第三話
屋敷に帰ったライラは、余りに早い帰宅をグレーテに心配されてしまう始末であった。
しかしその心配を払拭する元気もなく、お土産を押し付けるように渡して、ライラは早々と部屋で休むことにした。
明日にはノルト公爵の屋敷へ出発するのだ。いつまでもグダグダしていられない。
(今度はエリオスも一緒なんだし……)
あの想いは、きっと「よくないもの」だ。
どんな種類の想いだろうと蓋をして、心の奥底に沈めなければならないもの。
だから忘れる。もう考えない。
そう深く心に誓ったライラは、夕食まで一休みしようと寝台に横たわり、眠りの世界へ沈んでいった。
その後、エリオスの帰宅の報せに併せて用意された夕食を食べ、ライラは部屋で明日の用意を行っていた。ほとんどはグレーテが終わらせているが、「持っていくのはダメです」と言われたものなんかを追加するためである。
そんな時、扉をコンコンとノックする人物があった。
「はい?」
「姉上、私です。昼間のことで、少しお話が。入ってよろしいですね?」
「う、うん……」
質問だが質問ではない、その反論を許さない強い語調に、部屋に入ってきたエリオスの怒りが透けて見えた。
――ああ、これはお説教だな。
ライラは瞬時に悟った。
「この本に見覚えは?」
いつにも増して淡々と放たれた言葉に込められた怒りは、半端ではない。ライラは思わず目線を反らしてしまった。
「あ、あります……」
「そうですか。では、先に言っておきましょう。今日のことは最初から分かっていました。昨夜、偶然に姉上とグレーテの会話を聞きましたので」
「え?」
エリオスの思わぬ言葉に、ライラは伏せていた顔を上げてその顔を見た。
「姉上に王都は窮屈でしょうから、本屋くらいなら出歩いてもいいだろうと判断したのです」
「そ、そう。それなら、何で……」
何で怒ってるの。
そう言おうとして、ライラはハッとした。今日、自分が行った場所は本屋だけではない。
「もうお分かりですね? ――さあ姉上、何故あのようなところに行かれたのです。あの店は大公領にまで名が知れ渡ってはいない。誰かに教わりましたね?」
「ええと、それは……」
全てを言うべきか、ライラは悩んだ。
本とお菓子は御者からエリオスに渡してもらうようにしたが、歓楽街に行った言い訳を考えることを忘れていたのだ。
真実を言えば、恐らくあの店を紹介した使用人がエリオスから叱責を受けるだろう。そうなれば、半ば無理やり聞き出したのに、使用人に迷惑をかけてしまう。
(それに、あの店は――)
「姉上」
エリオスの呼び掛けに、ライラは意識を覚醒させた。エリオスに再び視線を戻せば、エリオスはライラを問い詰めるでもなく、ただ真っ直ぐに見つめていた。
「姉上、私は姉上が心配なのです。王都は大公領と違い、権力が複雑に絡み合っていて、安全とは言い切れません。大公領のようにはいかないことが多いのです」
「エリオス……」
その声に、表情に、怒りなど微塵もなかった。ただ姉を心配し、懇願するかのような。
そんなエリオスの様子に、ライラの胸はギュッと締め付けられた。
「どうかご理解下さい。姉上」
「……うん。ごめんね、エリオス。心配かけて。これからは危ない場所に近づかないわ」
その言葉に安心したのか、エリオスは端から見ても分かるくらいに、ほっとした表情になった。
「はい、姉上。……夜遅くに失礼しました。では、お休みなさいませ」
「ええ、お休みなさい。エリオス」
去っていくエリオスの後ろ姿を見つめながら、ライラは一つだけ後悔していた。
――あの店にはよく行くの?
それこそいつも通りに軽い調子で、からかい半分に。その問いかけをしてみればよかった。
(なんで、出来なかったんだろう……)
胸が苦しくて、切ない。こんな想いは初めてだった――。
一方、廊下を歩くエリオスも、一つの後悔を残していた。切なさなどという、小綺麗な想いではない。胸に渦巻くのは、どろどろとした、どす黒い感情。その激しい想いに、自然と歩調が早まる。
(何故あの店に行ったことを執拗に隠すんだ。いつも通りに『興味があって』と、一言あれば……)
ああいった手合いの場所にライラが行くのは、大公領では珍しいことではない。驚くこと無かれ、その道の者とも親交を深めているくらいだ。
だから、今回も危険があるので咎めはしたが、安全について意識を向けてくれればよかった。行き先は結局、菓子屋なのだし――。
それなのに、言ってくれなかった。理由を、聞けなかった。
(隠す理由は何だ? やはり教えた人物は使用人で、そいつをかばっているのか? それならば仕方ない、仕方ないけれど……)
「あら、若君」
自室に戻ろうとエリオスが廊下を歩いていたところ、向こうからグレーテがやってきた。こちらはライラの部屋に戻るところなのだろう。
「グレーテ。……ちょうどいい、お前にも言っておこう」
「あ、あら。何でしょう若君」
ギクッ、とグレーテの肩が揺れる。エリオスの機嫌がよくないことを察したのだ。
なにせグレーテは実は最初からバレていたとはいえ、ライラが午後は読書して過ごすと嘘の予定を伝えているのだから。
「姉上にも言ってきたが……。お前も一人で今の王都を出歩くな」
「は、はい。……その、申し訳……」
「勘違いするな、お前を責めるつもりはない。お前はよくやってくれている。だがグレーテ、慣れない者に、最近の王都は少し危険なんだ。色々と事件もあるからな。……だからグレーテ、姉上を、頼む」
「……。はい、若君。姫様は私の、ただ一人の主ですもの」
グレーテの笑みと言葉に偽りはない。エリオスはそこに込められた想いに、安堵の息をこぼした。
「ああ、頼りにしている」
――明日になれば、きっとこの嫌な感情も沈まってくれるだろう。そうすれば、誰も傷つけないで済む。
エリオスの顔にも、やっと笑顔が戻った。