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俺は浜崎美智子が嫌いだ。
先程東京から来た牧野理と喧嘩した時についた傷が疼く。あいつは昨日からこの島にやってきた。母さんによると、遺書には美智子が東京でいじめられていた旨が書いてあったということだ。親族のみんなは、酒に酔っぱらったふりをして、責め立ててやろうとか、絶対に本当のことを吐かせるんだとか、あいつがくる前に色々策略を立てていた。
俺はそれに積極的だったかというと、そうではない。どいつもこいつも、結局は東京に住んでいる人々に嫉妬しているだけで、そのために死んだ美智子を利用しているだけだ。つまるところ、この島に本当の意味で美智子を悼んでいるものはいない。どうせ東京からくるやつも、自分だけ呼ばれたから、自分が美智子の何かであったのだと得意げになってくるに違いない。それなら、それでやり過ごそうと思っていた。完全に勘違いしているやつに、俺は何の興味もない。
でも、東京から来た牧野の様子は、俺の予想とは違っていた。
予定通り、彼は親戚のみんな、母さんから総攻撃にあった。酒に酔ったふりをしていたが、かなりはっきりと彼らの意思は牧野に伝わったのだろう。途中から本気で酔って、計画は頓挫していたが。
ところが彼は、弁明も反抗もしない。あえて言うならば、状況が掴めていないような、そんな様子だった。ずっと何かを考え込んでおり、やっと口を開いたと思ったら、こう言い放ったのだ。
ー俺、彼女とは接点がなくて。なんで遺書に書かれてたかも、分かんないんです。
嘘はついていなさそうだった。不安げにはしているが、目は泳いでないし、隠すならもっとやりようがあったはずだ。
そのことが俺の琴線に触れた。どちらかというと、この牧野ではなく、美智子に。
なんでこいつのことを遺書に書いて、俺のことは書かなかったんだ。
彼女が家に来てから、俺と美智子は兄弟のように過ごしてきた。俺は美智子のことを大切に思っていた。なのにー
ひどく腹が立った。しかし、美智子は死んでいるのだから、怒りの矛先を向けても無駄である。必然的に、矛先は牧野に向かっていた。こいつが浜崎のいじめを見逃したこと、それは確かなのだから、と自分に言い聞かせるようにして。気づけば、牧野が神社に向かった時、俺はあいつの後をつけていた。自分が何に怒ってるかも分からずに。
そこから牧野に何を言ったかはあまり覚えていない。人殺し、と言ったのだろうか。明らかに俺の論理的思考は崩壊していた。流石にあっちも苛立ち、喧嘩になった。20歳が近づいた青年とは思えないほどみっともない喧嘩をした。結局は俺が勝ったのだが。
俺が牧野に馬乗りになった時、気の済むまで殴ってやろうかと思ったけど、不思議とそんな気が起きなかった。彼は、どうぞ殴ってくれとでも言わんばかりに、両手を広げ、俺を見つめていた。そこにいるのが、憎むべき対象ではなくて、人だと、牧野理という人間だと分かった時、俺は逃げ出すようにしてその場を離れ、今に至る。
ひどく気持ち悪い心地がした。牧野に対して憎む動機は存在するのに、肝心の怒りが湧いてこない。彼がいじめを見逃したと言うことは確かなのに。
散々悩みながら、家に戻って自転車を片付ける。昨日、牧野を攻め立てる策に溺れた策士たちは、広間でみっともないほどおおらかに眠っている。服が汚れていることを気づかれたくないため、こっそりと家に入って部屋に向かうが、運が悪いことに、廊下で父さんと鉢合わせしてしまった。
「ん?お前ー」
まずい、と身構えた。その瞬間には父さんは俺の手を掴んでいた。力が強く、なかなか抜け出せない。
「どこで付けた。その傷」
怒られる。なんとか理由をつけて、逃れなければ。様々な考えが浮かんで、パニックになってしまった。
「まさかお前、牧野くんに何かしたわけじゃないだろうな。」
当たりだ。ちょうどボコボコに殴ってきたところだ。違うよ、これは自転車で転んだだけだよ、と言おうとしたその瞬間、俺の何かがそれを引き止めた。
ーお前だって母さんの言いなりだろ。
気づけば俺は、父さんを睨んでいた。いつも色んな人の顔を立ててばかりいるのに、俺にはこんなにも怒りを向けてくる。要は俺のことは舐めているのだ。徐々に気持ちの整理がついてきて、俺は心の底から父さんを睨んだ。父さんは一瞬怖気付いたようだったが、すぐに元の様子に戻って言った。
「喧嘩したんだな?」
「ああ。ボコボコにしてやったよ。」
ヤケクソだった。何に対しても腹が立つ。ここの人間にも、美智子にも、美智子のことばかりで俺のことなんかまるでいないかのように扱う母さんも、その母さんの機嫌ばかり伺っている父さんにも。だから、自分ができる最大限の憎々しげな口調で、父さんに告げた。
次の瞬間、頬に激痛が走った。威力は牧野のへなちょこパンチとは比べ物にならない。ただ、牧野のパンチの方が痛かった。
「帰ってきたら、謝れ。俺も謝るから。それで、このことは母さんに言うな。すぐ着替えてこい。分かったな。」
父さんは肩で息をしながら、去っていった。
もう全てが嫌だった。それもこれも全部、浜崎美智子のせいだ。