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残暑が厳しい夏の午後だった。アスファルトによって反射した熱気が了の前でゆらめいている。アブラゼミの羽音が次々と重なり、まるで音の渦の中に飲み込まれるような気分になる。了は当時小学3年生で、夏のプールの授業で学校に来ていた。帰ろうとすると、同じ学年の男子たちが、ダンゴムシを叩きつけて、開いては丸まる様子を見ながら遊んでいる。了は咄嗟に下駄箱の後ろに隠れて、それを見つめた。
あの子供達にとってだんごむし、とは人間と同じ、「痛み」を感じる存在ではなく、「触ったら丸まる」だけの存在なのだろう。だんがむしがアスファルトに叩きつけられるたびに自分が痛みを感じる。顎にだんだん力が篭って来て、気づけば自分の親指と人差し指を、強く擦り付けていた。
彼らはダンゴムシをいじくる事に飽きたのか、アスファルトに放置して、別の話で笑いながら帰っていく。彼らが見えなくなってから、下駄箱に置かれていた黄色い塵取りを持ってダンゴムシにそっと近寄った。
ダンゴムシは、手を差し伸べると怖がるように逃げる。大丈夫だよ、と声をかけても、ダンゴムシは塵取りにぶつかった瞬間に方向を変えてしまう。それが何だか寂しくて、気づけば15、6分ほどそれを繰り返していた。
しばらくすると、自分がかなり汗をかいていることに気づく。何だか頭がふわふわして、喉の奥から冷たい何かが込み上げてくる。まずい、日射病だと思いながら、日陰へ行こうとした。しかしその時、目の前にあった塵取りが、一瞬にして消え、次の瞬間には少しだけ乗ったダンゴムシと共に遥か彼方へと飛んでいった。
ポカン、としていると、目の前を先ほどの生徒たちが塞いでいる。
「よう、リョー。お前もう帰って良いって言われたのかよ?」
この学校では、意味もなく水泳に力を入れている。生徒全員が3年生までに25m泳げるようになることが目標で、できなかった人は夏休みに残って居残り特訓となる。人数はそこそこ多いが、小規模な学校だったため、どこか強みが欲しかったのだろう。今日はその特訓だったが、25mは泳げない人の中でも、5m泳げないのは自分だけだった。
「う、うん。やっと今日5m泳げるように、なったから…」
自分が必死で放った強がりは、三人の笑い声によって一瞬でかき消されてしまった。いつもこうだ、どうせ何もしなくても馬鹿にされるのに、馬鹿にされないように動いてしまう。そんな自分が嫌で嫌で仕方がない。
「ゴ、ゴ、5M!?誰でも泳げるじゃん!」
「犬かきでもいけるよ、俺!」
何だか視界が真っ白になってきて、意識は薄れていく。もう嫌だ、早くここから離れたい。なぜ、彼らは僕に積極的に関わるのか。裏でコソコソ馬鹿にしていれば良いじゃないかー
了が玄関に向かって手を伸ばす。眼球を黒目のままにとどめておくことができない。三人はそれを見て再び笑っていた。
「いいぜ、玄関まで5mぐらいじゃん、泳げ泳げ!」
そう言いながら、3人とも了の背中に乗る。飛び跳ねたり、尻を押し付けたりして、また笑う。うめき声を上げると、彼らは喜んでもっといじめてくるから、咄嗟に手で口を塞いだ。それが逆に、ぼんやりとする意識に拍車をかける。
「へへ、がんばれ!」
意識が無くなりかけたその瞬間、背中にかかっていた重圧が一瞬にして消えた。3人の中で一番大きい少年が派手に尻餅をつくのが横目に見える。抑え込まれていた呼吸が一気に解き放たれ、大きく息を吸い込んだ。
「うわっ!」
二人のうちの一方は、顔面を思いっきり蹴られ、もう一人は耳の当たりを蹴られた。二人ともうずくまって、鼻と耳を押さえている。
「な、何だよ…!」
了は後ろを振り返る。麦わら帽子をかぶって、水泳のバックを持った少女ー浜崎美智子が、そこには立っていた。カバンを持ったままポーズを決める。
「ヒーロー見参!」
そう言って美智子は男子3人に蹴りかかる。彼らはいじめっ子とはいえ、女の子に手を出してはいけないという道理は弁えているらしく、それを言いことに美智子は彼らを殴りまくる。戦力外通告を受けた了はぼんやりと見ていることしか出来ず、股間と鳩尾の辺りを積極的に狙う美智子の目は輝いていた。ついには泣きそうな声で、一番大きな少年が、
「もう怒った!先生に言うからな!」
と言って逃げ出す。他の子供ならここで「もう二度とくるなよ!」とか言って見逃すのだろうが、美智子は違う。バックを投げ捨てて、若干安堵している男子三人を後ろから全力で追いかけ、容赦なく蹴りを入れる。しばらくして男子3人の悲鳴が聞こえた後、美智子が帰ってきた。
「あそこまでやらなくても…」
美智子は、傷ひとつついていない。涼しい顔で砂を払い、ニコッと笑う。
「先生に言うって言ってたからさ、バレたらあたし、ママに殺されちゃう。」
そう言って肩を貸してくれる。了は慌てて美智子に告げる。
「ダンゴムシ、ダンゴムシを…」
美智子は一瞬、ポカンとしたが、すぐに笑って頷き、アスファルトに散らばって丸まったダンゴムシを集め、木陰まで連れていく。顔、全身からみるみると力が抜けていき、安らかな心地がした。
「ーありがとう。」
そう言うと、美智子は嬉しそうに屈む。うんうんと頷きながら、水泳のバックを拾いにいく。
「ヒーローとして当然のことをしたまでだよ。了は優しいね、さすが我が弟」
「ごめんね、僕、いじめられてばっかりで…」
了が申し訳なさそうにもじもじというと、浜崎が肩を貸してくれた。今度は素直に肩を借りる。ヨイショ、と言って持ち上げてくれる美智子は、世界で一番安心できる人だった。
「守るのが姉ちゃんの仕事です。優しくいるのは了の仕事。」
そう言って、ゆっくり歩き出した。辿々しい了の歩みに、浜崎は何も言わずに会わせてくれた。
「ー美智子は家で女の子らしくする代わりに、学校ではかなりヤンチャしてたんだ。俺がまだ体が小さくていじめられてた時はいつもその男子に喧嘩をふっかけてた。大体は勝って、最後に親に言ったらぶちのめすぞって言ってたから、あんまりバレることはなかったけど。」
「一回6年生の男子と喧嘩した時に顔を引っ掻かれて、目の下から血を出したことがあったんだ。それで帰ったら、まあ母さんはヒステリックに叫び回って。まずは俺が叩かれたよ。卑怯者、この弱虫がって。その後に、美智子も叱られてた。そこからかな、美智子は家では女の子らしさが増して、外では男らしさが増した。そこからの喧嘩は傷一つつけられてなかった。」
牧野は強烈なエピソードを聞くが、高校生の頃の浜崎しか見ていない牧野にとっては、到底イメージできない光景である。学校で見せていたのは女の子の方の浜崎だったのかと振り返って思う。
「じゃあ仲良かったんだな、お前と浜崎。」
了は静かに頷く。ずっとランプの光を見つめている。
「俺は喧嘩弱かったしな。美智子のおかげで、みんなからいじめられることは無くなった。美智子はいつも勉強でも、運動でも、俺より先を言ってたけど、絶対に俺のことを馬鹿にしなかった。それでも、中学からかな、変わったのは。」
「中学?」
「うん。俺、その時一年で10センチくらい背が伸びてたんだ。成長期ってやつ。でも、美智子は背が伸びなくなった。女子の中じゃ高い方だけど、男子に比べたら全然。その時殴り合いの喧嘩とかはしてなかったけど、その頃から明らかに俺と口喧嘩することが多くなった。」
小学校まで男らしく生き、それに解放感を覚えていたなら、それができなくなった時は辛いだろう。どう考えても、女子と男子では体格差ができるし、体力も違う。今まで自分が守っていた了が成長し、自分はだんだん女らしくなっていくことに、浜崎が焦りと不快感を覚えたことは容易に想像できる。
「小学生の時はまだそんな綺麗な顔ってわけじゃなかったんだけど、やっぱ中学生になって顔つきも変わり出してさ。周りの男も今までと同じ感覚で美智子を扱えなくなって、告白とかもしてた。逆に母さんとしては自分の娘が女としてチヤホヤされるんだから、これ以上嬉しいことはないよな。それもあって美智子本人はめちゃくちゃ機嫌悪かったんだ。」
しかし、彼女は東京に来る時、女優活動をしていた。了の話によれば、芸能活動なんて浜崎が一番嫌いそうなことだ。それは、浜崎が受け入れたのだろうか。
「途中から美智子もそれを受け入れ始めたみたいでさ。徐々に徐々に、女の子らしいことを始めたんだ。母さんのいうことは、全部聞くようになった。俺との喧嘩も減って、絵に描いたような優等生になっていった。母さんが女優になってほしいって言ったから、言われるがまま女優になって東京に行ったって感じ。周りの人も、きっとうまくいくとか、東京で広い世界を見てほしいとか言ってさ。美智子が東京に行くのを止める人は一人もいなかった。」
了の言い方には、どこか棘を感じた。
「了はどうだったんだ。賛成したのか?」
牧野が尋ねると、了は静かに首を横に振った。
「俺だけは、それを認められなかった。そもそも、あいつが丸くなり始めてから、俺は何かが気に食わなかった。多分…俺は寂しかったんだと思う。
美智子は小さい頃は俺のヒーローみたいなもんだったからな。それと…」
「それと?」
「美智子が、壊れていくような気がしてならなかったんだ。俺の親も、先生も、友達も、みんな美智子は女の子らしくなった、綺麗になったって言ってたけど…無理してんじゃないかなって。本当の自分を押し込んで、いつか爆発しちゃうんじゃないかって。だから、あいつが東京行く前の日、結構派手に喧嘩したんだ。それが、彼女との最後だった。」
牧野は、静かに、最後までその話を聞いていた。了は、ペットボトルの水を飲んだ。
「結局、その後も連絡できなかったしな…。母さんはひっきりなしにメール送ってたけど、俺はごめんの一言も言えなかった。まあー」
「あんなこと言われても当然だよな、」
そう言って、俯いてしまった。
この土地に来てから、牧野は時々、自分はもしかしたら浜崎の苦しみに気づいてやれたのではないか、と思うことがあった。自分が勉強漬けではなく、普通に高校生として暮らしていたら。けれども、この時それは無理だったということを悟った。それほどまでに、彼女の外見を取り繕う技術は確立されていたし、それが彼女の生きる道であったのだ。
牧野は、空を見上げた。ランプの光しかないから、星がよく見えた。