ステップ1 たぶんこれがフォーリン・ラブ
――ああ、この人は『狼』だ。
煌々とした月光の下、漆黒の闇を裂いて疾走する、孤高の一匹狼――。
高校の、入学式の日。
澄み渡る青空を背景に、ハラハラと、薄桃色の花びらが舞い落ちる桜並木の下で、初めて彼に出会ったとき、私は、そんな映像が頭に浮かんだ。
色めき立つ新入生たちの群れの中にあって、異様なまでの落ち着きを纏った、ずば抜けて背の高い彼が、私の中の『狼』のイメージとぴったりと重なっていた。
そして、鋭い眼差しと視線がかち合った、その瞬間、私は息をのんだ。
友達のはしゃぐ声やざわめきが遠のき、ドキドキと早まる自分の鼓動だけが、やけに大きく聞こえた。
妥協や甘えを許さないような、強くて厳しい真っ直ぐな双眸――。
心の奥まで見透かされてしまいそうで、正直、怖かった。なのに、目が離せない。そんな、長いようで、たぶんほんの短い時間。永遠の中の一瞬。確かに、私の中の時間は止まった。
「杏ーっ! 入学式始まっちゃうよ!」
その黒い瞳に吸い寄せられて、身動きできずに固まっていた私は、親友の明ちゃんが呼ぶ声に、ハッと我に返った。
少し強い春の風が、真新しい制服のプリーツスカートの裾をパタパタと揺らして、私の背中を押すように吹き抜けていく。
うわぁ、初めて会った人の顔にマジマジと見入っちゃった!
怒ってはいないみたいだけど、変な子だと思われたかもっ。
自分の行動に恥じ入って、思わず頬がカッと熱くなる。
「杏ーっ!」
「あ、うん、今行くよー!」
ペコリ! っと、目の前の背高のっぽさんに会釈をして、体育館の前で手を振る明ちゃんの所へ駆け出そうとしたその時。
ズルッ! っと、靴底が滑る感覚と共に、私の世界は回った。
背筋がすうっと冷たくなるような浮遊感。
青い空に、薄桃色の桜の花びらが舞う。
転ぶっ!!
地面に激突して流血!?
ああ、私って、なんでこうもソコツ者!?
脳内を、幼い日の痛い記憶が走馬燈のように駆け抜け、思わず両目を閉じて身を強ばらせた。
でも。
その後私を包んだのは、地面の固い感触じゃなかった。
私を抱き留める、がっしりとした逞しい腕と、大きな手のひらの感触。
おずおずと目を開けると、そこにあったのは、ビックリするくらい近くにある、彼の顔。
無駄な贅肉なんて1グラムも付いていそうにない、シャープな頬のライン。
少し薄めの唇。
すうっと通った鼻筋。
少し硬そうな黒髪の間に覗くのは、男らしい凛々しい眉。
その下にある、少しつり加減の鋭さを感じさせる涼しげな黒い瞳は、間近で見ると驚くくらいに澄んでいて、再び私の視線は捕らわれたまま、ピクリとも動けない。
息をすることも忘れて、私はただ体を強ばらせたまま、彼の瞳を見ていた。
苦しい。
息を止めているからじゃなく、
胸の奥が、切ないくらいに苦しい――。
思わず、足下からへなへなと崩れ落ちそうになったその時。 厳しい色あいをたたえていたその瞳が、ふうぅっと優しい色に変化した。怖いと感じた瞳が、柔和そうに細められる。
わ、笑ったぁっ――!
その日だまりのような笑顔を見た瞬間。
心の奥で、何かが大きく弾けた。
「花びらで滑りやすくなっているから、気を付けた方がいい」
頭上から降ってくる低音の声に、もう脳みそはオーバーヒート。
まるで、体全部が心臓になったみたいに、苦しいくらいに胸が高鳴り、熱かった頬が、ますます熱を帯びる。
「あ、は、はい! 気を付けます! ありがとうございますっ!」
私は、ワタワタと体勢を立ち直し、何度も何度も頭を下げた。
――たぶん、あれがそう。
あまり動かない表情の下に隠されていた、日だまりのような笑顔を見た、あの時。
あれが、
私が、恋に落ちた瞬間――。