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結局牧野が堀木家に帰ったのは4時を過ぎた頃だった。家に帰ると、まず堀木父が飛んできて、何度も何度も謝ってきた。
了から事情を聞いたらしい。何度も、こっぴどく叱っておいたと念を押していた。了も隣で無理やり謝罪させられていた。とは言っても、自分も暴言を吐き、暴力を振るったのだから、ただ謝られるのも心苦しい。牧野も頭を下げて謝ったが、本当は了の顔を見ないようにするためだった。
その後、堀木父はシャワーを浴びさせてくれた。迎え火の儀式はかなり堅いものであり、スーツを着なければならなかった。会場に行くと、もうすでに何人か座っている。昨日の夕食にいた人々は流石に酔いが覚めているのもあり、牧野をチラリと見ただけで、何も言ってはこなかった。
会場は地面に紫色の布が広げられており、その上にパイプ椅子が並んでいた。横は陣幕のようなもので囲まれている。そんな中、木のトンネルの前にはパイプ椅子が並べられておらず、列はちょうどそこで二つに分けられていた。
日もだんだん沈んできた。会場は人でいっぱいになり、暇だと叫ぶ子供の声が最後に消えると、装束を着た老人が何人か入ってきた。先程の神社で会った老人はいなかった。参列者は一斉に立ち上がって、礼をする。しばらく一人の老人が祭文を唱えたあと、右左にあるファイアースタンドのようなものに、火をつけた。火は勢いよく燃え上がる。老人の合図に合わせて、牧野らは目を閉じた。
すると、不意に横から風が吹いた。いや、風というよりは、何かが横切ったような。
その後も、ヒュッ、ヒュッと何かが横切る。牧野はたまらず目を開いた。その時、信じられない光景が、目に飛び込んできた。
ー森のトンネルから、何かが出て来ている。
とにかく速かったから、何が出て来ているのかは全く分からない。しかし、辛うじて、何かに乗った人が出て来ていることが分かる。自分の見たものが信じられなくて、何度も目を凝らして見てみる。しかし、見えるものは変わらない。
周りの人を見ると、誰も目を開けていない。装束を着た老人さえ気づいていない。いや、一人だけー牧野以外に、了も目を開けていた。
ひどく困惑した顔をしている。二人とも、得体の知れない何かが森の道から出てくるのを、ただ呆然と眺めていることしかできなかった。
やがて、道からは何も出てこなくなった。老人も祭文を読み終える。他の人も徐々に目を開けた。二人の老人が火を消そうとしたその時だった。
木のトンネルから風が吹き、一人の少女が出てきた。牧野と了は、ハッと息を飲んだ。
ー浜崎だ。
黒く長い髪、スラリとした立ち姿、すっきりとした顔立ち。生きている時と全く変わらない。しかし、幾分かー雰囲気が変わっているようにも感じた。先程までの霊とは違い、ゆっくり、ゆっくりと歩いてくる。了と牧野は、動くことはおろか、息さえもできなかった。
ー誰も、気づかないのか。浜崎に。
浜崎はそっと牧野の横を通り過ぎた。やがて、ゆっくりと口を開く。大きくも、小さくもない、でも確かに二人に聞こえる声で、呟いた。
「神社においで」
彼女が家の中に入ったあと、牧野と了はしばらく動けないでいた。やがて、儀式が終わり、人が動き始めると、二人は徐々に浜崎の言ったことを理解した。
じ、ん、じゃ、に、お、い、で。
二人は同じタイミングで走り出した。家の中を、スニーカーのまま駆け回る。
「あ、ちょっと!」
儀式にいた人たちは一斉に二人を見る。しかし、その声はすぐに遥か後ろへと消えていく。あんなにゆっくり歩いていたはずなのに、浜崎はすでに家を出ていた。二人とも、一心不乱にその影を追いかける。昼間のことなど気にしている余地もなく、
「お前も見えたのか!」
と了が叫ぶ。舌を噛まないように、無駄な体力を使わないように、短く強く、牧野も叫び返す。
「浜崎だったよな!?」
了は頷く。竹林を抜け、坂道を駆け降りる。もう外はかなり暗かった。牧野はこの島に来たばかりで土地勘がなかったため、途中から了についていくような形になる。昼間に自転車で行った時よりもはるかに速く、神社の前の階段に着いた。しかし、昼間の疲れだろうか、二人とも階段の前で倒れ込んでしまった。必死に息を整えていると、上の方から声が聞こえた。
「お疲れ、男子諸君」
浜崎の声だった。階段のちょうど中腹にいる。牧野の高校の制服を着ていた。
「体力ないなあ、まあスーツで走ってたらそうもなるか。」
彼女は楽しんでいる様子だったが、二人はまだ立ち上がれない。最初に口を開いたのは、了の方だった。
「なんで…ここに…」
浜崎の顔からは笑みが消え、見たこともないような冷たい顔を見せた。牧野はその顔に途方もない恐怖を覚えた。いつも笑っていた人の顔から笑顔が消えると、こうも変わるものなのか。彼女は、階段を降りながら、言い放った。
「あなたは後。」
そう言って一番下までくると、浜崎は牧野に顔を向ける。
「牧野くん、久しぶり。わざわざこんなとこまで来てくれて、ありがとう。」
「でもごめんね、帰って。」
彼女はなんでもないかのように言い放った。牧野は、彼女の言っていることが理解できなかった。彼女もそれが分かったのだろうか、淡々と続ける。
「大方、ここの人達が唯一私が遺書に書いたあなたのことをここに呼んで、私の死について聞こうとしたんでしょうね。でも、安心して。あなたは私の死になんの関係もない。だから、早くここから去ったほうがいい。」
その口調は、以前の正義感に満ち溢れ、誰に対しても優しかった浜崎美智子とは完全に別のものだった。牧野はやっとのことで口を開く。
「君は、死んで、いるんだよな?」
彼女はしゃがみ込んで、少し笑った。
「うん。そうだよ。今日はお盆だから、ここにこれたの」
「なんで、なんで…俺のことを遺書に?」
だんだん息は落ち着いてくる。だが、身体中の力が入らず、立ち上がることはできない。彼女は、ううんと唸って、答えた。
「別に。そういえば…何でだろうね」
了の体がビクッと固まった。怒っているような、悲しんでいるような、そんな声だった。
「牧野だけを?理由もなしに?」
今度は、浜崎は了の方を向き、まるで何事でもないかのように、理解できないことが不思議でたまらないように、言い放つ。
「だって…伝えたいことがある人なんて誰もいないもの。」
「てめえ…!」
了が何か言おうとした瞬間、爆発音が鳴り響いた。キィン、と言う音が耳に突き刺さる。慌てて後ろを振り向くと、さっきまで通った道に瓦礫が降り注いでいた。平然と、浜崎が喋り出す。
「大丈夫、ここから一番あの家に近い道を封鎖しただけだから、ちょっと遠回りしなきゃだけど、荷物は取りに行けるよ。」
爆発があったところには黒煙が立ち上り、ダイナマイトで爆発させたような跡がくっきりと残っていた。浜崎は歩きながら話し始める。
「時間がないから手短に話すね。私、祟りになったの。」
牧野も了も、ポカンとしてしまった。祟り。言葉の意味は分かるが、状況がわからない。
「祟り?」
「私は、あの人たちに罰を下す。自分らの事を棚に上げて、私を悼むふりをしている彼らを。」
牧野は衝撃で何も言えなかった。いや、どちらかと言うと衝撃を受けているのは了の方だろう。浜崎の自殺の本当の理由は自分の家族にあったのだから。
「これを私が貴方達二人に告げた理由を、よく考えなさい。じゃ」
そう言って、彼女は階段を上がり始めた。どんどん姿は小さくなっていく。たまらず、了が「待て!」と叫ぶが、彼女は振り返らない。代わりに、森から男女が一人づつ出て来て、牧野と了に、銃口をそれぞれ向ける。12歳ぐらいだろうか、同じ服を着た二人の少年だった。交互に喋り出す。
「喋るな」
「助けを呼ぶな。」
「逆らうな。」
牧野と了は、初めて見た銃の前で恐れ慄き、ピクリとも動くことができなかった。やがて、彼らは銃口を下げて、森へ帰っていく。そして再び、静寂が訪れ、了と牧野の二人だけになった。二人とも状況を整理するために、長い間黙り込んでしまった。