明日に控えて(書籍発売記念)
9月30日に発売した書籍版の後、WEBでは26話「訓練と過去」後の話になります。
次回更新時に27話へ移動させます。
初心者講習前日昼、アリアの場合
「ふう」
一仕事を終え、アリアが軽く息を吐く。ギルドにいる冒険者の数は少なく、今は受付を待つ者もいない。夕方までもう少し時間を必要とするこの時間帯は、比較的暇なので書類作業には最適だった。
「お疲れ、アリア」
メガネを外して一息入れるアリアに、タイミング良くお茶が入ったマグカップが差し出された。
「ありがとうございます」
そこにはアリアが親しくしている同僚であるサマンサが、コップを二つ持って立っていた。その一つをアリアに渡したサマンサは、そのままアリアのすぐ横でカウンターに寄りかかって自分も飲み始めた。
「美味しいです」
「そう、良かった」
そうして二人はお茶を楽しんでいたが、ふと思い出したようにサマンサが口を開いた。
「そういえば明日から初心者講習ね。ジン君も受けるんだったわよね?」
「はい」
言葉少なにアリアは答えたが、見る人が見ればそこに何かを感じるようだ。
「ふふっ、寂しい?」
「…………いえ」
サマンサの台詞そのものはからかっているようだが、同時に優しさも感じられる。それをアリアは無視できず、少しの沈黙の後に答えた。
「ふふっ」
サマンサの笑みはやはり優しい。その後は二人して無言でお茶を飲む時間が過ぎたが、その場に流れる空気は変わらず優しく、そして穏やかだった。
「片付けますよ」
「私がいくからいいわよ」
お茶を飲み終わり、席を立とうとするアリアをサマンサが止める。そして一言、アリアに声をかけてその場を去った。
「たった二日なのにね……」
その後に続く言葉は、あえて言うまでもないだろう。
そこはアリアに対する気遣いだけでなく、自らも思うからこそ込められた何かがあった。今回の初心者講習には、サマンサの身内も同行する予定だった。
「はい」
そのサマンサの言葉にからかいの成分はなく、アリアは素直に応えていた。もちろん、その表情は決して晴れやかなものでは無い。
(頑張ってきてくださいね)
だが、同時にジンの事を考えるアリアの口元には、わずかではあるが笑みが浮かんでいた。
自らの思いを自覚したアリアは、変わりつつあった。
前日夕方、エルザの場合
「ふふっ。ジンのやつ、驚くかな?」
ギルドでの訓練からの帰り道、エルザは夕闇に染まる街中を歩きながら、明日の事を思い楽しそうに笑った。
彼女は明日の新人研修に指導役として同行する事になっていたが、昨日ジンと会った時にもその事は話さなかった。
彼女としては、ちょっとした悪戯のつもりだ。
(でも、ジンは色々とおかしいからな~)
ここでいうおかしいは、一応エルザにとっては褒め言葉のつもりだ。
エルザが期待しているのは、狼狽するジンの姿だ。そして初心者講習が終わった後に存分にからかう事を望んでいたが、そもそも、うろえるジンの姿が容易には想像できなかった。
(なんというか、新人とは思えないんだよなー)
昨日の訓練で見せたジンの剣さばきは、新人というレベルをとっくに越えていた。事実、ジンは既にEランクに昇格しており、その剣はDランクである自分と変わらない鋭さを持つように思えた。その後に模擬戦を申し込んでしまったのも、後輩と思っていたジンが見せた実力に、ライバル心を刺激されてしまった故だろう。
本当なら新人の通過儀礼ともいえる初心者講習だが、その意味ではジンに教える事はないのかもしれない。ただ、冒険者に必要とされるものは、他にもたくさんあるのだ。
「少しは先輩として、良いところを見せないとな」
たった数日前から始まった付き合いではあったが、エルザはジンの事を親しい友人として見ていた。
(初めて見た時は、変な奴だと思ったんだけどな)
エルザはジンとの出会いを思い返す。
ジンとの出会いは宿の中庭だったが、初めて見るラジオ体操を行うジンの姿は、奇妙な動きをする変人にしか見えなかった。
だが、良く見ればその動きには何らかの理がある事が見て取れ、訝しく思う気持ちもすぐに薄れた。
しかしその視線が気になったのか早々にジンは去り、エルザはすぐに話しかけなかった事を後悔したものだ。
(でも、運が良かった)
翌日、もやもやした気分を晴らそうと早めに運動場に行ってみれば、そこにラジオ体操をするジンの姿があった。しかもその場にいたのは自分達だけと、タイミングも良かった。
思いきって話しかけてみると、駄目元で尋ねたラジオ体操の事だけでなく、準備運動全般について惜しげもなく知識を与えてくれた。
その内容はいささか地味ではあったが、戦いを生業とする者にとっては無視できない重要な情報だ。本来ならそれなりの対価を求められても不思議ではないのだが、ジンはそんな事は一切考えていないようだった。
「面白いやつだよな」
ジンの人となりを思い、エルザはまた笑う。
貴重な知識を無償で与えるジンをどう評するかだが、それは大きく分けて『変わっている』か『器が大きい』のどちらかになるだろう。エルザはもちろんジンに感謝していたが、どちらかというと前者の方に近い印象を持っていた。
だからこそ「面白いやつ」という評価になるのだが、そう思った理由は他にもある。
(何か話しやすいんだよな~)
最初はジンの物腰の柔らかさが新鮮だった。とってつけたような感じが全く無かったし、素直に話を聞けた。ただ最後はそこに距離感を感じてしまったのでタメ口で話すように言ってしまったが、だからといってジンは変に調子に乗る事もなかった。
(やっぱ下心を感じないからかな?)
そんな風に思わなかったら、その後昼食にジンを誘うはずもない。食事の時にエルザは聞き上手なジンに自然と色々な話をしてしまっていたが、それも下心を感じさせないジンの態度ゆえだろう。実際、エルザは料理云々の話を異性に話したのは初めてだった。
(後で考えたら少し恥ずかしかったけど、楽しかったな)
エルザの唯一のパーティメンバーである女性冒険者は、しばらく前からリエンツを留守にしている。だから誰かと一緒に食事をするのは久しぶりだったし、楽しかったのはそのせいもあるのかもしれない。だが、異性との食事、それも二人きりという状況で緊張もせずにそれが出来たのは、やはりジンとの相性が良かったという事なのだろう。
「ふふっ、明日が楽しみだ」
いずれにせよ、エルザは数日前から始まったジンとの友誼に心を踊らせており、その後もしばらく彼女の顔から笑みが途切れる事はなかった。
前日夜、レイチェルの場合
夜の帳が下り、多くの人々が明日に備えてその身を休める中、レイチェルもまた神殿内にある自室のベッドに体を横たえていた。
だが、彼女がベッドに入ってからだいぶ経っているにもかかわらず、もぞもぞと何やら落ち着かない様子だ。
「眠れません」
その言葉通り、レイチェルの目蓋がぱっちりと開く。比較的寝つきの良いレイチェルにとって、こうして眠れないのは珍しい事だ。
だが、その理由はハッキリしていた。
(やっぱり、明日が楽しみだからなのでしょうね)
つい二日前に冒険者になる事を決めたレイチェルは、思い立ったが吉日とばかりに、その日の内に冒険者登録を済ませていた。その為、明日行われる初心者講習にも参加する予定だ。
(あの方とご一緒できるなんて)
あの方――ジンの初心者講習への参加は、レイチェルにとって望外の幸運だった。
数日前、光に包まれるジンの姿を見たレイチェルは、その時からジンに対して尊敬にも似た思いを抱いていた。そしてその思いが強すぎたため、まさかジンが冒険者登録を済ませたばかりの新人だとは想像すらしていなかったのだ。
だからジンも明日の初心者講習に参加する事を偶然知った時は、喜びに迫るくらい驚きも大きかった。
(ジンさんとおっしゃるのよね)
その名前をレイチェルが知ったのも、ついこの間の事だ。
だが、そんなまだ知り合ってもいないジンに対し、レイチェルは既に過分とも言える程の信頼を寄せていた。それは祖父であるクラークがジンの人柄を保証したという理由もあるが、それでも些か気が早すぎると言わざるを得ない。
「ジンさん……」
小さくその名をつぶやいたレイチェルは、口元に穏やかな笑みを浮かべる。それはようやく待ち人に会えたような、そんな相手への安心感を想起させた。
レイチェルがジンと出会い、その思いを本当のものにする時が、もう間もなく訪れようとしていた。
皆様の応援のおかげをもちまして、こうして書籍版『異世界転生に感謝を』を発売することが出来ました。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
ありがとうございました。