どっきり
レイチェルの両親との面談が終わった翌日、今日はこのあいだレストランで出会ったケント氏の家にお邪魔する予定だ。
王都に来る前に予定していた各メンバーの個人的な用事も、残すところエルザが友人と会う事だけとなったが、残念ながらシーリンからの連絡は未だ無い。もし手紙を見ているのならば何らかの連絡はあるはずなので、もしかすると何処かに長期外出中で帰宅していないのかもしれない。ただ流石に貴族であり当主でもあるシーリンの予定を簡単に知る事は出来ず、今はただ連絡を待つしかない状態だ。
そういう事情もあって今日以降の予定がフリーになり、昨日の内にケントに確認したところ、タイミング良く今日の昼過ぎであれば都合が良いとの事だったのだ。
「別に俺一人でも大丈夫だけど、本当に皆も来るの?」
昨晩も確認していた事だったが、今日の朝食時にも再度ジンは女性陣に確認した。ケント宅を訪問する理由は自分一人にしかないとジンは思っていたので、同行すると言う女性陣に対し、せっかくの自由時間なのにもったいないんじゃないかと気遣っていた。
「ふふっ。私達もジンさんの故郷には興味ありますし、何処かに遊びに行くにしてもケントさんのお宅に行った後でも充分ですから」
心配性のジンに微笑みつつアリアがそう言うと、そうですよとレイチェルも同意して続いた。
「それにケントさんは大家さんでもあるんですから、私達も無関係ではないですからね」
確かにリエンツの借家はケントの持家だが、わざわざ同行する理由としては些か弱い。
「そうそう。それにどうせなら、みんな一緒の方が楽しいからな」
この最後に言ったエルザの台詞が本音のところだろう。ケント宅への訪問が無ければ丸一日自由時間として使えたかもしれないが、それ以上に魅力的な時間の使い方があったという話だ。また、口には出さないが同じくらい大きな理由として、恐らく元の世界の子孫と思われるケントの話を聞いて、もしかするとジンが落ち込んだりする可能性もあるのではと彼女達は考えていたのだ。
だから今回彼女達がジンと一緒にケント宅を訪問する事にしたのは、この世界でジンの事情を知る唯一の仲間としての配慮でもあった。
ジンとしても、アリア達が同行するのは嬉しくはあっても迷惑なはずがない。それならばと朝食後は早めに宿を出る事にし、約束の時間まで皆で王都の散策を楽しんだ。本格的な観光ではなく市場や商店をぶらついただけだったが、彼らの顔が笑顔だったのは言うまでもないだろう。特にジンは新しい食材や欲しかった調味料等も発見する事が出来て、その意味でもホクホクだった。そして約束の時間の少し前に、予定通り彼らは閑静な住宅地にあるケント邸の前に到着した。
「大きいな~」
ケント邸の前で思わず感心してしまうジン。
どうやらケントはレストラン1軒だけを経営しているわけではなく、他にもお色々と手広く商売をやっているようだ。その家の大きさは王都有数の商家であるオルトのそれと比べても遜色ない程だった。
使用人に案内されて家の中に入ってみると、リエンツの借家から想像していたものとは違い、そこは土足が基本の完全に洋風の造りだった。その広い玄関ホールに飾られた絵画や調度品等の趣味も良く、お屋敷という言葉がぴったりな雰囲気だ。
そしていよいよケントが待つ部屋に案内されるわけだが、こういうお屋敷の応接間は通常玄関近くに配置してあるものだ。勿論ケント邸もそれは例外ではなかったが、実際に案内されたのは応接間ではなく、階段を上がった先にある二階の部屋だった。基本プライベートスペースとして使われる事が多い二階に案内される事をちょっと意外に思いつつも、ジン達はすぐに部屋の前に到着する。使用人が部屋のドアをノックすると、中から返事が返ってきた。使用人がドアを開け、ジン達は彼に促されるまま部屋の中に入った。
「ようこそいらっしゃいました、ジンさん。お仲間の方々も歓迎します。ささ、どうぞどうぞ」
部屋の中に入ったジン達を出迎えたのは、満面の笑みを浮かべたケントだ。彼はジン達がやって来る前からその部屋で待っていたのだ。その笑みから彼がジン達を歓迎している事は勿論伝わってきたが、同時にどこかわくわくしているかのようにも見えた。
挨拶もそこそこに、ケントに促されるままソファーに座るジン達。この部屋は通常使う応接間ではなかったが、テーブルにソファーと部屋を飾る調度品と、その造りは応接間とほとんど変わらない。ただ調度品の一つ一つが使い込まれた高級品である事が窺えた。
「来て頂けて本当に嬉しいです。お茶は私が入れさせていただきますので、少々お待ちください」
慣れた手つきでお茶の準備をするケントに恐縮しつつも、ジン達は座り心地の良いソファーに腰を沈める。通常ならお茶の準備等は使用人がするものだが、この部屋にジン達を案内した者はこの部屋に入る事無くそのまま去ったし、別のものが新たに来ることもない。この部屋ではお茶菓子や道具等も準備済みで、全て自分で出来る様になっていた。
これはジン達は知らない事だが、この部屋は基本的にはケントに近しい身内しか入るのを許されていない部屋だ。つまりこの部屋でくつろぐ際のお茶は勿論、掃除さえも使用人ではなく自分達でやっているのだ。それはどんなにお金持ちになろうとも身の回りの事をちゃんとやれないといけないという初代の方針であったが、同時にこの部屋にあるものがそれだけ大事だという事でもある。もっとも、それは中にあるもの全てが市場価値が高いという事を意味しているのではない。初代が健在な頃から現在迄それが続いている理由の一つでもあるが、この部屋には思い入れが深い品々が多いという事だ。
「(おお、あれは緑茶か?!)」
ソファーに腰を下ろしてからすぐに、ジンの視線はお茶の準備をするケントの手元に釘付けになった。その茶器は急須ではなくティーポットだったが、その中に入れられた茶葉は濃い緑色をしていた。緑茶も烏龍茶も紅茶も、発酵期間が違うだけで皆同じ茶葉だという事はジンも知っていたが、この世界に来てからは紅茶にしか出会う事ができていなかった。別にジンは緑茶でないと駄目というわけではないが、一番馴染みがあったのが緑茶なのも事実だ。もしかすると緑茶かもしれないという期待は、ジン自身も意外なほどに大きかった。
思わずじっと見つめてしまっていたジンの視線に気づき、その目の輝きを見たケントが笑みを深くする。一方でがっついているようで気恥ずかしくなったジンは視線をそらし、少し落ち着こうと部屋の調度品を鑑賞する事にした。
「(あれは……硯か? ……やっぱ日本人の転生者だったんだな。)」
次にジンが視線を横に向けた先には飾り棚が設置してあり、そこには様々な品が飾ってあった。中には決して高級品には見えない品もあったが、恐らく思い出の品というやつだろう。その中でも一番ジンの目を引いたのが書道で使う硯のような物で、すぐ側に大小様々な筆が掛けられているのを見て間違いないと確信した。
ふと気付くと、部屋にはお湯を注がれた緑茶が香り始めていた。その香りと書道道具に懐かしさを覚え、ジンは自然と目を閉じた。その時間は然程長いものではなかったが、アリア達がその変化に気付くには充分な時間だった。
「「「(あ……)」」」
ジンが此処とは違う世界から来た事を知る彼女達が、ジンを気遣うような雰囲気を見せたのは自然な事だろう。だが彼女達の不安な気持ちはすぐに霧散する事になる。二度と帰れない、会えないという寂しさが現在も完全には消えていない事は事実だが、だからと言ってその事で思い悩むことはもうジンにはなかった。彼が感じていたのは元の世界に対する懐かしさと、それを思い起こさせる物に出会えた喜びと感謝の気持ちだ。
目をつぶって感慨にふけるジンの口元には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「(ん? ああ、心配させちゃったかな。大丈夫だよ)」
自分に向けられた視線に気付いたジンは、安心させるかのようにアリア達に微笑んで軽く頷く。その気持ちは既に彼女達にも伝わっており、同じように笑顔で応える彼女達に、ジンは心が温かくなるのを感じていた。
ただ、すぐに無性に照れ臭くなってしまったジンは、ごまかすためにあわてて視線を逸らす。そしてその視線の先にあった丁度正面にあたるそこに、掛け軸の様なものが飾られているのに初めて気づいた。ここに至るまで気づかなかったのは様々な要因が重なった結果だったが、少なくとも今のうちに気付いて良かったと言うべきだろう。もし、もう少し後になってお茶を口に含んでいる状態だったら目も当てられなかった。
その掛け軸には、久しぶりに見る日本語で達筆な5つの文字が書かれてあった。
『乳より尻派』
……色々台無しである。
「ぶはっ、はん、ほんっ!」
あまりに予想外の文字に驚き、吹き出してしまった後は咳き込んでしまうジン。ようやく収まった時には目に涙を浮かべていた。
「あーびっくりした」
ジンは胸をさすりながら思わずぼやく。アリア達が心配してジンに声をかけるが、彼女達には何故ジンがこうなったのかが分かるはずもない。大丈夫だよと女性陣を宥めるジンだったが、正面から彼女達とは違う興味深々な視線を感じた。
「やっぱりジンさん、これが読めるんですね!?」
当然その視線の主はケントだ。わくわくという言葉がぴったりな様子だ。
「あー、はい。ケントさんもお分かりなんですよね?」
苦笑いしつつジンは答えたが、見事に悪戯に引っかけられた気分だ。それこそどこの書家が書いたのだろうという力強くも美しい書なのに、書かれている文字がアレだ。確かに不意に見せられたこれに反応しないでいるのは難しいので、日本からの転生者かどうか確かめるにはいいかもしれない。ただ言葉のチョイスには問題がありそうだ。相手が女性だったらどうするつもりなのだろう。最悪気分を害してしまう事だって有り得るのにとジンは思う。
ただ、とはいってもジン自身は落ち着いた今では面白さを感じており、何ともお茶目だなと感心さえしていた。
「いえ、私は読めないんです」
てっきりケントは知っているものだとばかり思っていたが、その答えは意外なものだった。
「私達はこの文字が初代の故郷のものだとしか知らされておりません。ただ私はこの造形の美しさがとても好きで、この部屋で眺めながらお酒を飲むのが楽しみなんですよ。初代もそうしていたという話が伝わってますし。それに、なんて書いてあるんだろうと想像するのも楽しいんです」
「(書いた本人もこれを見て酒を飲むって、やっぱり確信犯か!)」
嬉しそうに話すケントだったが、聞かされるジンは居たたまれない気持ちになってしまう。この曲線がと熱弁するケントが指す文字は『尻』だ。
「(……まあ確かに想像すると楽しいかもしれんが)」
あまり趣味がいいとは言えないが、誰かを傷つける訳でもないし悪戯としては許容範囲だろう。実際、ひっかけられたジン自身も、結構面白かったと変なところで理解を示していた。
ただ問題はこの言葉の意味を問われた時だぞと、その場合ケントに何と言ったものか悩むジンだったが、その心配はまだ早かった。
「それで意味はわからないんですが、この質問をしなきゃいけないんです」
ケントに悪気はない。彼は代々伝わってきたルールに従っているだけだ。しかし、ジンは何か嫌な予感がした。
「ジンさんはどっちですか?」
ジンが一瞬視線を女性陣に向けてしまった事については、彼にも情状酌量の余地があると弁護したい。
感想やレビューに評価など、本当にありがとうございます。
次回は直で今回の続きになりますので、出来るだけ早くお届けしたいと考えております。
目標は今週中、遅くとも来週中までには更新するつもりです。
私は季節の変わり目のせいかこのところ体調が良くない日々が続いております。
皆様も体調にはお気を付けください。
ありがとうございました。