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前編


 「なんであんな女に告白したの? 何の面白味もないじゃん、あんな女。」

 知らない女の声。

 「顔だけはいい。あと、試験前に勉強教えてもらえるだろ。」

 げ、最悪。

 恋人の声じゃん。


 付き合ってくれと言われて付き合った。

 付き合うとか別にどうでも良かったけど、自分のことを異性が好ましく感じてくれていると知るのはそんなに悪い気しなかった。

 互いのことを知ってきて、穏やかに関係を縮めてきてる。

 そう思っていたのは私だけか。

 ふーん、そうか。

 そんなら私にも考えありますよ。


 放課後。

 私は恋人を空き教室に呼び出した。

 「ハンス、今日から一日に五ページ、この問題集を進めて来なさい。」


 恋人のハンスは固まった。

 しばらく待つと、ぎぎぎ、と音を立てて再起動した。

 「ちょっと待って、レナラ。俺はてっきり空き教室でドキドキデート、みたいなのを想像してたんだけど。」

 

 阿保。

 「何を言ってるの。あなた留年ギリギリでしょう。」


 ハンスの留年ギリギリは有名だ。軽やかなステップで留年を神がかり的に回避していくさまは同級生から要らぬ尊敬を集め、内々に「師匠」と呼ばれている。


 いつかは苦言を呈そうと思っていたのだ。本人がその気なら、丁度良い。


 「私はあなたの留年を確実に回避し、あなたを優等生に仕立て上げる勉強プログラムを組みました。」

 勉強目当てなら、最初からそう言ってくれれば良いのだ。

 私の能力を買ってくれているのだもの。

 こちらもそれ相応の熱量で応えたい。


 「今日からあなたにはそれをこなしてもらう。ちゃんとやってきたか、毎日チェックするから。じゃあ、頑張ってね。」


 ハンスの前にどさどさどさっと参考書の山を積み上げる。もちろん、私の作った計画表つき。

 最終的には、私に頼らずともハンスが自分で勉強できるようにするのが目標だ。


 教師になりたい。

 私の夢だ。


 嘘告白をしてきたんだもん。

 私のための実験台になるくらい、してもらわないとね。


 放心状態のハンスを前に。

 私は決意を固くした。



 ハンスはなかなか頑張っていた。

 もっと文句をぶー垂れるのかと思いきや、黙々と課された量をこなしてくる。


 そんなこんなでけっこう平和に過ごしていたある日のこと。


 休み時間に机で予習をしていた。

 すると、知らない女子生徒に絡まれた。

 ピンクブロンドのボブカット、大変に可愛らしいお目々の女の子である。

 聞いたことある声。

 そういえば。あのときハンスと話していた声はこの女だった気がする。


 「ねえ、ハンスと付き合うのはやめたほうがいいんじゃない? ハンスはあなたの学力が目当てなの。付き合っても二人とも不幸になるだけよ。」


 なんだこいつ。

 わざわざ難癖つけに来てくれてありがとう。心の中だけで思う。

 「知ってます。」

 「え……。それなら、」

 「知ってます。」

 会話を遮ることになっちゃったのは、許してほしい。

 「そのことを知ったうえでお付き合いしています。ご心配なく。」


 早く会話を切りたい。

 早く、しないと。

 私がこの女を殴り倒してしまう前に。


 頭ごとノートに向けて拒絶すると、女子生徒は諦めて去っていった。

 知らない人と話すのは疲れる。


 「レーナッ! 」

 なぜこいつは最悪の局面に現れるのか。


 「デートしようよー。最近は勉強ばっかじゃないか。外に出ないと体に悪いよ。」

 「通学中に陽にあたってるから、ご心配なく。試験一週間前に遊んでられるほど暇じゃないの。」

 「つれないなー。忘れてない? 俺たち恋人同士なんだよ。もう1ヶ月近くデートしてないじゃん。ちょっとくらい、」


 「うるさい! 」

 ……やって、しまった。

 地面が揺らぐ。

 絶対嫌われた。

 怖くてハンスの目が見れない。


 肩に温いものが触れる。

 見上げると、ハンスが私の肩に手を置いて、私を見つめている。ハンスは私の目を見て、安心させる笑みを浮かべた。


 「レナラ、疲れてるんだ。気分転換も大事だよ。たまには外に遊びに行こう。」


 なんとなく逆らえなくて、頷いてしまった。


 野花の咲き乱れる丘を黙々と登る。

 先にてっぺんに着いたハンスが、私に手を差し伸べた。

 息切れがしていたので、有難く引き上げてもらう。

 「あの塀の向こうに学校があるなんて変な感じがするな。」ハンスは誰に言うでもなく呟いた。

 「箱に押し込められて、同じことをやらされて、監獄のような場所なのに。一歩外に出ればこんなにも自由が広がっている。」


 名前も知らない草花が丘一面に敷き詰められている。なんて素敵な絨毯だろう。

 「ねえ、ハンス。」

 私は前々から思っていた。

 「あなた、わざと勉強してないんでしょう。」

 

 沈黙。

 それはただの沈黙だったけれど、この瞬間では何よりも雄弁な沈黙だった。

 「そういえば、あなたは二番目の子供だったわね。」

 ハンスは何も言わない。

 「そして、家を継ぐのは腹違いの姉だったかしら。」

 無言。

 「これは独り言だけれど。」

 独り言。

 そう、ただの。愛されていると勘違いした大馬鹿女のたわ言だ。

 「私の家では入婿を募集しているの。」

 ハンスが顔を上げる。

 私はわざと彼の目を見ないで、遠くの空を眺めていた。

 「三姉妹の一番上が私。私の家は学者の家系だから、学園の成績も大きな評価対象になるでしょうね。」

 否定されないのを良いことに、勘違い女は尚もつづける。

 「そろそろ両親が知人の息子を探し出して私に会わせようとしてくる頃合いじゃないかしら。」

 彼は何も言わなかった。

 私も何も言わなかった。

 小鳥が鳴き、雲が風に吹かれて空を横断して異国の地へ向かうまで。

 私たちは丘に並んで立っていた。


 

 私たちの関係は何も変わらない。

 私が彼に課題を課す。

 彼がその課題をこなして、私はまた彼に課題を出す。それだけ。


 中間試験で、彼はずいぶんよくやった。

 もちろん、これまでに比べればの話だけどね。


 成績表を返しに来た教師が、熱でもあるんじゃないかとハンスのことを心配していたのは記憶に新しい。


 そして、再び絶望を突きつけられたのも記憶に新しかった。

 

 廊下の角。

 またあの女とハンスが話してる。


 「ねえ、どうしたの、急に頑張っちゃって。らしくないわよ。」

 

 「ああ、ちょっとね。」


 「目的も果たしたことでしょう。あの女からあたしに乗り換える気になったかしら。」


 「まあ、そのうちね。」


 もういや。

 大嫌い。


 「ねえ、遊びに行こうよ。試験も終わった。成績は良し。さあ、何を憂うことがある? 」

 浮かれるハンスにぴしゃりと突きつける。

 「憂うとすれば、あなたの学期最終試験の成績ね。」

 ハンスはしおしおと頷いた。

 「そりゃそうだ。でもあれだけ頑張ったんだ。ご褒美があっても良いと思うなあー。」

 上目遣いでちらちらこちらを窺うのをやめてほしい。謎の罪悪感に襲われるじゃない。

 特大の溜息。

 諦めと共に私の頭ががくりと落ちて、喜びと共にハンスはぴょーんと飛び上がった。


 連れて来られたのは学園の中庭。

 裏寂れた掘立て小屋、歯のない熊手、抜かれないままの枯れ草。今にも魔女が出そうだ。

 うら若き乙女をデートに連れてくる場所ではない。

 勉強させ過ぎたのだろうか。勉強させ過ぎて、ネジが外れてしまったのか。私は本気でハンスの頭を心配した。

 

 「ここなら誰からも邪魔が入らないだろう。」

 ハンスはウキウキだった。

 「知り合いがいると誰かしら話しかけてくる。」

 教室にいると、教師が私に話しかけてくる。

 外に遊びに出ると、ハンスの遊び仲間が話しかけてくる。

 確かに魔女の庭は合理的な選択かもしれない。

 「レナラは、なぜ教師になりたいの。」

 唐突な問いだった。

 私はしばらく言葉を探した。

 長いこと掛かったけれど、糸の端を見つけて仕舞えば手繰り寄せるのは簡単だった。

 「子どものころ、男の子たちに意地悪をされた。」

 あれはいじめではない。だって、私は嫌だなんて少しも思ってなかった。

 「名前を揶揄われて、容姿を揶揄われて、読んでる本を揶揄われて、行動全てを面白おかしく真似されて、問い詰めてもしらを切るか気のせいだと言って、こっちのせいにさせられた。」

 嫌だと思ったら、負ける。

 「だから、同い年の男の子は全員クソだと思ってた。」

 でも、家に帰れば先生がいた。

 先生は近所の女学生さんで、私の勉強のために両親がお金を払って来てもらっていた。

 「先生はあの最低な環境から私を救ってくれた。」

 大好きだった先生。

 「家族以外の他人が、私のことを否定しなかった。努力したら褒めてくれた。笑いかけたら、笑い返してくれた。」

 それがどれほど私を救ったか。

 先生はきっと知らないだろう。

 

 「なんで、俺の告白は受け入れてくれたの。」 

 ハンスはさらりと視線を寄越す。

 「あんたは、他の子よりも大人に見えた。」

 声が震える。

 「あんただけは、他のガキみたいなやつらと違うと思ってた。私のことを本気で好きになってくれたみたいだった。」

 どうやら、思い違いだったようだけどね。


 試験後の緩慢な時はあっという間に過ぎ去り、次の試験の足音が聞こえる。

 

 ハンスの成長は目覚ましかった。

 乾いた土壌にやっと雨が降り注いだのだろう。

 みるみるうちに全てを吸収し、すっかり私の助けなんて要らなくなってしまった。


 もう、来なくていいよ。

 そう伝えたのに、相変わらず私にその日のことを報告に来る。何を勉強したか。分からなかったけど、考えたら分かるようになったこと。学校の塀の上を歩いていた野良猫や、学校の中にアナホリウサギが巣を作ったこと。

 私はノートから顔を上げずに、いちいち頷いて、聞いていることを態度で示す。ハンスは私の机の端に頬杖をつき、私のことを眺めている。

 どきどき、信じたくなってしまう。

 でも、彼を信じかけた途端にあのときの彼の言葉が脳裏に浮かび、私の心をかぎ針で引っ掛けて先に進めないようにしてしまう。


 学期末試験や夏休みは飛ぶように過ぎ。

 学年末試験の結果が張り出された。

 自分の名前を探す。

 四十位のあたりからざっと上を目掛けて目を通す。 速読の要領で眺めていると、見覚えのある名前が二つ並んで飛び込んできた。


 一位 ハンス・ヘンリッヒ

 二位 レナラ・バルツァー


 とうとう私を越したのね。

 きっとこうなるだろうと思っていた。


 ハンスは人混みの向こうで、男友達に身体を叩かれ祝福されていた。男女を問わず、誰もがハンスに言葉を掛ける。

 人波に揉みくちゃにされつつ、きょろきょろ見回していた彼の目が私を捉え。表情を明るくさせた。

 そして、私は。

 彼に背を向け、掲示板を後にした。


 「どうだい。今回はかなり頑張ったんだ。」

 彼が目を輝かせた。

 「そうね。すごいわ。」

 私は肯定する。

 「自分でも信じられないよ。こんなことがあっていいんだろうか。」

 「自信を持っていいと思うわ。きっと、今のあなたならどこででもやっていけるんでしょうね。」

 私は褒める。

 そして。心の中で謝罪した。

 「私たち、もう会わない方がいいと思うの。」

 ごめんね。

 でも、信じたい自分と信じ切れない自分。板挟みはもう嫌なの。

 だから、身勝手に、終わらせた。


 それから休暇に入り、私とハンスは一度も会わなかった。

 雪で埋もれた街の中で、私と彼は別々だった。

 あのとき私が終わりを告げたあと。

 「そうか。じゃあそれでいいよ。」ハンスは叩きつけるように私に言って。あれほど続いていたものは、呆気ないほど簡単に壊れた。

 終わらせるのってこんなに簡単だったんだ。

 彼を思い出しては、一人で泣いた。


 新年。

 私はピンクブロンドきゅるきゅる娘と同じクラスになった。彼女の名前はカレンというらしい。初耳だ。

 彼女は私を嫌っていた。

 公の場では笑っていても、二人きりのときは刺々しい態度を隠さなかった。

 彼女の策略で、見事に私は集団の中で孤立した。

 面倒くさ。


 無難に孤立して、適度に萎れている風な演技をして、やり過ごす。

 そして、卒業した。



この地域は常に冷涼な気候です。

高山をイメージしてもらえれば。

夏は少し暖かい程度、冬は歩けないほどの雪が降ります。

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