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彼は生きている。
だから、食べるのだ。
綺麗なものを。
純粋とは、なんなのだろうか。
自分に害を為さないものの事だろうか。
だったら、彼は違ったのだろう。
花を食べて、彼は生きていた。
彼は、花にとっての害に為る。
廻る。
だから、続けて往けるのだろうか。
山は深く、木々が光を受けた分だけ線引きを強くする。
舗装などはされていない、足跡の分だけ慣らされた土の上に大小様々な石が散る道を歩き続ける。腕時計を見るのも、そろそろ嫌になってきた。
歩いていると、普段は頭の片隅に追いやられている事がやけに鮮明に脳内に現れたりする。
その脳内に現われた問いの一つを、目の前を息せき切らして歩く人物に投げかけた。
「花を食べる少年の話、知っていますか?」
こちらを振り返ることはせずに、腰を少し曲げてゆっくりと足を一歩一歩前に進める先輩。背中には疲労と書いてありそうだ。
先輩は僕が今年の春から通っている四年制大学の二年生で、所属するサークルの部長をしている。
搾り出したかのような声が、前方から聞こえてくる。
「草食系男子の話?」
「全然違いますよ。何でそうなるんですか。本当に食べるらしいですよ。食用とか関係無く、花だけ」
あ、間違ってはいないのか。漢字的には。
慣れた足取りで目の前の先輩を追い抜き振り返ると、下げていた視線をチロリと上げてこちらに見てくる。
「ベジタリアンの話?」
「限りなく惜しいんですけどね。ところで先輩、見えて来ましたよ」
返事こそ返してくれるが、今はそれどころでは無いらしい。
ほら、と山頂付近を指差すと、先輩は細い眼を更に細めた。
「……遠くね?」
「あと、そうですね。三十分位ですよ。もの凄く大きな旅館でなければ」
「……慣れてね?」
「実家がこんな感じの、山の中腹に在ったんで山道はちょっとは慣れてるんですよ」
「ちょっとねえ」
涼しい顔で言うと、先輩は先程から少し上げていた視線と一緒に表情を落とした。
先輩、インドア派ですもんね。
再び舗装なんかされていない、わざわざ選んで通っている山道を歩き出す。
先輩は汗で青いシャツが、既に濃紺に変色している。
前にも後ろにも自分たちの他に、人は見当たらない。
蝉の鳴き声が耳に痛い。足元の小石が爪先に打つかって、前に転がった行く。
「文明の力って凄いですよね」
「今は、厭味に聞こえる」
「厭味ですよ」
後ろを歩く先輩は多分、眉は顰めてはいない筈だ。寧ろ八の字にして、小さく口角を上げている事だろう。
僕だって東京に越してきて三年以上だ。里帰りなんて、年に片手で数える位しかしていない。
こんな山道自体、久々なのだ。美味しい空気を吸うのにもあまり感慨を持たなくなってきた。
背中を伝う汗が、Tシャツに染込んで布地の重量を増す。
そもそもこの先輩、このちょっと変わった先輩とは出会ってから半年経過をしたかしないかだ。でも、なんだか昔からこういった関係が続いていた様な、変な、居心地の良さが有る。
そういった人に出会えた事はとても、幸せなんだろうなと思う。
今だから言える。
全ては時間が解決してくれるものなんだと。疲れた。
旅館が近付くにつれ、足を下ろす場所が土からアスファルトに変わっていく。
急に硬くなった地面に、逆に違和感を覚えた。
駐車場には、乗用車が何台か止まっているのが見える。
入り口付近の掲示板に『銀次御一行様』と、先輩の名前みたいな苗字が印字された縦長の紙が貼られている。
ああやっと着いたんだなと、急に実感が湧いた。
自分達の分を含め、五枚の紙が横一列に並んでいる。
今日の宿泊は、当日の素泊まりでの予約でも入らない限り五組だけなのだろう。
旅館の入り口付近に横付けされた、送迎用のバスからは数人の人物と旅館の名前が刺繍されている羽織を着た従業員の人が乗り降りをしていた。
その横を通り抜け、旅館前に敷かれたマットを踏むと、自動ドアが開いた。
空気が一変して、肩の力が一瞬抜ける。
空調の適度に効いた館内は、別の世界に足を踏み込んだような印象を与える。
衣服に出来たちょっとした隙間から入り込む風に、湿ったTシャツが肌に触れると少し寒く感じる。早く着替えたい。
黒い瓦屋根の古い佇まいを思わせる外観に比べ、館内は洋を基調としているものも多かった。入って直ぐ足元に広がる赤いカーペットが、どこか明治時代の雰囲気を連想させる。
文明開化、だったかな。
古いものと新しいものが交ざり合い、そういう印象でとても好感が持てた。
カウンター横の大きな花瓶に生けられた向日葵が、とても鮮やかに眼に飛び込んでくる。小振りの向日葵は入り口を向いていて絵画のようにも見える。
カウンターでチェックインを早々に済ませ、従業員の方に部屋まで案内をしてもらうことになった。
途中、ロビーで部屋まで案内をしてくれる従業員の人を待っている間に横を通り過ぎる他の宿泊客に、チラチラと見られる。
男二人の組み合わせが珍しいとか、では無いと思う。
原因は、先輩の荷物の多さにだと思う。下に置けばいいのに担いだままだ。
三泊四日の予定で来ているが大きなボストンバックと、リュックとポーチは些か多過ぎではないだろうか。
何が入っているかは解からないが、先輩はそんなにお洒落さんなのだろうか。それとも余程の汗っかきなのかもしれない。
大学で会う時はいつも薄手のシャツにジーンズが多かった気がする。装飾品なんて腕時計くらいだ。
しかし、知っていたのなら車を借りてくれば良かった。
よれよれ歩く先輩を放っておける訳も無く、結局自分のリュックと先輩のリュックを担ぐ羽目になった。「ごめんね」なんて言われたが、当日にこの謝罪は勘弁して頂きたい。せめて、前日に覚悟をさせて欲しかった。
従業員の方が朗らかに笑いながらやって来て、カートに荷物を載せて行く。
その大荷物をいくら仕事とは言え、一所懸命カートに乗せて引いている年配の従業員の方の腰が心配で仕方ない。
ロビーを抜けて宿泊する部屋に向かう途中、ガラスケースに入れられた美しい調度品が、悠然とその存在感を主張する。
創業何年かは忘れてしまったが、此処は老舗の旅館で名前くらいは聞いた事が有った。
リニューアルをしてからは自分達の様な若い年齢の宿泊客も増えたと、従業員の方がカートを引きながら言っていた。
増えたといっても敷居が高そうに見えるので、若者が少ないのも解かる気がする。自分だけが、場違いな気がしてならない。
赤い絨毯の敷かれたエレベーターに乗り込む。
静かに稼動して、予約を入れていた部屋を繋ぐ通路に到着する。
三階建ての三階、つまり最上階だと解かると少し嬉しくなる。
近くは山々に囲まれている。
この夏の時期、光を受けた植物は先ほど通ってきた山道のように、強い陰影を付けている。それを、暑い場所で見るのと涼しい場所で見るのとでは大違いだ。
外の掲示板と同様に、先輩の苗字が印字された紙が貼られている直ぐ横の、スライド式の木と曇り硝子で作られた扉を引くと、内扉がまた一枚。その扉を従業員の方が先に開けてくれた。先に中に促されて、先輩はさっさと部屋の中に入っていく。その後ろから、少し急いで続いた。入って直ぐに、窓かはまるでロビーで見た向日葵のように絵画と見紛う景色が眼に映りこんだ。外の世界を薄く橙色に染め上げている途中だった。
入り口で佇んでしまっていたら先輩に名前を呼ばれてハッとした。後ろで荷物を運び入れてくれている従業員の方に軽く会釈して、手伝おうとして止められた。
部屋は和が基調とされていた。
洋室と和室が選べると聞いていたが、アパートが洋室なのでこの方が嬉しい。
八畳ほどの畳の間の先に、二畳ほどの板の間が見える。板の間にはテーブルセットが一組ある。
登っていた時は同じ様に見えていた緑色は、改めて見るとやはり全然違う。
風が吹けば木々は揺れて、光りの加減で全く別の空間にいるような気分になる。
既に畳の上で寝そべり、先輩は足を高く上げ揉みながら唸っている。
「大丈夫ですか?」
「明日が怖い」
バタリと足を畳みの上に落として、天井を見詰めながら先輩はヘラリと笑う。その様子を観察でもするように、僕は椅子の柄に肘を付いて眺めた。
先輩はヒョロリとしていて、失礼かも知れないがお世辞にも余り筋肉が付いている様には見えない。
背が高く、細長い。
この老舗旅館には場所の所為も有るのだろうが先ほども見たばかりの、今時珍しくも無いバスでの送迎サービスが有る。要は駅から遠いのだ。
でもこの先輩は、それを拒否した。
「自然を楽しみたいから」の一点張りで、インターネットで探してきたこの旅館のホームページの、『送迎サービスを希望されますか?』 のチェックボックスを埋め無かったのだ。
自業自得なのだ。
もっとしっかりと、自分もホームページを見ておけば良かった。「自然を楽しみたいから」のあとから続いた「駅からちょっと歩きたい」のちょっとなんて、まったく当てにはならなかった。
変わらない体勢で「最初しか楽しめなかった」とぶつぶつ文句を言い出す先輩に、山を見た瞬間に顔を顰めたいたくせに、とは言わなかった。
部屋に案内されてから暫らく、十分程経った頃だろうか、入り口の襖扉の方から戸を叩く音が三回聞こえてきた。「どうぞ」と先輩が声を掛けると、横に戸が摺れる音が聞こえる。先輩はのそりと身体を起す。
内襖が開き、慣れた所作で三つ指を揃え女性に深く頭を下げられる。
ゆっくりと女性は再び顔を上げ「ようこそお越し下さいました」と微笑む。凛としている。若草色の着物が似合う女性だった。
女将さんだろうか。まだ若い印象を受けるけれど。
こちらも軽く、会釈を返す。
「遠い処からお越し下さり、有難う御座います」
もう一度、頭を下げる女将さんを見ながら先輩の横顔はニコニコと笑っている。
顔をゆっくりと上げた若い女将さんの顔が、幾分か赤くなった気がする。
「サービスの変更って出来ますか?」
先輩は笑顔だ。
来て早々、帰りは送ってもらう事になった。
標高と時間帯のせいか、はたまた空調のせいなのか着替えたらあまり暑さを感じなくなっていた。
先輩に聞いてから空調を切り、窓を開ける。夏にしては、涼やかな風が入り込んでくる。
あんなに暑かったのに、肌に当たる風は心地の良いものだった。
少し窓から身体を乗り出し眼下を眺めると、敷地内に向日葵が群生しているのが見えた。此方を向いている。
春は桜が、秋は紅葉に冬は雪景色が、そして夏には向日葵の群生がこの地を彩取り美しいと、ちらりと見たこの旅館のホームページで紹介されていたのを思い出す。目立った大きな建物が見受けられないから、余計に自然が目立つ。
先輩から他のサイトでもお勧めされていたのを見たと聞いていたので、何度も繰り返すようだが、結構な有名老舗旅館だったりする。
「先輩、本当に良いんですか?」
「なにが?」
質問を質問で返される。
艶やかな漆塗りのテーブルに、シルバーのノートパソコンと沢山の紙を並べて先輩は頬杖を付付いている。片手でキーボードをカタカタと叩いて、タッチセンサーの上に指を滑らせトントンっと、二回小さく鳴らしている。
眼鏡のレンズ越しからは、眼を細めているのが見えた。
先輩の荷物の多い理由はこのせいだった。
服にしては道理で重いな、とは思ってはいたが。
先輩は何かを探しているようでモニターに釘付けだったが、ちゃんと返事は返してくれたので、そのまま話を続ける。
「ここの宿代ですよ」
「交通費も出すって言った」
「流石にそれくらいは自分で出します」
「いいのに……」
先輩はモニターからやはり目を逸らさずに、口を不満気に尖らせた。
しかし、そもそも一介の大学生が軽く出せる額では無かった。
先輩がホームページからここを予約している時に、やはり心配な宿泊費はどれくらいだろうと後ろから覗いたときに見えた金額に、思わず「無理です」と一度は断った。正直、入力ホームを直視したくなかったが一箇所で視線は釘付けになった。
びっくりして、先輩が座る椅子の背凭れに手を掛けて固まっていると「株で儲けたんだよね」と軽く言って、予約完了ボタンを二名分平然と打ち込み、旅館からの返信メールを同じように平然とした顔をして待っていた。
儲けたのは先輩で、僕では無い。
予約してしまったところ申し訳ないが「いや、だから無理です。せめてレンタカーを借りて自分はそこで寝泊りします」と告げると、首を傾げられた。「なんで?」なんて言われても、その月バイトで稼いだ額をまるまる全額振り込む気にはなれない。そんなにゆとりをもって生活をしているわけではない。一人暮らしの1DKのアパートだって、それなりの金額は毎月持っていかれる。
言い淀む自分に先輩はああ、と納得したみたいで、あっけらかんと笑いながら「君が払い込む額はないよ。付き合って貰うのに、そんなことしないよー。ハハ」と言ってきた。
爽やかに笑われるが、いくら自分でも、気が引ける事この上ない。
艶やかな漆塗りのテーブルに載るノートパソコンも、新調したばかりだと言っていたのを再び思い出す。
型はテレビのCMで見た最新のものと同じだった。
どれだけ儲けたのかは、同じ大学生として、なんか聞きたくない。
もう、素直に甘えておこう……。いずれ返済してゆこう。
「ないなぁ」
先輩は眼鏡を外して、何度も大きく瞬きを繰り返している。それでも視線はモニターから離れてはいない。
取り敢えず自分の中での切り替え作業を行ってから、先輩の呟きに勝手に返答することにした。
「何を探しているんですか?」
「花を食べる少年の話」
思わず、大きく目を見開いてしまった。
自分が登山中にした質問を、わざわざ検索しているなんて思いもしなかった。
先輩は背中を反って大きく伸びをすると、着替えたばかりのシャツの内ポケットを叩きだした。視線をモニターから外して、身の回りをキョロキョロし始める。
首を何度も傾げているので、また、探しているのかもしれない。
「どうしたんですか?」
「ねえ、目薬どこだっけ?」
「さっき、ジーンズの右ポケットに入れてましたよ」
「おお! あったあった」
やっぱりまた、探していた。
別段、普段から珍しいやり取りでもない。
先輩は無意識に使い終わったら仕舞っているらしく、いざ使おうと思う時に思っていた場所に入っていないことが多いらしい。
今回は右ポケットから取り出して、高く上げて目蓋を大きく開けている。
あ、零した。
目尻を涙のように流れていく。
「来栖君」
「はーい」
窓を閉めてから藤の木で出来た二つの椅子とテーブルの間を縫って、先輩の居る畳の間までゆっくりと歩いて行く。
当たり前の様に手渡された目薬を、僕は当たり前の様に受け取る。
「瞬きしないで下さいねー」
先輩は切れ長の目を眼一杯に見開き、目蓋を軽く痙攣させる。
相変わらず色素の薄い眼球は硝子玉の様だ。
キャップをカチリと鳴らし、片目ずつ丁寧に点眼していく。
「ドライアイだと大変ですね」
「幾つ有っても足りないよ」
原因は、変な所で不器用な先輩に有ると思う。零し過ぎだと思います。
もう一度カチッと音がするまでキャップを締めてから、先輩に目薬を手渡した。
パチパチと瞬きを繰り返しながら、少し潤んだ目で先輩は笑った。
「ありがとう」
「……残念だ」
不味い。思わず口にしてしまった。
先輩は小さく首を傾げた後、視線をまたパソコンに戻した。聞こえていなかったのなら良かった。
「少年の話かい?」
しっかりと聞こえていたが、真意は伝ら無かったみたいだ。
「そんなところです」
先輩は頬杖を付きながら無造作に、今度はジーンズの左ポケットに目薬を突っ込んだ。
何となくまた探すんだろうなと思うのと同時に、入れとく場所を決めとけばいいのにと思ったが、口にはしなかった。
既に過去に何度も言っている。もう癖みたいなものになっているのだろう。
この人は一見しっかりとしているように見えるのに、変に抜けているところがあった。何も無いところで転ぶとか、そういう眼に見えたものとは違う。
上手く言葉には出来ないが独特の間や、雰囲気を持ち合わせている。
加えて、あまり人と一緒にいるところを見たことが無い。
喋っているのを見掛ける時は大抵は年上の教授、それも年配の方と話していることが多かった。
言葉は悪いのかも知れないが、近寄り難い。らしい。
表情に抑揚がなく、そういう印象を与えてしまう。笑ってはいるけれど。
自分と居る時とは印象が違うのでサークル以外で見掛けると少し驚く。本人は、酷い人見知りなんだよねと言っていた。
知ってしまえば面白い人で付き合い易いが、知らなければ確かに近寄り難いのかも知れない。
人は外見では無いとよく聴くが、その外見も話題の原因になっている。先輩の端正な顔は、一般的に長身と呼ばれる身長も手伝って、変な威圧感を生んでいるらしい。
だからちょっとしたことでも、誹謗羨望嫉妬と大忙しだ。本人が知らないところで流される噂は、ただの仮説が殆んどだ。
面白い人なのに、それを知ろうともしない人達は、残念だ。
部屋の陰影は先程よりも濃くなって、物の淵を強くする。
振り返ると窓の向こう側は濃い橙色から紫へ、そこから黒へと綺麗なグラデーションを順当に並べていく最中だ。
入り口付近に電気のスイッチが有った事を思い出す。テーブルの上で、パソコンの液晶は煌々と輝いている。
弱く付けられていた照明を、ボリュームコントロールみたいに回してゆっくりと明るさを強くした。
徐々に薄い暗がりから眩しい光が眼に入り込み、僕は眼を細めた。光りの残像が、視界の中で揺れる。
一日目は目的地に向かうには少し遅い時間だったのと、先輩の調べ物の時間であっという間に過ぎ去った。




