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お嬢様と運転手

忘れ物はございませんか

作者: 時永めぐる

 気がつけば帝都の桜は今が盛りと咲き乱れている。

 自ら咲かせた花の重みで、わずかな風にも枝を大きく揺らす。

 木の下を行き交う人々はようやく訪れた春に晴れやかな顔をしているけれど、桜たちは果たして何を思っているのだろうか。

 もしかしたら枝の重みに憂鬱になっていたり、己を見上げる人々にうんざりしたりしているのではなかろうか。

 そう思えば、美しいと褒めそやされる帝都の春にも、暗い陰りが見えてくる。

 私は車の窓から街並みを眺めつつ、小さく溜息をついた。


 春は嫌いだ。

 いいえ。春だけじゃない。夏が来ても、秋が来ても、冬が来ても。私はそれを疎ましいと思うのだ。

 時が巡れば巡るほど、私は大人へと近づいていくから。 

 大人になるということは、今のこの生活が瓦解するということ。

 事実、脆い瑠璃で作られたような暮らしはもうすぐ否応なく終わる。女学校を卒業するまであと一年。それが私に残された最後の自由だ。

 次の桜が咲いて散り、若葉が芽吹く頃、私はあの方の妻となるのだろう。

 それは昔から定められていたことで、私に選択の余地などない。政略結婚以外の結婚など私たちの世界には存在しない。家と家との結びつきのため。ただそれだけだ。大恋愛の末の結婚なんて物語の中だけ。知っている。知っているのに。

 胸の奥がじくじくと膿んだように痛むのだ。


「お嬢様、いかがなさいました?」


 不意にかかった声に私は弾かれたように顔を上げた。

 知らず知らずのうちに握りしめていた袴が少ししわになっている。そのしわを手で伸ばしながら私は慌てて口を開いた。


「何でもないの。ただ桜が綺麗だなと思って。――来年はもう、こうして眺められないわね」

「ご卒業なされば、この道をお通いになる必要もございませんでしょう」


 感情の見えない涼やかな声が答える。声の主は真っ直ぐ前を見てハンドルを握っている。運転席のシート越しに見える広い肩と短く切りそろえられた後ろ髪。私はそれを眺めながら話を続けた。


「長い間、貴方にはお世話になりましたね。毎日、朝早くから大変だったでしょう。あと一年、よろしくね」

「――はい」


 それきり会話は途絶えた。

 けれど、これでも長く会話が続いたほうだ。些細なことだけれど、嬉しくなる。

 無口なこの運転手は、ずっと昔から私の送迎を任されている。替えの運転手はいない。なぜなら、車に酔いやすい性質の私が唯一酔わずに乗れるのが、彼の運転する車だけだからだ。

 無口で、仮面をかぶったように表情を変えないこの男は、見かけによらず繊細で優しい。幾度、彼の細やかな気遣いに助けられたか分からない。

 恋を知らない、そして恋を許されない私にとって、その優しさは禁断の想いを募らせるに充分な魅力を放っていた。

 そう。私はいつしか抱いてはならない恋心を彼に対して抱いており、今やもうまやかしだなどと誤魔化せる域を超えていた。

 もちろん、それは誰にも悟られてはいけないものだと分かっている。この想いは誰にも打ち明けず墓場まで持って行く。その覚悟はできている。

 だから、こうして毎朝毎夕、彼の後姿を脳裏に焼き付けることを赦して欲しい。

 祈るように彼を見つめる私の視線を、どうか誰も気づきませんように。


 ハンドルを握る彼の手は大きくて、私の手とは全く違う。

 白い手袋に包まれたその手はどんな風なんだろう?

 そしてあの長い指で触れられたら、どんな感じがするんだろう?

 ぼんやりとそんなことを考えているうちに、車は学校へと到着していた。

 車を停めるとすぐに彼はドアを開けて降りる。周囲に危険がないかざっと辺りを見渡し、それから後部座席のドアを開ける。私は彼が支えるドアから、車を降りた。いつも通りの動作。いつも通りの光景。


「ありがとう」


 私のこの言葉も毎日同じ。

 にこりと笑いかければ、彼はごく小さく口の端をゆがめて、それからゆっくりと(こうべ)を垂れた。彼のその顔が微笑みであることを知っている私は、満足する。

 表情に乏しい彼は、どこにいてもいつも無表情だ。声を出して笑ったところなど一度も見たことがない。使用人同士の輪にいてもそれは変わらない。

 そんな彼が私には微笑んでくれる。――そう自惚れていいのだろうか。


「お忘れ物はございませんか?」


 彼がこう聞くのも毎日の事。

 構ってほしくて、声をかけて欲しくて、そして私を気にかけて欲しくて。

 今より子供だった私は、よく車の中にわざと忘れ物をしては彼を困らせていたのだ。その子供じみた振舞いはもう随分前にやめているのだけれど、いまだに彼は毎日こう私に聞いてくる。


「無いわ。――行ってきます」


 私は振り返ることなく歩き出した。彼の「行ってらっしゃいませ」を背中に聞きながら。

 春風に乱れる髪を片手で押さえつけながら、私はまた小さな溜息をひとつ吐いた。


 忘れ物ならいつもしている。

 私の心は、いつも彼が運転する車の後部座席に置き去りなのだから。

 おそらくこれからもずっとずっと置いたままだ。


 でもそれでいい。

 嘆いたり、悲観したりはしない。

 この想いが成就することも願わない。

 これは籠の鳥に残された唯一の愛し方。




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