ステップ2 ソレをトラウマと人は言う
私、榊杏は今まで、男の子と付き合ったことがない。
この世に生まれて16年と数ヶ月。悲しいくらいに、きれいさっぱり1度もない。
だから、世のご同輩、高校1年女子がたぶん経験しているだろう(と、個人的に信じてやまない)、お手手繋いでとか、腕を組んだりとか、肩を抱かれたりとか、一切したことがない。
ましてや、その先は正に未踏の秘境。未知との遭遇ってなくらいで、どんな世界が広がっているのか、皆目見当がつかない。
そりゃあ、もちろん、16歳になる今までに、1度も恋をしなかったわけじゃない。いくらなんでも、人並みに心をトキメかせた経験くらいはある。
遠い記憶を辿れば、あれはそう、私がまだ5歳。幼稚園の年長さんだったころ、一番仲が良かった同じキリン組の佐藤一樹くん。目鼻立ちがくっきりかっきりした、笑顔が素敵な、元気BOY。色素の薄いサラサラな髪が、まるで王子様のようだった。
彼が、たぶん、初恋の相手だと思う。
私は、見てくれだけじゃなく、とても優しい性格の彼が、大好きだった。
一樹くんが砂遊びをすれば、砂遊びをし、一樹くんがジャングル・ジムに登れば、私も登る。
明けても暮れても『一樹くん』、幼い私の世界は、一樹くんを中心に回っていた。
未熟児で まれた私は、人一倍体が小さい子供だったから、チョコマカと彼に付いて回るその姿は、さながら『金魚のフン』のようだったと、その頃を知っている親友Aは語る。不本意な言われようだけど、今冷静に思い返してみると、あながち的はずれとも言えない。
忘れもしないあの日。桃の節句の3月3日のお昼休み。
春めいた澄み切った青空の下。園庭では、気の早い桜が、ちらほらと花を咲かせていた。
その桜の木の下で、私は砂場に向かおうと元気いっぱい駆け出した一樹くんの背中に、一世一代の決意を込めて声を掛けた。
「一樹くんっ!」
「なあに、杏ちゃん?」
足を止めた彼は小首をかしげて、私の言葉を待っている。
フワリ――。
春の匂いを含んだ少し強い風になぶられて、ブルーの園児服と彼の艶やかな髪が揺れる。彼は、少し煩わしそうに目を細めた。その仕草も、なんて素敵に王子様。
遠くで、遊び始めた園児達の楽しげな歓声が上がっている。
ごっくん――。
私は1つ唾を飲み下し、小さな胸をうち振るわせて、昨夜テレビドラマで見た告白シーンを、脳内リピートした。
そして、いざ決行!
「大人になったら、お婿さんにもらってあげるよ!」
語尾に音符マークをくっつけたようなご機嫌ボイスで高らかに宣言すると、私はむぎゅっと彼の両手を取り、満面の笑みを浮かべた。
だって、答えはYES以外に考えられない。
2人は仲良しだったし、それに、こんなに大好きなんだもの。『NO』なんて答えは、ありえない。
ちなみに、なぜ『お嫁さんになってあげる』ではなくて、『お婿さんにもらってあげる』なのかと言うと、単に私が和菓子屋の一人娘だったから。
創業150年の和菓子老舗『さかきや』。そこの『跡取り娘』ってやつで。
かねてから『杏は、お婿さんを貰って、榊家を継ぐんだよ~』と祖父母および両親に言い含められていたのだ。
さっそく、お迎えの時にお母さんに教えてあげなくちゃ!
お婿さんがこんなに素敵な王子様のような一樹くんなら、面食いなお母さんは大喜びしてくれるのに違いない。おじいちゃんとおばあちゃんは、きっと泣いて喜ぶだろう。
なんて、ウキウキと考えながら一樹くんの手を握りしめていた私は、ふと彼の手が小刻みに震えていることに気づいた。
「……一樹くん?」
不思議に思って尋ねる私の声に反応するように、ビクリと、彼の手が大きく跳ねた。
私よりは頭半分ほど高い位置にある彼の顔を、マジマジと見上げると、色素の薄い茶色の瞳には、なんと涙が浮かんでいる。
……こんなに感激してくれるなんて、もっと早くにコクハクすれば良かった。
待たせてゴメンねっ!
「一樹くんっ!」
大好きモードは、もうクライマックス。
思わず握りしめていた彼の手を放すと、両手を広げてレッツ・ハグ!
のはずだったのに――。
ごぢんっ!
響き渡ったのは、世にもひょうきんな衝突音。
ドラマで見た通りに、熱い包容を交わそうと彼の胸に飛び込んだ私を出迎えたのは、彼の温かい胸ではなくて、硬い地面だった。
運が悪いことに、おでこの下には大きめの砂利が落ちていて、皮膚にめり込み。一瞬の空白の後に襲ってきたのは、シャレにならないくらいの激痛と、さっくり切れた額から流れる血のせいで真っ赤に染まった世界。
夢に見ていた甘いラブロマンスは、見るも無惨なスプラッター・ホラーに切り替わり、
「うわ~~ん!」
「うわ~~んっ!!」
赤い世界に、大泣きする自分の声と、さらに大泣きする一樹くんの声が、どこか虚しく響き渡った。
後で先生に理由を問われた一樹君は、しゃくりあげながらこう言った。
『こわかった』
……告白されて『怖かった』のだと、そう言った。
一樹くんにとっては、常日頃から自分にくっつき回る私が、『苦手な子』だったのだ。
でも、心優しい彼は、体が小さくてみんなに付いて行けない私に対して邪険にすることも出来ず、『苦手だなぁ』『苦手だなぁ』と、日々思いつつ過ごしていた。そんな中。その苦手な私から、笑顔満面で、『お婿さんに貰ってあげる宣言』をされてしまった。
『お嫁さんにして』ならまだしも、『お婿さんにもらってあげる』。
一人っ子のワガママっぷりを見事に象徴した、何気に上から目線な私の物言いに、一樹くんが感じたのは、紛れもなく恐怖だったのだろう。
『逃げられない』
幼稚園の中だけじゃなく、家でも、何処でも、もれなく『苦手な杏ちゃん』がひっついてくる。
これから一生付きまとわれるのかと、恐怖に駆られて、両手を広げて自分に飛びかかってくる(と感じた)私を思わず払い退けてしまったのだとしても、誰にもとがめられないだろう。
悲しいかな。私にとってのラブロマンスは、一樹くんにとっては初めから、ホラーサスペンスだったのだ。
そう。私は齢5歳にして、最初の恋の告白で相手から『ストーカー認定』されてしまった女なのだ。
教訓。
『思いこみは身を滅ぼす』
自分がどんなに相手を好きでも、相手もそうとは限らない。
もしかしたら、自分の思いが、好きな人の負担になるかもしれない。
好きな人を困らせるだけかもしれない。
なら。
それなら、『思うだけでいい』。
ただ、心の中で、思うだけでいい。
そうすれば、誰も傷ついたりしないのだから――。
もはや、恐怖に似たその思いは、私の心の奥深くに、どっかりと根付いてしまった。