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* * * * *



「数日はご安静になさいますよう」


 侍医は立ち上がると傍にいた兄と二言三言言葉を交わした後、頭を深く下げ、女官たちを従えて部屋を出て行った。

 嫌な沈黙が苦しい。唾を呑みこむ行為さえ億劫になる。


「……無事で良かった」


 カーメスを傍に従えた兄が呟いた。俺はその言葉に俯くことしか出来ないでいる。兄の隣にはカーメスがおり、先程の乱闘のせいで煤や泥で酷く汚れた衣服を着替えることなく、彼も兄と同様、固いながらも安堵の表情を浮かべていた。


「カーメスや他の者がお前を見つけられていなかったら、今頃どうなっていたことか」


 反乱軍に捕まるところを、カーメスと俺を探していた兵たちによって救出されたのだ。多数の死者を出したものの、兄に派遣された軍勢により暴動は治められ、カーメスの父も無事に保護され、被害がそれ以上広まることはなかった。

 良かったと言えば良かったが、どうにもならない感情が張り付いて顔が上げられない。最悪であれば殺されていた可能性も十分あるのに、腕も足も失わず、掠り傷程度でこの宮殿に戻ってこられたのは奇跡に近かった。

 あの出来事を反芻すると身体が小刻みに震えた。瞼を閉じれば、今起きている光景のようにありありと甦ってくる。すべての怒りの矛先が自分一人に突き付けられ、このまま射抜かれて自分は死ぬのだと一瞬にして悟ったあの瞬間──恐ろしかった。


 深い沈黙が続くと、兄はカーメスを下がらせ、傍の椅子を引き寄せて俺と向かい合う様にして腰を下ろした。兄の視線がこれでもかと降り注いでくるのを感じ、いよいよじっとしていられなくなった。


「……兄上」


 怪我をした腕をさすりながら、兄を呼ぶ。相手は側の炎の明かりに陰った顔を僅かに動かした。ついさっきまで浴びていた炎とはまた違う、柔らかな優しい灯りだ。この灯りに包まれて俺は生きて来たのだ。逆を言えば、これしか知らなかった。


「父上は……異端なのか?」


 何も知らぬまま勢いに任せて外へ飛び出した自分の過ちを謝り、悔いる言葉が先に出るべきなのに、俺は縋るようにそれを尋ねていた。渇いた口内から出てくるのもまた渇いた声だった。

 兄の口から、今起きていることを聞きたかった。今回の事で国がどれほど乱れているかを知った。カーメスが家に帰っていたのは、実家が貴族であるからだ。王家に仕えている家となればどうなるか。それが心配だったから、帰ったのだ。兄とカネフェルが話し合い、カネフェルを王宮から民の中に送ることとしたのは、民の声を直に聞き、国の様子を身近から知ろうとしたからだ。

 そしてその原因は我ら王家にある。それも、あの父に。

 自分が幼いと思われ、兄と姉からは何も伝えられていなかったのだと思うと腹が立つと同時に悲しさが溢れたが、自分が思っていた以上に自分は子供だったことに、今回の事件で気づかされた。子供ではないと駄々をこねていながら、自分は兄と姉が考えている子供でしかなかったのだ。それが悔しかった。

 こちらの問いに、兄はしばらく口を噤んだまま深く考えるように瞼を伏せていた。


「最早、幼いからと言って、知らないでは済まされぬ」


 こちらに聞こえるか聞こえないか際どい声で相手は話し出した。


「お前も、もう子供ではいられないのやもしれぬ。もう少し、無邪気な時を与えてやりたかった」


 父にただ憧れ、父のようになるのだと豪語する子供ではいられない。そういうことだ。


「だから教えなかったのか。俺が子供だから」

「知れば、お前はもう今のままではいられぬ。出来るならば、まだ知らないでいてほしかった。私は、知りたくはなかった」


 俺を見つめる兄の目は悲しげな眼差しを宿している。早く大人になりたいと強く願っていた俺に反し、兄はそれを恐れていたのかもしれない。

 父は憧れだ。俺や、兄にとって何よりの。父のすることはすべて正しかった。正しいと信じ続け、そんな偉大な父の子であることを誇りにして生まれ育ってきたのだ。王家として生まれたこと。父の子としてこの世に生を受けたこと。自分が自分として生きている意味の大部分はそれによって成り立っていたと言っても過言ではない。

 だというのにこの国の有り様は何だ。昔目にした豊かさが姿を消し、貧困が取り巻き、憎悪があった。これが我が父が作り成したものだという。それを思うと堪らず膝の上の拳を握りしめた。

 悔しい。苦しい。悲しい。

 この事実を知った自分がこれほどに落ち込んでいるのだから、兄が知った時はどれほどのものだっただろう。知って誰かに縋ることも出来なかったはずだ。俺には兄が傍にいてくれても、兄は独りで立っていたのだ。王の嫡子であるが故に。誰にも弱音を吐くこともなく。


「改めてお前に告げよう」


 相手は改めて姿勢を正すと、こちらを真っ直ぐ見つめて口を開いた。


「我が国は、父の行った改革で乱れ、民は主神を以前の神アメンに戻すよう訴えている」

「何故だ」


 自分のものとは思えないくらいの低い声で兄の発言に噛み付いた。


「何故国は乱れなければならない。父上は民を想って改革をした。俺は父上の気持ちを知っている。すべては民のため、国のためだったはずだ。そのために父上は大きな決断をして犠牲を払って来たというのに」

「アメンはそれほどの神であった。アテンという父が作ったものでは、民は納得しなかった。アメンの怒りを買ったのやもしれぬと、父上でさえ言い始めている」


 ああ、と呼吸と共に嫌な声が漏れた。身体のどこかでぷつりと切れてしまったかのような脱力感に苛まれる。

 最近会わせてもらえない父もまた、己を信じて行ったものを疑い始めていた。万能で、崇高であったはずの父が、まさか自分の成したことに疑問を抱くなど、以前であったならば想像だにしなかったことだ。


「でも、父上はアメンでは神官が力を持つからと……人は皆一人の神の下に平等であると!それの何がいけない!何故、ここまで非難される!?民は何も分かっていない!」


 まるで兄が天敵であるかのように吼えた。


「アメンの信仰心は王にも勝る」


 我ら王家は神の威光を後ろ盾として君臨している。その後ろ盾が民の意志からかけ離れたものとなってしまえば、俺たちは後ろ盾を失うことに繋がるのだ。


「都を変えたことも悪かった。もともとここはテーベと比較しても作物が実りにくい。今は収穫が落ち、貧困さえある。ナイルからの恵みがテーベよりも少ないからだ。テーベから無理に都を移して、我が民を貧困に貶めたのは我ら王家、そして父なのだ」


 崩れているのかもしれない。

 事実を受け入れなければならないと分かっているのに、どうしようもなくなる。神を変えたことに加え、父が決めたこの地の不都合が民の不満をより煽っているのだ。


「お前には伏せていたが、父上は毒を盛られたこともある」


 弾かれるように顔を上げて兄を見た。


「一度ではない。数度に渡った。お前の食事にも入っていたことがある。勿論私やお前の姉にも」


 驚いて、声が出なかった。これもそれも、知らないことばかり。俺が知らない間に多くの事が起こっていたのだ。


「父上の口に入る前に気づき大事には至ったことはないが。……これがどういうことか、お前ならば分かるな」


 民だけではない、この王宮の中にも反乱が起きつつあるということだ。毒を見分けられるよう、カネフェルを通じて俺に毒物について学ばせたのもこのせいか。

 今までのこと、兄からの告白を頭で並べて行くほどに思考は真っ白に染まっていく。

 民が、国があってこその王家だ。今の自分たちは思い描き続けていた理想の王家の姿であるのかと問うたら、答えは否。民の信頼を失い、怨まれる存在に成り果ててしまったのなら、自分たちの存在意義とは一体どこにあるのだろう。


「……これから」


 茫然とした中で、声が零れた。握りしめた腕の傷が大きく痛む。


「これから、俺たちはどうすれば良い。あれほど、これほどまでに怨まれているのに」


 兄は冷静な表情を崩さず静かに口を開いた。


「どれだけ非難を受けようと、この落とし前は付けなければならぬ。我ら王家の手で」


 どうするか、どうすればいいのか──兄はすべてをすでに知っているかのような、決意を秘めた眼差しを宿していた。そこに兄の強い信念を垣間見た気がして、俺は言葉を発することが出来なかった。


「──アンク!」


 不意に高い女の声が響いて、弾かれた様に兄の背後に視線を投げると、部屋の扉の前に姉がいた。


「ああ……」


 兄の隣まで駆けより、よろよろと歩いて無事な俺の姿を認めると、姉は俺の傍で膝を崩して大きく泣き喚いた。


──どうしてこんなことに。


 そう零した姉の背を兄が擦る。弟が無事であったことに対する安堵のためか、それともこの虚しい王家の現状に対して耐えきれなくなったための涙か、俺には考える余裕はない。

 茫然と兄と姉を見ていた。

 続かなかったのだ。昔の幸せに満ちたあの暮らしは、当の昔になくなっていた。久々に兄弟三人が揃ったと言うのに、すべてが変わったのだと思い知らされ、突如見えなくなった途方もなく遠い未来に、立ち竦むことしか出来なかった。



 国の真の状況を知った数日間は茫然とやり過ごしていた。相変わらず兄は多忙を極め、姉にも会うことはなかった。ただただ一人で宮殿の中を歩き、茫然と過ごす──昔の自分ならば想像もしない無気力な自分に成り果てていた。

 兄はそんな状態の俺を已む無しとして、何も言うことはなかった。真実を知った時、兄自身同じような状態に陥っていたのかもしれない。

 だがどうやって立ち直り、何を以ってあのように強く、くじけず何かを成し遂げようと思えるのか、皆目見当もつかなかった。出口のない穴にもでも放り込まれたかのようだ。自分がこうして絶えず昼間歩き続けているのは、その答えを見つけようとしているからなのかも分からなかった。


 とぼとぼと廊下を進み、ふと思って空っぽであるはずの広間に出ると、柱に寄り掛かる人の姿を見た。誰であろうかと目を凝らせば、痩せ衰えてはいるが、ネフェルティティだと分かる。彼女の姿を見るのは、姉に会うより久しぶりだった。

 彼女がせっかく産んだ子を亡くしてから、もう数年以上が経過している。生まれた娘が死んだせいで、美しい表情はひどく陰っており、久々に垣間見た義母の姿は見違えるように衰弱していた。


「あら……王子」


 ゆっくりと目だけを動かして彼女は口端だけを小さく上げる。微笑と言えば微笑だが、なんて痛々しいものだろうと思わずにはいられなかった。


「ファラオは、お元気?」


 視線を彷徨わせてから、首を縦に振るだけの返事をした。おそらく、息災だろう。父の様子も最近は見に行っていないから自分では分からない。

 父に会うのが気まずかったのと、これ以上幻滅したくないという実の父に対して抱くべきではない身勝手な理由からだった。今では兄や姉の方が父の容態を知っているはずだ。

 俺の返答に彼女はわずかに嬉々とすると、また前を向いてしまった。

 会話は途切れてそれ以上言葉が交わされることはない。最近ではこれもいつものことだ。年もさほど離れていないこともあり、彼女を母と呼んだことは無かったが、兄と俺は彼女とは気が合った。さばさばとしていて、あか抜けている。そんな彼女の性格が話しやすく、父に対してこの上ない敬意を俺たちと同様に抱いていたこともあって、余計に親しみやすかった。例えるのなら同じものを志す同志のようなものだった。諸外国の珍しいものを好んで取り寄せていた彼女の部屋に行き、色々と見せてもらう内に、世界の広さと言うものを兄と共に痛感し、それにひどく憧れたものだ。

 そんな彼女が父の子を出産した──つまり自分にとっての妹が生まれたと知り、兄と姉に連れられて祝福に行った時は、メリトアテンと名付けたのだと嬉しそうに教えてくれたのもつい最近の話のように思える。

 しかしそれは産まれた王女が生きていた時までの話であり、王女が死に、彼女が体調を崩してしまってからは皆無と言っていいくらいに足を運ぶことは無くなった。彼女自身があまり我ら兄弟に関わろうとしなかったと言ってもいい。

 父の足もそんな傷心の彼女の宮殿から遠のいた。彼女が受け入れようとしなかったのか、父自身が、落ち込んで衰弱していく妻を見ていられなくなったのかは分からないが、彼女の姿を遠目に見ているだけでただ虚しさだけが残った。


 父が娘であったアンケセナーメンを自分の正妃とする話が公に出されたのが、丁度その頃。姉に拒否する権利などない。我ら兄弟にとって父の言葉は絶対だった。そうして姉は事実上、父アクエンアテンの妃となった。

 父が姉を正妃として迎え入れた事実は、ネフェルティティの体調の悪化に拍車を駆けてしまい、それからしばらくして彼女が夜な夜な誰かを連れ込んでいるというあまり良くない噂が流れるようになったのも、父に原因があると責められても仕方なかった。けれど父もまた、改革の失敗による国の混乱と娘を亡くしたことによって心を病んでいたのかもしれない。



 俺が外へ飛び出したあの事件から半年が経った頃から、身体の調子を崩し始めていた父の代わりに兄が王座に立つことが多くなった。主な内容は、神をアメンへ戻すという、父とは反対の改革で、宰相ナルメルと共に話は進められていた。父の決意を踏みにじったこの改革を成そうとする兄もまた、苦しんでいたに違いない。

 兄はこの頃、初めて俺を会議の場に出すようになり、発言をさせるようになっていた。その時の兄の気持ちを、俺はあまり汲み取ることができないでいた。


「兄上は凄いな。父上の代わりを立派に勤め上げて。何故出来る?」


 話し合いを終えた後、兄と共に廊下を歩きながら声を掛けた。


「父上の真似事だ」


 彼は苦笑するようにそう答えた。


「だが、国を治めると言うことはそう容易ではないだろう」

「父上が言っていたのだ。王家が国のために第一に考えることは、民が飢えないようにすること、国を外敵から守ること、それだけを必死に考えることだと。土地を広げることや、利益のために戦うことでは決してない。それだけしかないのだから、曲がらない意志さえあれば何とでもなると……私はその通りに父の代わりをしているだけに過ぎぬのだ」


 兄はもう一度軽く苦笑する。自分を決して棚の上にあげることはない謙虚さも大臣たちの受けが良い理由だが、持って生まれた才を想えば、もう少し威張っても良いくらいだ。父の代わりと言え、今の父からの教えは決して簡単なことではないだろう。どうしたって利益は先走るものだ。


「そういうものか?今、俺が兄上の立場であったなら、そうなれる気がしない」


 すると兄が突然足を止め、つられて足を止めた俺に向かい合った。面白おかしそうな、それでも何か遠い日を懐かしむような表情を向けている。


「案ずることはない。兄もお前と同じ質問を父にしたことがある。その時父に言われた言葉をそのままお前に贈ろう」


 父の言葉をそのまま、俺に。それだけで否応なく自分の胸は高鳴った。


「『お前も同じ立場になればきっと分かる時がくる。至ってそういうものだ。その時まで楽しみにしていると良い』……この通りだった。私も生まれながらの王家だったのだと思った」


 言い終えた兄は、少々拍子抜けになっている俺を残して軽く笑い声を立てた。


「同じことを尋ねるとは、我らはやはり兄弟なのだな。嬉しくなる」


 こんなにも楽しげな兄の顔を見たのは久しぶりだった。


「さあ、まだまだやるべきこともある。国の内だけではない、外へも目を向けて行かねばな」


 再び歩き出した兄の後を慌てて追いかける。


「諸外国……ヒッタイトか?」


 兄の会話について行こうと必死に頭を働かせ、そうして真っ先に思い浮かぶのはあの国しかない。


「ああ。あそこの王とは近々話し合うことになりそうだ。このまま我が領土を勝手に取られては困るからな」


 父の改革のごたごたに乗じて、ヒッタイトが我らの属州を横取りしたことは記憶に新しい。なんと勢いに任せた堂々たる略奪行為だろうと思い出すだけで憤慨できる。


「王子」


 声の方を見やると廊下の先にナルメルがおり、こちらに軽く会釈をした。


「お話が御座います」

「すぐ行こう」


 ナルメルが王子と呼べば、それは兄のことを指す。この宰相は俺のことは弟君と呼ぶのだ。これから何か大事な話をするのだろう。自分が聞いていいものか。それとも──。


「アンク」


 兄に着いていくかどうか決めかねていると、兄は庭の方を指さした。


「腕が鈍ってはならぬ、お前は兵相手に剣術でもやっていろ」


 こちらが頷くと、いい子だと言って兄は俺の頭をわしゃわしゃと強めに撫で、ナルメルの方へ歩いて行く。彼らの後ろ姿を眺めながら、撫でられた部分を自分の手で抑えた。兄に撫でられた感覚が残っていた。


──いい子。


 兄の中では、俺は子供なのだ。いつまでも、変らない。



 その頃、兄の側室として王宮に入った一人の貴族の娘がいた。特別美しいわけでもない、小柄で控えめな女で、懸命に兄を支えていたことだけはよく覚えている。恋愛婚がなかなか成されないというのに、兄は彼女との恋愛の末に自分の宮殿へと迎え入れたことに驚きを隠せなかった。どこでその愛を育んだのかは知らない。兄が自分のことを話す人間ではなかったから余計だった。色恋沙汰など地面と空がひっくり返ってもないと思っていた。

 時折会議を終えるとすぐに出かける兄の姿を何度か見ていたに加え、宴の席にその女性も出席し、兄の隣で微笑み合っていたことを思えば、おそらく短い時間を積み重ねた結果なのだ。そして権力を持った貴族の高貴な娘であったことも、すんなり宮殿に迎え入れることが出来た理由だろう。

 正妃になれないと知りながら、兄に望まれて彼女は側室となった。それほどの女性を兄が正妃としなかったのは、自身が正統王位継承者であり、正妃とする者は王家の娘でなければならぬ、という王家を守るための古くからの仕来りが暗黙の了解で王族を取り巻いていたからだ。王家ではないその貴族の娘を正妃には出来なかったが、正妃にしたかのように、兄は彼女を深く愛していた。彼女も兄の苦労を理解した上で兄の傍で兄を支え続けた。

 ただ、二人の間に子が生まれることはなかった。生まれていれば、自分の置かれた立場もいくらか変わっていたのではと思わずにはいられない。



 その頃の父は、どれだけ食べても頬はこけ、腹だけがぼったりと堪る、まるで病人のような体つきになっており、徐々に外に出ることもしなくなった。部屋に閉じこもり、政務にも関わらない。嫡子であった兄に任せきりだった。気も違えていたようにも思う。

 父は、兄が迎えたただ一人の側室を、ネフェルティティの間に生まれたメリトアテンと呼んだ。兄とその妻は父を宥めるためにそうだと頷き、彼女は父の前では死んだ娘であり続けていた。そのために、俺でさえ兄の愛した人の名は覚えていない。彼女は生涯、メリトアテンとして兄の傍に寄り添い続けた。


 当時の最たる問題は、気を違え始めていた父の隣にアイが侍り始めたことだった。アイは神官だった。父の母親の兄、つまり父にとってアイは伯父に当たる。その人物が空席であった最も力を持つ最高神官に選出されたのはつい最近のことであり、神官の中で最も支持を集めていた彼を、王である父が直々に任命したのだ。

 アイが父に対して何かの度に助言するのを、兄も姉も良く思ってはいなかったが、病床の父が絶大な信頼をその男に置いているのは一目瞭然であり、精神が衰弱した父からその男を無理に引き剥がすことは兄にも出来ることではなかった。

 いつからか、父はアイに陶酔していた。逆に言えば、アイは弱った父にいつの間にか上手く付け込み、揺るぎない信頼を得ていたのだ。


「我が行ったことは間違っていたのだろうか」


 兄に連れられて父の部屋に入った時、こんな声を聞いた。床に臥せった父は、繰り返し、弱々しい声を隣のアイに向ける。

 父からそのような言葉が出ようとは、と初めて聞いた時は絶望を感じた。昔見ていた父ではない。憧れていたその人の面影は顔にしか見て取れなかった。溢れんばかりにあった威厳は一体どこへ行ったのだろう。


「そのようなことは御座いませぬぞ、ファラオ。神は喜んでいらっしゃる。そう私に語りかけてくるのです」


 この改革が過ちであったのかと気に病む父に、そうではないと、慰めでしかない神の言葉を語りかけてくるアイは、父にとって欠かせない人物となっていた。父の慰めは、兄や姉でも俺でもなく、この男の言葉だった。アイはそんな父を利用して、自身の権力を強大化し、父と共同で国を治めていた兄にさえ影響を及ぼそうとしていた。

 祖父の代から王家に仕えるアイのことは、昔からあまり好きではなかった。むしろ嫌っていた。王である父にいつもぴったりと寄り添い、何かよからぬことを病床に伏した父に吹き込んでいるのではと思うほどに汚らわしく感じてしまう。差別はならぬと教えられてきたことだが、この感情は消えてくれない。


 ある昼下がりことだった。兄が凄まじい剣幕で父の部屋に向かっているのを見、それまでにやっていた弓を放り投げて慌てて追い掛けたことがある。兄の後ろを行くカーメスもナルメルも深刻な表情で、嫌な予感が拭えなかったからだ。いつも冷静でいる兄の、感情を剥き出しにした顔は初めてだった。


「一体どういうおつもりです!」


 俺が父の部屋の扉を越えたと同時に、そんな怒声とも取れる声を聞いた。


「何故何の相談もなしに、弟の後見人にアイをお選びになったのです!」


 兄の言葉に耳を疑った。思わず足を止め、寝台に横たわる父を見た。父の枕元にはまるで父を支配したように居座ったアイがいた。嫌な笑みを湛えている。これでもかと穏やかな表情に、鳥肌が立った。


「息子よ」


 何をそんなに驚くのか、とでも言いたげな父の声に、兄は拳を握りしめる。


「何故、私やナルメルに一言も相談してくださらなかったのです!!」


 王子の後見に、神官を選んだ?まさか。

 確かに元正妃であったネフェルティティの父親なのだから、そういうこともあり得ない訳ではない。だが、今までの行いを見て来ても、決して王家に関われるような人間ではない。神に仕える身分で十分なはずだ。何故、王家の人間の後見人など。それよりも、自分はおろか、今実際王権を持っている兄に一言も言ってくれなかったことに唖然とした。

 この事態は、父が兄やナルメルや俺よりも、アイを頼れる人間として選んだことを意味していた。


「父上……」


 自然と零れ落ちた俺の声に、父が反応して目を向けた。兄もはっとしたように、俺を振り返る。ナルメルもカーメスもアイも俺を見た。いくつもの視線は、まだ背の低い自分へ一点に集まった。


「アイは信用が置ける故……トゥト・アンクはまだ幼い故なあ」


 哀れだとも言わんばかりの声色は部屋にやけに響く。


「それにお前も……」

「ファラオ」


 兄は一息ついて、低い声で父を呼んだ。『父』ではなく『王』に問うているのだと分かった。


「何故、私に一言ご相談くださらなかったかとお尋ねしているのです。ご相談は私にと何度もお伝えいたしました。アイは最高神官であろうと、一介の神官に過ぎませぬ。王家の問題はアイ一人に左右されるべきものではない」


 兄が父に詰め寄り、寝台の傍に膝をつくと父の顔を覗き込む。


「宰相ナルメルの方が弟の後見人として相応しい。アイは神官であるだけです。これ以上政に関わらせては王家の名折れ。ファラオよ、お気を確かに」

「兄王子よ」


 父の返答の前に兄を呼んだのはアイだった。


「黙れ」


 兄は誰もが怯む形相でアイを睨みつけた。兄のこのような顔を見るのは初めてで思わず唾を飲み込む。


「私はファラオと話しているのだ。王家ではないお前が王家のことに口出しすることは許さぬ。私を気安く呼ぶな」


 アイはそこから澄ました顔で黙っていたが、兄がどれほど説得しても、父は自分の決定を翻すことはなかった。






「……そこに座っていると良い。しばし待て。すぐ終わらせよう」


 政について教えてくれるというから、夜更け前に部屋に行ったが、兄はそう言って俺に椅子を示した。最近は兄自身が父から教えてもらったものを、空いた時間を通して俺に教えてくれるようになった。多忙な兄にとって、空いた時間はどうしても夜更け近くになるが、この時間ばかりは兄弟水入らずで語らえる限られた時間だ。

 今回は俺の後見としてアイが選ばれた以来、初めての呼び出しだった。

 静かな兄の部屋は殺風景で、がらんとしている。強いて言うのであればいくつものパピルスが机の上に散らばっているくらいだが、気になるほどではない。父の部屋はアテンの像や絵でごったがえしているというのに、兄の部屋にそういうことがなかった。まるでこの部屋をすぐにでも誰かに明け渡そうとしているかのようだと感じたのはいつの頃だったか。


「あなた」


 ぼうっとしていたら奥から兄の妻がやってきて、俺に軽く微笑んでから兄に声をかけた。二人でいくつか言葉を交わすと、彼女は俺と兄の二人に頭を下げて奥の部屋へと向かっていった。彼女に向けられた兄の目は何とも穏やかだった。

 彼女が忙しい兄の心の拠り所となっているのは今の二人を見るだけで分かった。今、兄が自分の信念をもって強く立てているのは、彼女の存在があってこそだ。兄を支え続ける彼女には感謝してもしきれない。政の他に、俺の後見問題についてやアイの強大な権力にも、最近は頭を悩ませているというのだから。

 兄の背にかかる負担を思うと、この前のことが何とも申し訳なくなってきた。


「……兄上」


 妻を見送ってからしばらくして、兄の黙々と作業を続ける背中に呼びかけてみた。パピルスを掠める木製の筆記用具の渇いた音と、あたりを照らす僅かな炎の音だけが当たりを支配している。自分の頭の中には、病んだ父の姿とその傍にいるアイの姿、それからあの時アイに向けた兄の怒りの形相が止まらない。


「どうした」


 灯りを頼りに何かを綴っている兄は、こちらを振り向くことなく答えてくれる。


「……良いではないか」


 呟くような俺の声に違和感を覚えたのか、兄はようやくゆっくりと俺を振り返った。兄の黒い目には灯りの橙が混じって揺れていた。言葉に詰まる俺を案じてか、兄は身体ごと向けてこちらを覗き込む。そんな相手に、俺は今まで考えていたことをこの口から吐き出すため、意を決して顔を上げた。


「良いではないか、俺が王になる訳ではない。アイが後継者の兄上の後見人になったならまだしも、父に命じられたのは王になる可能性の低い俺の後見だ。兄上がそこまで頭を悩ませることではないだろう。さほど問題でもない。兄上がそこまで真剣に思い詰めることでもない。そうではないか?」


 一気に言い切った俺を、兄は驚いたようにしばらく見つめてから、次は優しく表情を崩して笑った。


「なんだ、そのことか」


 手を伸ばして俺の頭を撫でまわす。あまりに勢いよく撫でまわすものだから、俺は困惑して相手の手を払った。

 そのことか、とは何だ。こちらは政務で引っ張りだこになっている兄の身を心配して、悩みを失くそうと色々と考えた挙句、言葉にしたというのに。これではこちらが恥をかいたようではないか。


「お前は案外、色々と気を使う弟だからな、兄がこれで悩んでいてはと言ってくれたのだろう」


 案外とは何だ、と拗ねる俺を見て、兄は更に表情を崩す。


「良い弟だ」


 高らかに兄は笑う。


「可愛い弟だ」

「うるさい、もう心配なんかしてやるものか」


 もう一度撫でで来ようとするから、思わず椅子から立ち上がって手から逃げた。そんな俺を再度笑ってから、兄は頬杖をついて、少し遠くを見るような眼差しをした。


「お前の気遣いは嬉しい……だが、そう言う訳にもいかぬ」


 こちらを見ることのないまま、兄は否と答える。必死に考えていたことが難なく弾き飛ばされると想像以上に落ち込んだ。


「まあ、ほら、椅子に座れ」


 苦笑して椅子を示す兄を見て、やはり腰を下ろした時も変に項垂れてしまった。


「そう落ち込むな。すまぬ。お前の気遣いだけはちゃんと受け取っておく。嬉しいのだ」


 そんな冗談気味に言われても、少しの慰めにもならない。ただ気恥ずかしいばかりだ。

 兄は姿勢を正すと、まっすぐ俺に向き直った。


「お前の後見人というのは、これから大きな意味を持つことになる。今一番考えるべきことでもあるのだ」


 その言葉の意味が分からなかった。兄の今最も考えるべきことは、王家を揺るがした父の改革による混乱の鎮圧であり、都を元に戻すことだ。なのに何故、王位が遠い自分の後見問題が最重要事項となるのだろう。


「私の力でどうにかできればいい。だが……私に出来るか」


 独り言のように呟く兄は、それ以上これについて話してはくれなかった。父は衰弱する一方、姉は父を懸命に看病し、兄は第一王子として責務を全うしようとした。


 それから間もなく、父が死んだ。朝になっても起きなかった。侍医は安らかな最期だったのだろうと言った。兄はすでに20を超えており、政務に携わる内に王としての素質を開花させ、臣下からの信頼も厚くなっていた。王の仕事は兄によって熟されていたと言っても過言ではない。アクエンアテンの名で行われた業績のほとんどは兄によるものであったと知るのは、おそらく王宮に仕える者だけだろう。

 よって、父が突然その人生の幕を下ろしても、王位継承の合間に王権が揺らぐことは無かったが、俺はこの事態にどうしたらいいか分からなかった。

 衝撃だった。身近な存在の死はこれが初めてだった。いつも通り眠りに落ちて、翌朝に起きないことがあるのだ。呼んでも揺り動かしても動かない。こちらを見ない。何も語りかけてはくれない。目を閉じたまま。


──これが死ぬということか。


 そう悟ると、時が止まったような感覚が全身を取り巻いてほどけなくなった。そろそろ危ないと言われていたものの、いざその時が来ると、それはあまりに呆気ないもので、別れの言葉をいうことすらできずに終わった。

 王が死んだということで慌ただしく物事が進み、ようやく家族だけになれたのは夕刻だった。兄と姉に挟まれて、父の遺体を見ていた。

 あれほど父の枕元にいたアイの姿はどこにもない。父が死ぬと寄りつかなくなった。途中、ネフェルティティが駆け込んできて、遺体を見るなり声を上げ、縋り付いて泣いていた。

 実質未亡人となった姉も泣いていたが、兄は泣かなかった。茫然と父の遺体を見つめているだけだった。

 どこから見ても病人としか言えない遺体は、見ていてあまりに悲しく、辛いものだった。これが父だとは信じられなかった。信じたくなかった。


 遺体が死の家に連れて行かれるのは2日後と知らされた。夜が来て、周りが静かになり始めると、兄弟3人でこれからのことを少し話し合ってから寝るために別れた。皆の前では気丈にふるまっていた姉も実際は憔悴が酷く、すぐにでも休ませなければならなかった。



 寝具に潜り込んでも父の顔が忘れられなかった。

 明日になれば死の家に連れて行かれる。ミイラになるために。永遠の身体を得るために。また、次の世を生きる準備をするために。この世の存在では、なくなるために。あの父に、この世でもう会うことはない。棺に入ってしまえばもう葬儀でさえ顔を見ることは出来なくなる。あの手でこちらの手を握り、導いてくれることはない。大きな両手を広げ、おいでと言ってくれることも。兄弟のやり取りを聞いて、高らかに笑うことも。王家の偉大さを語ってくれることも。何も。


 偉大であった父。

 ラーの光を一身に浴びて輝かしいほど立派に立っていた父。

 憧れだった、父。


──もう、終わりだ。


 別れなのだ。

 そう思った途端、俺は寝具から起き上がり、侍女たちが声を上げる間もなく部屋を飛び出していた。

 父に会いたい。その願望が一瞬のうちに大きくなって溢れ出した。



 夜の廊下は、昼からは想像もできないくらいに暗かった。細やかな月明かりだけが道標となって視界を照らしている。擦れ違う数人の兵や女官たちの驚く顔を横切って行き、何も履かず地を蹴る足の裏は、問答無用に冷えいく。

 世界に響く音は自分の上がった呼吸と、足音だけ。まるで、知らぬ場所へ行こうとしているかのようだった。呼吸だけを続けて、このままどこかへ、淡くなり、いつかは音さえもなくなって、そして月の銀の中に溶けて行ってしまいそうな。

 だが、父の横たわる部屋の扉が視界に入った時、変な現実味が足から這い上がって目を覚まさせた。重い鉛の枷を足に付けられたかのように身体が重くなるのを感じた。自分の荒くなった息遣いが耳に張り付き、肩が問答無用に上下している。嫌な汗が首筋を伝って行った。


「……弟君」


 呼ばれて顔を上げると、扉を護る兵の前にナルメルがいた。カーメスもナルメルの横から俺を見て、少し驚いた顔をしていた。


「いかがなされました。こんな夜更けに」


 寄ってきた二人に何と言うべきか一瞬悩んで口ごもり、肩で息をしながら俯いた。何か言おうとすれば、自分がどうなるか分からなかった。下手をすれば、この場で泣き喚いてしまいそうだ。だがナルメルはすべてを察したかのように、一度瞼を伏せてから扉を護る兵に目配せをした。

 俺に一礼した、王の部屋を護衛する二人の兵たちによって、王の扉はゆっくりと開けられる。気が逸って、思わず開きかけた扉に両手で掴んだ。汗ばんだ手で開ける扉はいつもより重かった。


 父と自分を遮る扉を開き切ると、見慣れた父の寝台があった。ぽつりと置いてある台。そこにもう動くことのない人間が横たわっている。部屋に漏れる月明かりがその中に降り注いでおり、寝台に横たわる遺体の白さをより引き立たせ、そこに眠る人はもうこの世の人ではないのだと俺に思い知らせた。

 数歩進んで、背後の扉が閉ざされる音を聞いた後に、父と自分の他にもう一人、この部屋にいることに気付いた。ここにいるとは思わなかったから、喉から声を出すのに時間を要し、ようやくのことで発しても掠れてしまっていた。


「……兄上」


 灯りも灯らぬ部屋に、兄がいた。父に縋るようにして、膝を床につけて腰を屈める兄が。呼ぶと兄は身体を起こして、振り返った。


「アンクか」


 月の光が部屋の上のどこからか漏れている。自分の身に月光が掛かった時、月はラーが雄牛なって現れた姿なのだと教えてくれた父の姿が脳裏に浮かんだ。そして兄の頬に、その銀の光染まった一縷の線が見えた。


「泣いているのか、兄上」


 驚いた。兄が泣くなど。いつも微笑んで、こちらに不安を与えるような表情など一切しない、あの兄が。


「……情けない。涙が止まらぬのだ」


 相手はそう言うと目を反らして、父を見た。


 ああ。落ちて行く。

 涙が、光に照らされながら。


 兄の涙なのだと知ったら、どうしようもなく涙が零れた。目頭がこれでもかと熱を持ち始め、腕で擦る前に最初の一粒が落ちて行った。ひとつ落ちてしまったら、あとはもう止まることを知らない。

 足はまるで意志を持ったかのように、父と兄の方へ進んだ。近くまで行くと、兄は嘲笑とも取れる笑みを浮かべた。


「父が好きだった。何よりも大きい父が憧れだった。たとえ、異端の王と呼ばれようとも、父は俺の父だ。超えるべき相手だったのだ」


 そう言った兄が目を閉じると、涙が一層床に落ちて行った。

 兄と同じように膝を地面につき、父の手を握った。冷たかった。固かった。これが幼い自分の手を引いたあの手と同じものだと思うと、更に涙の量が増した。

 これが父だ。俺の父だ。幼いころから目指し、憧れ続けた、それ以上のない、何物にも代え難い、唯一の。


 これでもかと父との記憶が甦る。母を亡くした俺を哀れみ、母の分までと愛してくれた父の暖かさや優しさをもう二度と味わうことはない。兄と姉と父と自分、4人で笑い合うことはもうない。掛け替えのない、失われたものを思ったら、今度は嗚咽が漏れた。


 分かっている。

 父の気が狂ってしまえど、父は父だった。それ以外の何者でもなかった。気を違えた変わり果てた父を目にするのが悲しくて、あまり見舞うことをしなかった。それが、今更になって後悔で埋め尽くされる。

 何故、会うことをしなかったのだろう。父と語らおうとしなかったのだろう。父と共に過ごせる日々が限りあるものだと分かっていたはずだというのに。父への恩を何も返せぬまま、父は一人逝ってしまったのだ。


「父上……!」


 自分でも信じられないくらいに泣き喚いて、見舞うことをせず、死に目にも立ち会えなかった自分を許してほしいと父に謝り続け、どれくらいそうしていたか分からなくなった。


 しばらく、何も言葉を交わさない時間があった。沈黙のまま、この夜が明けないのではないかと錯覚さえ起こる。泣き疲れて向かいにいる兄を見やったら、涙のあとを消して父の穏やかな顔を見つめていた。兄の表情は、自分と兄と姉でいた時と似たものだった。


「……何故」


 やっとのことで発した自分の声は酷く掠れていた。


「兄上はあの時泣かなかった?」


 姉が泣いていた時。周りに誰もいなかったのだから、嫡子としての立場を弁えることなく、泣きわめいても良かったのではないだろうか。


「お前も泣かなかっただろう」

「それは……兄上が泣かなかったからだ」


 嘘だ。強がりだ。突然の父の死にどうしたらいいか分からなかった俺は、泣くことをも思いつかなかったのだ。

 兄は口を噤んだ俺の手を握った。その手は泣きたいほどに暖かく、今の父の手とは違った。ぐっと強い力で握られ、こちらの腕が震えてしまう。兄と自分は生きている。父とは違って。

 この力と暖かさは、生きていることの何よりの証なのだ。そうとわかったら、また、泣きたくなった。


「次の王は私だ」


 兄は言った。


「王たる者、誰の前でも泣いてはならぬ。たとえ、血を分けた弟や妹の前であっても。強くあらなければならぬ」


 王とは強さの象徴。そこから動じることがあってはならない。我ら王家に求められるのは、揺らがぬ尊い強さ。神と認められるそれほどまでの確固たる存在であるのだ。

 父が死んだと同時に兄は王としての自覚を持っていたということだ。


「結局は、お前に見られてしまったが」


 ナルメルたちも気づいているのだろうと兄はバツの悪そうな顔をして肩を落とした。

 ナルメルとカーメスが扉の前にいたのは、兄が自分の部屋を抜け出したのに気付いて心配したからなのだと今更家臣たちの思いを悟る。


「王家たる者、お前も覚えておかねばならぬな」


 震える唇をへの字に噛みしめ、俺は兄を見つめたまま強く頷いた。それを見届けた兄はゆっくりと立ち上がり、独り言とも、俺への宣言ともとれる声で呟いた。


「父の国を、守らねば」


 彼の声は、広い空間、父の遺体の前でまっすぐに響いて消えて行き、俺の中に沁み込んで行った。


「泣くのは、これで最後だ」



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