第十三話
館に一人取り残されたライラは、しばしその場に立ち尽くした。
――何か、変だ。だけど何が変なのかがわからない。
ライラはくらくらする頭を抱えながら、何とか自室に戻った。途中で侍女に声をかけられた気もするが、どんな会話をしたかほとんど記憶にないまま。
そして何とか今日という時間を潰そうとしたが、何をやっても手につかない。楽しみにしていたお茶会は、出席を禁じられてしまった。
屋敷に芸人を呼ぶことも出来るが、どうも気乗りがしない。見ず知らずの人物と会って楽しめるような気分ではない。そんな鬱々とした気分だ。
そうして何もできないまま、無為に時が過ぎていく。いや、何度時計を確かめても、一向に針は進んでいない。まだまだ先は長い。今日は終わらない。
時間の経過に苦しんでいるうちに、次第に苛立ちがつのってきた。自分には何も言ってくれないエリオスたちの態度に、段々とムカムカしてきたのだ。
(何よ、エリオスの馬鹿。あんなにボロボロだったくせに、なんで何も言ってくれないのよ! 父上も、普段は出掛けろと言っても出掛けないくせに!)
自分はそんなに頼りないのか。
そんなに無知に思われているのか。
男と女ということを差し引いても、こんな扱いはあんまりだ。あまりにも――あまりにも、むなしすぎる。
いくら自分を守るためでも、全てを遮断するのはおかしい。それは保護などではなく、緩やかな束縛だ。取捨選択する権利はライラ自身にあるはずだ。
館にはライラ一人、アドルフもいない。ならば、使用人たちは大公女であるライラの命に従う。無理難題を押し付ければ、もちろん後でエリオスに注進されるだろうが――構うものか。
「グレーテ、すぐに用意してちょうだい」
「は? な、何をでしょうか」
そばに控えていたグレーテは、ライラの唐突な言葉に慌てた。自分は何か頼まれごとをしていただろうか。そう頭を巡らせるが、思い当たることはない。
慌てた侍女の姿を見て、ライラはわずかに冷静さを取り戻したが、自分の無茶な決断を取り消すことはしなかった。
「今日もこの前と同じように外出するわ。いつもの服を用意してちょうだい」
グレーテはライラのこの言葉に仰天した。
「姫様、何を仰っているのですか! 若君から本日の外出は固く禁じられています!!」
「知らない。私の言うことをちっとも聞いてくれないエリオスが悪いのよ。エリオスは過保護なんだし、これくらい無茶して調度いいんだわ」
グレーテの必死の説得にも、ライラはそっぽを向いて耳を貸そうとしない。
普段のライラならば、あれだけエリオスに口うるさく言われ、なおかつグレーテにまで止められれば外出は取りやめる。しかし今日のライラは頑なであった。
そんなライラを止める手立てはない。頼みの大公は出掛けているし、グレーテ以上にライラへ意見できる使用人は王都にいないのだ。
これ以上意見したところで、ライラがさらに頑なな態度をとることは身に染みて理解している。グレーテは、もう諦めるしかなかった。
「分かりました、姫様。ただし……」
いくら大公女の命令とはいえ、グレーテにはその身を守る使用人としての義務がある。
ライラもこの最後の一線を超えることはしないと長年の付き合いで分かっている。使用人に無茶を言うだけ言って、何も備えをせずに自分の身を危険にさらす、なんていうことは絶対にない。
だからグレーテは、主人に外出の条件を持ちかけた。
「いくつか条件をお守りください。まず、必ず日暮れまでにお戻りになること。それから――」
人が多い大通りだけ歩くこと。目立つロイの代わりに、グレーテのカタワレを連れていくこと。
ライラはこの条件に納得した。そもそも目的あっての外出ではない。半分はエリオスたちへの当てつけなのだ。
だから大通りを少し歩くだけで十分だし、グレーテのカタワレは可愛らしい金糸雀である。自分を心配する侍女の不安を和らげるためにも連れて行くべきだろう。
(グレーテ、ごめんね……)
ふと罪悪感が頭をもたげる。それでも、一度あふれ出した衝動に突き動かされ、一秒たりとも館の中にとどまっていたくない。
罪悪感からライラが視線を逸らしたとき、ちょうどグレーテに呼ばれた金糸雀が窓から入ってきた。グレーテの肩にとまり、今日の予定を頷きながら聞いている。
こうした鳥のカタワレは、非常に重宝されている。片割れの意思を確実に理解するため、カタワレを使った迅速で確実な情報伝達が可能なのだ。
そのため民間では主に手紙の定期配達、貴族社会では貴人の緊急連絡用として用いられている。
こうしてグレーテの協力を取り付けたライラは、先日と同じ衣装に着替え、お忍びの準備を完了した。
今日もロイは館で留守番なので、外出しようとするライラに恨みがましい視線を向けてきた。エリオスやアドルフは自分のカタワレを伴って出かけているせいもあるだろう。
「ごめんね、ロイ。次に王都で出かけるときは、必ず一緒に出掛けましょう。それに、すぐ大公領に帰るから」
そう言ってライラは狼のゴワゴワした毛を撫で回す。大公領なら、ロイと思い切り走り回れるのだ。
ロイもライラの言葉とその裏にある考えに納得したのか、顔をぺろりと一舐めして、満足そうに尻尾を振り始めた。
「じゃあ、出掛けましょうか。グレーテ、裏口の様子は?」
「はい、そろそろ他のものは昼食に向かっているかと……」
と裏口に向かいつつ、グレーテが言った時だった。二人が歩いていた廊下の先から、ちょうど先日の御者が出てきたのだ。
「あ、これは姫さ、ま……!?」
御者はライラの出で立ちから、何をしでかすつもりなのか、すぐに察したらしい。眉を寄せてライラの外出に苦言を呈してきた。
「姫様、本日はどうぞ屋敷にお留まり下さい。若君から私たちもきつく言われて……」
御者はエリオスにあらかじめ言われていたのだろう、必死にライラの外出を止めようと通路をふさぐように立ちはだかった。
しかし、彼にも思わぬ邪魔者が現れた。それは牙を剥き出しにして唸りを上げるロイだ。
「わっ、わっ、ちょっと待ってくれ。ロイもわかるだろう、今日は……」
いくら主のカタワレとはいえ、巨躯の狼に迫られて慌てずにはいられない。御者は思わず後ずさってしまった。
「ごめんね! お説教は私が一人で受けるから! それとロイありがとう!」
「あっ、姫様!!」
ロイのお陰で生じたその隙を狙い、ライラは裏口に向けて駆け出し、勢い良く飛び出していった。
あまりの出来事に呆然と立ち尽くす御者。その肩を掴み、心を決めたグレーテが凄みを聞かせた声で言い放った。
「このことは他言無用です。今夜、私が若君からすべてのお叱りを受けます」
「……はい」
御者もグレーテも、理屈では駄目だと理解しながらも、それがいいと判断した。なぜなら裏口へ駆け抜けていくライラが、飛び切りの笑顔をしていたからだ。
最近のエリオスの言動から、王都で何か不穏な動きがあるとわかっていても、それがライラに及ぶとは思えない。王都は何重にも守られているのだ。
そもそも王都の事件なんかより、あの笑顔がわずかでも曇るほうが、大公家の使用人たちには一大事なのである。
だからこそ、いつも通りライラが少し無茶をして、そして帰ってきたエリオスに怒られて。それで仲直りをしてアドルフに笑われる。自分たち使用人はそんな仲睦まじい大公家を見て微笑む。
そんないつも通りが繰り返されると信じて疑わなかった。