メッセージ
9000文字を超えているので、ほぼ2回分です。
長くて読みにくいかもしれませんがご容赦ください。
「え~っと……」
時代を越えてケントの口から出た転生者である初代の「乳派か尻派か」という問い。その質問自体は男同士ではよくある馬鹿話の一つだ。俺は乳だ、いや尻だ。いやいや足だろ、うなじに決まっている等、それぞれの好みがあり確かに盛り上がる話題だ。ただ、この質問をされたのが男しかいない酒の席ならばの話だ。
ジンは自分に向けられた女性陣の視線を感じつつ、微妙な愛想笑いを浮かべながらこの窮地から逃れるべく頭をフル回転させていた。
「(やばい、なんて言おう? 正直どっちも好きだし、別にそこにこだわりはないんだよなって、違う! 彼女達がいるのに言えるわけないじゃないか。うわ、マジでどうすべ)」
ここで老人だった頃の人生経験など役に立つはずもない。現在の若返った精神年齢では勿論、過去を遡ってもここで開き直って答える事が出来る厚顔さはジンにはなかった。
そんな滑稽ではあるが必死に考えを巡らせる中、ある事にジンは気付いた。
「(あれ? これは正直に答える必要は無いんじゃないか?)」
そもそもの前提として、ケントは掛け軸に書かれた『乳より尻派』の意味を知らないのだ。もしここでジンがどちらかを選択して言ったとしたら、まさかそんな意味とは知らないケントにしてみれば「この人は何を言っているのだろう?」と疑問に思うだろう。当然の流れとしてこの場で掛け軸の言葉の意味を教えざるを得なくなり、それはそれで女性陣の目の前でという本末転倒な事になってしまう。つまり、ここで正直に質問に答える流れは、罠以外の何物でもないという事だ。
「(危な! 悪戯が過ぎるぞ、まったく)」
過去の転生者のニヤニヤ笑いを幻視しつつ冷や汗をぬぐうジン。だが最大の罠は何とか回避できたものの、解決にはまだ至っていない。それに「この掛け軸を見て酒を飲むのが楽しみ」と笑顔で言うケントに対し、果たしてその意味を教えて良いのだろうかという事でも悩んでいた。
「(嘘になってしまうが、ここは適当な語句に変換するのが無難か? 乳は……胸……心臓……心? 尻は……安産型……生まれる……体? そうなると『心より体派』って、これはこれでやばいな! 他だ、他にないか……)」
何か適当な語句で置き換えるかと考えるジンだったが、なかなか代わりとなる良い言葉が思いつかない。それでも何とか許容範囲の言葉を見つけ出す。ここまでそれなりの時間ケントを待たせてしまっている。急がねばといざ口を開こうとした時に、ジンにふとこれでいいのだろうかと迷いが出てしまった。
「(……うん。野暮だな)」
元々そうする事が正解だろうとは思いつつも、悪戯とはいえ質問に嘘で答えるという事自体しっくり来ていなかった。いや、悪戯だからこそ、嘘で誤魔化す事がより野暮に感じたのだ。そしてその考えは、ストンとジンの腑に落ちた。
「ふっ」
ちょっと狭量だったなと、自嘲して思わず声を漏らすジン。たが、それは自嘲でも肝心な事に気付けたが故かどこか吹っ切れたものを感じさせ、その響きは決して暗いものではなかった。
「あ、すいません。黙ってしまっていて」
ジンは黙って見守ってくれていたケントやアリア達に謝罪すると、今度はしっかりと笑みを浮かべて答えた。
「どっちも甲乙つけ難いですが、どちらかといえば私はこちらですね」
そう言ってジンは掛け軸の『乳』という文字を指さす。ここで口に出さなかったのは、あえて火中の栗を拾う必要もないと思っただけで、既にジンの腹は据わっていた。女性陣に軽蔑されるのは避ける方向で行くつもりではあったが、ケントの対応次第では彼に意味を教える事もやぶさかではなかった。
ただ、どちらも好きと内心で本音を漏らしていたジンが、最終的に一方を選択したその経緯は彼のみが知る最高機密だ。そのあたりについては各自のご想像にお任せする。
「そうなんですね……」
笑顔で答えるケントのその言葉自体には大した意味はない。問題はそれに続くであろう言葉だ。だが既に初代の悪戯にのってやろうと覚悟を決めたジンは、逆に少しだけワクワクするものを感じていた。
「わかりました。ちょっとお待ちください」
しかし、予想に反してジンの答えに対する質問等は一つもなく、ケントは席を立って飾り棚の方に向かった。そして鍵を使って引き出しの一つを開けると、その中から一冊の手帳らしきものを取り出した。
「お待たせしました。ジンさん、これは初代が遺したものです。どうぞご覧ください」
若干肩すかしな気分を味わいつつも、言われるがままジンがページをめくると、そこには今では懐かしささえ覚える日本語の文章が書かれていた。
『よう、同朋よ。楽しんでくれたか? 笑ったか? それとも茶でも吹き出したか? お前さんがどんな反応をするか想像するだけで、俺は毎晩美味い酒が飲めているよ。ありがとうな。ただ、もしアンタが女性だったらすまん。『大胸筋より大臀筋派』ってのも考えたんだが、これがスタンダードかどうかも分からなかったんで没にした。まあ、これを読んでいるという事はマイナスな反応ではなかったという事だから心配していないけどな。俺がこういう性格なもんだから、いくら同じ日本人でも真面目すぎるのはちょっと遠慮したかったんで、あの掛け軸に否定的でなかった者にしかこの手帳は見せないように言いつけてあったんだよ。……守ってくれてるよな?』
と、此処まで読んでジンは顔を上げた。懐かしさからむさぼる様に読んでしまったが、ケント達をほったらかしにしていた事に遅まきながら気付いたのだ。
「いいんですよ。ジンさんはどうぞ最後までお読みください。申し訳ありませんが御嬢さん方は少しお待ちくださいね。お茶とお茶菓子のお替りはいかがですか? 紅茶もご用意しておりますよ」
そう言ってケントが新しいティーセットとお茶菓子を取り出す。ジンがアリア達に視線をやると、皆は笑顔で頷いてくれた。ジンも笑顔で返して謝意を伝えると、逸る気持ちを抑えつつ今度はしっかりと読み込む為に手帳を開いた。
『まずは自己紹介といこうか。俺は渡瀬健二。25歳の時にこっちに来てからはケンと名乗っていた。覚えている最後の記憶はちょっと無茶していた事だから、多分向こうで死ぬかその直前くらいでこっちに来たんだろう。多分お前さんもそうだろうが、最初は驚いたぜ。小説やゲームでしか見た事のないファンタジーな世界に気付けば居たんだからな。ただ命が危なかったのは覚えていたから、例え異世界だろうと生きているだけでありがたかった』
その後は初代――ケンがこの世界に来てからどういう暮らしをしてきたかが語られていた。転生した者にはそれまでの経験によってスキルが与えられるらしく、駆け出しの書道家だったケンは『魔法文字』というスキルを所持していた。これは魔法を使う時に必要な魔法文字を全て理解、記憶しているというユニークスキルだ。つまりろくに勉強もせずとも魔法が使えるという訳で、彼が最初は冒険者となったのは自然な流れだった。
魔力やMPは普通だったので無双は出来なかったが、幸い仲間にも恵まれて冒険者としてはそこそこの成功を収めることが出来た。ユニークスキルを活用して魔法文字の組み合わせでオリジナルの呪文を開発するなど、その実力はかなり高かったようだ。
仲間の引退を機に自分も冒険者を辞めると、今度は冒険で稼いだ金を元手に商売を始めた。この時開いた店の一つが、ジンも食事をしたマヨネーズを出すレストランだ。以降は王都での活動がメインとなったが、リエンツは最初に自宅を構えた場所で愛着もあった為、そこだけは処分しなかったそうだ。
そんな現代知識を利用して商売を始めたケンだったが、それでも自戒している事があった。それはこの世界に影響を与え過ぎないという事だ。
『自分以外にも過去に転生者がいた事を確信したのは、冒険者になって数年経った頃だ。まあ味噌や醤油なんてのもあったし、もしかしてとは思っていたがな。ただ俺も実際に会った事はないし、お前さんが俺が死んで何年後に来たのかは知らんが、それほど頻繁という訳ではないようだ。ただ、それでも長いこの世界の歴史の中で考えれば、転生者の総数はそれなりのものになるはずだ。さて、ここでお前さんに質問だ。それにしてはこの世界は異世界らしさが損なわれていないと思わないか?』
どういう事だろうと、ジンはこの質問の意図が読めなかった。そもそも異世界らしさとはなんだろうと思いつつ、その意図を知るために更に先を読み進める。
『分かりやすく食を例にするが、俺がこの世界に来た時、既に味噌や醤油はあったが、その使い方はそれほど知られていなかった。鰹節は見たことなかったが、昆布はあった。酒も日本酒みたいなやつや味醂ぽいものも見つけたし、唐辛子やターメリックの様な俺が聞いた事のある名前の香辛料だって、ほとんど同じ物か似たようなのがあった。だが、ここまで揃っておきながら、俺はこの世界でうどんや蕎麦、ラーメンやカレーなんかを出す店を見た事が無いんだ』
ここでジンはハッと気付いた。確かにジンもそうした料理は見た事が無かったが、材料さえそろえば作ってみたいと思っていたメニューばかりだ。今まではこの世界に存在するとは知らない材料があったので、挑戦できなかっただけだ。そしてもしそれらの料理を再現することが出来たなら、成功するかしないかは別にしても、それは商売の種になるのは間違いない。仮に過去の転生者の誰かがそれを実行に移していたならば、現在そうした料理の影を見ることが出来ないのは確かにおかしい。つまり、誰もそうしなかったという事だ。
『元の世界では俺の料理の腕は大学生の自炊レベルだったが、どうしても食べたくて時間は掛かったが全部完成させた。過去の転生者の中には俺なんかよりもっと料理が得意なやつもいただろうし、俺に出来たことが他の転生者が出来ないはずがないと思う。なのに現在そうしたメニューを何処にも見た事が無いというのは、やっぱりおかしいんだよ。俺だってやろうと思えば店を出す事も出来たし、金を稼ごうと思ったらいい方法だからな。たが、結局俺も過去に居た転生者もしなかった。多分それは同じ理由だと思うんだ。俺たちはこの世界の文化を尊重したかったんだよ』
彼がこの世界に来たのは今より200年以上前になるが、その頃の料理は現在よりもレベルが低かったようだ。素材の良さと料理スキルで充分美味しく食べられるので、調理法はそこまで重視されていなかったらしい。それは以前聖獣ペルグリューンが語った魔獣の大規模暴走による文明の後退が理由の一つなのだろう。ともあれ、そうした状況で現代日本の食文化を広めたらどうなるか、容易に想像できる。
『この世界は風呂やトイレなんかの衛生という概念は根付いているし、医療も魔法に頼ってはいるが殺菌なんて考えもある。教育だって孤児院が学校の役目を果たしているし、火薬や銃なんて物騒な代物もない。そんな程よく便利で程よく不便なこの世界が俺は好きなんだ。それを無闇に壊すような真似はしたくなかった』
お互いの良い所を認め合って混じり合う文化の融合は素晴らしいものだろう。だが一方が未発達なのであればそれは侵略でしかない。そう考えたケンは自らレストランを開き、そこで提供する料理を通じて人々に食に関する刺激を地道に与え続けた。いささか刺激が強かったが、マヨネーズもその一つだ。そしてそこで働く料理人に様々な技術や概念を教えたが、日本独自の料理そのものや、マヨネーズを代表とする大きな影響を与えかねない物は決して教えなかった。あくまでも料理の基本を教えるだけにとどめ、この世界の料理人の発想を広げただけだ。そしてその結果として、ジンが生きるこの時代ではかなり食文化も豊かになってきたと言ってもいいだろう。
ケントの店は時代と共にその形態も少しずつ変わったが、こうした方針だけは変えずに現在までやってきた。ただその時代の状況を見てマヨネーズのレシピを公開する事も、子孫には許可しているそうだ。
しかし、こうした方針さえも傲慢で独善的という批判があるであろう事は、彼も承知していた。
『どうせなら皆に美味いもんを食わせたかったからな』
ただ、それがケンの行動指針であり、当時の状況を知る彼が行動した理由だった。
『ちょっと長くなっちまったな。結局言いたいのは、出来たらお前さんもこの世界を尊重してくれないかという話さ。何をするもお前さんの自由だが、ちょっとだけ世界への影響を考えて欲しいという先輩達からのお願いだな』
それは恐らく意識的に代々の転生者達が心がけていた事なのだろう。
元よりジンに世界を乱すつもりはない。ただ、意図せぬところで影響を与えてしまう事も充分有り得る話だと、ジンは先輩からの忠告をありがたく受け取った。
……と、ここでジンは気付く。
「(あ! ラジオ体操……)」
以前ジンが提供した準備運動やラジオ体操の概念は、既にギルドを通じて世界に広まりつつある。特にリエンツでは毎朝のラジオ体操が定番になりつつあった。異世界で行われるラジオ体操の光景は、なかなかにシュールだ。
「(いやいや、大事! 健康増進と怪我防止は大事!)」
一瞬やってしまったかと後悔しかけたジンだったが、広める事を決めた時の事を思い出して立て直した。……ただ、一層気を付けなきゃいかんぞと、自戒して改めて誓うジンであった。
『さあ、言いたかった事は言えたし、そろそろ終わるかな。そういやお前さんも冒険者をやっていたりするのか? もしそうならリエンツにある俺が住んでいた家に行ってみな。玄関脇の倉庫の床に良い物を埋めているからやるよ。結局俺は使う機会が無かったが、いざという時に役に立つかもしれんからな。おっと、勿論これは俺の子孫にも内緒な。話すのは信頼できる仲間だけにしとけ。あと、もしお前さんが既にリエンツの家に住んでいるというミラクルがあったならおめでとう。詳しくは子孫から話があるはずだ』
どういう事かひっかかる部分があったが、ジンは今は読み進める事を優先する。
『最後になるが言わせてくれ。俺はこの世界が好きだ。勿論良い事ばかりではなかったが、そんなのは何処でも変わらない。俺はこの世界に来て愛する人を得ることが出来たし、子供や孫、曾孫や玄孫だって出来た。色々あったが、充分幸せだった』
それは喜びと感謝の言葉だった。
『ただこの世界には、俺達の世界には無かった魔獣という危険が存在する。恐らく転生者の中にはその牙にかかって命を失った者もいるはずだし、それはお前さんも例外ではないかもしれない』
それは心配であり忠告でもあるのだろう。そしてこの事実は決して忘れてはならない事だ。
『だから俺は願っているよ。お前さんが俺と同じように長生きして、そして笑っていられることを』
そして次の言葉を最後に締められていた。
『お前さんの人生に幸多からんことを願う』
その台詞から伝わる真摯な想いに、ジンは自然と頭を下げていた。
「(ん?)」
てっきりそれで終わりかと思っていたが、まだもう1ページ続きがあった。
『いやー悪い悪い。忘れてた。子孫には日本語を教えてないからさ、掛け軸の文字も読めないはずなんだ。もしお前さんが教えても構わないんであれば意味を教えてやってくれ。言う言わないは任せるけど、子孫にはお前さんが自ら申し出た場合に限って知ることが出来ると言ってあるから、多分期待しているはずだ。その期待を裏切れるなら頑張ってくれ。んじゃ、子孫によろしく。愛してるぜって伝えておいてくれ』
それは悪戯の延長なのか、それとも照れ隠しが入っているのか。いずれにせよジンがケントに意味を教える事はほぼ確定の様だ。
「ふふふっ」
だがジンがその顔に浮かべるのは紛れもない笑みだ。こうして転生者の先輩であるケンの人となりを知った今では、最後まで悪戯心を忘れない彼のお茶目さが好ましかった。
ジンは顔を上げるとケントを始めとした皆に待たせてしまった事を詫び、そして全て読み終わった事を告げた。
「そうですか。私もお役目が果たせてホッとしました。それでは最後になりますが、こちらをお渡しします」
本当なら色々とジンに尋ねたいこともあるはずだが、初代の言いつけ通りケントは何も聞かなかった。ただジンの前に書類を入れる封筒の様なものを差し出す。これは何だろうと疑問符を浮かべるジンにケントがその中身を伝えた。
「今ジンさん達がお住まいになられているリエンツの借家の権利書になります」
「「「え?!」」」
流石に予想だにしない内容にジン達は揃って驚きの声を上げる。お渡しするとはどういう意味だと考えた時に、ジンにはピンとくる事があった。そしてその様子に気付いたケントは、にっこり笑うと口を開いた。
「ジンさんはお分かりになられたようですね。初代と同郷の方がリエンツの借家にお住まいであった場合は、あの借家を土地ごとお譲りするようになっているんです」
「いや、確かにそんな偶然があったらおめでとうとは書いてありましたが、まさかそんな。受け取れませんよ!」
何でもない事の様にケントは言うが、あの借家の家賃は安くしてもらっても月小金貨2枚、つまり約20万円だ。年間約240万円もの収入が見込める物件を、はいそうですかと簡単に受け取れるものではない。しかし、そんな慌てるジンにケントは莞爾と笑って告げた。
「はははっ。いえ、これは初代からの決まりごとなので是非受け取って下さい。なに、あの家は初代が亡くなる前に一度建て替えましたが、それでも築100年近く経っております。ちょくちょく手直しはしていましたが、後10年もすればまた建て替えも考えなければいけないでしょう。これも初代からの決まりで更地にする事も借家以外に使う事も禁じられていますから、建て替えない訳にはいかないんですよ。ただそうなると当然費用も嵩みますし、正直維持管理を考えるとあまり借家としては旨味がないんです。ですがジンさんに貰ってもらえるなら初代の言いつけも守ることが出来ますし、ジンさん達にとっても自由に増改築できる拠点を手に入れる事はメリットが大きいと思います。お互いにメリットがあるわけですから、遠慮せずに受け取って下さい」
ケントはそう言うが、どちらによりメリットがあるかなど言うまでもない。それからもしばらく問答は続いたが、結局ケントに押し切られる形でリエンツの借家と土地は正式にジンの物となった。約3年分の家賃にあたる大金貨7枚をなんとかケントに受け取ってもらえたのが、ジンのせめてもの抵抗だった。ただ、もし普通に売買するならその5倍以上はするはずだ。
こうして最後に予想だにしないお土産をもらい、ケント邸の訪問は終了した。
「いやー、なんと言うか……濃い時間だったな」
ケント邸からの帰り道、流石に少し疲れた様子でジンがこぼす。本来なら午前中と同様にぶらぶらと散策して帰るつもりだったが、ジン達は予定を変更して真っ直ぐ宿へと向かっていた。
「本当にそうですよね……。まさかリエンツのお家が私達の物になるなんて考えもしませんでした」
レイチェルが漏らす吐息は若干熱く、未だ完全には興奮が冷めていないようだ。
だがそれも無理はない。ケントはああ言ったが、リエンツの借家は後10年ほどでどうにかなるとは思えない程しっかりしていたし、その建物が建つ土地も広い上に立地も良いとかなり上等な部類だ。そんな物件を所有するとなるとある程度コネも必要になり、少なくとも普通Cランクパーティが所有できるものではなかった。
また、パーティで共同生活をおくる場所を借りる事は当たり前でも、購入までする事はまずなかった。それは遠出する機会も多く拠点を変える事も有り得る冒険者の場合、借家の方が何かと都合が良いからだ。つまり、それでも冒険者が家を購入するという事情には、多くは別の意味があるのだ。
「私達の家なんだよな……」
そう呟くエルザの顔はどことなく赤い。そしてレイチェルもそうだったが、彼女達が『私達』の部分を強調しているのには訳がある。それはケントとの問答の時点まで遡るが、あの時ジンはケントにお願いして少しだけ自分達だけで話し合う時間を貰った。その際にジンが言った台詞がこれだ。
「ありがた過ぎて申し訳ないくらいだが、俺はケントさんの話を受けようと思う。ただ名義はどうあれ、俺はあの家は俺達全員の家だと思っている。だから皆の意見を聞かせて欲しい。あの家を本当に俺達のものにしていいか?」
普通に考えれば、単純に一緒に住む仲間たちに意見を聞いただけだ。だが、乙女心とこの世界の一般常識を経由すると少しだけ意味が変わる。
先程も言いかけたが、あちこち移動する機会が多い冒険者が、便利な借家ではなく態々一軒家を購入するのには理由がある。多くの場合はその土地から遠く離れるつもりがないから長期で考えるとお得な購入を考えるのだが、利便性ではなく安定を求めるその理由のほとんどは、所帯を持つからというものなのだ。
つまり、この世界の一般常識としては、家を購入するという事は結婚を考えているという事とほとんど同じという訳だ。
さて、この常識を前提として先程のジンの発言を見直すと、中々に凶悪である事がお分かり頂けるであろう。勿論今回の件はケントから申し入れされた事であるし、ジンにそういうつもりがないのは彼女達も理解している。だが、わかってはいても反応してしまうのが乙女心なのかもしれない。
ともあれ、この場で発言こそしていなかったが、アリアも同じように感じていたのは言うまでもない。
「んんっ、そういえばジンさんはケントさんとまた会う約束をしていましたね」
少し浮かれ過ぎたと自省したアリアが、軽く咳払いをして話題を変える。
「ああ、手帳の内容の事で話す事もあったしね」
ジンにはケントに掛け軸の意味を教えるという仕事が残っている。帰り際にジンが今度改めて酒でも飲みませんかと誘った時のケントの嬉しそうな顔は忘れられない。きっと楽しいお酒になるに違いないと、ジンは確信していた。
「あ、そういえば……」
その時が楽しみだなとお気楽な事を考えていたジンだったが、何かを思い出した様子のアリアに何か嫌な予感を感じた。彼の『危険察知』がビンビン反応していた。
「結局あの掛け軸には何て書いてあったんですか?」
ラスボスはここにいたらしい。ジンの試練はまだこれからが本番だった。
前回はこれまでで一番多くの感想をいただきました。あの後風邪がぶり返して週末まで無駄にしましたが、嬉しかったのでなるだけ早く更新したくて頑張りました。
今回もお楽しみいただけたなら嬉しいです。
ありがとうございました。