が良いらしい。

 いつもより少し丈夫そうな小枝を一緒に捜した。

 先輩は手首に括られた輪ゴムを使って、いつも通り額束の無い鳥居の形を作り上げる。

「凄く今更な質問で申し訳無いんですが、なんで鳥居なんですか?」

 先輩は少し黙ったあと、何かを思い出すように呟いた。

「初めてはっきり見えたのが、鳥居の向こう側だったから。何となくだよ。一人切りで初めて視えた時は必要無かったから」

「もしかして」

「そうだよ。あの時が無かったら気が付けなかった」

 先輩は肩を小さく竦めてから、出来上がった鳥居を高く空に翳すように掲げた。

 あの日も、あの時も、頭上には強い光が注がれていたのを思い出した。

「形なんて、願掛けみたいな物。より、強く感じられますようにって。繰り返していたら癖になってしまったんだけど、これが一番、集中して視る事が出来るんだ」

 僕達は、木片で囲まれた円の内側に入ることはしない。

 形だけの入り口とは反対側に歩いて行き丁度、正反対立ち止まる。

 生えている草を除けて、乾いている土の上にいつもの様にきつめに挿す。

 円の中を眺めているのに、先輩の目はもっと遠くのものを見ているようだった。

「前にも話した事があるけど、眩暈みたいなものなんだ。視界の歪んだ先に、少し覗ける程度のね。理由は解らないけど夏の、限られた間に見える。普段は声を聞くことしか出来ない。君が入部してから神社に初めて行った時は驚いたよ。今まで、何人かに同じ事を試した事が有るけど、声を聞いたのは、君だけだった。サークルを立ち上げてまで同じような人を探したけど、変人扱いされていつも終いだった。ごめんね。君には嘘を付いていた。僕に対しての噂は半分は当たっていると思うよ。変わっているという自覚はちゃんとある。いきなり人気の無い所に連れて行って何か聞こえないかなんて言われたら、僕だって変だって思うもの。でも結局見聞き出来たのは一人、だけだったね。祖母も視えないと言っていたから。もちろん、聞こえもしないしね。でも祖母は、僕を信じてくれた」

「先輩と、初めて会った時も眼帯、してましたね」

「そうだね。小さい頃は、カラーコンタクトなんてしていなかったから」

「見えては、いるんですか?」

 もしかしたら、と思った。

「なんの問題も無いんだよ。何度調べても色が白い、という以外には。何代も前にそういう人が居たって、祖母が話してくれた事が有った。結局は、先祖返りだという話で纏まったみたいだ。普通だったら眼底部の血管の色、それが透けて薄紅色になるらしいんだけどそうもならなかった。自分には白い血でも流れているのかと思ったことがあったけど、他の人と変わらないんだ。水晶体にも何の問題も無いらしいから、白内障の可能性も無いみたいだしね。見た目だけなんだよ」

「そうなんですか」

 先輩の口許は笑っていたが目蓋は丸みを帯びず、一直線に細められていた。


 目線の先は暑さのせいなのか、景色が揺らいで見える。

 眼を擦ってもその光景は、はっきりとした形に変わってゆくだけだった。

 暑さが原因、というわけではないみたいだ。

「あの物語は、先輩と……、」

 言葉の途中で円の中が、ある一場面に変わった。

 まるで、間逆だ。

「去年ね、君と初めて会った場所に行ったんだよ。でも、誰ももう居なかった。建物は残っているのに。行き先を知っている人にも会えなかったな。もう、諦めようかと思っていたよ。まさか、東京の大学で再会するなんて夢にも思わなかった。君が昨日、あの少年の話をするまで確信なんて持てなかったけど。こんな偶然、存在するんだなんて考えたら昨日は全然寝れなかった。不思議な話だけど、君と僕は波長が合うみたいだ。十二年前に君が視たのは本当に、本当にあった話なんだよ。知っている人ももうあまりいないような、小さな小さな民話。君と小さな祠に行った時以来だ。こんなに、はっきり見えるのは」

 こんなに喋る先輩は初めてだ。

 視界はゆっくりと白い、雪景色に切り替わっていく。

「いつも、ここからしか、見られなかった」

 小さく零す声とは対照的に、綺麗な柵の上に乗せられた先輩の手からはキシリと大きな音が響いた。

 目の前に広がる雪景色と、今自分が感じている気温差に戸惑う。

 柵に触れても、白い雪が手の上に触れることは無かった。通り抜けて積もっていく。

 何かを察知したように、他の音は聞こえなくなっていた。蝉が鳴かない。風が凪ぐことも無い。

 雪の日の朝を思い出す。

 

 囲われた空間は広く、先程まで見えていた木々は、大きな屋敷で遮られていた。

 閉じた障子扉が六面、こちら側から見える。

 スノードームのような世界だ。

 空と地面の中間より高い位置から突然、雪が降り出している。

 ゆっくりと柵の上に、積もってゆく。

 直ぐ隣から、息を飲む音が聞こえた。

 白い障子に、黒い影が映り込んで色味が強くなりそれが、人の形になる。スッと、障子が横に引かれた。

 雪のように肌の色が白い、女の子だ。病的な白さ。多分、雪のせいではない。

 白い息を吐きながら、女の子は走り出した。

 近い。

 息が掛かりそうなほど近い横顔の薄い唇が弧を描き、小さく開かれた。

「逢いたかった」

「僕もだ」

 掛けられた言葉は、こちらに向けられてはいない。勿論、先輩にもだ。

 ほんの数歩前に、白い手が伸びている。ぎょっとした。少女よりも骨張った指だ。

 指先、手首肘と順を追ってゆっくりと露わになる。

 白い髪と同じように肌の白い少年が、身体全部を使うように少女をやんわりと抱きしめていく。

 こちらからは横顔しか見えないが眼が、白い。

 円の外から来た少年から零れた声は、高くも無く低くも無い。

 先輩の声とどこと無く、似ている。綺麗な声だった。

 少女は少し離れた少年の頬に手を添える。少年は黙って少女を見詰めていた。

 真っ白な二人は消えてしまいそうだ。景色と同化して。

 これがもし、作られた話だとしたら、ここで終わっていたのならとても綺麗なお伽噺だったにかもしれないし哀しい話で終わっていたのかもしれない。

 何となく、この二人は結ばれなかったと解かる。

 少女は、人形の様だった。


 先輩と僕が見聞き出来るのは、本当に有った過去の話だ。先輩がそう言った。

 これが、先輩が探していた話だとしたら、自分も視てしまったことに勝手な、罪悪感が生まれた。

 先輩は変わらずに、きつく、掴めない雪を握り締めていた。

 視線を正面に戻すと、二人は笑っている。


 ブツリと、景色が変わった。

 目の前が揺れ、屋敷で隠れていたその先の木々が風に煽られている。

 そのさらに先には田畑が小さく見えた。思い出したかのように音も戻ってくる。

 夏の、景色だ。

「忘れないと約束したのに、薄れていくんだ」

 先輩の手からはいつの間にか抜き取った鳥居の形だった枝が、地面にパラパラと落下した。

「彼女は、病気だったんだよ。自分で言っていた。永くは無いと」

 先輩の眼は、落ちる枝を追っている。

 気になることがあった。

 声の他に、容姿も先輩に似ていたからだ。

 少年が現れた時、一瞬、先輩なのではないかと思った。

「あの少年は、昔の先輩なんですか?」

「僕は今年で19歳だよ」

「そうじゃなくて」

「ごめん。どうだったんだろう。もしかしたら僕なのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。もしかしたら、前世の記憶が残っていた、とかね」

「花は、誰が食べていたんですか?」

 昔、先輩から聞いていた話とは違う。彼は人ではなかった筈だ。

「此処に来る前に、小さな社があっただろう」

「はい」

「あの話に出てくる花は、ここから摘んでいったものなんだ。誰も、近寄らないからね」

 先輩は掌に残った赤い輪ゴムを取り上げ、手首に括る。

 あとの木片は全て、埃を払うように小さく両の手の平を鳴らすように叩いて足元に降らせた。

「この屋敷に住んでいた少女は、彼女は弱視でね、殆んど見えてないみたいだった。毎夜、花を摘んでいく小さな少女と僕を混同していたんだ。僕は、毎日は会いに行けなかったから」

 一度目を伏せて、ゆっくりと先輩は視線を上げた。

 自分で先を促したが本当に僕は聞いていいのか、一瞬戸惑った。

「囲われていたのは、僕も同じだった。だからその勘違いは、好都合だったんだ」

 そっと、先輩は柵の上に手を滑らせた。

 端のほうが少し崩れた。多くの月日が流れたせいで脆い。

「この柵の辺りにはね、春から秋にかけて、いや冬でさえ沢山の花がこの柵に絡み付く様に咲くんだよ。珍しいものも有ったと思うよ。別の土地から持ってきたものも有ると、彼女は言っていたから。それは、高値で買って貰えたんだろうね。あの小さな少女は毎夜、綺麗な部分だけを摘んでいったんだ。一度だけ、僕はその少女と鉢合わせてしまった事があるんだ。いつもなら絶対にこんな事にはならなかった。僕は気配を殺して誰も居ないのを確認してから近づいていたし、それは少女も同じだったと思う。なのにその日に限って、僕らはとても急いでいたんだ。僕にぶつかった彼女は勢いよく後ろに花を散らし転がった。僕が伸ばした手は、握り返されることは無かった。白髪ならまだしも、白い目の人間になんて有ったことは無かったんだろう。手足を震わせて折角摘み取った花を踏み散らし、何処かへ走り去っていった。当時は両親からだって恐れられて、人目に付かない様に暮らしていたんだ。当然の反応だと思ったよ。残ったヒアシンス、だったかな。その花は、もう一度取りに来てもいい様に綺麗なモノだけ選んで寄せて、その場に置いた。僕が戻る頃には、誰かが持ち帰っていた。少女ならいいのにと思ったよ。折角摘んだのに、枯らして欲しくは無かった」

「花は、妖かしが食べていると勘違いしていたと?」

「花が消える度に、彼女があまりにも悲しそうな顔をするから、嘘を付いたんだよ。あれは、僕が食べているんだと。僕は花を食べる妖怪なんだよって。笑っていたよ、彼女は。花を食べて生きているなんて、綺麗だと言うんだ。怖くは無いと。そんな妖かしもいるのかと。自分も綺麗なものだけ食べて生きていけたらいいのにって。初めて逢った時からまったく変わらない笑顔で笑うんだよ。いっそのこと、それが真実になればどんなに善いかと思った。でも、僕は唯の人だ。彼女と同じ言葉を話し、同じように足を使わなければ、ここには来られなかった」

「花を摘んでいた少女は、そのあとも……」

「どうなのかな? 僕は彼女が亡くなった晩からここには、足を運ばなくなったら」

「……そうなんですか」

 他に、なんと言っていいのか解らなかった。

 それでも知りたがる自分は、無神経だと思った。

「でもね、花を食べたのは本当だよ。とても小さな、空から降る花」

 人差し指を立てて、先輩は空を指差した。空から、降る花。

「雪、ですか」

「そうだよ。雪の花だ」

 先輩は、白と黒のコントラストが強い空を見上げている。

「あの少女が悪いとは、思わなかった。自分が食べていると伝える方が、とてもしっくりとくる気がしたんだ。それに、少女には守りたい人が居たんだろうね。幼い少女には、こんな所まで来るのは重労働だったと思うよ。それでも一人で、何度も生きる糧を探しに来たんだ。余程の強い思いが無ければ無理だよ。他に、選択肢が無かったのだとしても」

「先輩」

「ん?」

「笑って、ましたね。二人とも」

 先輩は一度眼を見開いた後、笑った。

 笑った顔は先輩とあの少年よりも、初めて会った時の先輩と重なった。



 髪も眼も真っ白な言葉も知らない、花しか食べない妖かしの少年が、大きな屋敷に住む少女と出会う昔話。

 僕が十二年前に先輩から聞いた話だ。

 雪のように肌の白い美しい少女は、毎夜訪れる訪問者に心を痛めていた。

 屋敷を囲う柵に咲き乱れる美しい花々の美しい部分だけがいつの日からかひとつ、またひとつと首を捥がれるに消えていく。

 理由は解らない。

 だが、大きな山火事があった晩から、それは続いていた。


 ある晩、少女は閉じられた雨戸の外から聞こえてきた小さな物音で目を覚ます。

 音を立てぬようにゆっくりと、ほんの少し開けた雨戸の先の光景に息を飲んだ。

 そこにいたのは、真っ白い姿の少年だった。

 少女の震えた手が、扉と扉がぶつかる微な音を鳴らしてしまった。少年はそれに気付くと、顔を向けた。

 焦点が此方に向かっているのかは、解らなかった。

 少年の眼球は白目と同じ色だったからだ。少年は口元に弧を描くとそのまま、何事も無かったかのように帰って行った。

 夢だったのかも知れない。

 少女は次の日の朝、少年が立っていた場所まで行くと今朝開いたばかりの花の間から、不自然に首が捥げた花を一輪、見付けた。


 次の日の晩、月の光が降り注ぐその下で少女は身を屈めて、隠れるように少年を待った。

 ゆっくりと月光を浴びるように、少年は同じ場所に現われた。金色の光りは、真っ白な少年を縁取っていた。

「なぜ、花を食べてしまうの?」

 少女は思い切って声を掛けた。

 少年は答えない。首を小さく傾げて、黙って少女を見詰めるだけだった。

「喋ることが出来ないの?」

 少年は笑うだけだ。

 必要も無ければ、教える人間も居ない。

 少年は人とは話した事が無い。今まで、必要が無かったからだ。

 黙る少年に、少女は自分は同じ言葉は話せないと思うことにした。

 少年の視線は既に、花しか見ていなかったからだ。

 怖い、とは思わなかった。

 少年の姿は人間と変わらなかった。

 ただ、花を食べる少年の話なんて聞いたことも無かったし、こんな時間にここを訪れる人物も居ない。とても、物取りにも見えない。

 小さな頃から柵の外に居ると聞いていたアヤカシなのかもしれない。

 少女は花の茎を折り、少年の前に差し出した。

 眼や髪や衣服は白い。だから少年の薄い唇の赤に、眼を奪われた。

 花を咀嚼する妖かしの少年は、美しかった。


 少女は身分の高い娘だった。だが、身体が弱い。

 ここに越してからは、それも大分減ってはいた。見渡すのは隠すような緑色。

 けれどここには沢山の花が咲き誇っている。遠眼には、緑の合間に微かに桜も見えた。

 この柵の外には、恐ろしい妖かしがいるから、ここから先には出てはいけない。

 それは、少女を大切に思ってくれている人達とした、約束事だった。それは、忘れた事は無い。けれど、自分はここを出てもう直ぐ、顔も知らない人の元へ嫁いで行く。ここには、もう戻れないのは解っていた。

 柵を越えて行くことには変わりない。でも意味がまったく違う。


 少女は少年に、手を差し出した。

 この手は、少年にどう捉えられるかも解らない。少女を食べてしまうのかも知れない。

 それならそれで良かった。

 大切な人を裏切ることがしたかった訳では無い。

 知りたかっただけなのだ。

 毎夜現われるこの少年の世界を。

 少年の手は、見た目通りヒヤリと冷たかった。


 少女の住んでいる場所よりも山ひとつ離れている場所に、月明かりに照らされた美しく咲く花が群生していた。遠かった桜の木も今は近い。

 雪のようだった。

 ゆらゆら降りてくる。

 太陽の下で見たら、眩しい白なのだろう。月の光りに当てられた花びらは、光りを吸い取って金色にも見えた。

 少年は、大きく口を開けて花びらを飲みこんでゆく。

 初めて見た柵の外は、美しかった。 

 自分がこれから生きてゆく場所も、美しい処であって欲しいと願った。

 少年が、一輪の花を差し出した。少女が初めて、差し出した花と同じ花だ。

 ここへ連れて来てくれたのは、そのお礼だったのかも知れない。そっと花を受け取ると、少年と同じように笑って見せた。

 花を食べる少年は、何故、自分のところに通うのか解らなかった。ここにも花は、咲いている。自分の住む場所に珍しい花が咲いていたせいだろうか。花は、両親や歳の離れた兄が、苗木を持ってきて植えてくれた。

 繰り返されて一年中、庭は艶やかになった。見送るのは、ずっと柵の中からだった。

 不意に、自分に逢いに来る為だったら良いのになんて思ったが口にはしなかった。 

 そもそも、少年に言葉は通じてはいないはずなのだから。


 少女は少年を待つようになった。

 少年は屋敷の花を食べる代わりに一輪づつ、花を運んでくるようになった。

 その度に少女は笑う。

 少年は毎夜花を運ぶ。


 終わりは突然だった。

 沢山の花を散らしたような、美しい着物を幾重にも重ねた少女がいつものようにいつもと同じ場所に立っていた。だから少年はいつものように少女に花を差し出す。

 違ったのは、少女が少年と同じように、柵に絡みつく花を一輪、食べたと云う事だった。

 少女は笑った。だから、少年も笑った。

 別れ際に少女は口を開き、形を四回、変えた。

 少年にその意味は伝わることは無かった。


 次の晩もその次の晩もその次の次の晩も、少年の前に少女は現れなかった。

 花は美しく、同じように咲いている。

 少年の手にした花は柵の外で枯れて、会えない分だけ重なって、いつの間にか消えていた。

 初めて足を踏み入れた柵の中には、誰も居なかった。

 いつもと同じように足を運んだ晩、屋敷は折り重なった煤の山になっていた。

 手にしていた白い花が不釣合いに見えた。

 それでも変わらず、少年は花を運び続けた。

 花は咲かなくなった。



 僕が聞いた話は、ここで終わっている。

 その後は当事者しか知らない。その人の最後までが語られる御伽噺の方が珍しい。だから、納得していた。

 

 暫く口を閉ざしていた先輩は、虫の鳴き声と風の音で聞き逃してしまいそうなほど、小さな声を出した。

「毎日のように、夢に彼女が現れて笑うんだ。あの日、君に会うまではそれは毎日のように続いていた。僕の経験では無い筈なのに、なんでかな、もう一度、笑った顔を見たかった。それだけなんだ。本当に。それで終わりにしようと思ってた。だってそれは、僕の糧にしては生けないことだと、僕は知ったから」

 先輩が探していた場所は、ここだった。

 知ってしまった日から今日までずっと自分の記憶のように視てきたら、どちらが本当の自分か、僕だったら解からなくなってしまう。

 別れの日を繰り返し思い出して、閉じこもるしか無い。綺麗な記憶が、囲ってしまう。

 先輩はポーチから少し萎びた花を出し、足元にそっと置いた。

 油蝉の鳴き声と葉の擦れ合う音で、声はよく聞こえなかったが、四回、唇が形を変えた。

 直ぐ此方に向き直り、いつもの調子で僕の名前を呼んだ。

「ねえ、来栖君」

「はい」

 少し、僕の声は上擦っていたかもしれない。

 そういえば随分歩いたのに、僕達は水分を取っていなかった。

 先輩の声も、いつもより低い気がした。

「目薬を点してくれないかな。目が乾くんだよね。これやると」

 緊張感も何も無い、いつもの先輩だ。

 笑うつもりなんて無かったのに思わず、声を上げて笑ってしまった。

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