前編
結婚初夜。
全てを終え二人だけの静かなる刻に、海運会社の社長であるデヴィッドは毛皮の絨毯を血に染めていた。
「いま、なんと仰いましたか……?」
先刻デイヴィッドの妻となったばかりの女性──クラウディアが視線の定まらぬ顔で聞き返した。聞き違いであって欲しい。震える手をなんとか組んで落ち着かせようと力を入れた。
「お前を愛する事はないと言ったのだ。部屋で控えているがいい」
言葉と同時にデヴィッドの口から大量の血が流れ出た。絨毯には大きな血の染みが出来、傍に居たメイドのアナスタシアがそっとハンカチを手渡しながらデヴィッドの背中をさすった。
「クラウディア様。見ての通りデヴィッド様は体調が思わしくありませぬ故、どうかお部屋の方でお待ちくださいませ……」
ハンカチで口元を拭いながら、デヴィッドはアナスタシアと寝室へと入っていった。残されたクラウディアは足が震え思うように動けず、ただ崩れる様に床に膝を突いた。
「うおーーーーっっっっ!!!!」
「落ち着いて下さい旦那様」
「うおーーーーっっっっ!!!!」
「落ち着いて下さい」
「うおーーーーっっっっ!!!!」
「…………」
──ゴガッッ!!
アナスタシアが騒ぐデヴィッドの頭を花瓶で殴ると、しゅんと萎み静かに椅子に座って項垂れた。
アナスタシアは花瓶を拭いてそっと元の場所に戻すと、咳払いをして口を開いた。
「旦那様、ここまでは順調です」
「その前に私が死にそうだ。何故愛するクラウディアに冷徹なる仕打ちをせねばならないのだ! 聞かせてくれ!」
「旦那様が領主様への賄賂を拒否したからです」
「グッ……! あ、あんな多額の金が払えるか……!!」
「でしたら我慢です」
「くぅ……!!」
艱難辛苦の末領主の座へと上り詰めたポーギーは、幼少より順風満帆で育ったデヴィッドを敵対視していた。歳は五つ程違ったし、出身も違う二人だったが、ポーギーが失敗した海運業で成功したのと、ポーギーが秘かに思いを寄せていた女性の好意に応えなかった事が、今回の不幸を招いていた。
「領主のポーギー様は旦那様が嫌がる事に全力を傾けてきます」
「私が何をしたというのだ……!」
「アマンダ様からの恋文を山羊の餌にしました」
「……好みじゃなかったのだ」
「仕方の無い事です」
そっと窓から望遠鏡で、離れに居るクラウディアを見ると、床に座り朝食を取っていた。デヴィッドが騒いでいるうちに時刻はもう朝だった。
床で食べろというのは無論デヴィッドが命じた事だ。そっと口から流れる血を拭うと、デヴィッドは屋敷を抜けた。
「どちらへ?」
ティーセットが乗るカートを引き付き添うアナスタシアが問い掛けた。
「愛する妻が床で食べているのだ。私は泥沼で食べるとする……!!」
「そこまでしなくても……まあ、止めませんが」
デヴィッドは全身の服を脱ぎ捨て、褌一枚になると、泥沼に浸かりティータイムを始めた。
「どうして……」
床の上で食事を取りながら、クラディアは溢れる涙を堪えていた。
彼女は元々、国で名の知れた商家の一人娘だった。
でも、愛される事はなかった。両親にとってクラウディアは商品でしかなかった。
優良な名家へ出荷──嫁がせるための、商品。
好きなものは食べられたし、きちんとした教育は受けられたけれど、クラウディアは、嫌だった。
愛されない事が。物のように扱われる事が。
もしかすると、デヴィッド様ならわたしを愛してくださるかも知れない。
そんな風に考えていた事が馬鹿らしくなる。はっきり言われてしまったのだ、『お前を愛する事はない』と。
しかも口から血を吐きながら、だ。それほどまでにわたしが嫌いなのだろうと、クラウディアは思った。
「馬鹿ですね、わたし。わたしなんか、愛されるはずがないのに」
現に今も、床の上で食べさせられている。
これからこんな冷遇が続くのだろうか。そう思うと苦しくなった。
クラウディアはまだ知らない。自分が愛されているという事を。
クラウディアはまだ知らない。自分の夫が泥沼でティータイムを過ごしている事を。
そんな風にして数日が過ぎ、結婚四日目。
最初こそ途方に暮れていたクラウディアだったが、落ち込んでいても仕方がないと考え、食事を運ぶために離れを訪れるアナスタシアに願い出た。
「わたしはデヴィッド様のためにここへ嫁いできた身。通常の妻としての役割ではなくても構いません、何かお役目をくださいませんか」
「旦那様にお聞きしないと、なんとも」
「高待遇は望みません。せめて、わたしを下働きとして働かせていただく事は、できませんか? ……お願いです」
アナスタシアはやれやれとため息を吐き、デヴィッドの元へ向かう。
そして彼に報告した。
「うおーーーーっっっっ!」
「落ち着いてくださいませ」
「うおーーーーっっっっ!」
「落ち着いてくださいと言っていますでしょう」
「うおーーーーっっっっ!」
「……しつこい」
──ゴガッッ!!
一度地面に倒れ込んだ後、デヴィッドは無意味に両手を掲げて天を仰いだ。
「天使だ……! クラウディアは、天使だっ! なんて心が美しいんだっ。虐げられているも同然なのに! 恨まれて当然なのに!! ああ、どうして彼女を妻にしておきながら愛せないのだーーーーっ!」
「ですからポーギー様の手からクラウディア様を守るためでございましょう」
「わかった。クラウディアをメイドにしてやれ! 私にはそれくらいしかしてやれる事がないっ!」
デヴィッドは喉から血が吹き出そうな大声で叫び、クラウディアの申し出を受けると言った。
だがもちろん快く受け入れたという体では困るので、『お前には下女がお似合いだ』と言わなければならない。
それがデヴィッドの心を締め付け、ドバドバと血涙を流させた。
クラウディアとの結婚は、政略的なものだ。
大手商会の娘と海運会社の社長。商会からは金が入るし、商会側はデヴィッドとのコネが手に入れられる。
しかしそれはあくまで表向きの話で、実はデヴィッドが仕事で例の商会に行った時に偶然出くわした際に一目惚れしたのだった。
それからどうにかクラウディアを手に入れたが、ポーギーがいる以上、嫌がらせのためにクラウディアが傷つけられてしまうかも知れない。
だから、心のままにクラウディアを溺愛するなどできようはずもなかった。
悔しい事に。本当に悔しい事に。
「ああああクラウディアーーーー!!!!」
「旦那様、その調子では近いうちに体の血が全部抜け出てしまいますよ」
呆れ返ったアナスタシアの言葉も聞かず、叫びながら吐血しまくるデイヴィッドは屋敷を走り出て、泥沼へダイブしていった。
雑用をさせてほしいと頼んだところ、意外とすぐに返事がもらえた。
「旦那様が、『お前には下女がお似合いだ』との事です」
その言い方はあまりにひどかったが、クラウディアは嬉しかった。
だってこれでやっと、クラウディアの存在意義ができたのだから。
愛されないなら、それでいい。
この屋敷の中で自分にできる事をしたいと、そう思うようになったのだ。
クラウディアはアナスタシアに渡されて、彼女と同じお仕着せを着てみた。
ドレスよりよほど似合う。ドレスは、クローゼットの中にしまい込んだ。
メイドになっても離れからは外に出られないが、狭い中でもできる事はある。
アナスタシアに教えられ、掃除を覚えた。煤まみれになってしまったが、苦痛には思わない。それどころか、思わず笑顔になった。
「わたし、できました。役に立てましたか?」
「……まだまだですね」
アナスタシアがそっけなく評する。
「そうですよね。でもわたし、頑張ります」
その時、望遠鏡で彼女の笑顔を遠くから覗いていたデヴィッドが雄叫びを上げた事には、クラウディアは気が付かなかった。
「もう我慢ならん! クラウディアの笑顔を、こんな風に遠くからしか見られないなど!」
デヴィッドは吐血を繰り返しながら地団駄を踏んでいた。
すっかり青ざめていて、冗談ではなく本当に体の血が抜けきって死んでしまいそうである。
今すぐ走り出しそうなデヴィッドをアナスタシアが止めた。
「旦那様、お待ちください。離れに行ってはいけません。今の調子では、勢い余って何をやらかすかわかったものではありません」
「ぐぬぬ……。どうすればいい。どうすれば私はクラウディアと触れ合う事ができるのだ!」
デヴィッドは限界だった。
これ以上クラウディアを見ているだけなんて無理だ。
ではどうすればいいのかと頭を抱えるデヴィッド。
そんな彼の元に、ふと名案が舞い降りた。
「……そうだ、ポーギーを死なせればいい」
「旦那様?」
「そうすればクラウディアを心のままに愛せるッ!」
──ゴガッッ!!
部屋にあった装飾品の斧を担ぎ上げ、部屋を飛び出そうとするデヴィッド。
アナスタシアは仕方なく、花瓶で彼を殴った。
「正気になってください。そんなことをすればご自身の立場がどうなるか、子供ではないのですからお分かりでしょうに」
「だが!」
「殺すなら、計画的に。精神的に殺したり社会的に殺したり、色々とやり方はあるでしょう」
デヴィッドは怒りに沸騰する頭をできるだけ冷静にさせながら、考えてみた。
なるほど確かに肉体的に殺せば大問題になってクラウディアと愛を育むどころではなくなる。
「これは熟考しなければ……! 全てはクラウディアへ愛を告げるためッ」
そう呟くと、デヴィッドは例によって褌姿になり、泥沼に頭から突っ込む。
仕方ないと肩をすくめながらアナスタシアは手際良く紅茶の用意を始めた。