恋する夜に転倒事故!
聖なる夜に投身自殺!
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の続編になります。
交互視点で読み辛いかと思いますが、どうぞお付き合いください。
それはまだ寒い2月、13日の夜の事だった。
偶然帰りが一緒になったので外食をして、どうせだから明日やろうか、と某大型スーパーの特売品の安いチョコフォンデュセットを買った帰りの事である。
凍った路面に気づかずに幸久が足を滑らせ、車道に向かってずっこけたのがスローモーションで見えていた。私は買ったばかりのチョコフォンデュの道具一式の入った袋を放り投げて、片手を伸ばした。
そう、それが始まりである。
直後に視界は黒く塗りつぶされ、長いバレンタイン前夜が始まったのだ。
◆
目が覚めると見知らぬ土地だった、というのは何度目だろう。私は13度目くらいだ。
いや、12だったかな、とぼんやり考えていた。
「……んん?」
またもどこかの街中だが、どうも見覚えがあるような、というか空気に覚えがあるというか。
ひとまず道のど真ん中から外れてゆっくり歩きつつ考えていると、大きな建物に行き当たる。
「あ」
思い出した。――あのおじさんに造花を渡した建物だ。
察するに、多分役所のような場所だったのだろう。けれど入るのも何だしなあ、とぼんやり考えながら壁に背中をついて溜息を吐く。
とりあえず、幸久と住んでいた家に行ってみようか。
そう考えて背中を離したとき、不意に扉が開いて見覚えのある顔が覗いた。
「……おじさん?」
「おお!?」
驚いたように目を見開いたのは、あのもさもさ髭のおじさんだ。幸久から造花を受け取って、ついでにからかった人。流石にまだ忘れていない。
「嬢ちゃん! 久しぶりだな。ユークは一緒じゃねえのか」
誰だっけそれ。
と一瞬思ったが、そうだ、幸久のこっちで付けられた名前がユークだ。はぐれてしまって、と曖昧に笑って誤魔化した。
幸久って呼んでも構わないしね。旅の途中で貰った別名とか言って誤魔化してたし。
「お久しぶりです。薬とか、大丈夫でしたか?」
「ああ、それなら大丈夫だ。傷薬や痛み止めなんかはあらかじめ配っておいて、使った分だけ集金してるんだよ。なんつったか、置き薬?」
パクりか!
いや、まあ、確かに家を開けるのが多いならいいかもしれないけど。それにあんな場所に住んでるし、何かあってもなかなか行けないだろうし。
「持病持ちにゃ小分けにして渡してあるし、全く頭いい奴だよなあ。でも何も言わずに2ヶ月近く開けるなんて一体どうしたんだ?」
「私の故郷にちょっと用があって」
「婚約の挨拶か!」
「そんな感じです!」
ぐっと親指を立ててくるおじさんに、同じ動作を返した。
その後、とりあえず中に入れてもらって、お茶を出してもらった。おじさんの名前はワーディット・デリングと言うそうだ。見た目に似合うごっつい名前だ。
しかし、夕方近くになっても幸久は現れず――そして夜が来て、流石に遅いから、とそのまま家に案内され、奥さんの手料理を頂いて、ついでに泊めてもらったりしたのだが。
翌日になっても、幸久は現れなかった。
◆
目が覚めると、そこは見慣れた――訳でも無いが、一応見覚えのある土地だった。
つい条件反射で辺りを窺う。すると背後から、危惧していた通りの声が聞こえた。
「ユーク! そこに居るのはユーク・スコットニーか!?」
「げぇっ!」
慌てて手を見れば、部屋に篭り切りで日焼けしていない生白い手ではなく、少し硬くなってるしそれなりに焼けた手。――間違いなく、異世界での姿に戻っている。
じゃなくて、今はそんな事を考えている暇じゃない!
「待てえっ、今日こそ王宮薬師になって貰おう!」
「断る!」
ちらりと後ろを見れば、燃えるような赤毛に爛々と輝く金色の目の少年が足をぐっと地面に押し付けて駆け出す寸前だった。
まずい。まずいまずいまずいっ、捕まったらまずい!
状況はよく分からんが、俺がここに居るということは鈴もこちらにいる可能性が高い。
そんな時に捕まってられるか!
「よーし、追いかけっこだな? 昔を思い出すぞ、ユーク・スコットニー。よくこうして貴様を追いかけては引き摺っていったものだな!」
「ああそうですねっ、つーか何でこんな所に居るんだ!」
――現在地、王都城下町商人ギルド前。
そしてこのクソガキ――いや、一応敬意を払わなければならないのでおクソガキ様と言っておくが、こいつは、正真正銘、間違いなく。
デラステン王国第32代国王、アイザック五世陛下である。
ちなみにたしか15歳。
◆
「いいんですか? 本当に」
「おう、いいさ。あいつの嫁ならもう家族みてえなもんだ」
「へー、仲いいんですね」
「おうよ。両親亡くなった後は暫く面倒見たからな、すぐ薬師の修行に出ちまったが」
思いがけない言葉に一瞬面食らう。
そういえばそうだ。前に来た時借りた幾つかの服……っていうか昨日こちらに来た時に既に着てたなそういえば! うーむ、摩訶不思議。アドベンチャー。
……とにかくその服、母親のだって言ってたし。
「にしてもアイツ、どこで何してやがんだ? 全く」
そのあたりは私が聞きたい。
と、ひとまず書類整頓の手伝いをしつつ唇を尖らせると、ワトおじさんは豪快に笑った。
ワーディット略してワトさんである。
「惚れた女放って遊べるほど気が強い奴じゃねえし、まあ浮気の心配はねえなあ」
「それは同感!」
「顔は普通だが治療する時も丁寧で優しいし、まあそれなりにモテてたんだが、前にも言った通り全く興味無さそうでな。朴念仁っつうか、放っておくと集金にも来ないで研究してやがるし」
「ああ、なんとなく分かります! ……人と喋ってると明るいけど、部屋に篭りはじめると無言になるし。話しかけても生返事だから、仕方なく胸やら何やら押し付けて目を覚まさせたり」
一瞬目を見開いたワトさんは、次の瞬間大口を開け、腹を抱えて大爆笑し始めた。
「見た目の割に大胆だな! そりゃあ奴が落ちるわけだ」
「ま、最初だってこっちからほとんど不意打ちで――」
そんな感じで馴れ初め(?)を語ると、ワトさんはご満悦の様子である。
付き合い始めてからの事も適当に濁して語りながら、手早く書類を選り分けて纏めていく。元々こういうのは得意じゃなかったけど、嫌でも慣れるものだ。
それでも整理し終えた時には正午過ぎで、まだ幸久は来ないな、と溜息を吐く。
「ま、あいつが来るまでうちを我が家と思ってくれ。あんな森の中に一人じゃ危ねえしな」
「魔物いますしね」
そのあたりは身に染みてます!
いやあ本当、走りすぎた後みたいにハイになってて笑ってたけど、思えばすごい怪我だったなあと思い出す。蒼白になっても目を逸らさず、必死に治療していた幸久のことも。
「まあ、道やあいつの家には魔除けがしてあるんだけどな。用心するに越したこたあ無い」
へえ、と呟きながら薄暗い道を歩く。幸久と違ってどっしりして頼もしい感じの背中に付いていくと、なんともこう、安心感があるなあ。幸久はほら、首根っこ掴んで引き摺られてる方が似合うというか、背中より顔で語ってる男だから。
とかなんとか思いつつ歩いていたんだけど、気づいたら体が浮いていた。
「は?」
「ん? ――どわっ! な、何だあ!?」
ぎぎぎぎと顔を後ろに向ける。
そこに居たのは、ええと、何? 流石にあんまり詳しくないから分からないけど、でかい鳥、というには羽毛が全く無くて、嘴というには頭との境目が無い。強いて言うなら、ポ●モンにこんなのいたかな? みたいな感じである。ほら、化石から復活させる奴。あ、古いやつね。
ちなみに色は、目にも鮮やかなピンクだ。もう少しこう、イメージというか……印象とかそういうものを大事にして欲しい。
「えっ、ちょ――わっ――ぎゃ!?」
私は十数回の飛び降り自殺をちょっと思い出しつつ、広い空へ舞い上がった。
◆
「よし、撒いたかっ」
街外れ、貸し騎竜屋の脇に座り込む。
久しぶりに走ったし、そもそもこの体だって向こうよりマシとはいえ鈴ほど体力はない。
息が上がって正直つらいが、街に向かうのが先決だ。
あの街――フィンザッハも、デラステン王国の一部だ。王都の西の方角にある。
その間に森が横たわっているので、距離の割には行きづらいのは確かだが。
しかし俺は何度もあの森を通っているし、獣道も熟知している。魔物は確かに居るが、森に入って抜けるまでの間くらいなら魔除けの薬を使えばいい。
……が、調合する時間が無いので、懐に相談してみる。
「いらっしゃい」
貸し騎竜屋に入り、ポケットから金貨を出す。ちくしょう、俺の貴重な金貨……いや、こっちで過ごせる時間がまたあるのか不明だから良いんだが、もったいない。
「飛竜いる?」
「おう、居るぞ。ええと、鍵、鍵はーっと」
大分気前よく払ったので、機嫌もよさそうだ。これで払いが悪いと暴れ竜を宛がわれて死ぬ目に遭ったりするので、ここは多めに払った方が良い。
渡された鍵は金色で、よし、と内心呟く。鍵が綺麗なのはあまり貸していない、つまり良い竜の鍵だという事だ。
「おう、これだ。名前はゼフェシー、オスだ。良く慣れてるし速いぜ」
ありがとう、と言って小走りに竜舎の奥へ向かう。
学校の体育館ほども有りそうな竜舎は壁で区切られているが、ところどころ穴が開いてわりと悲惨な様子だ。
「ゼフェシー!」
1番奥に、その竜は居た。犬みたいに座った状態だが、高さはだいたい2、3メートル。
騎竜としてはかなり大きい。名前を呼ぶと嬉しそうに鼻先を寄せてきたから、よーしよしよしよしよしよしと強めに撫でてやる。
竜は名前を呼ばれると無条件で従ってしまう生き物なのだそうだ。
といっても“偶然聞いた”のでは駄目で、ちゃんと正当な手続きで名前を知らなければ駄目だというのだから、何つーか変な生き物だが。
ゼフェシーの体を繋ぐ枷と鎖を鍵で手早く外していき、その巨体を解き放つ。
この世界で地上最大の生き物は竜だ。騎竜は人が乗るために品種改良されてきたから精々3、4メートルだが、野生だと平気でクジラ並にでかい奴もいる。
「ゼフェシー、頼むぞ」
竜に乗る事のは多分、馬に乗るよりは簡単だ。馬よりはずっと頭が良いから。
多分チンパンジーよりちょっと良いんじゃないかと思ってる。――というと、こうして家畜の如く扱っているのが可愛そうに見えてしまうかもしれないが、この世界の人間にとっては牛も馬もヒツジもヤギも竜も纏めて“動物”の括りなのだから、別段おかしなことではない。
ゼフェシーはくるるると喉を鳴らして鳴き、翼を軽く動かしてふわりと開いた天井から昇っていく。……あ、ちなみに翼だけで飛ぶ訳じゃなくて、何かこう魔法が……あれです。
言葉で方角と距離を大まかに説明すると、心得たり、とばかりにもう一度鳴いてゼフェシーは翼を広げ、フィンザッハの方角へ――
「うおあっ!?」
手綱を握っていた俺の背中に、どすんと重みが掛かった。
「ふっふっふ、逃がさんぞユーク・スコットニー。で、里帰りか? 余も行くぞ!」
「おいいいいいい国王何やってんだああああああ!!」
戻るか!?
いや、竜舎に戻ったらこれ返した扱いになるんだよな、でも王都に竜の降りられる場所なんて――だあああちくしょう!
わかった。諦めよう。
とりあえず鈴を見つけたら、竜と一緒に送り返そう。万事OK、あとは騎士団長と護衛騎士とその他各所にきっちり手紙を認めて「コイツがやりました」と言えばいい。今更まさかこいつの方を信じる奴も居ないだろうし。
ふつふつと沸きあがる怒りを押さえ込みつつ、空中で捕まるものが無いからか背中を掴んでくる手をあえて無視しつつ手綱を握っていると、後ろで「おい!」と声。
「何だよ」
「ユーク、おいユーク、余は凄いものを見てしまった」
「は?」
「……ピンクの竜だ。あれは間違いないっ、王家の守護竜マゼンタだ! マゼンタが若い女を銜えて飛んでいくぞっ、おいっ、追え!」
顔をぐいと後ろから掴まれて首を曲げさせられる。今グキッて言ったぞおい。
そして見えたのは、ピンクの竜、そして――
「鈴!?」
その口に銜えられている、見覚えのあるワンピースを着た女性だった。
◆
最初は焦ったものの、段々慣れてきた。腹が締め付けられて地味に痛いけど。
いきなり食われなくて良かったー、と思いつつ眼下の森を眺める。
……落ちたら死ぬよね!
流石にもう生き返れるか分からないから遠慮したい。万に一つの可能性とかに賭けたくはないので、大人しく運搬される事にした。
後はまあ、巣に運ばれるのか何なのか知らないけど、その時考えればいいや。
と、その時である。
遠くから微かに聞こえてきた声に、ふと顔を上げる。右を見て、左を見て、そして。
「うわ」
私を銜えているヤツよりも小柄な、青みがかった銀色の――こちらははっきりと“ドラゴン”だと分かるような生き物が飛んでいた。
なんだか、改めてこの世界がファンタジーな世界だと認識できたような気がする。
前の滞在は普通だったし。そりゃあ生活レベルとかも差があるけど、でも幸久の努力のお陰なのか、あの家ってかなり現代に近い生活が出来たし。
というか、口に銜えたままで喧嘩されたら困る。間違いなく落ちる。
流石にちょっと口元が引き攣った。服の背中の所を牙に引っ掛けているようなので、下手に動いたら千切れるかもしれない。腕を伸ばしても引っ掛けられそうな場所は無いし。
と思っていると、突然体がぶんと上に向かって跳ね上げられた。
「ひぎゃっ!」
視界がぐるりと回る。しかし無様に着地したら体育教師としてちょっぴり情けないので、必死に体勢を立て直してそのピンク色の背中に着地した。
……あっぶな! 危ないから本気で!
「危ないじゃない! 何すんのよいきなっ……幸久!?」
なんとか翼の付け根あたりに足を引っ掛けて跨ると、向こうの竜の背に乗っている人影がよく見えた。これでも視力はかなり良い方だ。
赤い髪の少年と、幸久のもうひとつの姿。やや童顔気味で、本当の幸久よりは流石に鍛えられているな、と今なら思う。
だって向こうの幸久本当にヒョロい。こっちもひょろいけど、まだ森で暮らしてるから少しは筋肉付いてるし。でもやっぱりもうちょっと欲しい!
「おい、ユーク・スコットニー。あれはお前の知り合いなのか?」
「あ、ま、まあ……その、えーと」
照れてる場合か!
怒鳴ろうかと思ったけど、ピンクの……まあ多分ドラゴンなんだよね、な生き物が突然飛ぶスピードを速めたので、悲鳴を上げてしがみ付くしか無かった。
それからどれくらい時間が経っただろう。数分だった気もするけど、でも数時間経ったような疲労感がある。
空だから寒いし、指先がじんじんするけど、ひとまずどこかに降り立ったような感覚がしたので顔を上げた。すると、そこには――
「あなた、どなた? どうしてローシャの背に乗ってきたの?」
美少女が居た。
え、何? 何でこんなにキラキラしてんの? 何なの? 妖精なの?
体の調子が普通だったら肩を押さえてそう言いながら揺さ振っていたかもしれない。何せ肌は抜けるように白く、化粧をしている様子もないのに薔薇色の頬、ふっくらした可愛い唇!
いかにもファンタジーな水色の髪の毛は腰まであって、少し内側にカールしている。白いドレスはふんわりして愛らしく、潤んだ瞳は紫色だった。
とりあえず、可愛い。
疲れと微妙な敗北感に打ちのめされ、私はずるりとピンクの背中から滑り落ちた。
◆
マゼンタは鈴を背中に放ったかと思うと猛スピードで飛び去り、慌ててゼフェシーに命令して追いかけたのにすぐ見えなくなってしまった。
「速っ!」
見た目に反するスピードに、ゼフェシーが腹を立てたように炎の混じった鼻息を噴いている。
「それはそうだ。王家の守護竜だからな! 速くて当然だろう」
何でお前が自慢げなんだよ!
とにかくマゼンタの飛び去った方角に進路を変えさせ、ゼフェシーを全速力で飛ばせる。
「ユークよ」
「何だよ……」
「余は恐らくヤツの行き先を知っておるぞ。知りたいか? 知りたいよな? ふっふっふ、貴様がそこまで心配する相手だ、どうせ初カノジョだろう! 知りたいなら――」
「だあああああ分かった! 1週間だ、1週間だからな!」
クソガキ陛下はにんまりと笑う。
けして悪意や興味だけで俺を勧誘している訳じゃないから、なかなか強くも言えないし、全く困ったもんだ。王宮嫌いだから断ってるけど。
「よしきた。では場所はおそらく王都の東端、リッセンヘラー伯爵の屋敷だ!」
「は!? 何でそんな場所に――まあいい、ゼフェシー、そのまま東に!」
流石にマゼンタよりは遅いが、本気を出せばゼフェシーだって速い。
鼻息も荒く翼を羽ばたかせ、見えなくなったピンク色を追いかけるようにスピードが速まり、後ろで流石の悪ガキ陛下も「うおぁあっ!」と声を上げていた。
そして十数分飛ぶと、その屋敷が見えた。
マゼンタがその庭でどっしりと座り込んでいるのがよく見える。その背中にもう鈴はいない。
俺はゼフェシーを庭に着陸させた。いやー、こういう時は後ろのこいつが便利だ。寄ってきた使用人だか衛兵に割と理不尽な事を言って中に案内するように命令している。
「この竜に乗ってきた女はどこにいる? 場合によっては竜を使った誘拐と判断せざるを得ないぞ。そうなれば……どうなるか分かっているだろうな」
ガキの癖にあくどい。
真っ青になったリッセンヘラー家の使用人は慌てて屋敷に駆け込んで行った。いやいや本当申し訳ございません! 善意で入れてくれたんだろうけど!
でももし、悪意だったとしたらと思うと、まだ信用までは出来ない。もしそうだったら、ええと、……睡眠薬盛ってやる! そしてブタ箱行きで。
暫くして執事っぽい人が来て、丁重に案内してくれる。ふんぞり帰るアイザックの後ろから、ぺこぺこしつつ後を付いて行った。うちの子がすいませんのノリで。
そして辿り付いた部屋の扉が使用人によって開かれて――一気に脱力した。
「あ、幸久、と……おお?」
「へ、へ、陛下っ!?」
そこに居たのは慌てたように立ち上がって頭を下げる貴族のご令嬢と、のんびりと紅茶を啜っている鈴だったからだ。
◆
美少女が人を呼んでくれて、とりあえず竜から離れて屋敷に入れてもらった。
そして何故か、休憩がてらお茶と相成った訳である。
「そ、それで、どうなさったの……?」
「もちろん雰囲気に任せてこう、ね? あれよ。キスよ」
「きゃー!」
しかしまあ、なんと可愛らしいお嬢さんであろうか。
どうやらこの国の、若干15歳にして国王というに片思い中らしい。15で王様ってすごいなー、でもまあ豊臣秀頼みたいなもんかな。
話によれば、年に似合わず超有能、でもワルガキみたいな印象だけど。
「で、でも、そんな事したら、不敬でっ」
「難儀ねえ。だったら誘えばいいのよ、そのウルウルした目で。もう上目遣いなんて大盤振る舞いで! 頬染めて甘えた声出せば一発よ!」
「いやあっ、そんなこと……わ、わたくしっ」
「15歳のオトコなんてね、1番興味ある時期なんだから。キスどころかその先も妄想しちゃうお年頃なの。ちょっとそういう空気出してやればいいの」
「そ、そ、そ、そういうくうきって」
可愛らしく頬を染めている伯爵家令嬢とかいう美少女は、ラーデリア・リッセンヘラーことラーデちゃん。年は14、例の王様よりひとつ下だ。
という事は、まあ2人とも中学生の範疇に入る年頃だ。そりゃあ色事にも興味ばっしばしだろうなー。流石にこの時代だからエロ本だ何だは無いだろうけども。
「例えばね、そのドレス。そういうのも悪くないけど、鎖骨出してみると良いんじゃないの? 細いし白いし、そういうのすっごいクると思うけどねー」
「どれくらい、まで?」
「これくらい」
にやりと笑って自分の胸で位置を示すと、「無理ですわ!」と即座に答えが返る。
いやー何て言うかこう、幸久と同じで打てば響くタイプで可愛いなあ。
そんな感じでガールズトークに興じていると、ドアがノックされた。かと思えば返事もしない内に開いて、入ってきた人間を見てラーデちゃんが固まる。
お、おお?
もしかしてあれはラーデちゃん曰く“燃え盛る炎の如く鮮やかなる赤毛に太陽のような輝く瞳”をお持ちとやらの国王陛下、アイザック五世だろうか。
確かにまあ赤毛だし金色の目だ。整った顔立ちは中々凛々しいので、10年後にはキングな雰囲気になっているだろうけど、まあ15歳って感じかな。
「鈴! 良かった、無事だったか」
「大丈夫大丈夫。悪意は無かったっぽいし……で、その人は」
「え、あ、うん。国王」
「あんたちょっと不敬すぎない?」
「いや、クソガキ分が勝ってるというか……」
目を逸らす幸久。なんかこう悪戯されまくった過去が透けて見えるな。
「……で、どうするの? 今度は何が起きれば帰れるのかしら」
「さあ……?」
首をかしげている幸久の背中を一発バシッと叩いておいて、そういえば放置していた若いお2人に目を戻す。
赤くなりながら必死に受け答えし、こちらをチラッと見たりしつつ頑張っているラーデちゃん。
いやあ、うちの生徒にもあんな純真さが欲しい。対してちびっこ国王陛下は年に似合わない鷹揚とした態度である。
私はふと前回のトリップを思い出した。
「もしかして」
「何か思いついた?」
「……前回は、私が告白したから戻れた訳よね? 今度はその、あれじゃない?」
――助けて! と言わんばかりのドギマギっぷりを見せる純情貴族乙女、ラーデちゃん。
対する国王は頭は良いようだけど、どうもあれは、……故意なのだろうか。全力で見てみぬふりというか、全く堪えて無いんだけど。
あの恋をどうにかすれば戻れる。
降りてきたアイディアが、妙に確信を伴って心にすとんと収まるのが分かった。
◆
王都に用事でやって来る度に絡まれてきたが、そういえばアイザックの恋愛沙汰については全く知らない。噂すらないのだ。
何せ王族だしまだ若いし、やんちゃ極まりないとはいえ普段は真面目に仕事をしている筈だから、知り合う暇すら無いのかもしれないが。
アイザックの前で物凄くあからさまな……俺でも分かる程、つまりサルでも分かる! というレベルの態度でドギマギしている美少女は、恐らくまだデビューすらしていない年頃だ。
貴族の令嬢は確か18歳くらいで社交界にデビューする。その際には舞踏会を開くのが普通だったような気がする。
じゃあ何処で知り合ったんだろうか。……まあ良く飛び回ってるから、町に出れば会える確率は高いんだが。
「こ、恋の成就ってなあ」
「……そうね。折角バレンタインなんだから、チョコでも作りましょう。お酒入れましょうお酒、あとは酔わせて万事OKよ」
「飲みたいだけだろ!?」
……いい笑顔で提案してきた鈴に、俺は結局逆らえない訳で。
ちなみにチョコを作る方が俺の担当だ。
何故というか、この世界にはまず俺が作るまでチョコレートが恐らく存在しなかった。今でも俺と一部の知り合いと師匠しか作れないブツだ。
料理は出来る鈴だが、カカオからチョコを作るなんて芸当は出来ない。ちなみに俺は、お菓子を作るのは割と得意である。実験感覚でやると割と上手くいくから。
「という訳で、やりましょう」
「は、はい!」
いやー、執事を説得するのは大変だったな。まあ鈴がゴリ押ししてたらOKだったけど。
ちなみにアイザックは鈴と一緒に出かけている。……なんか腹立たしいが、多分気が合う。間違いなく同じタイプだ。
「とりあえずこれ、剥きましょう。手を傷つけないように気をつけてください」
「わかりましたわ」
「風魔法が使えるなら簡単に出来ます。こうやって――」
ローストしてあるカカオ豆をひとつ取り、風魔法で皮を無理矢理浮かせて剥がし取る。
ついでに胚芽も取ってみせ、横で見ているラーデリア嬢に聞く。
「出来ますか?」
「出来ますわ。……風魔法は得意ですの」
ちなみに材料は知り合いの薬屋に一筆したためて、執事っぽい人に持ってきてもらった。
ラーデリア嬢と2人、屋敷のキッチンで黙々と豆を剥いてはボウルに放り剥いては放り。
キッチンの扉付近からハラハラした視線が来るのはひとまずスルーしておこう。
そうして数十分、漸く全て剥き終えた豆を感慨深げに見つめるラーデリア嬢と俺が居た。
「わたくし、こんな事をしたのははじめてですわ」
「そうでしょうね。まあ、最初から全部やった方があいつには好印象だと思うし」
「……ねえ、先ほどから気になっていたのだけど、あなた陛下に不遜すぎませんこと」
「スイマセン」
……まあそうだな! よく考えたら可笑しいもんだ。伯爵令嬢には敬語で国王陛下にはあれだしな。しかしこの眼光こええ! 恋する乙女こわい!
「分かればよろしいの。それで、次は?」
「この豆を粉々にします。そこで登場するのがこちら」
後ろの台に置いてあった筒型のガラス瓶のようなものを出すと、興味深げな目で見ている。
刻んである陣を読んでるから、きちんと勉強してきたお嬢様なんだろう。普通の貴族なら魔法はそこそこで済ませる筈だから、勉強が好きなのかね。
「これは……風魔法かしら。それから外側には結界魔法? 何に使うの?」
「真ん中の棒の下の所に刃物が付いていますよね? これを回して、中に入れたものを粉々にするんです」
要はフードプロセッサーもどきだ。
剥いた豆をざらっと全部入れて、蓋をきっちりと閉め、手で押さえつけた。
「まあ、とりあえず魔力を込めていただけますか」
「わかったわ。……きゃっ!」
魔力を込めると、物凄い勢いで中身が回転し始め、一度脅えたように手を離す。けれど目をぱちくりとさせ、もう一度触れて魔力を流し始めた。
中々肝の座ったお嬢さんらしい。
「す、すごい勢いね。でも、すごく便利なんじゃないかしら」
「そうですね、色々と」
ちなみにこれは俺が作った物で、今は知り合いの薬師のものだ。家に行けばもう一つあるけど、時間が無かったから借りてきた。
薬とか付いてたら悪いなーと思いつつずっと混ぜる。本物のフードプロセッサーでする場合は機械に負担が掛かるので途中で止めなきゃいけないが、これなら構わないので続けた。
ちなみに荒く砕いた状態をカカオニブ、液状になるとカカオリカーと言う。
このカカオリカーを圧搾したものをココアケーキといい、それを粉砕して粉にしたものがココアパウダーだ。カカオって凄いよな。
「これを更にこっちで細かくします」
更に取り出したのは、薬を粉にする時に使っている道具だ。これは正真正銘世界にひとつしかない道具である。
師匠の師匠である筋力の衰えてきたジジイ薬師にプレゼントしたもので、かなりコストが掛かったのでその一つしか作っていない。
ひとまずその金属製の筒型容器にカカオリカーもどきを入れて、粉砂糖と全粉乳、カカオバターを適当に刻んで入れた。
元の世界でやった時には市販のスキムミルクを使ったんだが、そんな物がある筈もない。カカオバターも無い。という訳で、両方俺の努力と食欲の結晶だ!
作り方はチョコレートの作り方と一緒に教えてあるので、作り置きを貰ってきてもらった。
「まあここらへんの材料は企業秘密ですけど。この機械はさっきのより細かくできます」
なんか料理人の舌打ちが聞こえたなー!
まあいいや、とりあえず混ぜよう。先ほどと同じく蓋を押さえ、ラーデリア嬢に魔力を込めてもらう。俺より魔力多いね! まあそりゃ貴族ですしねー! む、虚しくなんてない!
「……ところで、あなたが噂の陛下のお気に入り薬師ですの?」
「お気に入りって訳でもないですけど、まあ俺ですね、不本意ながら!」
たまに男色扱いまでされて真に! 本っ気で! 遺憾である。
ぼそっと「……羨ましい」と呟いたのは聞かなかった事にして、その後は滑らかになるまで続け、それから漉して、また魔法の器具で練って、テンパリング、と作業を進めて行った。
本当なら、というか市販のブツは50時間だか3日だか練り続けるらしいが、魔法を使えばかなり短縮できる。手作りでも舌触りのいいチョコレートを作る事が出来る。
いやー本当に魔法ってチートだな!
地味なドレスを着て、エプロンにチョコを飛び散らせながら必死について来ようとする伯爵家のお嬢様は、あの頭は良いけどアホな悪ガキには勿体無いだろうにな、と思った。
◆
「――で、何て呼べばいいんですか?」
「敬語はいらんぞ。ザックと呼ぶがいい!」
「じゃ、遠慮なく。よろしくね」
幸久にチョコ作りの手伝いを任せ、私は国王――ザックの相手をする事になった。
とりあえずまずはドラゴンを愛でる所から始めている。
「スズよ、こやつは王家の守護竜マゼンタ。余も見るのは2、3度目だがな」
「へえ。そんなんでいいの?」
「王家の守護といってもそもそも危機に陥るまで来ないからな。それに、好き嫌いが激しい。同性で心の清いものに懐き、それ以外にはあまり近寄らないのだ」
「流石ラーデちゃんね」
ピンクの竜、その名もマゼンタ。そのまんまだなーと思いながら鼻先を突付いてあげると、くぐもった声で鳴く。
「ところでそっちの青い方は?」
「あいつはゼフェシーだ。貸し騎竜で、金貨1枚でユークが借りた。まったく、金貨1枚で嘆くとはあれだけ有能なのに哀れなヤツだな」
「庶民ってのはね、銅貨1枚に笑えて銅貨1枚に泣ける生き物なの」
「そういうものか! いい事を言うな」
レンタカーみたいな感覚で竜を借りるのかな? 金貨1枚の価値がよく分からないけど。
ザックは今度は小さくて青みがかった銀の竜、ゼフェシーのところに行って楽しげに撫でたり触ったりしている。
そういう姿は年相応だけどなあ。
それだけに先ほどの、ラーデちゃん完全スルーの姿勢が不自然なのだ。
普通もうちょっとどぎまぎしても可笑しくない。元々鈍いのか、あるいは猫を被っているのか。
兎に角このままだとほぼ確実に受け入れないだろうと予想がつくので、私はチョコが出来るまでにそれをどうにかしなければいけない。
「私、王都に来るのは初めてなの。案内してくれないかしら」
「ほう? 構わんぞ。奴との話も聞きたいしな」
こっちも色々と聞きたいけどね。
一見裏表の無さそうな顔をするザックに微笑み掛けながら、賑やかな王都へ繰り出した。
15歳のザックは、流石に幸久よりは若干低いけど、私よりは高い。
かつ鍛錬を欠かしていないのか、体つきはがっしりしていて、見た目だけなら結構好みかなーといった所である。もうちょっと大人になれば、だけど。
「まずはやはり、城から見せるべきなのだろうな。五百年前に建てられた立派な城だが、生憎今は抜け出した後だから近づきにくいな。ひとまず、王都で人気の菓子店にでも行ってみよう」
いきいきとした表情に、この街が好きなのだろうなと思う。この都が、この国が何より自慢なのだろうな、と感じる態度だった。
菓子店のあるあたりは遠いから、と辻馬車を拾った。乗るときも手を差し伸べてくれて、流石だなーと思う。15歳でもしっかり王侯貴族の男だ。
連れて行ってもらった菓子店で、お勧めだという焼き菓子を買って外のベンチに座る。
コラッシェンとかいう名前で、なんとなくマドレーヌっぽい。形はレモンみたいな形だけど。
「コラッシェンとは古語でレモンという意味だ。似ているだろう」
「そうねえ。味もちょっとレモン風味」
「ああ。……お、少し待っててくれ」
食べかけのコラッシェンを預けて、広場の方に駆けていく。その先には屋台みたいなのがあって、ジュースらしきものを売っているのが見えた。
中々気も利く。王だから気を使う場面なんて少ないだろうし、生来のものだろう、多分。
「甘いものは好きか? 最近人気の飲み物らしいんだ。どうぞ」
「あら、ありがとう。自分の分はいいの?」
「俺はいい」
ありがたく貰う。どうやらコップではなく、何というか……食虫植物の袋みたいな感じのものに入れられていて、麦みたいな植物のストローがさしてある。なんかラ●カルを思い出すな。
「それで、スズはあいつの彼女なのか?」
わくわくした調子で聞かれ、にやりと笑いながら頷く。おお! と嬉しげに声を上げるあたり、仲がいいというか……なんかどっちかと言うと懐いてる感じかな。
暫くは聞かれるままに馴れ初めやら何やらと語っていく。こっちに来てから何度も喋っている所為で、大分話し方が上手くなった気すらする。
やたら相槌が上手くて、偶にボロが出そうになる。ごく自然に引き出そうとして来るのがまた……王としては有能なんだなあ。
そして大方話し終えてから、私は問う。
「ザックはどうなの? 恋とかは」
一瞬、その金色の目に動揺が走り、そして面白そうに歪んだ。
「初恋もまだだ。余にはまだ、嘘と真の見分けも付かぬしな」
「嘘と真?」
「――そうだな、奴の恋人になら話すのも良かろう」
くっくっく、と子供らしからぬ笑い方をして、ザックはコラッシェンの最後の一口を咀嚼してから語り始めた。
「王族や貴族にとって、結婚はそもそも仕事の範疇のようなものだ。恋はあれば良いが無くても良い、その程度でしかない。事実父上は母上と恋愛関係にあったとは言いがたいしな」
「……ふうん?」
「けれど幼かった余は、それがあればいいと思っておった。精々10歳かそこらまでの話だが――さて。余の7つ下の弟が、人心を読むとまではいかないが感じる力を持っておった」
あ、なんか予想がついてしまったような。
ザックも後は分かるだろう、というような顔をしつつ続きを話した。
「――そして、知った。余はやんちゃだったからな、歩けるようになった弟を連れて夜会なんぞに忍び込んだのだ。そしてあまりの嘘の多さに驚いた」
「なるほど。相手の態度が嘘か本当か分からない、と」
「そうだな。陳腐な理由だが、そんなところだ」
話は終わりだ、とばかりに立ち上がろうとする。
――ん? いや、待て。
「なら、また弟さんに見てもらえばいいんじゃないの?」
そう聞くと、やはり予想していたかのように微笑む。
「――弟は人の黒い心に触れすぎて、一時心を病んでしまってな」
「!」
「で、その時出会ったのが流れの薬師だったユークだ。あやつは、なんというか……心も癒せる薬師なんだ。薬も甘い飲み物に混ぜたから、弟も嫌とは言わなかったしな。余も少し貰ったのだが、確かに温かくて甘くて、美味しかった。兄弟の思い出の味なんだが……なんと言ったかな? 茶色い飲み物なんだが」
ふと、ピンと来た。
……なんというか、頭の上に旗でも立ったような感じである。
私は椅子から立ち上がり、ストローではなく直接口をつけて甘いジュースを一気飲みし、食べ終えたお菓子のゴミをポケットに突っ込んで、その手を取った。
「なら、私が保証する。信じてあげて欲しい子がいるの」
「ほう?」
「賭けをしましょう。もし彼女がくれたものが美味しかったら、弟さんにも彼女を会わせる。そうでなかったら、そうね、何がいいかしら――それはまあ、後で考えるとして」
そのまま手を引くと、抵抗なく着いてくる。面白がってる雰囲気が伝わってくるので、是非ともローデちゃんにその余裕をぷちっといかれればいいな、と期待する。
「夕方まで引き止めろって言われてたけど、行きましょう、さっきの屋敷に」
「そうか? ユークの用はまだ終わらないだろう?」
「終わらないくらいが丁度いいのよ」
そう、まだ固めていないくらいの時間が丁度いい。
ついでにエプロン姿にときめいて頂ければ一粒で二度美味いという奴である。
◆
「幸久!」
「のわっ!?」
突然開かれた扉に驚いて手を止めた。今まさに流し込まれようとしていた茶色の液体はすんでの所で容器に戻り、俺は後ろを振り返る。
横でラーデリア嬢が固まる。そして一瞬後、顔を真っ赤にしてへたり込んだ。
「早すぎないか?」
「早くないわ。あのね――あ、ザックはちょっとそこで待ってて」
引っ張ってきたらしいアイザックをその場に置いて駆け寄ってきた鈴が、耳元で囁く。
距離の近さに一瞬ビクッとしたが、その言葉を聞いてなるほど、と思った。
今の今まで忘れてたけどな、そんな思い出。
あいつの弟が読心術の所為で体調を崩し、心も病んだこと。苦い薬を嫌がるって言うから、その当時に丁度完成したばかりだったホットチョコに溶いて処方したのだ。そういえば。
そもそも古代には薬だったって言うし、まあその効果なのか元気になってくれた訳だ。
以来王都を訪れる度に絡んできたのは、それ以来体調を崩し易くなった弟のため。
更に弟や妹が数人居るので、そいつらにせがまれているのだ、とも聞いた覚えがある。
でもその根底にあるのがあの思い出だったとは、なんというか自分の記憶力の無さに脱帽である。
「了解だ。それなら大して時間掛からんから、そこで待っててくれ」
「うん。ほら、ラーデちゃん! もうちょっとだから!」
「わ、わ、私、こんな格好、見られ……っ!」
やや動き易いワンピースにエプロンって、普通に可愛いんじゃないだろうか。
チョコとか付いてるし、何かもう色々と美味しい格好じゃねーの? と思うのは多分日本人の感覚であって、貴族的にはアウトなのだろう。
「ほう? 何をしているんだ、ユークは」
「お菓子教室だ。ところで鈴、あれ説明した?」
「あ、忘れてた」
重要な所だろ、それは。
生まれたての小鹿みたいになっていたラーデリア嬢……ああもうお嬢でいいかな、お嬢を立たせて戻っていき、アイザックの耳元で小声で伝える。
ほう、と偉そうな声が聞こえた。……さてまあ、あのクソガキ様がどう対応してくれるのか見物でもあるんだが、今はこっちだ。
「お嬢、固めるのはやめます」
「お嬢!? 微妙に略さないでくださいませっ」
「いいじゃないですか。えーと牛乳はー、あったあった」
読心の所為で心を病んだ弟より、そのショックが後を引いたのはアイザックの方だった。
弟の方はまだ善意もあると知っているからいいのだが、奴は世の中は嘘に満ちていると今だ信じているのだろう。事実貴族社会は上っ面が命なので、間違ってはいない。
でもその所為で、こんな出来たお嬢の気持ちまでも疑われるのは黙ってはいられない。
……と、恐らく事情を聞きだした鈴は思った事だろうなー、と想像する。
俺としてはまあ、もったいないよねーくらいのノリだ。
「ゆっくり混ぜといてください。カップ借りてくるから」
「え? あ、は、はい!」
真剣な顔つきで鍋をぐるぐるやっている。うっかり敬語を忘れた事にも気づいていないようだった。セーフセーフ。
棚からマクカップっぽいものを、えーと、一つで良いだろうか。まあいい、一つ出して戻る。
「混ざったら終わりでいいです」
「はい……!」
「あとはまあ、愛を込めましょう。以上、おしまい!」
投げやりなチョコレート講座は終わりを告げ、魔法の道具で温めていた鍋を外してカップに注ぐ。マシュマロがあれば更に良いと思うんだけどなー。
あ、そうだ。
「お嬢、あと一つ」
「はい? なんですの」
完成品のカップを感慨深げに見つめるお嬢に、やや小声で一言。
「スズの故郷で今日はバレンタインデーと言います」
「はい」
「どんな日かと言いますと――」
簡単に説明すると、ラーデリアは今度こそ耳まで真っ赤になった。
いや本当、ここまで赤くなるのに何故ヤツは! もったいない!
「む、むむむ無理ですわっ、そんなはしたない……っ」
「いけますって、つーかその顔でいけば言わなくても一発」
「あ、あなたバカですの!?」
「馬鹿です!」
何とも形容しがたい目つきで美少女に睨まれた。いやー初めての経験である。
振り向いてみれば、また話し込んでいる鈴とアイザック。お仲がよろしいのは結構だが、流石にちょっぴり腹立たしくなってくる。
「鈴! 終わったぞー」
「はいはい」
正直、これで戻れるのかはよく分からないが。
兎に角、後はお若い2人に、というヤツである。
◆
向かい合うまでは余裕を保っていたザックの表情が、カップの中身を見た瞬間に驚いたようなものに変わり、そして口に含んだ瞬間にまさしく――蕩けた、といった感じになった。
そういや毒味とか良いのかなーと思ったけど、それはまあ空気を読もう。
「――聞いたところ、今日は想い人にチョコレートとやらを贈る日だそうだが、つまりこれはそういう意味なのか?」
漸く、少しばかり受け入れる気にはなったらしい。
少なくとも賭けは恐らく私の勝利で、ラーデちゃんはどもりながらも小さく頷いた。
分かってるのかな。自分で言ったんだよ、王家の守護竜は心の清い乙女に懐くって。
上手くいけばいいけど、と思いながら幸久に目配せしつつ、入り口から覗いてらっしゃるデバガメ使用人様方を完全に追い出し、部屋を出た。
そして庭に出た時、あの時の感覚が再びやって来る。
ゆっくりと五感が薄くなっていくように、光も匂いも何処かへ行ってしまう。
――けれど今度は、繋いだ手を離さなかった。
「やっぱり私の勘は当たるわね」
「へいへい、そーですね」
「帰ったらチョコ摘みながらウィスキーね」
「ウィスキーボンボン食えよ!」
最後に見たのは、何故かこっちまでカップル成立したのかくっ付いて舐めあっている大小2匹のドラゴンだった。
そして、意識はまた黒く塗りつぶされた。
◆
転んだ事実も無かった事になっていた。やっぱりかと思ったものの、その日は妙に疲れていたのですぐに帰ったのだ。
で、漸くバレンタイン当日である。
チョコフォンデュを楽しんだ後、それは漸く発覚した。
「幸久あああああ!」
「うおっ!? な、何だ! 強盗か!」
「強盗だったらあんたは隠れてろって言うわよ!」
それもどうなんだ!?
何か腹立たしくなりつつ声の聞こえた方に向かう。そこには、開けたクローゼットの中を指差している鈴が居た。つーかそれ俺のクローゼットですけど!
「ほら、これ! 見て!」
言われるままに、というか首を引っ張られたので半ば強制的に見せられた。
クローゼットに掛けられたコートや上着の奥、そこには――
「うわっ」
見覚えのある、部屋。木で出来た調度品、古臭い道具の数々、嗅ぎ慣れた匂い。
ある意味ベタな展開に、驚きよりも呆れのようなものを感じてしまった。
クリスマスにバレンタイン、そしてそれ以前の24年間も関わった世界はまだ俺を解放したりしないらしい。
というか、これで白昼夢じゃなかった事が証明されたな。
前回の仕掛け人がサンタなら、今回は聖バレンティヌスだったのだろうか。
以前は僻んでばかりで、まともに参加した覚えのないバレンタインデー。
母親にチョコを貰ったのだって、もう何年前になるだろう。
けれどもう、そんなに悪い気はしない。
「あーびっくりした……まあいいわ、とりあえず続きよ続き」
「へいへい」
「お酒にチョコっていいわね!」
「糖分と糖分って……いや、なんでも」
すっかり不思議耐性の付いてしまった俺たちは、気を取り直してチョコフォンデュをしながら酒を飲むという豪気すぎるバレンタインを楽しみ、結局酔った鈴に押し倒されたり、室内で滑ってコケたり、いつの間にか向こうから侵入してきたリスを追いかけたりと色々あったのだが。
とりあえず、ハッピーバレンタイン! とだけ言っておく。
後半もうちょっとじっくり書きたかったんですが、タイムアップ。
スライディング土下座ですねこれは。
おまけのキャラクター目録
●ワトさん(ワーディット・デリング)
・豪快なおじさん。
・役所の職員。本業肉屋だがそちらは奥さんが頑張ってる。
・幸久の両親が亡くなった際に暫く一緒に暮らす。
●アイザック
・なんとなくライオン系。きっと5年くらいすれば獅子王って呼ばれてる感じ。
・ハートフルな過去話をいつか書きたいです。
・弟と妹が何人か。同腹異腹と居るがみんな仲良し。
・対して両親との仲は不調だった。
●ラーデリア・リッセンヘラー
・勉強とアイザックをこよなく愛する伯爵令嬢。
・貴族の娘としてはいささか知恵が回りすぎると両親はちょっぴり不服。
・その後、お菓子作りに嵌る。
・案外図太いので、しばしばアイザックに連れ回される事に。はしたないとは思いつつ嬉しい。
・マゼンタにローシャと名付けていたが、本名判明でちょっと切ない。
●マゼンタ
・♀。
・ゼフェシーに対する心情:あと200年経ったら相手してやらない事もないんだからね!
・ラーデリアが毎日毎日陛下陛下とうるさいので恋の助言が出来そうな人材を探してみた。
・知能はかなり高い。
●ゼフェシー
・♂。
・暫くして竜舎に戻ったものの、マゼンタが忘れられない。
・うっかり客を落としかけたりとトラブルが目立ったため再教育されかけるが、隙を見て脱出し、マゼンタの元へ飛んで言ったという噂。
更におまけ
●ユーク・スコットニー
・異世界での幸久の本名。
・顔立ちは本物の幸久に似ているが、目と髪はちょっと緑がかった黒、体つきもちょっとがっしりしている。
・両親は8歳の時に亡くなり、その後は暫くワーディットの世話になった後、両親の知り合いである“師匠”に見込まれて修行の旅に出る。
・自分の舌を満足させたいが為にチョコレートやらの甘味類は再現出来た。が、肝心の普通の料理が壊滅的。
・本人曰く“そこそこ”だが、老人と子供には絶大な人気を誇っている。誰一人認識していないが、実質王家御用達。
・よくふらふらと出かけていくので、2ヵ月くらいの失踪ではあまり心配されない。
・そのせいで日本に戻ってからあまりふらふらできない事が少し不満。