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初恋のオルゴール

作者: 亜古 鐘彦
掲載日:2025/12/22

 あの人がこの曲をピアノで弾いていたんだ。


 私がその姿を見つめていたのが、どのくらいの時間だったのか見当もつかない。たった数秒の一瞬のことのような気もするし、何分も経っていたかのような気もするんだ。

 この上なく綺麗だった。いや、綺麗だったじゃ言葉が足りなすぎる。でも絶世のとか、並外れたとか、傾城のとか、息をのむようなとか、100年に一度のとか、もうそれらのような、どんなに強い言葉で表現しても、そのどれもが意気消沈して色を失うほど、あの人は完璧だったんだよ。

 

 初めて知ったけど、そういう時、不思議と息は上がらないんだ。心臓はうるさいくらい早く打つんだけど、それと釣り合わないくらい呼吸はゆっくりしていたのを覚えている。その時は、自分が息を吸って吐く音と奏でられているピアノの音しか聴こえなかった。周りの他の音は何も聴こえなくて、息を深く吸って吐いている自分だけが、この世界から切り離されているようだった。

 

 でも同時に、抱えきれないほどの焦燥感というか、絶望に似た息苦しさがあった。何が起きようと、僕が何をしてもしなくても、天地がひっくり返っても、彼女の人生に僕が入れるような場所はないように感じられたんだ。あの人が私を嫌っているだとか、性的思考がとか、そういうのでもなくただ、そんな風に感じてしまったんだ。だから、息苦しかった。どう頑張っても、私が立っている今この場所以上に、あの人に物理的にも、精神的にも近づけない、そういう隔たりが立ちはだかっていた。わかってくれるかな。

 そういう自分にも落胆して、余計に動けなくなってしまった。こういうのを畏怖というのかもしれないね。圧倒的な存在に、成す術がなくて一歩もそこから前へも後ろへも動けない。

 結局、演奏が終わるまでその調子で、あの人がその場を去るまで固まったままだったよ。もちろん、この気持ちは伝えないまま。

 

 それでいいと思ってる。私の初恋は、甘酸っぱい爽やかなものでも、若さみなぎる瑞々しいものでもなく、息苦しく無力さを覚える一瞬のものだった。何にも代えがたい、大切な思い出だ。

 それを閉じ込めておきたくて、その時聴こえていたピアノの音を必死に思い出して譜面におこした。楽譜なんて学校の授業で触れたくらいで、なんの知識もなかったけど、この曲だけでも私に遺しておきたかった。たぶん、忠実にできていると思うよ。


 この曲のタイトルだけでも聞いておけばよかったな。


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