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猫が隠した星 〜楽園に行く前に、片付けることがある人たち〜  作者: Junbi
本編

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33/33

終幕 もう、閉めるよ

 丁稚をしていたころ、僕はよく戸を閉めた。


 店の戸だった。裏口の戸だった。蔵の戸だった。雨戸だった。


 隙間風が入ると怒られるので、最後に少し持ち上げて、戸車の機嫌を取る必要があった。


 油を差していない戸は、素直に閉まらない。力任せに押すと、あとで余計に怒られる。


 だから、斜めに少し戻してから、もう一度引く。敷居に溜まった砂を指で払う。戸車の下に小石が噛んでいないか見る。閉めたあとで、指一本分だけ開いていないか確かめる。


 そういうことを、僕は昔、毎晩やっていた。


 最後の仕事というのは、たいていそういう顔をしている。


 カヂルグミの最初のスピーチのあと、人々はいっぺんに扉をくぐった。


 行列というより、雪崩に近かった。


 泣きながら行く人もいた。笑いながら行く人もいた。何も言わずに行く人もいた。忘れ物を確認する人もいた。


 忘れ物など、もうほとんど意味がないはずなのに、それでも鞄の中を見ている人もいた。


 そのあとに、面倒な連中が残った。


 怒っている人、黙っている人、何も持っていないのに動かない人、持ちきれないものがある人。


 そういう人たちが、少しずつ扉をくぐっていった。


 カヂルグミは、それぞれに必要な手順を示した。


 僕は、たまにその隣にいた。


 大したことはしていない。


 紙を運んだり、椅子をたたんだりした。読める字で書き直した方がいい名前を書き直し、読めない字のまま残した方がよさそうな名前は、そのまま残した。


 配ってはいけない紙を配らないように持った。老人の飯を運び、布団を干し、ときどきクソの始末もした。


 世界が寂しくなると、そういう細かい用事ばかりが残った。


 資料を配る女とは、けっこう長く一緒にいた。


 十年だったのか、二十年だったのか、もう少しあったのかもしれない。


 地球人の寿命としては長いが、僕の感覚では、受付だったものが受付でなくなっていくのを見ているうちに過ぎた時間だった。


 彼女は、世界中の受付を潰す予定だった。


 最初に聞いたときは、言い方の間違いだと思った。


 あとで分かったが、言い方はほとんど間違っていなかった。


 彼女とカヂルグミは、世界中を飛び回った。


 僕も、ときどき手伝った。


 けれど、どう考えても終わる仕事ではなかった。


 地球は広く、受付は多かった。


 それでも、いつの間にか終わっていた。


 世界中から、受付がなくなっていた。


 全部を一つずつ回ったとは思えない。


 たぶん途中から、カヂルグミがズルをしたのだろう。


 そしてある日、資料を配る女は、十トントラックを持ってきた。


 広い道路の端に、低い音を立てて停まった。運転席から降りた女は、いつものように書類を抱えていた。


 荷台には、紙束が積まれていた。箱に入っているものもあれば、紐でくくられているものもあった。


 角はそろっていた。そろいすぎていて、少し怖かった。


 使えなかった紙ではなかった。


 配れなかった紙でもなかった。


 配らなくて済んだ紙だった。


 そのとき、僕は預かっていた紙束を抱えていた。


 配る紙ではなかった。読ませる紙でもなかった。あとで読まなかったと言わせないための紙でもなかった。


 配らない紙だった。


 そういう紙を預けられるようになったことを、信用と呼んでいいのかは分からなかった。


 少なくとも、以前の僕なら渡されなかった。


「本当に持っていくんですか」


 女はうなずいた。


「持っていきます」


「向こうで配るんですか」


「配りません」


「読ませるんですか」


「読ませません」


「では、何のために」


「配らないためです」


 なんとなく意味は分かった。


 分かりたくはなかったが、いつの間にか僕は、彼女の理屈に慣れていた。


 カヂルグミは、荷台に積まれた膨大な紙を一瞥した。


「トラックごと通れます」


「よかったです」


 女は運転席に戻った。


 窓が下がった。


「それ、勝手に配らないでください」


 僕は、抱えていた紙束を持ち直した。


「配りません」


「あなたは信用がありません」


「預けてるじゃないですか」


「監視下です」


 彼女は二本の指で自分の目を指した。


 それから、その指を銃口みたいにこちらへ向けた。


「配りませんよ」


「なら大丈夫です」


 トラックは、ゆっくり扉へ向かった。


 荷台の紙束は一枚もこぼれなかった。扉の前で、女は一度だけブレーキを踏んだ。


 それから、進んだ。


 その日、女は資料を一枚も配らなかった。


 それが、彼女の通り方だった。


 女がいなくなってから、僕は人と話すことがほとんどなくなった。


 まだ地球に人が残っていなかったわけではない。ただ、僕が会いに行く理由がなくなった。


 カヂルグミの地上での仕事も、もうほとんど終わっていた。


 呼ばれれば手伝ったが、呼ばれること自体が少なくなった。


 パチンコ屋の台は、誰も座っていないのに、しばらく律儀に光っていた。


 病院のバス停には、次の便を待つ人がいなかった。


 僕は、人のいない草地で過ごすことが増えた。


 古い道の突き当たりにある、ガードレールの向こうの草地だった。


 地図には、まだ道が続いていることになっていた。


 けれど、まともに生きている人間は、誰もその先にある場所を目指すことができなかった。


 草は腰より高く伸び、舗装の割れ目から低い木が生えていた。


 錆びて口の開かなくなった郵便受け。日に焼けて割れた衣装ケース。土に沈みかけた、片方だけの長靴。


 どれも、僕と同じように、どこかで捨てられて、ここへ着いたものだった。


 草地の奥には、黒く焼けた家の跡があった。


 その上に、ソファとテレビと、古いスクリーンが残っていた。


 ソファは雨を吸って崩れ、テレビは横倒しになっていた。破れたスクリーンには蔓が絡み、風が吹くと、端の方だけが揺れた。


 ずいぶん昔、ここでカヂルグミと映画を見た。


 何本見たのかは覚えていない。


 もう映らないテレビの近くに座り、何もしないで一日を過ごした。


 帰る理由を失ったというほど、大げさなものではない。


 やることがなくなった。


 だから、そこにいた。


 真っ黒い猫が一匹、茶トラが二匹、草地へ来るようになった。


 前からいたのかもしれない。


 人間が減って、目につくようになっただけかもしれない。


 三匹は決まった時間には来なかった。朝からいる日もあれば、暗くなってから現れる日もあった。


 一匹だけ来ることもあったが、しばらくすると残りの二匹も、どこからか出てきた。


 僕は、見かけると食べ物を置いた。


 猫に食べさせていいものが何だったのかは忘れていた。だから、味の薄そうな魚や肉を選んだ。


 三匹とも、普通に食べた。


「お前たちも、そろそろ行けばいいのに」


 そう言うと、黒猫は顔を上げた。


 茶トラは食べ続けた。


 もう一匹の茶トラは、僕の足に背中を擦りつけた。


 三匹とも、聞いていない顔をしていた。


 長く一人でいると、猫に話しかけるくらいのことはする。


 見えないサルに話しかけるのと比べれば、なんてことはない。


 たまに、カヂルグミが草地へ来た。


 所有者への通知や、期限がどうしたという報告をした。


 僕は聞き流しながら、猫の近くに座っていた。


 カヂルグミは、ときどき猫を見た。


 何か言いたそうにしていることもあった。


 けれど、猫は一度も彼の方を見なかった。


 黒猫が足元を横切ると、カヂルグミは少し道を空けた。


 話しかける隙を、最後まで与えてもらえなかったらしい。


 こちら側は、少しずつ静かになった。


 カヂルグミは最後まで忙しそうにしていたが、慌ててはいなかった。


 最初のころのように、地球人を分類しそこねて変な角度から近づくことも減っていた。


 たまに間違えた。


 そこは、最後まで間違えた。


 けれど、間違えたあとで直すのが少し早くなっていた。


 猫は相変わらず、僕の周囲をうろついていた。


 誰もいない喫煙所のベンチにいたり、バスの来ない停留所の屋根の上にいたりした。


 草地へ戻ると、僕より先に焼けた家の基礎の上で寝ていることもあった。


 終わりが近いのだと思った。


 火のそばを通るとき、消したかどうか、急に気になることがある。


 あの感じに近かった。


 やがて、最後の日が来た。


 古い道の突き当たりは、いつもと変わらなかった。


 地図アプリでは、まだ道は先へ続いていた。


 実際には、舗装は草と土に埋まり、錆びたガードレールだけが、そこが道の終わりだったことを覚えていた。


 ガードレールの向こうでは、若かった木が屋根より高くなっていた。


 郵便受けは支柱ごと傾き、割れた衣装ケースには土が溜まって、草が生えていた。


 片方だけの長靴は、履き口を残して地面に沈んでいた。


 焼けた家の基礎も、ほとんど草に埋まっていた。


 ソファは骨組みだけになり、テレビの割れた画面には空が映っていた。


 スクリーンは木の枝に引っかかり、白かった布の一部だけが残っていた。


 犬のフンを持ち帰れという看板は、犬の輪郭がかろうじて分かるくらいに色褪せていた。


 カヂルグミは、ガードレールの手前で立ち止まった。


 その日、彼は煙草を吸わなかった。


「所有者応答期限が満了しました」


 僕はため息をついた。


「最後まで返事はなかったんだ」


「はい」


「最悪だよ」


「はい」


 草地の奥には、何も見えなかった。


 けれど、もう疑わなかった。


 そこには、挟まっているものがあった。


 カヂルグミは手続きを読み上げた。


 相手が聞いているのかどうか分からない文書を、最後まで丁寧に読んだ。


 読み終わるまで、風もあまり吹かなかった。


 真っ黒い猫が一匹、ガードレールの上にいた。


 茶トラが二匹、少し離れたところに座っていた。


 三匹とも、眠そうだった。


 僕は、猫たちを見た。


「ここはもう閉めるよ」


 黒猫がガードレールから降りた。


 茶トラが二匹、遅れて立ち上がった。


「君も残ればいいのに」


 僕は声の方を見た。


 一匹の茶トラが、こちらを見ていた。


 本当にしゃべるんだ、と今さら思った。


「もう十分残ったよ」


 茶トラは、それ以上何も言わなかった。


 三匹とも、道の端を歩いていった。


 どこかへ行く用事があるようには見えなかった。ただ、ここにいる理由がなくなっただけのように見えた。


 カヂルグミは何も言わなかった。


 僕だけが、見えなくなるまで見ていた。


 猫がいなくなってから、カヂルグミはガードレールの向こうへ手を伸ばした。


 指先が、何もないところで止まった。


 何かを確かめるように、少し動いた。


「野生に返せばいいの?」


「うん。そうしてあげて」


「分かりました」


 僕は、カヂルグミがサルの手を引いて、仲間のところまで連れていくところを想像していた。


 でも、そうではなかった。


 カヂルグミは、何もないところから手を引いた。


 僕には、何も見えなかった。


 彼はしばらく手元を見ていた。


 それから、どこかを確かめるように顔を上げた。


 たぶん、然るべきところに、サルをそっと置いたのだろう。


「終わりました」


 カヂルグミが言った。


「ありがとう」


「通過可能です」


「僕が?」


「はい」


 僕の扉は、すぐ近くにあった。


 立派な門ではなかった。


 光る入口でもなかった。


 裏店にあったような、がらくたみたいな引き戸だった。戸車が少し悪そうで、指をかけるところが黒ずんでいた。


 僕はその前に立った。


 ずいぶん長く残ってしまった。


 戸締まりを任されたというより、戸締まりの時間まで帰れなかった人間だった。


 カヂルグミが横に立った。


「忘れ物は?」


「ない」


「確認する?」


「しない」


 彼は、それ以上は何も言わなかった。


 僕は引き戸に手をかけた。


 戸は、思ったより軽かった。


 開ける前に、後ろを見た。


 地球は、もうほとんど空だった。


 完全に空ではない。


 空き家にも埃は残るし、机の脚の跡も残る。誰かが置き忘れた傘の骨も、読まれなかった紙の角も、どこかには残っている。


 でも、火は消えた。


 サルも外れた。


 猫もいない。


 僕はカヂルグミを見た。


「閉めていい?」


 カヂルグミは、笑ったように見えた。


「いいよ」


 僕は引き戸を引いた。


 古い戸車が、がたん、と鳴った。


 地球の最後の戸締まりにしては、ずいぶん安っぽい音だった。


 でも、戸締まりの音としては悪くなかった。


 僕は向こうへ足を入れた。


 最後にもう一度だけ、戸の外を見た。


 誰もいなかった。


 だから、言った。


「もう、閉めるよ」


 引き戸は、閉まる手前で少しだけ止まった。


 敷居に、砂粒がひとつ噛んでいた。


 僕はしゃがんで、それを指で払った。


 もう一度引くと、戸は最後まで閉まった。

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