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三日目の朝、先輩は真新しい白い眼帯をしていた。
「病院に行きますか?」
「大した事は無いんだ。大丈夫だから」
先輩は黒いパンツの右ポケットから目薬を取り出して、覆われていない方の眼に点す。
一度目は零れ落ちたが、二度目は成功したようだ。
先輩は僕よりも大分早く起きていたのかもしれない。僕が目を覚ました時には布団は隅に畳まれていた。
先輩は窓辺近くのテーブルで持ち込んでいたノートパソコンのキーを叩いていた。カーディガンを羽織った先輩に「お早う御座います」と声を掛けたら、「ごめんね、煩かった?」と言われた。
眼が覚めたばかりの頭で口ではなく、頭を振ることでそれを否定した。先輩は小さく笑った。その直ぐ脇の、カーテンの閉まった窓からは薄明かりが零れていた。何となく、いつもの部室に居る気分になった。
先輩はまた、カタカタと音を鳴らし始めた。本当は、寝れなかったのではないのだろうか。僕が寝入る寸前に見た先輩は、同じ体勢でいた気がする。
一日の日程を、軽く話し合う。
「今日、止めにしませんか? あんなに足場の悪いところにその視界じゃあ、危ないですよ」
「今日が良いんだ。悪いね、付き合ってくれ」
直ぐにそれをきっぱりと否定された。
どうしても譲れないみたいだ。
理由は解っていて、聞いた。
夏の間は、強く視えると言っていた。
言い換えればこの時期を逃してしまうと、来年まで待たなくてはならない。
先輩はインドア派に見える。実際、部室に篭もっていることが多い。自分が顔を出す時は、大体いつもと同じ場所でパソコンを弄っていた。
でも、何か解かると直ぐに行動に移す。携帯電話に、何日か出掛けるなんてメールをしてくる事も有る。
本当はアクティブな人なのかもしれない。だから僕がなんと言おうが、行動に移すだろう。
半分は出させてくれと言った宿代だって、勝手に決済を済ませていた。だから、「今日のお夕飯、山菜がメインらしいですね。良かったですね。前に好きだって言ってましたもんね山菜」
だったら、なんでも良いから早く帰りたくなる理由を提示しておこう。
少し、早口になっていたと思う。ちょっと恥ずかしい。食べ物で釣るとか、そんな事くらいしか思い付かない。
沈黙に耐えかねて先輩の顔を見ると、きょとんとした顔をしていた。
ちょっとじゃなかった、大分恥ずかしくなってきた。手の平に滲む汗は、暑いからではないのは解かっている。空調の聞いた室内に僕らはまだ居るのだから。
「それは、楽しみだね」
先輩は笑った。
少し腹が立ったが、早く帰りたくなって貰おう作戦は取り敢えずは成功したらしい。
小さく笑い声を零す先輩は、本当に山菜が好きなんだなって思った。食べ物で釣られてくれて本当に良かった。
手早く身支度を整えて、昨日よりも早めに目的地を目指す事にした。
昨日挿した小さな鳥居を、土から抜き取った。柔らかい土のお蔭で簡単に持ち上がる。
まだ陽は高いが、やはり此処は変わらずに薄暗い。足場も悪いままだ。
じわりと纏わり付くような暑さで、不快指数が上がっていく。
特に意識はしていなかったが奥に進むに連れて、徐々に怖いと感じているのかもしれない。
身体の内側から、何か、ザワザワと這い上がって来る。昨日も聞こえていた蝉の鳴き声が、耳鳴りのように聞こえてくる。
「来栖君、こっち」
まるで知っている道を歩いているかのように、先輩の足は動いている。
受動的、と言っても良いのかもしれない。迷いが見られない。
塞がれた片目は、何の影響も受けていないのだろうか。
僕は返事はせずに、黙って後ろを着いて行く。着いて来ているのは多分、葉を掻き分ける音で解かるのだろう。
先輩は振り返らない。もしくは、振り返るのも惜しいのかもしれない。先輩の足取りはとても安定している。
去年までは一人で、彼方此方を回っていたと言っていたからその中の一つと似たような場所なのだろうか。
でも、それは違っていた。
「先輩、これ」
「去年、僕がこの場所に挿した物だよ」
膝を着いた先輩の足元には、木の枝で出来た鳥居が葉と土に埋もれ少しだけ姿を現している。
鳥居はいつもの様に真っ直ぐにではなく斜めに挿さっている。時間が経過している為なのか、輪ゴムが切れかけて形が少し崩れている。
「今回は、一人は駄目だって……」
「ここまでしか、駄目だったんだよ」
軽々と抜き取ると、小枝をぱらぱらと足元に散らした。古い輪ゴムは、簡単に切れてしまった。
「深いんだ。でも今は解る」
先輩は立ち上がると、眼を細めてもっと奥を見ている。僕には、視えていないものが先輩には見えている。
「来栖君、こっち」
聞きたいことは沢山有るのに、先を急ぐ先輩を追い掛けるだけでもう精一杯だった。
先輩は、念の渦みたいなモノが見えると言っていた。
見えると言っても酷く曖昧なモノらしく、殆ど感覚なのだと。
それを自分も先輩と一緒に体験したのは、大学からそう遠くもない通学中に通る普通の神社でだった。
自分にとっての、風景の一部になっていた。中に入ったことは無かった。
古い建物の近くは、解り易いと言っていた。
歴史の分だけ語り継がれる。だから小さな民話も多いらしい。例え語られなくても、そこに人が生きていた、その事実があれば充分。
神社は綺麗に清掃が行き届き、きちんと管理がされている。
「来栖君、こっち」
建物の裏手に周り、境内に落ちていた小枝を四本捜し、器用に輪ゴムを使い鳥居の形に変えてゆく。
地面は砂利が敷かれていたが手で軽く除けると薄茶色の土の部分が見えた。そこにゆっくりと、強く挿し込んだ。
土が固いのか上手く刺さらず、小さな穴まで指で先輩は掘っていた。
頭の中は、疑問符で一杯だった。
「ここだよ」
「なにが、ですか?」
「シッ、耳を澄ませてごらん」
唇に人差し指を添える先輩の顔を一瞥してから、目を閉じて耳を済ませた。
なにか、聞こえる。
こぶしの花弁が、少し茶褐色に変色して足元に敷かれていく音ではない。
小さな、小さな話声だ。
――今年は不作だ。
――雨乞いをしなければ。
――巫女様を呼ぼう。
バッと目蓋を上下に開いて辺りを見渡しても、自分達以外には近くに人の姿が見当たらなかった。
そもそも声は、足元から聞こえていた。
解っていて、先輩に聞いた。
「どこから、聞こえて……」
「その、僕が作った小さな鳥居からだよ」
少し困った様に笑い、先輩はサッとそれを引き抜いた。
声は直ぐに拾えなくなった。
「ね、僕は少し変わっているだろう」
変わっている、というか。
「そういう、ご家庭ですか?」
「両親は、不動産業を営んでいるよ。祖父はそこの会長だ」
違うのか。だとしたら。
「……なんで、僕を連れて来たんですか?」
「僕の奇行が平気な君なら、どうかなと思ってね」
自覚が有ったのか。平気というか若干、慣れた部分が大きいのだけれども。
「去年辞めてしまった部員にも、同じ事を?」
「いいや君と祖母の他に、昔にもう一人、ね」
笑う先輩を見て、ザワリと身体に何かが這い上がる感覚がした。恐怖では無い。
ある憶測が頭の中を駆け廻ったからだ。
「聞こえたのは、今までに君を含めた、もう一人だけだ」
小さく先輩は零して、沈黙が暫く続いた。
先輩は僕の返事を待っているのだろう。
けれど断る理由も、特には無かった。
そもそも入部したかった理由は、ちゃんと僕にも有ったからだ。
「バイトがある日は、お休みしてもいいですか?」
「うん! いいよ!」
子供みたいな返答に、僕は笑ってしまった。
何の流れか握手をした先輩の手は、穏やかな空気と反するようにひやりと冷たかった。
憶測でしかなかった。
行動を共にする時間が増えてからも、伝える事は無かった。
もしかしたら、目的は違っても同じ人を探しているのかもしれない。別人かもしれない。忘れて、しまっているかもしれない。
咽喉が渇いているのに、水分を欲しいとは思わない。小さく息を吐き出すと、咽喉はひり付く。
「花を食べる少年の話、知っていますか?」
最初にこの土地に来た時と、同じ質問を先輩にする。
少し離れて歩く先輩に声を荒げて、他の音に遮られないように、ちゃんと届くように声を張った。
片目を覆われて平衡感覚が鈍っているはずの先輩は、足場の悪い山道を平然と前へ前へと進んで行く。こっちはさっきから足を取られることが多いというのに。
「草食系男子の話?」
先輩は両足をピタリと揃えて止まった。
此方を振り返らないが、笑っているのが声で解る。
先輩も僕も、滅多に大きな声は出したりしない。そのせいだと思う。少しずつ距離が縮まる度に、血液の流れが速くなっていく気がする。ドクドクと、自分の血が廻る音が耳に煩い。
「違いますよ。先輩が昔、僕に話してくれたんじゃないですか」
先輩は耳に掛けていた白いゴム紐を、少し長い髪を邪魔そうにしながら外した。
それをジーンズの右ポケットに押し込み、代わりに何かを取り出した。
それが何なのかは、こちらからは見えなかった。
夏の強い日差しが、強弱をつけた影を造り出す。
「僕が知っている話で合っているのなら、君に話した事が有るね」
「なんで、知らない振りをしたんですか?」
先輩は、此方を見ない。僕も隣には並ばず、少し後ろで返事を待った。
「君だって、知らない振りをしてた」
「それは、」
そうだ。僕も言わなかった。だから、先輩を咎められる立場ではない。グッと手の平を握りこむと、爪が食い込んでピリッと小さな痛みを生み出した。
自分だけが押し付けるのは、違うだろう。
「それに、違うかもしれないだろう。簡単に出来る話でもない。あの話は、二人にしかしていない。だから、驚いた。ネサフしても見付からないし、もしかしてと思った」
「僕も、似たような話なら沢山見付けました。でも、大分昔の話だったし記憶違いかもしれない。どれも本当のようには思えなくなっていました」
「仕方ないよ。あれは、祖母と君の二人にしか話した事がないんだ。祖母にも止められていたし、そもそもお伽噺のようなものだろう」
薄暗いこの場所で振り向いた先輩の顔はよく、見えなかった。
足は、縫い付けられたように動かない。
けれど、「来栖君、こっち」と言った先輩の一言に、最早条件反射のように足は動いた。
てっきり、僕の事は忘れられていたのだと思ってた。
時間だけで数えたら、一日も一緒には居なかった。
振り返った先輩が、小さく手招きをする。
重かった足取りが、少しだけ軽くなった気がした。




