ビーン
リエンツをしばらく離れるとなると、挨拶をしておかなければならない人達がジンにはたくさんいる。ジンの『調合』の師匠でもある薬屋のビーンもその一人だ。
「そうですか。確かに、騒がしくなる前にここを出るのがいいのかもしれませんね」
「はい。あまり詮索されたくありませんし、ほとぼりを冷ましがてら結婚の許可をもらいに行こうかなと」
気遣うビーンにジンは微笑で応える。グレッグと別れた後、ジンはその足でビーンの元を訪れていた。
「ふふふ。結婚のお話は聞いていましたが、離れたところに住むご両親に許可をもらいにですか。……あの試練をわざわざ進んで受けに行くとは、度胸がありますね」
ビーンの場合、結婚前は妻のマギーが両親と同居していたため、彼女の両親のところへ結婚の許可をもらいに行かざるを得なかった。だが、もし彼女の両親が遠いところに住んでいたならば、直接ではなく手紙などで間接的に済ませただろう。魔獣という危険があるこの世界では旅のリスクは高く、結婚の挨拶は手紙などで済ませることも珍しくない。
当時の緊張感を思い出し、わざわざ進んでその試練に挑もうとするジンの度胸と義理堅さに、ビーンは感心しつつも苦笑が隠せなかった。
「ははは。他の皆にも同じことを言われましたけど、私としては譲れないところでして。……ただ、本当はもうちょっとリエンツが落ち着いてから出発したいところだったんですけどね」
想定外の『暴走』という脅威の発生がなければ、ジンは優秀ではあるが単なる一冒険者でしかなかったし、シリウスも対外的にはどこにでもいるペットの犬でしかなかっただろう。ジンがその力を見せることも、『聖獣』という存在が明るみに出ることもなかったはずだ。
幸い『暴走』の被害は最低限に抑えられたが、地震の被害を受けたリエンツは復興の真っ最中だったし、ほとんど『暴走』が発生する危険性はないとはいえ『迷宮』もまだ残っている。そして個人的な理由として、グレッグの妻サマンサも現在妊娠九カ月と、その出産も近い。予定通りジン達がリエンツに戻ってきたとしても、その頃には出産も終わっているだろう。
幸い元Dランク冒険者であるサマンサのレベルは一般人よりも高く、その分出産時のリスクは低くなる。だが、それでも出産というものが女性にとって命をかける大事であることに変わりはなく、そんな時にサマンサの側にいることができないのは、数年来の友人であるアリアだけでなく、家族ぐるみで親しくしているジン達家族全員にとって心苦しいものだった。
「大丈夫ですよ。ジンさん達が帰ってくる頃には、リエンツはもっとよくなっていますから」
サマンサの件はともかく、リエンツの街についてはビーンは心配していない。地震や『暴走』という危機を乗り越えたことで、リエンツの街はかつてないほど一つにまとまっている。リエンツを襲った脅威はもう全て去ったのだ。
「……そうですね」
未だ『迷宮』はリエンツの側に存在するが、人によって作られたこの『迷宮』は脅威ではなく福音だ。『暴走』で増加していた魔素を大量に消費した今となっては、この地にあるのは然程長い期間ではないだろうが、存在する間は冒険者を鍛え、そしてここで得られる素材はリエンツを潤す。その資金は街や『暴走』の通り道にあって被害を受けた村の復興にも役立つはずだ。じきにリエンツを離れるジンは残念ながらその一助を担うことはできないが、それでもビーンの言葉に少し肩の荷が下りた気がしていた。
「はい。ジンさんはご自分のこととご家族のことだけ考えてください。……例のポーションについては何件か問い合わせが来ていますが、今のところ単に効き目が良いポーションという認識でしかないようですし、この件については何とかなりそうでホッとしました」
決戦前にジンが提供した複製ポーションは全てクラークに預けており、それをクラークが信頼できる者達に配布していた。その半数以上が決戦時に消費されたが、使用指針として緊急時のみとしていたためHPが残り僅かな瀕死の者にしか使用しなかった。そのため使用時に体の欠損が修復されるなどの目立つ効果は発動せず、効果としては凄く効き目のいいポーションの範囲で治まっている。
ただ片腕をもがれて失血死寸前の状態だった者が、ポーションを使用した次の瞬間には欠損こそ回復しないものの命の危機は完全に脱するなど、その効き目が良すぎることに驚く者は多かった。
また、実際にポーションを使用した神官達は、本来ならポーションでは回復しないはずの失われた血液が回復していることに気付いていたが、クラークに言い含められていたこともあってその口をつぐんでいたため、欠損を治すというジンの複製ポーションの異常性を知る者は極めて少なかった。
「冒険者が欲しくなる気持ちもわかるのですが、いただき物なので数に限りがありますし、レシピもわかりませんからね」
ただ単に効き目の良いポーションというだけでも、その効果を目の当たりにした冒険者が求めようとするのは理解できる。実際ジン自身もこのポーションに何度も助けられてきた。しかし複製ポーションは、ジンがこの世界に持ち込んだ『HP回復ポーション(小)』が約十日で再充填されるという謎現象を利用して生み出しているにすぎない。レシピは存在せず、複製できる数も少ない。もし作れるようになっても回復量が20と少ないので既存のポーションとも棲み分けできるとは思うし、レシピを公開できるものならしたいと思う気持ちはジンにもあるのだが、こればっかりはどうしようもなかった。
「ははは。作れるものなら作ってみたいですが、さすがに人の業では無理でしょう。これは完全回復薬とまではいかないまでも、それこそ準エリクサーとなら言っても良い気がしますし」
ビーンは『準暴走』にかけて『準エリクサー』という言い方をしたが、実際回復量と病気に対する効果を除けば、その効果はほぼ同じだ。エリクサーが伝説の薬であるように、この複製ポーションも神秘の薬であることに変わりはない。本来なら『迷宮』などで稀に見つかるというエリクサーと同類の薬が、人の手で作れるはずもないよビーンは考えていた。
「ははは」
事実として、この複製ポーションも神様の贈り物の一つであるので、ビーンの発言は真実を言い当てている。確かにその通りだなと、ジンも苦笑いで返すしかなかった。
「それより王都にも行かれるのでしたら、私の師匠に会ってみませんか? 師匠の許可をもらえれば例の件をお教えすることができますし」
例の件、それは一部の調合士が受け継いでいる『禁忌の薬』のレシピのことだ。
一年以上修行してきたことでジンの『調合』ランクは6となり、十分『調合士』としてもやっていけるだけの腕前を持つようになった。人格的にも問題ないと、ビーンはジンにこの特定の病に有効だが使い方を間違えると世を乱しかねないという危険な『禁忌の薬』のレシピを伝えてもいいと考えていた。ただ、ジンは『調合士』ではなく『冒険者』だ。その点がネックになって未だジンにレシピを伝えていないが、もし師匠も認めるのであればとビーンは考えたのだ。
「うーん。ビーンさんのお師匠様に会うのはともかく、例の件については遠慮します。やっぱり私は冒険者ですし、私が聞いていいことではない気がするんですよね」
自分が冒険者である以上は、調合士の秘密を受け継ぐ資格はない。ジンがそう考えるのは責任を負うことからの逃避ではなく、彼なりの線引きであり、けじめなのだろう。
「それに私は知らなくとも、何かあればビーンさんに相談させていただくことができますし」
そう付け加えて、ジンはにっこりと笑顔で信頼を伝える。何も全て自分でできるようになる必要はないし、実際それには無理がある。人に頼るということも大事なことなのだ。
「ふふっ。そうですか、わかりました。その時は言ってください。喜んで協力しますよ」
ビーンもジンの信頼に笑顔で応える。
一月ほど前になるが、ビーンはもう自分のところで学ぶ必要はないと、十分な腕前を持つようになったジンに調合修行の終了を伝えている。だが、その後も休日の度にジンはビーンの元を訪れ、自宅で行っている調合実験の成果や失敗について相談していた。ジンがどんな薬を作るのを目標としているのかはわからなかったが、ビーンはそんなジンの姿に同じ調合士として刺激を受けていた。
(少し残念な気もしますが、確かにジンさんは冒険者ですからね)
ジンを調合士として認めているからこそ、禁忌のレシピについても伝えたかったのだが、ビーンにはそれを固辞するジンの気持ちも理解できる。依頼などで薬草の採取などでジンを頼るように、ジンから頼られるのであれば喜んでビーンはジンに応えるつもりだ。
「今後ともよろしくお願いします」
「はい」
末永いお付き合いをと、ジンとビーンは笑顔を交わすのだった。
数カ月後、ジン達が旅を終えて帰郷してからも、ジンが『調合』の相談のためにビーンの下を訪れることは変わりはなかった。そしてお互いに頼り頼られる関係もまた変わることはない。
薬屋のビーン。かれはジンの調合の師匠であり、先輩であり、仲間であり、そしてかけがえのない友人である。
大変お待たせしてしまい、申し訳ありません。
次回はもう少し早くお届けするようにします。
お知らせになりますが、ちょっと前からアマゾンで『異世界転生に感謝を』六巻の予約が始まっております。9/30発売予定です。
できましたら応援をよろしくお願いします。
ありがとうございました。