第十話
ギギィ、と室内に重い音が響く。
その音に反応して、机の書類に向かっていた人物が顔をあげた。
「失礼いたします、殿下」
「ああ、ランスとエリオスか。一緒にいるのはノルト家のクルトだね? さあ、堅苦しい礼はいいよ。こちらへ来ておくれ」
入り口で正式な礼を取ろうとした三人に、その人物――王太子エドゥアルトはにこやかに手招きした。
「はじめまして、クルト。私が王太子エドゥアルトだ。これからよろしく」
背中の半ばまである目映いばかりの金の髪をうなじで軽く結い、瞳は優しい春の空の蒼。
その語り口は穏やかで、その金の髪以外、実父を殺して王位を簒奪した烈火の如き現王とは、似ても似つかない。
王位継承者の証であるカタワレの鷹はエドゥアルトのすぐ横の止まり木に鎮座し、鋭い眼差しで三人をじっと見つめていた。
「お初にお目にかかります。私がクルト・フォン・ノルトでございます。一月の間ではありますが、精一杯務めさせていただきます」
「ああ、よろしく。さてランス、さっそくだけど……」
ちら、とエドゥアルトが視線を走らせる。その意をすぐに汲み取ったランスは、室内の侍官たちを下がらせて人払いを行った。
「うん、よろしい。では、調査結果を報告してくれないか」
「畏まりました。では口頭にて概要を報告をいたします。詳細はこちらの書類にて」
ランスはそう言って書類をエドゥアルトに渡すと、大きく息を吐いた。この三ヶ月、王都をくまなく調査した結果を報告するために。
「――四路街、今は『死路街』とも揶揄されている廃虚群に、昨年の秋から複数名の出入りがあると判明しました。子爵令嬢が失踪したことにより開始した調査ですが、現在まで行方不明者は増加の一途です。特に下層の平民が多く、正確な人数は把握不能です」
ランスの報告に、エドゥアルトはわずかに眉を顰めた。
「……ランス、そこが囮の可能性は?」
「まず無いかと。死路街は下水道でもある地下通路が発達しており、犯罪者には最高の立地です。他にも候補はありましたが、町衆からそれだけはあり得ない、と詫びつきの嘆願が」
「そうか……」
最初にエドゥアルトが――軍でも自警団でもなく、蒼の騎士団が事の真相に気づいた。それは事件の相手が王都の勢力図を、よく知っている証だ。
王都の下町を実効支配している任侠勢力『町衆』の、隙をつけるだけの知識と権力がある者の仕業――。
「死路街は緩衝地帯、どの町衆の支配下でもありません。最近では町衆の配下や子分にも行方不明者対象がでたようで、ようやく協力姿勢になりました」
続けられたランスの言葉に、エドゥアルトは再び眉を顰める。
町衆と裏で繋がり、民衆が無用な犯罪に巻き込まれることを防ぐ。
五年前ーーランスの入隊と同時に、エドゥアルトはその考えを着々と実行に移してきたのだ。その結果、蒼の騎士団は二年前、ようやく町衆と協定を結ぶに至った。
町衆は素人と住み分けを行い、よっぽどの事がなければ手を出さない。また、悪事を働く余所者は排除し、国家の大事であれば騎士団に連絡する。
その見返りに、町衆のシマでの出来事は他の隊や軍にも手出しさせないよう手を回す。そうして町衆と蒼の騎士団は、一定の安定を保ってきたのだ。
だが今回はその繋がりを過信し、後手に回ってしまった。
町衆は義理堅く人情にも厚いが、己のシマでしか動かない。つまり緩衝地帯と言えば聞こえはいいが、それは裏を返せば無法地帯。常にいざこざの絶えぬ場所なのだ。
相手もそれが分かっていて、根城を決めたのだろう。
それとも、誰かと繋がっているか。
町衆を取り込んだとすれば、これだけの荒事を犯してなお正体が不明なのも納得がいく。だが、王にさえ屈しない町衆を取り込むことなど可能だろうか……?
(殿下……)
報告を受けてから、ずっと苦しそうに眉を寄せたままのエドゥアルトを、ランスは悔しそうに顔をしかめて見ていた。
この人の苦労を、苦難を、ともに背負うと決めているからーー。
「殿下。向こうはこちらの動きに気付き始めています。このところ、奴等の動きが鈍化しております」
「……その言い方、内通者が誰かも掴んでいるな? では、急ぐべきだな」
ランスの言葉に泣きそうな顔で苦笑して、エドゥアルトが呟いた。
決して弱くはない、けれど心優しい主君のために、ランスはその背中を言葉で押す。
「他の領地ならまだしも、国外に逃げられたら厄介極まりない。王都で潰しましょう、殿下」
「……ああ」
エドゥアルトが小さく、だが確かに頷いた。
「では殿下、決行は明日でよろしいでしょうか?」
「はは、お前は本当に用意がいいな。それでこそだが……。では、ランスロット。明日、我が蒼の騎士団をお前に預けよう。思うがままに動き、存分に務めを果たせ」
「――御心のままに」
ランスは跪き、深く一礼した。
その礼を感慨深く見守ってから、エドゥアルトは後ろに控えていた二人に声をかけた。
「いきなりで大変だろうが、クルト、今は君も隊員だ。さっそく参加してくれ」
「承知いたしました」
「よし。では何かあれば逐一報告してくれ。エリオスも、頼むぞ」
「かしこまりました、殿下」
礼をしていたランスに引き続き、エリオス、クルトも跪き、完璧な礼をとる。その光景に、エドゥアルトは思わず息を飲んだ。
四家のうち、三家の子息が自分に、礼を。
――あの父でさえ、四家の真の忠誠は得られぬまま今に至るというのに。
血の即位式では動乱の傷も癒えぬうちに、名ばかりの式が行われた。本来であれば多くの貴族を跪かせて新王に忠誠を誓わせる、壮大で荘厳な式だったはず。
「では殿下、失礼いたします」
「あ、ああ」
ランスの言葉に、エドゥアルトは考えを無理やり断ち切る。何か白昼夢でも見ていた気分だ。
やがて三人は退室していったが、見送ったエドゥアルトの胸中は複雑である。
(私は、これでいいのか……?)
絶対的な存在が、父の影が、自分にはいつも付き纏う。妹はそれを上手く利用して、権力を着々と強めている。だが、自分はどうだ。
(国の統治に――恐怖しか感じない)
先ほどの光景を思い出す。あれは本来、父に捧げられるべきものではないのだろうか。
「……どうしたものだろうな」
クゥ、と鷹のカタワレが小さく喉を鳴らす。
その目は真っ直ぐにエドゥアルトを見つめている。硝子のような瞳に映るのは、カタワレの片割れ、己自身。言葉などなくとも、半身の意思は手に取るように通じる。
「……そうだな」
逃げ出したい。だけど、見捨てられない。
「まだ、やらなくては」
まだ、自分でもこの国の力になれる。この立場――王太子から、逃げるわけにはいかないのだ。
エドゥアルトはゆっくりと立ち上がった。