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僕と先輩は、小さな民話を調べている。
大学の長い夏季休暇を利用して、二人でいつもよりも遠出をする事にした。
けれどバイトをしている自分にとって、夏のこの時期は稼ぎ時でもある。連休を取れるとしたら四日間。それ以上は、バイトのシフト的にきつい。余り間を空けると、シフトを減らされてしまう。
銀次先輩と会ったのは、大学に入学してから数日経ってからだ。
サークルに入部して更に数日後、ポツリポツリと日常会話が増えた。その時に話してくれた。
先輩には探している話があるらしい。それも幼少期から。
そのために、サークルを立ち上げたらしい。
『民話不思議発見部』
ちょっと、胡散臭そうな名前だった。
創設者の二年生銀次先輩と、今年入学した僕の二名しか在籍していない。
部とは言っているが、同好会である。昇格するには最低、五名在籍しなくてはならない。
今年は僕を含め入部希望者が四名居たが、部に昇格することは無かった。他の、女子三名が早々に入部を取り消したからだ。
どちらに原因が有ったかなんて此処まできてしまうと、もう人それぞれなんだろうな、なんて、その時は思ってしまった。
感じ方なんて、当事者にしか解からない。
僕も当事者なのだけど、先輩の行動パターンにはちょっと、吃驚してしまった。
ドアが有るのに、二階の部室前の木によじ登って窓から入室したり、部室を紙の束でいっぱいにして「入れません」と抗議した女子に対し、「入る方法なら、幾らでも有るだろう。僕の道楽に付き合えないなら出て行ってくれ」と言い放った。
意味が解らない。
三名の女子は暫く固まったあと、無言で帰って行った。
僕は僕で「バイト入ってるんで今日は帰っていいですか?」と告げた。「どうぞ」と困った顔で返してきた先輩に、軽く頭を下げてから部室を後にした。
元々自由な出入りで構わないと言われてはいたが、少し罪悪感が沸く。
本当はバイトまで、まだ大分時間があった。
それでも、女子三組みはまだ部室に顔を出していた。僕はバイトで行かない日も有ったから、僕よりも部に顔を出していた筈だ。
入部届けは仮入部期間が過ぎたので、きちんと期日には提出した。先輩は小さく頷いて受け取った。
数日後、彼女達は退部届けを渡してきた。僕に。「渡しておいて!」と、僕の胸元に押し付けて怒りながら行ってしまった。唖然とする僕の隣で、友人が僕の変わりに苦笑いを零してくれた。
それをその日の講義終了後、部室に居るであろう先輩に渡しに行った。
三回、扉をノックをすると室内から「どうぞ」と聞こえたので「失礼します」と言いながら扉を開けた。
薄暗い室内で、先輩は内側から窓を開けている最中だった。部室は綺麗に片付けられていた。
先輩の所まで歩いて行って、頼まれていた書類を手渡した。
受け取った先輩の、とても驚いた顔を今でも覚えている。
数少ない退部届けの枚数を数えながら、「君も辞めてしまうかと思った」と呟かれた。殆んどが独り言のように聞こえた。
渡したのは三枚の退部届け。僕の分は、含まれていなかった。
君も辞めれば良かったのに。
と、一瞬言われている気がしてしまった。だって、先輩は表情が余り変わらないからどう汲み取っていいのかよく判らなかった。
退部届けを見詰める顔は、もう元の無表情に近い。
けれどそんな先輩が眉を顰めて、口角を少し上げた。
先輩は、「申し訳ないが試させてもらったと」零した。僕はこの時、目を普段よりも見開きながら口を閉め忘れていたと思う。
小さく肩を竦めながら先輩は、少し目尻を下げて更にもう少し口の端を上げた。
先輩はまた小さく謝ってから、その事情を話し始めた。
大して興味も無いのに入部する生徒が、昨年は十名程いたらしい。
活動は自由で構わないとは言ったものの、それはあくまである程度の出席の有無に関してで、まったく活動内容に興味が無いのはそれはそれで困ると教えてくれた。
他の理由も、有ったとは思う。
先輩は黙っていても、女の子に声を掛けられる。整った容姿は、時としては不便らしい。
まあ僕には、関係の無い理由だが。
「それと……」と苦笑いをしながら先輩は続けた。「あのね、僕は少し変わっているらしいから」と零した。
確かに変わっているとは思ったが、別に辞めるほどではないかな、と思った。理由も話してくれたわけだし。僕も変わっているのかもしれないが。
首を傾げる僕に、にこりと笑い「宜しくね」と言い手を差し出してきた。冷たい手の平を握って「宜しくお願いします」と僕も笑った。
この時、確かに部室は綺麗だった。これが本来なのだと思った。
数日後には元に戻ってい、僕が結局片付ける日が増えた。
まあ、本気で学びたい人は、『風土民俗研究会』の方に入部している事だろう。人数も倍以上だと聞いている。文学部の人も沢山入部をしているらしい。
そもそも、僕と先輩の専攻科目は経済だ。分野からして違う。
先輩も言っていたが、趣味で調べているようなものなのだ。
民話を中心に調べている。それも、出来るだけ小さな、お伽話みたいな話をだ。
方法なんて今の世の中、いくらでも有る。インターネットを使ったり書物で探したり、その土地の人に聞いたり。
「大学のサークルで調べてるんです」と言えば、大体の人は警戒心も抱かずに話してくれる。わざわざ余計な説明を省ける、そんな利点の為に先輩はサークルを立ち上げた。
先輩は人と話すことは、得意ではないらしい。なら尚更、人を入れる必要は無いのではとも思った。
実際去年までは一人で調べていて、何故かそれが成り立っていたのだから。
だから一度、退部届けを先輩に出したことがある。でも、受理されなかった。「なんで辞めたいの? 興味があるから入ってくれたんでしょう?」と聞かれて、「有りますけど、僕、邪魔になりますよ」と素直に答えてしまったからだ。「じゃあ、これは要らないね」と笑顔で退部届けは破られた。
ああこの人も笑うんだ。なんて、その時の僕は場違いなことを考えていた。
その後だ、探している話が有るから手伝って欲しいと言われたのは。
人手がいるなら、まあいいかと思って、そのまま在籍する事にした。僕にとっても、その方が都合が良かった。
入部した理由を、先輩が聞いてきたのは一度きりだ。退部届けを破られた時に、興味の有無を聞かれただけ。
とても曖昧な理由を人に言うのは得意では無いから、言いたくは無い。
先輩の探している話は、なかなか見つからないらしい。もう随分前から探していると言っていた。
詳しい内容は、そういえば断片的にしか聞いていない。直接現地に出向く際に少しの手掛かりを聞く程度。
「来栖君、こっち」と、先輩はたまに勘で探してくるからだ。僕は誘導に従うだけ。
これは、手伝っている事になるのだろうか?
木々の影が、更に濃くなる。
斑に注がれる線が本当に細い糸のようで、手を伸ばしてもスルリと通り抜けていくだけだった。
薄暗くロープももう張られていないのに、初めて来ると言っていた場所に迷いもなく先輩は進んで行く。
正直、逸れたら遭難してしまうと思った。こういった事は、初めてでは無いけれど。
休みが合えば日帰りで、似たような場所に足を踏み入れたことがある。
でも今回のように、深い場所にでは無い。自分の影が見えなくなるって事は初めてだ。
伝承の中の伝承。もうひとつのお話。密話。
言い方は様々で要は、隠れたお話。
それは、場所と深く関係しているような気がする。
そういった話は、表立って伝えられることはないから、わざわざその場所まで探しに行かなければならない。
情報は世界に溢れている。
インターネットを使えば、何処からだって探し出せる。情報化社会だ。
極秘事項はセキュリティーの深い場所に存在する。
そう考えると、何年経っても、根本は変わっていないのかもしれない。
知られたくないから見付かり難い。誰にも伝えられない話だってあるだろうに。
だから、実際に視に行く。
先輩が急に立ち止まり、何かを探し出す。
僕の足元に焦点を合わせるとスッと、指を指した。
「そこの枝、頂戴」
「これですか?」
「うんそれ」
足元に何本か転がる、少し太い小枝を渡す。ちょっとしんなりとした手触りだが、多分これのことだろう。
先輩は自分で拾った物の他に、僕が拾った物と合わせて簡易的な、輪ゴムを使って素早く小さな鳥居を作り上げた。
そしてそれを、地面に刺した。
足場は悪く、おまけに湿地なので簡単に刺さっていく。立てば問題は無い。
「今回は、随分と解り辛い場所でしたね」
先輩は頭を振った。汗が辺りに少し散る。薄暗いので、少し覗き込んだ先輩の顔色が悪く見える。
もしかしたら、本当に具合が悪いのかもしれない。
風もあまり吹いてこないので、ジトリとした暑さが身体に纏わり付いて気分が悪くなる。
大丈夫だろうか、先輩は。
無表情に近い先輩の口元が動いた。
「人の想いと一緒だよね。強いほど深い。悪いけど此処ではないんだ。もうちょっと先にあるみたい。これは、ここまでの目印にしよう」
表情と同じで、声色にも抑揚が無い。
「先輩、水分取った方がいいですよ」
先輩の眼をしっかりと見てから伝えると、先輩の目蓋が大きく見開いて表情が帰ってきた。そういえばいつからかは忘れたが、先輩が無表情でいる方が珍しいと感じるようになった。
「忘れてた。道理で咽喉がカラカラだ」
「忘れないで下さいよ」
そういう自分のペットボトルの中身も大分有るのだが、先輩からはカチッと音が聞こえてきた。まったく水分を取っていなかったみたいだ。
「先輩、独り暮らしなんですよね」
「そうだよ」
中身を一気に半分ほど減らしたところで、キャップを閉めている先輩に尋ねる。
「なんか、心配です」
「大丈夫だよ」
へらりと笑う先輩を見ると、真面目な顔とのギャップに戸惑う。緩い。
次に告げられた科白に、更に戸惑った。
「でも二、三日見掛けなかったら訪ねて来てね」
「嫌ですよ」
「なんで?」
「なんでって……」
盛大に困った顔をされると、こちらが困ってしまう。
この人をクールだのミステリアスだの言っている人に見せてやりたい。この人の人を不安にさせる生き方を。
聞いても居ないのに住所を言い始めるのでもう、「はいはい解かりましたよ」と御座なりにした返事に盛大に喜ばれてしまった。
念の集まる場所が解るのだと以前、先輩は言っていた。
眩暈みたいなもので、ゆらりと揺れるようにスルリと視界に入り込んでくると話していた。心霊的なものとも違うらしい。
原因は解からないらしいが、気付いた時にはそれはもう自分にとっての日常だったと話してくれたことがある。
なんの為に探しているのか、正直それが何になるのかはもう、解からないみたいだ。
ただ、どうしても視ておきたい聞いておきたい、それだけの理由らしい。その為の手段を理解してくれる人なんて、片手ほども居ないらしい。
「ここからは、解からないんですか?」
「本当に、少ししか解からない。ただ、あるはずなんだ」
先輩は眉間に皺を寄せて、小さな鳥居を撫でた。近くまで来ているのに、なかなか辿り着けない。
もどかしくて、仕方ない。険しい顔をしているという事は、本当に近いみたいだ。
普段は表立って変化させない先輩のこんな顔は、本当に久しぶりに見る。
頭上では葉が風に凪いで、ガサガサと鳴る。
「また、明日にしよう」
先輩は立ち上がり、険しい顔を崩さずに僕の横をすり抜けた。元来た道を辿って行く。帰る事にしたらしい。
木々の間から見えている太陽は、天辺よりも大きく傾きだしていた。
手探りでここまで来たのだから、それ相応の時間は掛かってしまう。
昨日、三本目に乗り継いだ列車の中で話していた「今回は、一人では駄目なんだ」と言っていた理由もきっと、明日には解るだろう。
黙って先輩の後ろを追い駆けた。




