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異端

 数年が経ち、ある時を境に兄は頑なに俺を外に出さなくなった。外での狩りや、ナイルへ泳ぎに行くことを何よりの楽しみにしていた自分にとっては衝撃のことであったし、楽しみを奪われてしまった怒りと、その理由を教えてもらえない苛立ちでどうにかなってしまいそうだった。


「何故駄目なのだ!!」


 椅子を力任せに蹴ったら、思いのほかそれは動いて倒れた。嫌な音がしたが、そこから顔を背けて前へ歩を進める。狭い部屋ではすぐに部屋の壁に行き詰まり、身体の方向を変えたら、諭そうとするかのような眼差しがこちらに向けられていた。


「王子」


 倒れた椅子を柔らかな物腰でもとに戻すのはカネフェルだった。姉がすべてを学び終え、今彼に学ぶ人間は自分だけだ。


「兄上は分からず屋だ」


 俺をずっと宮殿に閉じ込める理由を、兄が多忙でついて行けないためと知らされたが、嘘だと気付かない訳がない。

 兄は誠実過ぎることが災いし、嘘が下手な人間だった。付き添いなど兄でなくとも良く、以前に兵たちだけをつれて狩りに行ったこともあるのに、今更そんな言い訳で「相分かった」などと誰が頷くと言うのか。


「腹が立つ」


 カネフェルの前で机を蹴りつけて愚痴を連ねても、相手も肩を竦めるばかりだ。理由を教えてくれても良いものを、兄に口止めでもされているのか言ってはくれない。はぐらかし、肝心なことを話してくれない、未だに幼子扱いであることを実感して、加えて腹が立つ。


「いっそのこと、一人でここを飛び出してやろうか」


 体裁も何もかも捨てて、好きなだけ、好きなように外を馬で駆けて。

 吹きすぎていく風はどれだけ気持ち良いだろう。草花の香りは。ナイルの涼しさは。砂漠の砂は。馬上で浴びる、ラーの黄金の光は──。

 思い浮かぶ情景に酔いしれそうになるが、すぐに自分の置かれた身分が立ち憚り、気持ちが沈んだ。11歳にもなってここまで過保護にされると煩くて堪らなかった。末子だからと言って、いつまでも子供という訳ではない。兄が自分の年の頃には、父の傍で政の話を聞いていたというのに、自分はこの様だ。


「すべてはあなた様を想ってこそ」

「何がだ。何も知らされずに、子供扱いをされて何が俺を想ってのことだ」

「一先ず、気をお鎮め下さい」


 椅子に座るよう勧められ、大きく息を吐いて促されるまま腰を下ろした。

 カネフェルに怒りをぶつけても仕方のないことだというのに、何をしているのだろう。兄に言われたことを思い返しては苛立ちを募らせ、それを落ち着かせようともう一度息を吐くと、向かいに腰を下ろす相手が自然と視界に入った。

 物心さえつかない幼い頃から今まで、自分に様々なことを教えてくれた恩師。姉や兄が称賛されるほど立派に育ったのは、この男に師事したからだ。彼が教えを与えてくれたことで、どれだけ自分の見ている世界が広がったことか。


「カネフェル」


 しばらくして沈黙を破った。何度も聞いた礼儀正しい返事が返ってくる。


「……お前もここを出て行くのか」


 ぼそりと呟くと、カネフェルの表情が僅かに揺れた。俺が知らないはずのことを口にされて、驚いたようだ。


「兄と話しているのを聞いた」

「盗み聞きとはいけません。あなたは王子なのですから」


 黙り込んで視線を逸らす。


「堂々と聞いても教えてくれぬだろう」


 自分にどの情報が与えられ、どの情報が除かれるかの判断は兄が握っていた。兄が頷かなかったからこそ、カネフェルも言わなかったに違いないのだ。


「まだ先の話に御座います」

「でも、俺を置いて行く。まだまだ知りたいことが山のようにあるというのに」

「私は行かねばならぬのです」


 本人の口から真っ直ぐ聞いてしまうと、覚悟はしていたもののやはり気落ちした。言葉を返す気力さえ、どこかへ飛んで行って消えてしまう。兄も姉も政務に駆り出されるようになり、兄弟の中で一人、何らかに関して省かれている今、カネフェルだけが唯一話が通じ、教え、話し相手になってくれる存在であり、代わりなどいない相手だった。本音が言えた。他に言えないような弱音をも吐けた唯一とも言える相手だったのだ。


「どこへ」


 父に思うように甘えられない時、この人が父だった。この人がいなくなれば、自分はここで一人だ。


「お前はどこへ行く?」


 相手はじっとこちらを見据えた。


「民に。民の子らに教えを解きに」


 まさか、と思わず声を上げそうになった。

 王宮の家庭教師は国最高の教え導く者であり、最多の知恵を持つ者だ。生まれ故郷へ帰るとなればともかく、それだけの地位を持つ者が民の教師へ身を投じるとは。


「兄上の命だな」


 兄が、カネフェルに命じたのだ。


「何故兄上は、カネフェルを俺から離すのだ。お前が俺に教えることはまだたくさんあるはずだというのに」

「いいえ」


 今まで言葉を濁らせていたカネフェルが初めてはっきり答えた。


「あなた様にお教えすることは、もう御座いません」


 はっきりと否定されて驚いて目を見張る。カネフェルは静かな面持ちで俺を見つめている。


「私はあなた様にすべてをお教えしました。そして賢いあなた様はすべてを呑みこまれ、今や兄君姉君に並ぶ王家として相応しい知恵と品格をお持ちになられた。あとは如何にあなた様が、それをお使いになられるかです」


 そんなはずはない、と首を振ったが、彼は自分の意見を決して曲げることは無かった。自分が兄や姉に匹敵するものを、もうすでに手にしているなど信じがたいことではあった。特に兄には足元にさえ追いついていない。そう考えてしまうと、自分には根本的なものが欠けているのだとどうしようもない悔しさに叩きのめされる。

 拳をこれでもかと握った。あの兄には、敵わない。


「それに、今回のことは、私自身が望んだことでもあります。民の声を聞き、王宮へ伝えることも出来る。私は決して王宮から離れる訳ではないのです」


 民の声を直に聞ける──王家にとってはこの上ない良い話だ。

 分かる。分かっている。俺が自分のことしか考えていないことは。それでも止められない。


「……カーメスも家に帰るかもしれぬと聞いた」


 カネフェルに続け、兄の傍に仕え続けている彼も、王宮を一端出るという。彼らのいなくなった宮殿を脳裏に描いてみると、それはとてつもなく物寂しいものになった。だというのに、自分は外に出してもらえることなく、一人で宮殿の中で過ごせと言うのか。拷問でしかない。


「あの者の家は貴族ですからな、心配なのでしょう」

「何故、心配になる」


 繰り返し、口調を強めて尋ねても、カネフェルは何も教えてはくれなかった。


 カネフェルの部屋を出て、廊下を兵をつれて歩いていた。足元から自分のサンダルが鳴らす音が嫌に耳の奥に響いている。足元から伸びる自分の影は時間に従い、その濃さを増しており、ふと足を止めて太陽が傾く西に目を向けた。


「いかがなさいました、王子」


 途端に立ち止まったために、背後の兵が不思議そうに声を掛けてくる。


「……このまま、本当に外に出てしまおうか」


 相手に聞こえないほどの声で呟く。聞き返されても言い直すことはしなかった。口にするほどに冗談が本気へと変わっていく気がする。

 あと数刻もすれば夕暮れだ。ここにいても息を呑むほどに美しい夕陽が拝めるだろうが、外に行けばこれ以上のものを目に出来るだろう。

 夕陽の下で、生き生きとした民たちの姿に心を震わせた時の記憶は鮮明だった。王宮の壁のない、ナイルの風を一身に受けられる大地、笑い声の響く温かな街。

 見に行ってしまおうか。このまま。馬に跨り、外と自分を隔てる壁を越えて。この息苦しい場所を飛び出して。


「アンク」


 名を呼ばれ、懐かしささえ覚える声に振り返った。

 姉だった。後ろにネチェルを連れ、俺を顰めた眼差しで見据えている。


「何を、考えているの」


 随分久しぶりに会う姉は前回目にした時よりも大人びていた。自分の身長が伸びたのか、以前は高かった姉の視線が近くに感じる。嫌味な挨拶でもしてやろうかと思ったが、そこまでの気力もない。


「何も」


 素っ気なく答えて、また太陽に目を向けた。


「何か、悪いことを考えているのではないの」


 詰め寄るようにして、姉は問い質してきた。父が正妃であるネフェルティティのもとへ通わなくなったこともあり、唯一の王家の娘である姉がいつ父の妻となってもおかしくなかった。だからこそ、数年前から姉に香油を付けてもらうこともなくなったし、気安く語りかけることもなくなった。兄にしてはいけないと止められたからだ。最早姉でも妹でもない。義理とは言え、母になる身なのだと。

 そもそも、姉に香油を付けてもらおうと思うほど自分はもう子供でもない気がした。

 そうだ。父が姉を妻にするかもしれぬと周りが言い出した頃から何かが違い始めてしまった。変わるはずがないと思っていた、不変であると思い続けていたものにひびが入った。

 だが、過去を悔いた所でどうかなる訳ではない。王家の娘が王である父の妻になることは古から続いていたことであり、姉と父の婚姻もまた必然だった。

 変わってしまうのも起こるはずのことだった。自分が、何も知らなかったに過ぎない。


「父の妻になる方がこのようなところにいて良いのか?」


 振り返って相手を嘲笑したつもりが、姉は表情を変えなかった。唇を引き結び、こちらを真っ直ぐ見つめている。案じているような眼差しでもあった。

 姉の目は兄に似ている。父に似たのだろう。澄んだ黒、濃淡とでも言うべき色が真っ直ぐな瞳を覆っている。祖母と似た目を持つ自分とは違う。自分だけが違う気がして、咄嗟に目を逸らせて姉の横を通り過ぎようと足を踏み出した。


「どこへ行くの」


 知らない。この宮殿以外、行く宛などない。


「外ね?外へ行く気ね」


 追ってくる姉の声は、さっきまで頭を過っていた考えに的中していた。そんなことにさえ、煩さを覚えてしまう。


「駄目よ。許しません、アンク」


 姉の手が腕に触れ、勢いよくそれを払って足を早める。振り返ることもしなかった。


「アンク!!」


 姉がどんな表情で自分を呼んだのかは分からない。



 ぐったりと寝て、同じようにぐったりとした重みと共に朝を迎えて瞼を開けた。身体を起こすと、侍女が顔を出して支度を整え、朝食へと進む。兄と姉が多忙のせいか、3人で取っていた朝食もいつからか一人で取るようになっていた。

 誰かにこの蟠りを吐き出してしまいたいものだが、あのカネフェルが兄に止められているのであれば、蟠りも聞きたい答えも、もう誰に何を言っても得られない気がした。

 兄が干渉できない唯一の存在は父だ。昔なら父に気兼ねなく話すことが出来たが、体調を崩してからは父に心配事はかけられなかった。兄が代理を勤めなければならないほどになったのだ。仕方のない事だった。


 食事を終えると、今日は何をして時間を過ごしたものかと立ち上がった。誰かに弓や剣の相手を頼もうとも、兄との時のような張り合いがない。強者を呼びたくとも、今はどこかに駆り出されてしまい王宮内にいなかった。そんなつまらないことをしているくらいなら、父の側室たちのところへ遊びに行ってしまおうかとも考える。

 いや。

 ふと立ち止まり、首を横に振った。

 側室の本来の意味を考えたら、父の側室のもとにその息子が遊びにいくべきではない。幼い頃、父にそれが許されたのは、実母を知る人々がいたからだ。母のことを聞けるよう、母を知らない我が子を哀れみ、愛しみ、そうしてくれたのだ。

 最早幼子ではない自分が、暇つぶしに行って良いところではない。


 行く宛も無く廊下を歩いていたら、背後の兵が小さく声を発した。大勢の気配を感じて顔を上げると、大勢の塊がこちらに向かって歩いてきているのが見える。その先頭を行く姿に息を呑む。自ずと身体に力が入った。

 兄だ。ナルメルやカネフェル、他の大臣十人ほどを背中に連れだって向かいから歩いてきている。今は体調を崩した父の代理を立派にこなしている、優秀な、偉大なる我が兄。

 以前は共に弓を持ち、馬に跨り狩りに出かけたと言うのに、いつの間にこれほどまでに会わなくなってしまったのか。あれほど楽しかった日々が、これほどまでに遠いものになるなんて思いもしなかった。遠い過去があまりに虚しい。兄上、兄上、と繰り返し呼んでいた幼き日の自分が、憎たらしくさえ思えてしまう。

 兄の理想の土台にいたいという気持ちは今も変わらない。人間として兄を越えたい気持ちはあるが、兄と共にその理想を追えればいいと願っていた。だというのに、兄はそこから俺を弾きだしたのだ。越えることはおろか、共にという道さえ絶ってしまった。この理由さえ教えてくれない。それが憎かった。


「元気そうだな」


 目の前にくると、変らぬ表情で兄は笑った。よくよく見れば疲労の色が見え隠れしている。


「調子はどうだ。カネフェルから色々と聞いたが、カネフェルを困らせることはしてくれるな」


 カネフェルの心配そうな表情が兄の肩越しに見える。ナルメルは澄ました顔で王家の兄弟の様子を眺めていた。


「外へ行く」


 長くとも思えた沈黙の後に自分の口から発せられたのは、兄の問いかけの答えではなかった。兄の顔に湛えられていた微笑が一瞬にしてなくなる。


「駄目だ」


 兄の傍を通り過ぎようとしたら、兄が俺の肩を掴んだ。


「離せ。何を言われようと、俺は行く」


 何故こんなにも自信過剰なことを言えるのか、自分でも不思議なくらいだった。兄に逆らいたくてどうしようもない。確かに外には出たかったが、逆らってまで叶える欲求でもないというのに、兄が一番禁じることをしたくて堪らなくなった。


「危険だ」

「危険?」


 鼻で嗤って、肩にあった兄の手を振り払い、身体を相手に向けて相手を見上げた。


「父上の治められる国であるのに?自分が一番誇りだのなんだの弟に教えたことを忘れたか。父の治められる国が、どうして危険になる」

「トゥト・アンク」


 兄は一層顔を顰め、声を低めた。


「それが兄に物を言う態度か」


 以前は無理にでも俺を外へと連れだした兄が、こうやって駄目だと一点張りになる。


「知るか」


 兄は俺の様子に少し驚いたような顔をしたが、すぐに目を細めた。


「何も教えてくれぬ。兄弟であるというのに、何も話してくれぬではないか。何が兄だ」


 もういい。出て行ってやろう。この宮殿を飛び出してやろう。駄目だと言い続けるものを破ってやる。


「アンク!!」


 兄に精一杯の睨みを聞かせて地を蹴った瞬間、兄の声が俺を呼んだ。姉の呼び声に良く似ていた。



 そこからはもう勢いだった。口にした以上、それを実行しない道は無い。後ろに控えていた兵も、追いかけてくる兵たちをも振り抜き、宮殿中を走り回って追手を巻くと、そのまま馬の世話場に向かった。

 この時間帯では人も少ない。馬の世話人が数人、そして一頭の立派な馬を表に出そうとする兵の姿があった。


「王子」


 カーメスについていた兵の一人だ。名は知らなくとも、顔は知っている。カーメスが一時的に実家に帰ってからどこに行ったのかと思っていたが、ここにいたのか。


「その馬を貸せ!」


 馬の手綱を掴んでいた兵は目を瞬かせて俺を見る。王子の命に逆らう訳にも行かず、それでも馬を貸すことを躊躇い、一瞬宙に視線を彷徨わせた。


「王子、ご命令とあらばお出ししたいのですが、これは兄君の御馬。私がカーメス殿から頼まれたもので御座います。兄君以外の御方を……」

「構わぬ」


 兄のものであるなど一目瞭然だ。だからこそこの馬を選んだ。丁度の前に来たのは運が良い。


「その馬で行く」


 乱暴に兵を押しやって、素早く馬に跨った。馬に乗る際の自分の身体は翼が生えたかのような軽さを覚えた。


「上着は無いか」


 さすがにこのままの姿では出られない。


 身体をぐるりと包めるような、出来れば黒いものを、と探していると、兵が自分の上着を腕にかけていた。問答無用でそれを取って、素早く身につける。


「どこへ行かれるのです」

「この壁の外へ」


 外に行ける興奮がどこからともなく湧き上がり、それを抑え込もうと深く息をついてから、己が跨る馬を見回す。兄のために用意された馬ということもあって、準備はすべて整えられ、用心のための弓矢も備え付けられている。狩りに行くには少々少ない気もしたが、自分の腕を思えば困る本数でもない。十分だ。


「まさかお一人なのですか」


 なんということだと顔を真っ青にさせる彼は、周りを見回した。誰かいないかと探しているようだった。


「兄君はこれをお許しになられたのですか」

「案ずるな。お前に非はない。兄も、俺がこういう性格であることは知っている。咎は下らぬ」

「そういう問題では御座いませぬ」


 他の兵を呼ばれたら厄介だ。俺を連れ戻せという兄の命を受けた兵たちに追いつかれる前に、ここを出てやらなければ。

 遠くから声が聞こえる。俺を探し、呼ぶ声に違いなかった。


「お一人でなど以ての外。私がお供致します。少々お待ちください」

「供は無用だ。出てくる」


 相手が世話人たちに別の馬を用意させようとするのを振り切り、手綱を握り、馬を蹴った。




 馬は宮殿と外を隔てる門に向かって走り出した。馬で駆けてくる俺に、止まる様子がないことを悟った門番たちは慌てて門を開く。こちらが止まらず、門に衝突して怪我を負わせることほど恐ろしいことはないのだ。こうなることが分かっていたから速度を緩めることはせず、開いた門の間に滑り込んだ。


 驚く顔たちを傍目に飛び出した外は、気持ちが良かった。これほどまでの清々しさを感じるのはいつぶりだろう。兄に言い過ぎたかと若干の後悔を抱きつつも、父から聞かされた美しい地平線が頭の中に消えず、青い空と父の守ろうとする民の笑顔をこの目で直に見て見たい気持ちが徐々に勝っていった。いつもなら色々と文句を言ったり、行動を制限したりする付き添いもいない。振り向いても、横を見ても自分だけ。どこまでも自由だった。


 しばらく走ってからまずは狩りだと、朝の静かな街を越えてナイルの畔へ向かい、そこで飛んでいた水鳥を二匹射落とした。

 随分と狩りに出ていなかったものの、あまり感覚は鈍っていないと、撃ち落とした鳥を持ち上げながら自分を少しだけ誇らしく思えた。

 胸を反らしながら空を仰ぐ。目を閉じたら、獅子の咆哮が遠くに鳴っているのが聞こえた。いつもなら迷いなく駆けて行くものだが、さすがに一人で獅子を狩るほどの無茶はしない。怪我をして帰ればどうなることか。一人で宮殿を抜け出したことへの説教も待っていると思えば尚更無理をしようとは思えなかった。

 獲物を馬に括り付けながら、ふと兄の顔が思い浮かぶ。兄に悪いことを言ってしまった罪悪感も少なからずあり、この鳥で許してもらおうと目論んでもいた。これで怒りが治まればいいのだが。

 矢も残り1本となったのを見て、今度は街の方へ向かおうと再び馬に跨り、地を駆けた。

 街へ。狩りのために、走り抜けてしまって、飛び出した当初はあまり様子を見ていないが、この時間帯であるならば、朝の静けさなど嘘のように生活を営む民の姿を目の当たりに出来るだろう。それを思うほどに胸が躍った。兄に連れ出された時のように、溢れんばかりの熱気と人々の生き生きとした姿ばかりが脳裏を過る。


 だが、街に着いても、思い描いていた風景はひとつして現れることは無かった。商人や子供たちで埋め尽くされるはずの道に、人は数名以外おらず殺風景。仕事帰りの達成感に満ちた男たちの表情も、男たちが持ち帰ってきた報酬に喜ぶ家族の声も、香ばしいパンを焼く香りもなく、吹き流れる風の香りには悲しいものがあった。単にここがそう言う場所なのかもしれないと考え、宮殿近くまで馬を走らせたが、辺りが夕暮れになりかけても求める光景は現れない。

 これが兄と姉が危険だと言って俺を外に出さなかった理由だろうか。確かにこの異様な雰囲気に奇妙さはあったが、兄と姉の言うほどのものは感じられなかった。不思議に思いながら馬を止め、地に足を下ろしてみる。履物の上から地の感触を踏みしめ、今度は歩いてみようと思った。馬上と歩くでは見えてくる景色も違うというものだ。

 どこか緊張している馬の顔を撫でる。乗り手がいつもと違う所為があるのだろう。勢いで乗って来てしまったものの、こうした様子を見ていると馬が哀れになってきた。


 陽が暮れる前には戻ろう。そう思いながら、手綱を引いて太陽の沈み始めた西へと自分の足で歩き始めた。

 夕暮れ独特の赤い光に満ちているからかもしれないが、やはり物寂しさは変わらない。人がいない他に何が違うかと問われたら、はっきりとは言えない。毎日民の姿を見ている訳でもなく、何より久々の外出で、この妙な不安の中でいつもとの違いからくる違和感を感じ取るだけしか出来なかった。

 それでもふと、唐突に思った。窓が開いていないのだと。前に来た時は、立ち並ぶ家々は窓と扉を大きく開き、そこから色んな表情が覗いていた。様々な人々が様々な顔をして、多くの声を立てていた。開け放たれた道は、だからこそ賑わい、その営みの豊かさを感じることが出来たのだ。

 扉も同じ。何かを恐れているかのように閉じ切ってしまっている。以前目にした開放感のある通路はあまりに寂しく、孤独感と静けさを浮き立たせているのだ。


 一体どういうことだ。何故、まるで一人も住んでいないかのように皆が息を潜めて暮らしているのだ。兄が俺を外に出すまいと理由と何か関係があるのだろうか。気づいてしまうと、どうしようもない不安ばかりが大きくなった。

 得体の知れない何かがこのアケトアテンを襲っているのは確かだ。だが、それが何であるかは分からない。

 やはり誰かを連れてくるべきだったかと悩んでしまう。どこにもやれないこの光景の物悲しさがまるで自分の中を侵食していくかのように、唐突に誰か親しい人物に会いたい衝動に襲われた。

 だが、ここで帰ってしまうのは気が引けたし、一人で大丈夫だと言い切って飛び出してきた手前、悲しいからといって帰るのも嫌だった。なんて曲がっている性格だろうと自分に呆れてしまうが仕方がない。

 どうしたものかと考えを巡らせていると、カーメスの顔が思い浮かんだ。今は自分の実家に帰っているはずだ。彼なら、兄の頭の中のことを少しくらいは教えてくれるかもしれない。

 会いに行こう。カーメスに。あの明るい性格を思うと、沈んだ気持ちも突然と明るくなった。

 カーメスは貴族出身。貴族の屋敷は宮殿近辺一帯にまとまっているし、何となくあの屋敷だろうという目星はついた。思い立てば、実行に移さない手はない。馬に跨り、再び走り出した。


 貴族の屋敷が並ぶ一帯にきて、ようやく人々の影を見た。この辺りは変わらないのだと胸を撫で下ろした瞬間に取り巻く異変を感じた。人々は一点の方向に釘付けになり、恐怖の表情を浮かべていたのだ。一人の女が悲鳴を上げ、傍にいた我が子を抱き上げると家に逃げ込むように走り出す。

 とにかく馬を降り、顔が見えないよう上着の余りを頭に被って様子を見ようと人混みの中に駆けこむ。見えたのは、真っ赤な炎だった。

 一帯の屋敷が燃え、茜の空に火柱を伸ばしている。油でも巻かれたのか。遠くにいるはずの自分の頬にさえその熱が取り巻いた。

 屋敷の柱の影を人々が走り抜け、助けを求める声が小さく耳を打つ。数人の屈強な身体付をした男たちの影が、燃える炎の赤の中に真っ黒と踊っていた。獣が吼えるように何かを叫びながら屋敷の中に押し入り、棍棒を振り回しては家を壊している。


「なんだこれは」


 言葉を発さずにはいられない。この国でこのような狼藉は許されるはずがない。それもここは王宮のある都だ。王家の者として、見過ごせるものではなかった。

 漠然とした怒りを覚えていると、はっと我に返って、地を蹴った。


「カーメス!!」


 カーメスの実家の屋敷はこの周辺だったはずだ。


「坊や、危ないぞ!坊や!!」


 隣にいた老人が叫んだのを、遠くに聞いた。右も左も突然分からなくなり、炊き込める煙に足がふらついた。呼吸を拒絶するかのように大きく咳き込み、口元を手で覆う。

 想像していたものとは全く違う。父が守ろうとしていたものはどこにもない。悲惨な有様だった。止められるのも無視して俺は燃え盛る屋敷の方へ走り出す。そうして屋敷に辿り着く前に何かにつまずき、豪快に転んだ。膝と腕に痛みを感じながら起き上がると、自分の行く手を阻んだのが、倒れていた人の身体であることを知った。その男の服装からして、貴族だろう。宴の席で何度か見たことのある服装だ。


「た、助け……」


 老人の声に我に返り、彼のすぐ近くに腰を落とした。背を深く刺されていた。相手の黒目は大きく揺れ動き、焦点は定まっていない。もう助からないと医師でもない自分でも分かった。煙に混じって嫌な鉄の匂いが充満する。


「王は!!王は何故神を……!!私は反対したというのに……!!」


 王とは、父のことだ。父が、何かしたのか。


「王の所為だ……何もかも……あの異端の」


 俺は掠れた声で泣き叫ぶ相手の声を汲み取ることしか出来なかった。吐き出される言葉でさえ、意味が汲み取ることが難しいものだ。むしろ背後で燃え盛る炎の音の方が大きい。どうしていいのか分からず、困惑している内に相手は呆気なく事切れてしまった。

 目を見開いたまま動かなくなった人間に恐怖を感じ、逃げるようにおののき立ち上がる。人が死ぬのを見るのは初めてだった。

 この状態は何だ。腕を擦る。まるで別世界にでも落とされたかのようだった。以前見た光景とはまるで違う。

 カーメスは、どこにいるのだろう。ここに彼は帰っている。絶対にどこかにいるはずなのだ。


──探さなければ。


 そうして死体の間を走っていると、一人の男が地べたを這うようにして屋敷から離れようともがいているのが見えた。生きているのだと分かって、慌てて男の方へ近寄る。


「大丈夫か!?」


 咳き込みながら尋ねると、男は顔を上げて俺の顔を捉えた途端、大きく目を見開いた。


「……王子?」


 名を呼ばれたかのように自分の胸が飛び跳ねた。


「もし、もしや、末の王子では?」


 振り返って相手を見て、また心臓が大きく鼓動した。


「お前は……」


 顔は煤で汚れているが、見覚えがある。カーメスの父親だ。幼少の頃に父の傍に仕えていた。息子であるカーメスを後継にして、引退した人物が目の前にいた。


「どうした!一体何があった」

「ああ……何故、今このようなところにいらっしゃるのです……」


 相手は怪我をしていた。肩と腿に矢が刺さっている。どうにかこうにかここまで逃げてきたのだろう。


「カーメスは……カーメスは、どこにいる」

「おそらくまだ中に。私を逃がしてくれたのです」


 聞いて、大きく息を呑み、父親が示した炎に呑まれた屋敷を振り返る。


「それよりも王子……」


 彼は俺の上着を掴んだ。


「お逃げください……一刻も早く」


 民を残してここを去れと言うのか。


「我々の言葉をファラオにお伝えください、この改革は過ちだったと……!今すぐに戻さねば国は滅びてしまう……この都は、もうもちませぬ」


 国が亡びる?

 まさか。父が治める国だ。滅びるなどあり得ない。


「ここをお逃げください!!さあ!!!」

「お前はどうなる。置いては行けぬ、お前を狙っているのだろう」


 この一帯で最も高い位置にいる権力者がこの男だった。先程から向こうからカーメスの父親の名が叫ばれている。


「あなたがいると知れれば、矛先は私ではなくあなたに向かいます。あなたは殺されましょう。今回のことの見せしめとして」


 見せしめ。何のための見せしめだ。

 溢れ出す疑問と不安を振り払うように首を横に振る。


「捨て置くことは出来ぬ」


 喉が震えていた。目が回りそうだ。全身が今自分の置かれた状況に怯えていた。

 何も分からない。彼らは王家を非難している。それもあの父を。偉大なる父を。だからここを襲っているのだ。漠然とだが、そう直感した。そうとしか思えなかった。自分が抱いていた、信じていたものが止めることもできないままに崩れていくような気がした。

 熱気をまとった、緊迫した空気が喉を焼いている。大きく咳き込み、煙に沁みる目元と額の汗を腕で乱雑に拭った。とにかくこの老人を安全なところに運んで手当をしなければならない。


「王子、どうかお逃げを……」


 どこか。どこか、ないか。相手の腕を自分の肩に回し、屋敷から離れようと足を動かした。思った以上に自分には力がなく、大の大人を運ぶには少し進むのに相当な力を要した。

 辺りが燃えている。木造という訳でもないのにここまで燃えてしまうのかと恐怖が全身を駆け巡る。足元に倒れている者たちの中にも生きている者がいたが、彼らに構う余裕がなかった。そんな自分が悔しかった。不甲斐無さに泣きそうになった。

 父は、この現状を知っているのだろうか。それでいて放っているのか。こんなにも人が死んでいるのに。

 鼻先から汗がしたたり落ちた時、人の気配がした。倒れている者ではない、追手のような。殺気立った気配。


「いたぞ!!」


 声に顔を上げると、あっという間に灯りを片手にした男たちが駆け寄ってきて、逃げる暇も無く周囲をぐるりと囲まれてしまった。逃げ場はないかと慌てて目を凝らすが、人を支えた身でいつもの身軽さは到底出来ることではなかった。


「餓鬼」


 一人、屈強な身体付の男が俺の前へ歩み出た。口内に堪った唾を飲み込む。


「その老いぼれをこちらに引き渡せ」


 上着の中から相手を睨みつけ、首を横に振った。


「お前も憎いだろう。憎いはずだ。この国を変えた王家が」


 言われていることに眉を顰める。


「餓鬼だと分からないだろうが、これくらいしなくちゃいけねえんだ、あの王には」


 それでも首を横に振る俺に、相手は苛立たしげに顔を歪めた。

 戦うしかない。戦って突破するしか。ぐっと唇を噛みしめると、後ろから伸びてくる手を感じ、咄嗟に振り返ったと同時に大勢が飛びかかってきた。

 もみくちゃにされ、カーメスの父親とも引き剥がされ、訳が分からないまま地面に身体を押し付けられる。

 声を上げることも出来なかった。カーメスの父親の掠れた悲鳴が聞こえる。俺が捕らわれたことに対する恐怖と絶望がその表情に炎の明かりと共に浮き出ていた。


「どこの餓鬼だ」

「離せ!!」


 口から飛び出した声は掠れていた。


「顔を見せろ」


 そう言われて、今まで深く身に着けていた上着が剥がされた。腕につけた黄金がこれでもかと炎の明かりに輝きを増す。陽も沈んだ暗闇に、この色はあまりに眩しすぎた。


「……王子、か?」


 息も止まる思いだった。王家の証である蛇が刻まれた黄金の腕輪など、王家の者であると何よりも物語っている。周囲の誰もが唖然とした面持ちで俺を見ていた。


「異端王の、息子?……まさか」


 ──異端。

 何故、父が異端なのだ。民のため、国のためと生きてきた父が、何故。


「子供じゃないか」


 俺の顔を見た男の一人が戸惑いの声を上げる。その手には血にまみれた剣があった。


「末の王子だ。兄の方が有名だが、弟もいる。間違いない」

「これが、異端王の倅か」


 身分が露見したのなら仕方がない。伸し掛かる力に身体全体で抗い、喉までで止めていた言葉を吐き散らした。


「この所業、いかなることか!!どのような理由の下であろうと許さぬぞ!!!」


 子供らしいか細い声。何の説得力もない、弱々しい声だった。悲しいほどに、自分が思っていた以上に自分は子供だったのだ。

 誰もが息を殺すようにしてこちらに視線を注いでいる。視線に込められているのは軽蔑。言われた通り、老人に向いていた目は今まさに俺だけに向けられていた。王家の息子である自分だけに。

 多くの目に見下ろされている。兄や姉から注がれていた愛情のあるものとは程遠い、恐ろしいほどの白い眼差し。黒と赤に満ちた空間で、その白さだけが浮き立っている。地面に押し付けようとする力が強まり、思わず呻く。

 誰より敬愛していた父が、異端と呼ばれていることなど知らなかった。この国で何が起こっているかなど、知らなかった。今でさえ飲みこめていない。

 聴覚を炎のけたたましい音が支配する。白い目の奥から手が伸びてくる。自分に向かって。決して讃頌する手ではない。恨みを晴らそうとするかのような、悍ましく、恐ろしいものだ。


 自分の悲鳴が頭を貫いた。





* * * * *






 はっと目を開けた。

 何の変哲も無い自分の部屋の天井であることを確かめ、何度か重たい瞬きを繰り返し、目元を片手で覆う。大きく息を吸って吐いてから、肘をついて今にも軋んだ音を鳴らしそうな身体を起こした。

 まだ夢の感覚が拭えず、取り敢えず自分の部屋を見回す。

 さっきまで目の前にしていたはずの炎も、恐ろしい目も、手も、ない。掴まれたと感じた腕を目の前に出してしげしげと眺めまわしたが、掴まれた感覚を残しただけで跡も何もなかった。寝る前と同じ、いつも通りの慣れ親しんだ自分の部屋だと分かり、再び大きく息をつく。

 頭痛がひどく、しばらく頭を抱え込むようにして深い呼吸を繰り返した。まるで酷い風邪を拗らせたかのように、喉はからからに乾き、頭から首にかけては大量の汗をかいて枕を濡らしてしまっている。来ていたシャツもあまりの湿気で気持ち悪い。枕元にある直方体のデジタル時計を手に取り、今が午前4時すぎであることを知った。当然の如く、窓を見やってもまだ陽の光はない。


「なんだ……あの夢……」


 眉間を抑え、呻くような独り言を零した。まだ息は荒い。頭痛も止まない。一人しかいないこの部屋で、答えをくれる人は勿論の事ながらいなかった。

 恐ろしいほどに鮮明な夢だ。夢と言うものは、起きればほとんどが消え失せてなくなってしまうというのに、こんな夢に限って目が覚めた今でもはっきりと思い出せる。

 こんな夢を見るようになったのはいつからだっただろう。夢はまるで物語を綴るかのように徐々に進行しながら、今ではあの燃え盛る毒々しい炎の色を俺に見せつけるようになった。昔から夢とは思えない夢を見ていたが、ここまで生々しいものではなかった。


──疲れた。


 休むために寝ているのに、寝ても疲れるというのはどういうことだ。

 とにかく水が飲みたくて、ベッドから立ち上がり、水道の方へ向かう。洗わず無雑作に置いてあるコップをひとつ取ってシンクで軽く濯いでから、浴びるように水を喉に流し込んだ。


 眠れば夢を見る。見るたびにこうして疲れる。寝ている気がしない。また同じような夢を見ると思うと寝たいとは思えず、窓を開けた。

 冬の風が吹き込んで、肌に滑った汗を瞬時に冷やしていく。街が混沌と暗いせいで、空には目を見張るほどの星々が瞬いていた。


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