遺言
兄は王位継承権を持った実妹アンケセナーメンを正妃としたことにより王位を得た。しかし激務が祟り、持病が突然として悪化、その結果倒れたのは即位翌年のことである。以降、兄は自分の仕事の半分を俺に任せるようになった。任さざるを得なかったと表現した方が正しい。
ナルメルに隣についてもらいながら行う政務は何とも心許ないものだった。まだ年端もいかぬ王子の言葉に、大臣たちが反論しない訳がない。権威を持つ兄に物を言えない分、幼い弟王子にそれをぶつけているようだとも思えた。この不安定な情勢で、誰もが不安なのは分かってはいるが、理不尽な思いが拭いきれなかった。
自分がこの地位にいるのは相応しくない。そんなことは分かっている。兄が戻ることを誰もが望んでいるのだろうし、俺もまたそれを強く望んでいた。王座に立つのは兄こそが相応しかった。
兄や父が行っていたものを、全部ではないにしろ背負うことになり、加えて自分を幼いからと言って認めぬ輩が多い中、その重さに耐えきれず逃げ出してしまおうかと考えたことは数えきれないほどだ。
「あなたはこの王家に生まれた王子。強くありなさい」
姉はそう言って俺を叱咤し、常に前に立たせた。これが姉の口癖だった。父が死んだ時、あれほど嘆いた人とは別人のように、姉は今の王妃として威厳を保ち、凛と俺の横にいた。そうして知らず知らずのうちに、幼いころのような自由な時間はなくなっていった。
時折、やるべきことを終えると兄の部屋に行った。病床の兄は自分の妻と共に俺を優しく迎えてくれる。慈しむような家族の微笑に、自分の居場所はここにあるのだと思えて安堵し、ずっとここにいたいと思えた。この時ばかりは弱音を吐いても誰も怒ることをしない。
「ならば、そうだな……外へ出てみたらどうだ」
今日の出来事を話し、弱音を漏らす俺に、兄は自分も同じだったと苦笑しながら助言した。
「外へ?」
目を瞬かせる俺に兄はそうだと頷く。城外へ出るのはあの事件以来のことだ。あの時の恐怖は未だに自分の中で深く刻み込まれ、身震いさせるものがある。
だが、そんな俺に兄は微笑み、行ってこいと背中を押した。
「今の状態を痛いほど分かっているお前ならば大丈夫だろう。己の国の様子をその眼で見てくると良い。考えが変わる。私も父に政を任された最初はそうしたものだ」
ここまで言うと、兄はちらと部屋の扉の向こうに目をやってから、俺に手招きをして顔を近づけてきた。
「無論、あの扉の向こうにいる宰相には知られぬように。あとお前の姉君にもだ。あやつらは色々と口うるさい所があるからな」
それからだ。政務の合間合間に、ナルメルの目を盗み見て外へ出るようになったのは。
一人で勉強をするのだと言って部屋に閉じ籠る振りをして、一人になると部屋にある隠し通路を身を小さくして潜り抜けて外へ出る。もともと万が一のために作られた通路をこう利用するのもどうかと思ったが、俺としては有難かった。
宮殿内から抜け出ると、兄から命を受けていた兵から馬を借りて、王子だと分からぬよう服装を変えて外へ駆け出す。
宰相の目を盗んだつもりでも、こうした俺の行動をあのナルメルが知らないはずがなかった。それでも自由に出ていけていたのは、ナルメルが俺の身勝手な行動を知りながらも許し、見守っていてくれていたからだと今では思う。
外に広がる、未だに変わらぬ荒んだ国の状況を目の当たりにし、これではならぬ、逃げたいなどと言っている場合ではない、兄が回復するまで自分がこれ以上悪化させることになってはならぬと目が覚めた気分になった。弱音を吐いている場合ではない。兄はそれを分からせたかったからこそ、外出を勧めたのだろう。
そうやって自分を奮い立たせながら向かうのが、テーベの学び舎だった。自分が治めつつある世について、王家について、実際に民としてこの地に暮らすカネフェルの話を聞き、知恵を貸してもらう為であった。兄の体調もすぐれない今、兄の部屋の次に俺の心休まる場所であったことは間違いない。
話すうち、カネフェルも兄の話題が出るたびに、複雑な表情をした。兄の命がどこまで続くものかと、幼い自分を目の前にしながら考えていたのかもしれない。考えないようにしていても、兄自身、このまま弟である俺を王とするべく、今の政のほとんどを俺に任せようとしているのではと漠然と思い始めてはいた。俺に助言する姿はまるで、自分が王として国の頂点に最早立つことはないと決めかかっているかのようで、今にも消えてしまいそうだった。病が治らないはずがないとその思考からいくら逃げようとしても、とりついて離れない。
そうして、こちらの願いとは裏腹に、兄の病状は悪化していき、あれほど勇ましく立っていた姿は見る影もなく、兄に回っていた政務も自分に回ってくるようになった。その作業をナルメルと姉の間で熟し、兄がいない日々に慣れていく自分が、そしてまるで自分の死を覚悟したような兄の姿が恐ろしくなった。
何度かカネフェルのもとに通っている内に、とある少年と出逢った。彼は、王家による民の混乱に巻き込まれた貴族出身の少年だった。まだ乳飲み子である幼い弟を背に背負い、丁度学び舎の裏で馬を降りた俺に、突如飛びかかってきたのだ。
「お前たちが殺したんだ!父と母を殺したのはお前たちだ!!」
掴みかかられ、地面に倒れた俺の視界を、彼の涙が埋め尽くす。
「何故神を変えた!何故都を変えた!何故!何故!何故……!!」
飛びかかられて俺の身体を大きく揺さぶりながら泣き喚く。背中におぶられた、眠っていた赤ん坊も起きて大声で泣き出してしまった。その泣き声に弾かれたかのように彼ははっと離れたと思うと、今度は拳を震わせ、顔色を変えた。
「ああ……あぁぁ……」
彼は大きく息をすると、膝を地面についた。指先が震え、瞳も大きく揺れている。彼の目にはもう何も映っていなかった。なんと虚ろな目だろうか。
両手で顔を覆うと地面に崩れ落ちて息を荒げ嘆く年の近い少年を目の前に、この少年もまた犠牲なのだと思った。我ら王家が造りだした、この世の。
彼の両親を殺したのは自分たちだ。この少年の言う所の、一体どこが間違っているというのだろう。
『──我らの手でどうにかしなければならぬ』
兄の言葉を思い出した俺は彼に手を差し伸べていた。
自分たちが追いやってしまった彼らを救うのも、また我らの務めなのだろう。そうしていかなければ問題はいつまでたっても解決しない。
「……大丈夫か」
嘆く少年の肩を恐る恐る擦った。
「話を聞く」
最初は像のように身体を固め、何も言わなかった彼は、時間が経つとぽろぽろと自らの経緯を話し始めた。
両親が死ぬところを目の前で見たこと。戻るところなどどこにもないこと。
父の死んだ夜が昨日の出来事であるかのように脳裏に甦る。まだ自分の父は病床だったから仕方のない死だった。だが、この少年の両親は身に覚えのない非難を向けられ、犠牲になった。それもこの少年の目の前で。両親の死を目の前にし、住む場所を失くし、幼い乳飲み子の弟を背負い、ここまで歩いてきた彼の気持ちを思うと、遣る瀬無さで胸が苦しくなった。
「いずれ私が王になる。そうしたら、また神を戻そうかと思っている」
彼は、はっとしたような表情で俺を見上げた。純粋だと思える綺麗な表情。泥に汚れた頬の中で、目だけが大きく潤みを持って光っている。そんな表情とは裏腹に、俺は自分の発したものに驚かずにはいられなかった。
なんて馬鹿なことを口走ったのか。兄の回復を望んでいるはずだというのに、咄嗟に口をついて出た「私が王となるだろう」という台詞に、自分の中が大きく震えていた。恐怖から来た悪寒のようでもあった。
同時に、自分はどこかで気付いていたのだと悟った。兄はもう助からぬと。自分は、王になるための道を、今否応なく歩き始めているのだと。自分にはその道しかないのだと。そして、それを一番自分が恐れているのだと言うことも。
「王子」
自身の口走った言葉に愕然としている俺を少年が呼んだ。
「私めに、お咎めを」
深々と頭を下げた彼に、我に返った。
「私は大罪を犯しました。どんなお咎めもお受けします」
咄嗟に自分の身の上の現実に引き戻され、自然と背筋が伸びる。歪んだ表情が消え、兄が浮かべるような悩みのない表情が仮面のように自分の顔に被さるのを感じた。
揺らいではならないと、本能が動いた。民の前において我らは神なる王族でなければならない。王家は人間ではない、神の化身であるがために。
揺らいでいた気持ちを押し込め、頭を地面に押し付ける少年の背中を見つめた。確かに、王族に掴みかかり暴言暴挙を行ったならば咎める対象に成り得る。──だが。
兄ならばどうするだろう。
「お前、名は何と言う」
少年は思いもしなかったこちらの返答に、頭を上げそうになりながらもおずおずと口を開いた。
「……セテムです。セテムと、申します」
「ならばセテム」
初めて呼ぶ名に力を込める。
「ついてくると良い。弟と共に」
相手の返答など待たず、身を翻して馬の方へ歩き出す。少し遅れて、遠慮がちな足音が自分の後ろをついてきた。
彼を咎めることなどどうしてできるだろう。彼が家族や家を失い、彼が泣き叫んだ原因は、我ら王家にあるというのに。
それ以降、セテムは俺の傍にいるようになった。反乱により両親を亡くした彼ら兄弟を孤児院に送るつもりだったと言うのに、セテムはそれを頑なに拒否して宰相と俺に傍で仕えさせてくれと名乗り出たのだ。名乗り出るというよりも、懇願に近かった。床に額までつけて声を張る彼をどうにか身体を起こさせ、何故そういう考えに至ったのかと尋ねれば。
「王子の思想に感銘を受けたのです。私と弟と救って下さったご恩に報いたい。それが私の一番の望みです」
この一点張りだ。
「食事も、寝る場所も自分でどうにかします。お傍に仕えさせて下さるだけで良いのです。どうか、どうか、王子のお傍に」
彼の言う俺の思想というのが、『自分が王となり、神を変えるつもりでいる』という発言だというのはすぐに見当がついた。あの言葉はどうか忘れて欲しいと願うのに、彼の中では随分と美化されて残ってしまったようで、孤児院に行くという提案を良しとしない。幼い弟はどうするつもりかと聞いてみれば、ネチェルが快く引き受けてくれたのだと言う。あの根の優しい女官長は赤ん坊を腕に抱くのは久々だと喜ぶ始末だ。
セテムの貴族と言う比較的高貴な生まれもあり、更にカーメスとも顔馴染みだったことから、ナルメルが苦笑しながらも彼の希望に頷いてしまったために今の状態に至る。
どこへ行っても、逃げ出そうとしても、セテムは真剣な面持ちで俺についてきた。一人で調べ事をすると行って部屋に閉じこもったふりをして外に出ても、気づけば俺の後ろにいるのだ。平然とした顔で背後に控えるその姿にどれだけぎょっとさせられたか分からない。今まで俺のあとを着いてこようとした者は数知れずだが、最後まで着いて来たのはセテムが初めてだった。
「お前は番犬のようだな」
ぴったりと着いてくるセテムにそんな言葉をかけてみた。
「頭の後ろに目があるのではないか?」
いくら目を盗んだつもりでもまるで見ていたかのように着いてくる少年に嫌味ったらしく言ってみたが、表情は全く変わらない。
「私の目は顔にある二つです。それだけです」
真顔で返される返事。からかっても、冗談が通じない。なんと喋り甲斐のない奴かと思っていると、俺が「空を飛んでみたい」と何気なく零したら、そのための方法をいくつか列挙してまずは自分で試してから上手くいかなかったと結果を報告すると同時に大袈裟に謝ってくる。
「主の願いを叶えられぬ側近など生きている価値がございませぬ!!!」
挙句の果てには短剣を自らの喉に着きつける呆れたものだ。
「弟がいるだろう!弟を残して命を絶つことなどしてはならぬ!!」
何度この台詞でセテムの自害未遂を止めたことか。そんな極端で、ひとつの道を生真面目に走り抜けようとする自分の側近がおもしろ可笑しく、俺は大きく笑うことが多くなった。笑っている時ばかりは、自分を取り囲む鬱憤が一気にどこかへ吹き散ってしまう。
年の近い風変わりな側近は、まるで分身のように傍におり、それでいて友のような信頼を寄せられる存在となっていった。兄の右腕がカーメスであったように、セテムは俺にとってのそれになった。
夜に、侍医たちが入って行った兄の部屋の扉の前に立った。数日前から食欲もなく、今日の夜に状態が更に悪化し、俺が呼ばれたのだ。
兄が俺を呼んでいる。この部屋の向こうで。
兄の命に従って俺を呼びに来たカーメスは、隣で何とも言えない表情をしている。真っ直ぐ扉を見据えながら、いつも飄々と笑っている顔には憂いがあった。
俺に深く礼をして慌てたように兵たちが扉を開けると、気難しい顔をして立っていた宰相がおり、俺を振り返った。
「弟君」
ナルメルは暗い面持ちでこちらに歩み寄る。
「兄は」
「奥に。侍医たちも出るよう命じられました」
ナルメルの重々しい雰囲気は崩れない。
「そうか」
こちらが頷くと、宰相は俺の背後にいるカーメスとセテムに目配せをして、頭を下げると二人を連れて外へ出て行った。
一人残された静かな空間は、父が横たわっていたあの部屋を前にした時の雰囲気とよく似ていた。いつも背後にいるセテムがいないと、後ろががらりと空いて寒々とした空気が流れて行く気がして思わず肩を竦めた。周囲に音が無く、自分の呼吸と鼓動が最も大きな音として響いている。
嫌だ。とても嫌だ。
このまま兄のところへ向かえば、終わる気がした。何が終わるかと言われれば定かに答えることは出来ない。だがきっと、がらりと何かが大きく変わってしまうことは漠然と感じていた。嫌な予感が拭えぬまま、寝台のある奥の部屋へ重い足を進めるしかなかった。
相変わらず殺風景だ。真ん中に寝台があり、机の上にはパピルスが巻かれて重ねられている。それ以外、目につくものはない。自らの側室と共に、最も奥まった広い部屋に兄はいた。
寝台に身を横たえ、俺の姿を認めるなり青白い顔で弱く笑み、それからおいでと手招きをする。
「良く、来てくれた」
妻に視線を送ると、彼女は頷いて隣の部屋へ去っていき、部屋に兄と二人だけになった。
「寝たままですまぬな……身体が動かぬのだ」
無言で首を横に振っただけの俺に、兄は座れと側の椅子を目で示した。兄の妻がずっと座っていたのだろう、腰かけた椅子にはぬくもりが残っている。
「……話では、セテムと良くやっているというではないか」
まるで世間話をするかのように相手は話し出す。
「セテムがお前に掴みかかったと聞いた時は案じたものだが良かった」
「それは、仕方が無かったことだ」
いつもの調子で兄に返答する。このままいつもの現状報告で済めばいい。済んでほしい。そう思えば思うほど、ぎこちない笑みが自分の頬に浮かんだ。
「掴みかかられた責任も我らにある。それに今では俺のよき遊び相手だし、生真面目だからな。笑ってしまうほど、生真面目なのだ」
俺の言葉に、兄が表情を緩めたのを見た。
「兄上もセテムと話してみると良い。きっと病など吹き飛ぶほど、笑いが止まらなくなる」
「そうだな……一度話したが、笑えるほど誠実な少年だった。お前に一生を捧げるつもりだと豪語していた」
セテムはまたそんな大げさなことを言ったのか。勢いで口走ってしまったあの思想に一生など捧げられてはどうしたらいいか分からない。兄を通されて言われるとどうも恥ずかしくなる。
「ナルメルとカーメスの話だと暴れん坊のお前にこれでもかと付き従っているという……良い従者を見つけたのやもしれぬ」
良かった、と繰り返す兄の声は掠れている。その時、何だか相手がとても遠くに感じた。
「もういいか、皆を待たせているのだ」
嘘だ。ここで話を続ければ、何か嫌なことを言われそうでついた、見えすぎた嘘。
兄が呼んでいるというから来たのだ。こんな深夜に、それも王である兄との時間を、誰が邪魔するというのだろう。それでも、そんな嘘をつくほどにここを出てしまいたかった。兄の口が開き、言葉が俺に向かって静かに発せられる前に。
「アンク」
兄は悲しいくらいに儚げに微笑み、扉の方へ進みかけたこちらの足を止めてしまうのだ。
「あと命が少ししか持たぬ兄の話くらい聞け」
言い返すことなど出来なかった。知っていた、薄々感じていたことであったとしても兄自身から直接聞くと堪えた。
確かに兄はある日を境に、みるみると衰え、今では床についたまま、立ち上がることもなくなった。もともと体が弱かった、今まで健全のように振舞えていた方がおかしかった。いつかこうなることを覚悟していなかった訳ではない。ただ、今という状況が、来ないことを祈り続けていただけなのだ。
「冗談は嫌いだ」
聞きたくなくて、兄からそっぽを向くが、兄は俺の手を掴んだ。
「私が死ねば、王はお前だ、トゥト・アンク」
知っている。兄が倒れ、もう回復の見込みはないと分かった瞬間から。
悟った。兄までもがいなくなるのだと。
兄は侍医に死が近いことを言い渡され、それを自分ですでに受け入れている。だからこそ今までの事をすべて、最後まで俺に伝えようとしている。
これは遺言だ。この遺言を伝えるために、兄は自分をここに呼んだのだ。
「今まで兄と姉でお前を守ってきたが、私が死ねば、お前は姉と二人だけだ。お前にもしっかりしてもらわねばならない。もう子供であってはならない。時が来たのだから」
いなくなるのか。置いていくのか。
「王家は民と共にあり」
兄の、染み入るような声。染み入るようでありながら、噛みしめるその声。
「この言葉を忘れるな。王家は民のためにある。民の声を聞かねばならぬ。常に耳は澄ませよ。良いことも悪いことも聞けるように……聞き分けられるように」
兄の目を見ながら、考えてみる。兄がいなくなった世界を。
とてもではないが思い浮かべられなかった。
「私はアメンからアテンへ神を移すことが叶わなかった。身体が弱いために、この悲願を叶えることは出来なかった」
いつも前を歩いていた。父の後ろを兄が歩き、兄の背中を俺が追いかけていた。追いつきたいと願いながら、決して追いつくことの無かった背中だ。
それが、なくなるのか。追いつく前に。
「お前は手のかかる可愛い弟だ。お前を辛い立場に置くことは十分に分かっている。だが、王家の血には抗えぬ。お前には生まれ持った役目があるのだから」
耐えきれず、俺はかぶりを振った。まるで何も知らなかった幼子の頃に戻ったかのように、強く首を横に振って兄を睨んだ。
「嫌だ」
睨んだとは言っても、ほとんど泣き出しそうな歪んだ顔に近い。
「神を変えれば国は荒れる。兄上も知っているはずだ。あれだけ荒れた。今もあまり変わっていない。多くの人間が殺された。ようやく治まったのに。もうたくさんだ」
セテムに無責任に期待させておいて、俺は決断も何も出来ていない。
変えられるかも分からない。変えるのが恐ろしかった。
「このままでは同じなのだ。アイが唯一神の威光を借り勢力を大きくしている。父に取り入り、この上ない身分を手に入れて……このままでは再び悪化もしかねない……誰かが変えねば……誰かが」
兄は狡い。もう俺しかいないではないか。
「私が死んだ瞬間から、お前が王となるのだ」
「王になどならぬ、なりたくない。絶対に嫌だ」
兄は悲しそうに顔を歪めた。唇を噛みしめるのを見て、どうしたらいいか分からない感情が込み上げる。
「兄上がずっと王で有ればよいのだ。そうすれば、俺は王にならずとも良い……俺にはとても務まらぬ」
我儘を言って病床の兄を困らせてはならないと分かっている。分かっている、けれど。
「俺に王など無理だ。俺は兄上のように立派ではないのだから」
兄は弱く微笑み、俺の肩に手を乗せた。力強かったはずの兄の手は、ここまで弱くなってしまったのか。その弱い力に泣き出しそうになる。
「何を言う。お前は素晴らしい才を持っている。兄の私よりも、ずっと」
「慰めなどいらぬ」
「慰めではない。正直を言えば、私はお前が羨ましかった。病のない身で、どこまでも走って行けるお前が。アンク、お前は誰よりも王家に相応しい人間なのだ」
「違う」
「違わぬ」
「そんなはずがない!」
叫んでいた。勢いに任せて立ち上がり、兄を見下ろす。
「王に相応しいのは兄上だ!兄上の他に誰がいる!兄上でなければおかしい!」
気づけば視界が霞んでいた。
兄の気持ちは分かっている。自分たちは兄弟だ。たとえ片親のみであろうと、血を分けた兄弟だからこそ、兄の想いが苦しいほど分かる。どれだけ兄が自分を想ってくれているか、父を尊敬しているか、国を愛しているか。兄が俺に抱く申し訳ない気持ちと、生き長らえたいという叶わぬ思い、父への敬愛、そして王家としての自覚。何もかも、分かっているのだ。
分からなければ、どれだけ楽だったことだろう。兄だからこそ、弟だからこそ、言わずとも分かるものがあった。
「お前も私も、こういう星回りに生まれた。自分の生まれ持った使命を否定するなど、許されることではない。……きっと、賢いお前ならば分かっているのだろう」
好きで生まれたのではない。こんな身の上に、好き好んで生まれた訳ではない。こんな重圧の下ではなく、兄と姉と父と、どこか苦しみのないところへ行って共に暮らせたならば。
叫んでしまいたかったが、血の気のない顔の兄にこれを言えるはずがなかった。何より、自分はこの血筋に誇りを持っていた。兄の言う通りなのだ。自分がそうだと信じ続けていたことに、否というほど虚しいことがどこにある。これこそが自分の歩んできた道だ。否定できないたったひとつの。
「それに」
唇を噛みしめる俺に、兄は再び乾燥した唇を開いた。
「私に、アイの力を覆す力はない……父がアイをお前の後継とし、それを切る方法が見つからなかった。それだけが、心残りでならない」
兄も気づいている。俺がすべてを分かっていることに。
兄は数日後に眠るように死んだ。俺に、「許せ」とうわ言にように何度も呟きながら。兄の息が絶えるまで俺はその声を聴き続けていた。
カーメスは兄の遺言により将軍の地位につき、兄が愛した人は、兄の葬儀を終えるとどこへとも知れず姿を隠した。王家の複雑な事情に巻き込まれないようにと、兄が彼女のために前々から何らかの手を打っていたのかもしれない。彼女の行方が知れたのは数年後のことで、兄の死を悼み続け、そうして身体を弱らせて死んでいったのだと風の便りで聞いたのが最後だった。それ以上、彼女については何も知らない。
兄の遺体を目の前に、父の時と同様、俺は泣かなかった。父の遺体を前にした時は3人いたのに、2人になった。兄がいない。兄はいるが、死んでいた。
父と兄が立て続けに死に、父の時と同様、死とはなんて呆気ないものかと考える。数年前まではあれほどに生き生きとしていていたのに。俺の前を常に歩き、後ろの俺を振り返っては手を差し伸べてくれていたのに。昨日まで苦しげではあるものの息をしていたというのに、今は安らかな顔をして人形の如く動かない。息もしない。温かみもない。
姉は縋って泣くが、自分にとってこの動かない身体は、兄であって兄ではなかった。抜け殻のようにしか見えなくなっていた。だからだろうか、思っていた以上に自分は冷静でいる。
「あなたは強い子ね」
涙で顔を濡らした姉が顔を上げて、俺を見た。
姉も人前では泣くまいと必死に堪えていたというのに、そんなことを。今これだけ泣いていると言うのに、侍女や神官がいる前では平然とした顔を貫き通していたのだ。
姉は兄から聞いていたはずだ。兄の命は先が短く、いずれは王となる弟を支えて国を背負わねばならないことを。幼い弟である俺には負担になるからと教えず、一人でそれを抱えて、兄と俺とを見守っていたに違いない。
「私はどうしても涙が止まらない……」
兄の動かない手を何度も擦って姉は俯きながら呟いた。膝にいくつも雫が落ちて行き、膝に流れる衣の色を変えていく。
「兄様まで、失いたくなかった」
俺は、強い訳ではない。泣くことが出来なかったのだ。
涙が、出なかった。
兄と姉を見つめ、それから天井を仰いだ。姉の啜り泣く声を聞きながら、もうあの時のように3人で語らう時は二度と訪れないのだと、そのことの切なさばかりを延々と募らせる。同じ太陽を仰ぎ、同じように振る舞えば、いつか兄のようになれると一つ一つを真似してきたのだ。だが、その真似る相手はもういない。追いつく前に、いなくなってしまった。
この先、俺は。
俺は、何を目指して行けばいいのだろう。
何も見えなくなった。
* * * * *
大学の窓からぼんやりと外を見下ろしていた。
芝生が生茂る中庭でキャッチボールをする男子学生たち。ベンチに座って昼食をとる女子学生たち。蝶が飛んできて、自分の下を飛んで行く。それを目で追って、途中でやめた。
視界に入るものについて深く考えることはせず、ただ見ているだけという状態はとても無駄に思えるのに、この状態で数十分いられるのだから不思議だ。
こうしていると、毎日のように見る夢のことを自然と思い出す。
目を閉じれば昨夜見た景色が、香りを感じられるくらいに浮かび上がってくる。
砂の匂い。砂漠に立つ俺の真上の空は暗がりで、夜明けに近いために一筋の黄金が地平線に伸びている。壮大な景色だ。空と自分を遮るものはない。空気はやや肌寒いが、身体の中の澱みすべてを洗い流してくれるかのようだ。上空を、ハヤブサだろうか、一羽の鳥が迷いなく陽光を一身に浴びて飛んで行く。その羽が陽の光を反射して生みだす銀色があまりにも美しかった。砂を巻き込んだ風が東から西へと流れて行き、目前に現れる太陽の姿に畏怖の念を抱きながら自分も地をしっかりと踏みしめ向かい立つ──。
この夢が始まったのはいつからだっただろう。
幼い頃に風景だけの夢は良く見ていた。一人佇み、風を全身に浴びるだけの夢。黄金の水平線があり、そこから眩しいほどの太陽が天へ昇って行く。時折視界に広がるのは、逆光で顔が真っ黒に塗りつぶされた大きな人間が俺の手を優しく握って「息子よ」と呼ぶ姿。
夢から覚めて誰であるのかと考えるが、それが自分の実際の父に似ているような気もしていた。ただ、父のような人物の他にも人が多く出て来て、まるでそこがどこであり、己がどういう人物であるかを理解しているかのように振る舞う夢の中の自分に気づいたのは最近のことだ。
夢の自分は、自分ではない。そう思いながら、この別人は紛れもない自分なのだと思えるところも確かにある点がまた不可思議でならなかった。また別の人物が意志を持っているような、誰かの記憶を、その人物になって見ているかのようでもある。
加えて不思議なことに、夢に出て来た人々の顔は夢では確かに見えていたはずなのに、朝起きてしまうとその顔たちは霧に隠されたかのように淡く、何も見えなくなった。
それでも。
ただひとつ、目覚めてからも鮮明に思い出せるものがある。
澄み渡る青い大河を覗き込んだ時に水面に映った夢の中での自分の顔。実家のアルバムにある、幼いころの自分と瓜二つの、自分の顔だった。